1 (2010.9.2)
古くから続くハーシェル侯爵家。それゆえに血の継続への執着と矜持の高さは、他の貴族と比べて一入だった。
そんな一族の嫡男として生まれたのが、カイル・セドリック・ハーシェルである。
――物心つく頃には、カイルは自分の背負うものがわかっていた。……いや、理解せねばならなかった。
どこか冷めた子供。我が侭の言わぬ、物分りがよすぎる子供は、周囲の大人の目にどう映っていたのか。
カイルは灰青の瞳で、邸という小さな世界を捉えていた。にも拘らず、彼が自分という存在を把握するには十分だった。
*** *** ***
――乳母が、毎晩カイルを眠らせる際、語る童話がある。カイルと年端のかわらぬだろう三兄弟に、魔女と悪魔が忍び寄る童話。
両親は家を出る前、留守番をする三兄弟に注意する。
父は三兄弟に言いつけた。
「甘い誘惑にのってはいけないよ。魔女につれていかれてしまうから」
母は三兄弟に言いつけた。
「たとえ何があっても扉は開けてはなりません。悪魔につれていかれてしまうから」
そして二人は出かけた。
けれど、言いつけを守ったのは三男だけ。
甘い言葉を扉の外からかけられた長男は、部屋の鍵を開け、魔女につれていかれた。
脅すような怖い言葉を扉の外からかけられた次男は部屋の鍵を開け、悪魔につれていかれた。
どんな言葉をかけられても、言いつけを守った三男だけが、残された。
『だからカイル様、なにがあっても夜は部屋から出てはなりませんよ』
童話を語り終えると共に、いつも乳母はそう口にした。
不思議なことに、乳母は日によって童話を読み上げる部分が異なった。ある日は長男と三男の場面、ある日は次男と三男の場面。そしてまたある日は、すべてを。
そんな乳母の行動の意味を察し、自分の立ち位置を知るきっかけは、幼いカイルが悪夢で目覚めた深夜のこと。
童話はすべて紡がれ、カイルが乳母の言いつけを破ったその日に、すべてを悟ることとなったのだ――。
どうしようもない恐怖に襲われ、逃げることなどできないのに寝台の中、脚をばたつかせたカイルは、ようやく目覚めによって悪夢から解放される。
潤んだ眼が捉えた景色は見慣れたもので、息切れする吐息に安堵が混じる。
起き上がって周囲を見回すが、寝る時傍にいた乳母の姿はそこにない。
明かりのない部屋は深夜であることを物語っており、カイルはまるでいまだ悪夢の中を彷徨い歩いている感覚に囚われる。
「父上……母上……っ」
滲み出る汗と涙を袖で拭いながら、己の世界で神にも等しい存在の名を呼んだ。
返事がないことを知っていながら、何度も繰り返し――やがて彼は甘い誘惑に駆られる。
けれど不意に脳裏を過ぎったのは、乳母の言葉。
『だからカイル様、なにがあっても夜は部屋から出てはなりませんよ』
躊躇った。惑ったけれど……カイルは恐怖と甘い誘惑に勝つことができなかった。
夫婦の寝室へ足を向ければ――そこには誰の姿もない。
「父上……? 母上……? どこ?」
『男が泣くな!』
厳格な父は、カイルが泣く度にそう怒鳴った。
『カイル、あなたは次期侯爵よ。清く正しく強くありなさい』
貞淑な母は、いつだってそう言った。
二人がカイルに笑いかけてくれたことなど、一度たりてない。だが、二人の嫌がることはしたくなかった。
だから、カイルは涙を必死に堪える。両親の望む息子であろうと、努力した。
それでも、カイルはまだ子供であり、夜に心細くなるのは仕方がないことだ。
そうして邸の中を彷徨い歩く。
やがて辿りついたのは、母の部屋だった。
闇に対する恐怖に扉を叩くことも忘れ、そっとそれを開ける。小さくできた隙間から中を覗くが、そこに母の姿はなかった。
緊張が緩んだカイルは、(ああ)と思う。
(母上はもうおやすみなんだから、寝室にいるに決まっているじゃないか)
くすりと自分を笑いながら、隣部屋である寝室へと向かい――足をとめた。
わずかに開かれた扉。
クスクスと零れる笑い声は、まぎれもない母のものだった。
「は、は……うえ?」
声にならない音が、喉から漏れる。動揺で身体が小刻みに揺れたが、扉へ向かって行く己の足をとめることができなかった。
……それが、なにかの誤解だという安堵を得たかったからなのか、好奇心なのかはわからない。
それでも、確かめずにはいられなかった。
カイルは暗闇に包まれた寝室を覗く。
寝台の上で、裸体の母はうつぶせに、何かに腕を巻きつける。
母の下にいたのは、若い男のようだった。
寝台付近に視線を落とせば、脱ぎ散らかされた豪奢な服。そこから、男が年若い貴族なのだと推測できる。
笑い合いながら口づけを交わす二人。
清楚な印象の美しい母は、今までみたことがないような妖艶な笑みを浮かべて。
唇を離すと、母は男の裸体をなぞるように唇を這わせ、やがて何かを口に含んだ。
男の甘い声。両手でそっと支えながら愛しむように口で愛撫する母の表情。
(……なんだ……これは?)
