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父に呼ばれ、現侯爵の執務室で姿勢良く佇むカイルは眉間に皺を寄せた。
「……縁談、ですか」
まだ、エステルとの婚約が破談になってから一年も経ってはいない。しかし父は、いつもの厳しい表情にわずかな嬉しさを滲ませ、カイルに縁談を持ってきた。
執務机の椅子に座る父は、机前に立つ青年を見上げる。
「エステル嬢とお前が婚約してからも、度々話はいただいていた。……お前は聞く耳もたないだろうと、言わなかったが。しかし、もう次のことを考えてもよかろう」
――お前が自らエステル嬢との婚約を破談にしたのだ。
そう告げるかわりに、言外含ませた父。カイルは心内に苦味を覚え、視線を落とした。
正直なところ、今のカイルに次の縁談など考えられない。いずれ誰かと結婚しなければならないのは承知している。家を守り、民を守る――それが貴族なのだ。それに、婚約破棄に至った原因は父のせいではない。いくら父を嫌っていたとして、エステルとカイルが婚約してから口出ししてこなかった彼にむやみやたらと刃向かう理由はない。父は、現侯爵なのだ。本来なら、エステルと婚約する際も逆らって良い相手ではなかった。
けれどカイルにとって、未練どころか、いまだ胸中を占めるエステル以外と婚約を検討するなどできはしなかった。
どう躱すべきか。父がカイルに持ちかけた縁談、即ちどう考えてもハーシェル侯爵家よりも格上が相手である。息子の為ではなく、家の為の婚姻。なんともハーシェル一族らしい思考だ。
どこか冷めた気持ちで、カイルは問う。
「お相手は、どなたでしょう」
受けるつもりはない。ただ、相手を知らなければ対処法を誤ってしまう。その理由だけで訊いた。
父は会心の笑みを浮かべる。
「ユーフェミア嬢、と言えばわかるか? 予ねてより、打診は幾度もあった」
「ユーフェミア」とカイルは口内で繰り返す。すぐに誰かは思い出せなかった。思考の渦に嵌る前にぼんやりと思い出したのは、王宮で会った白金の髪の少女。
(彼女のことか)と納得すると共に、従騎士として王宮に仕えた頃のことが蘇る。あの頃、父は王族の姫との縁談を推していた。
唐突に、気づく。
(あの時……父が受けろと言い続けてきたのは、ユーフェミア様との縁談だったというわけか)
察すれば、なにか引っかかるものを感じた。それがなにか、今のカイルにはわからない。それをもどかしく思いながら、溜息を零す。
「そうですか。……申し訳ありませんが、まだ、心の準備ができていません」
「カイル!」
父の荒げた声を遮り、カイルは踵を返した。
「……時間を、ください」
そう言い残し、執務室を後にした。
*** *** ***
時間が欲しかった。
『時間が欲しい』という父に向けた言葉は、なにも嘘ではない。けれど、父の望んでいる、”縁談を受ける為、心の準備をする時間が欲しい”という意味でもない。
真実を知る時間が必要なのだ。エステルとカイルが、婚約破棄に至るまでになにがあったのか知る為の。
一度、深く息を吐く。
自らの執務室へと戻ってきたカイルは、執務机に置かれた二通の手紙を手にとった。どうやらカイルが父のもとを訪れている最中、従僕がカイル宛の手紙を置いていったらしい。
手紙を裏返せば、一通の差出人はクラーク男爵家に送り込んだ使用人からだった。
――エステルの不貞。
その真実を知るには、まずエステルが使用人の男と密会していたという噂を探る必要があった。
ゆえに、カイルは真実を知ろうと決めた時、手始めにクラーク男爵家へと密偵を送り込んだ。
密偵といっても、クラーク男爵家で催される夜会に臨時雇用される使用人として潜らせたり、出入りの商人に金を握らせ情報を集めさせるといったものである。
