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執務室の窓辺で、カイルは外を眺める。
しんしんと降る雪。季節は既に冬を迎えていた。
夜、男爵邸へ向かい、エステルへと縋ったことが、昔の出来事のように思えた。
感じた温度差。その溝は、きっと埋められない。
そもそも、カイルはエステルにまで恋に狂ってほしいとは想ってはいないのだ。けれど、もっと――もっとずっと愛してほしい。
矛盾した願いが歪みを生み、灰青の瞳に昏い影を落とす。
外界は、雪の白と雪雲の灰色に染まる。外に一歩踏み出せば、凍えるように寒いことだろう。
カイルは自嘲しながら窓から離れ、椅子へと腰掛けた。
偽りの春が作り出された空間のごとく、室内は暖かい。しかし、心は重く、薄氷に覆われたかのように冷えきっていた。
執務机上のカードと手紙。前者はいまだ送られていない、結婚式の招待状。後者は新たにカレンと――エステルの父である男爵から届いた手紙。
これまで、カレンからの報告であったために、カイルは婚約者の不貞について疑う余地を見出すことができた。だが、今回は、エステルの父男爵からの報告も相次いで届いた。
手紙の内容は、やはり、エステルの不貞に関してだ。男爵はカレンから報告を受け、該当する従僕を呼び、問いただしたらしい。
そして、得られた結果は、カレンの言葉を肯定するものだった。
従僕は解雇した、と男爵は文字を連ね、さらに、エステルとの婚約破棄を示唆させた。
――娘を愛し、まるで本当の父のような存在である男爵。そんな彼からの報告に、最後通牒を突きつけられた気がした。
鈍器で頭を殴られたかのような衝撃と、愛憎ともいえる感情が溢れだす。
――エステルが変わってしまったのか、カイルにはわからない。
長い間、離れていたのだ。その距離は、王都と男爵領までの距離だけではない。文通以外で、意思の疎通をとる機会は滅多になかった。逢う度にエステルは変化を見せたが、その変化に、手紙からでははっきりと感じ取ることができなかった。
ならば、カレンや男爵のいうようなエステルの変化にも、気づくことなどできないのではないだろうか。
考えれば考えるほど、思考の渦に呑み込まれていく。後ろ向きになるばかりならば、考えなければよいことくらい、わかっていた。
そして――エステルの変化はわからないけれど、カイルにとって確かなことは唯一つ。
もし、裏切りられたなら。
「……信じたいんだ。でも――」
体中の力が抜けたように、背もたれへと凭れ掛かる。
仰向けば、視界が揺れた気がした。
苦しくてたまらない。海の底に沈められたかのごとく、呼吸もうまくできない。
――誰かに奪われるのなら、いっそ共に死んでしまえばいい。
暗い感情に囚われそうになる。ずっと抗ってきたが、限界が近いのだと確信した。
(ああ――……このまま傍にいたら、俺は……)
愛している。大切にしたい。守りたい。
その気持ちが残っている今ならば、エステルを傷つけず、手放すことができるだろうか。
「……疲れた」
ぽつりと、掠れた声が空気に溶ける。
度重なる葛藤が、カイルを限界まで追い込んでいた。疲労に心は蝕まれ、心身ともに身動きもとれない。
深く息を吐き、目を瞑る。
拍子に、カイルの目尻から、一筋の涙がこぼれた。
*** *** ***
カイルが王都から帰郷して一年。
ようやく冬が終わりを告げ、世界は明るい陽気に包まれる。
その頃、カイルは男爵邸にいた。
「婚約を破棄させてもらう」
その一言を伝えるために。
これで、すべてから解放されると思っていた。
狂気も、疲労も、愛執も、なにもかもから。
けれど。
絶望するように涙を流すエステルの姿が――脳裏に、心に焼き付いて離れることはなかった。
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