わからなかった。けれど。それが父を裏切る行為だということだけは、なんとなくわかる。
呆然と息を詰めながらも後ずさる。
心が救いを求めた。
カイルは踵を返し、忙しない心のまま駆け足で父の部屋を目指した。
*** *** ***
暗闇の恐怖も悪夢の記憶も既に薄れた時、カイルの脳裏には母と男の抱き合う姿だけがくっきりと焼きつけられたように浮かぶ。
母のぬくもりで、悪夢を忘れられると思っていたのに。今あるのは、悪夢の恐怖以上の、なにかが崩れそうな不安。
荒い呼吸を繰り返し、カイルは目の前にある父の執務室の扉を見つめる。
(父上は、母上とは、ちがう――)
理由もなく信じていた。それは、彼が親だからという、漠然とした理由。
躊躇いながら扉の取っ手に触れる。
きっと、父が優しくなぐさめてくれることはないだろう。次期侯爵がそんなことに怯えるなと、怒ることだろう。
しかし、それでもよかった。激怒されたとしても、今のカイルには目を向けてもらえるだけで構わない。そう、思っていた。
緊張に唾を呑み込みながら、そっと押し開く。
確かに、そこに父はいた。
だが。
刹那、カイルは呼吸をするのも忘れて佇んむ。
父が、そこにいた。父の部屋なのだから当たり前だ。――では。
(なんで、乳母といっしょにいるの?)
執務机で、カイルの乳母に覆いかぶさる父。室内に響く水音。女の嬌声。父の呻くような声。
目に飛び込んできた映像に驚きはしたが――今度はなぜか衝撃を受けはしなかった。
咄嗟にカイルの喉まで込みあげたのは、吐き気と嫌悪感。
たった一筋、涙が頬を伝う。けれど、それを拭ってくれる人など、誰一人いないのだと……ようやっと骨身に染みて実感した瞬間だった。
*** *** ***
カイルは自室まで茫然としながら戻り、寝台に倒れこんだ。
声が漏れないよう、独り泣く。こみ上げる吐き気を抑えれば、反動か涙がとまらなかった。
自分に流れる血の汚らわしさと、信じる者の喪失。
苦しくてたまらない。誰でもいいから、助けてほしかった。
自分を見失いそうだった。
そして、やがて涙も枯れる頃――魔女と悪魔の童話を思いだす。
甘い誘惑と恐怖に、言いつけを破った長男次男。
乳母はなぜか、日によって語る場面が違った。その、理由。
カイルの中で、それまで嵌ることのなかった欠片たちが枠におさまり、真実を映し出す。
カイルは唐突に理解した。
乳母の語る魔女と悪魔は、まさにカイルの両親であるということ。魔女は母、悪魔は父。カイルが部屋から出る事を固く禁じていたのは、両親の本性と、乳母と父の関係を知られないため。逢瀬の夜を、童話として語ることでカイルに教えていたのだ。
言いつけを破った長男と次男は、魔女と悪魔につれさられた。では、カイルは?
カイルは、つれさられなかった。魔女と悪魔はカイルを無視した。
――今まで、自分に笑いかけてくれなかった両親。
そうか、とカイルは思う。
(物語の三男は、きっと……)
言いつけを守って部屋にこもっていたわけではないのかもしれない。長男と次男に忍び寄った魔女と悪魔は、三男を無視した可能性。
思い至れば、出たのは、乾いた嗤いだった。
目を閉じれば、二人の肉親の普段浮かべる表情を思い出す。
(……どうして今まで気がつかなかったんだろう)
いつだって母はカイルを感情のこもらない瞳で見つめていたのに。
いつだって父は威圧的な瞳で見つめていたのに。
(父上も、母上も、”カイル”なんてみていなかったのに。あのひとたちが望むのは、いつだって侯爵家の嫡男としてのこどもだったのに)
――いや、本当は気づいていたのかもしれない。ただ、カイルが目を背けていただけで。
急激に自分の中の何かが冷めていく気配がした。
心が凍りつくと同時に、世界は”カイル”から隔絶される。
『貞淑な母』
そんなもの、汚らわしい魔女の幻だ。
『厳格な父』
そんなもの、不浄な悪魔のまやかしだ。
これが、愛のない政略結婚の成れの果て。
ならば、これ以上あの二人に何も望まなければいい。
侯爵家の安泰と繁栄こそがカイルに与えられた絶対の役目なのならば、それだけをこなせばいい。
(父上、母上、あなた方ののぞみは叶えましょう。――ただし、あなた方をおれは利用する)
息子を道具として扱うのなら、カイルが同じ行いをして、どうして責められよう?
そうして、カイルは愛情の取得を諦めた。
それでも、”カイル”という存在を手放すことは、まだ、難しかった。
――それは、エステルと出逢う前年のことだった。