疑惑の相手とされる男の名は、ウォルター・ローウェル。茶髪と青瞳を持つ従僕だったという。過去形なのは、既に彼は男爵家を辞めているからだ。ただし、免職ではなく、辞職であったらしい。ここまでが、かつてクラーク男爵本人からカイルが知らせれたこと。
カイルは執務机の椅子に腰を下ろし、引き出しから何通かの手紙を取り出す。それらはすべて、カレンがカイルに宛てた、エステルの不貞を報せるもの。
机に手紙を並べる。
数通の、カレンからの手紙と、今日届いた二通の手紙。
今自分が持ち得る情報に、おかしいところはあるだろうか、と思案するが、結論を出すには情報が少なすぎる。ゆえに、ウォルター本人に何かあるだろう、と踏んだカイルは、密偵に彼の居場所を徹底的に洗わせた。その報告が、今日届いた手紙の内の一通なのである。
密偵からの手紙を開け、便箋の文字を追う。
不思議なことに、男爵家の使用人で彼を悪く言う者は一人としていなかったそうだ。良く笑う、明るい青年。使用人や男爵からも、信頼されていた。
そしてもう一つ、不思議なことがある。
使用人達は皆、エステルとウォルターの不貞を噂で聞き知っていた。真しやかに囁かれていたのだと。
しかし。なぜか、目撃者は誰一人としていなかった。
カイルは報告書の人物情報の項目を読む。
『ウォルター・ローウェル
母は既になく、父が商売を営んでおり、家族は父と弟のみ。跡取りであったが、商売は才ある弟に譲った。ウォルターが家を出て、男爵家に仕えてからは、仕送りを欠かさなかった。しかし、二年前に父の商売を手伝っていた弟が事故で急逝。一挙に負担が押し寄せ、無理がたたり父も病に倒れる。薬師は匙を投げ、ウォルター本人は看病の為辞職。その後、内科医に父を診せ手を尽くすも、父は他界』
カイルは眉宇を顰め、独り言。
「内科医に、受診させていた?」
普通、医学に抜きん出ているとされる内科医の診察を受けることができるのは、貴族のみだ。労働者階級は薬師にしか依頼できない。だが、ウォルターは。
「……どういうことだ」
苛立ちに似た、胸を渦巻く混沌とした感情。もしかしたら、自分は一つではなく、多くの過ちを犯したのではないかという疑念。
(裏に、貴族がいる?)
カレンは、エステルとウォルターが逢引していたと言った。カイルも、夜会でエステルが男に肩を抱かれて庭におりるのを見た。男爵はカレンから、エステルと従僕が密通していると報告を受けたと言った。そして、ウォルターは男爵家を辞職した。
しかし思い出して見れば、今更ながら、おかしいと思う。
カイルが夜会で目撃した、エステルが男に肩を抱かれ去る姿に。どうしておかしいと、あの頃考えなかったのだろう。心に引っかかっていた異物が一つ、とれる気配がした。
本当に彼女が浮気しているのなら、カイルの目に入る場所で堂々と行動するようなことはしないだろう。そも、心当たりのない噂まで生まれる夜会で、彼女が浮気などするとは考えにくい。噂が出回れば不利になるのは彼女なのだ。さらに、カイルの知る限り、エステルはそういったことに潔癖だ。
ともすれば、一つの疑惑が浮上する。
――考えなかった訳ではない。
嘘を吐いたのは、エステルではなかったという可能性。
恐れたのは、いつか裏切られることによって、自分が彼女を傷つける可能性だった。
――考えなかった訳では、ない。
カイルは、手にしていた便箋を置き、届いていたもう一通の手紙を手にし、封を切る。
こちらの差出人は、カレンの実家であるメイナード子爵家だった。
手紙を読めば、カレンが新興伯爵と呼ばれるウィクリフ伯爵と結婚したことが書かれてあった。
「……ウィクリフ伯爵」
脳裏に過ぎる、かつてクラーク男爵家とメイナード子爵家に圧力をかけてきた、新興伯爵家の存在。エステルと、カレンに愛人になるよう迫ったという、中年伯爵。
カイルは目を眇め、思考を巡らした。
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