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侯爵様の好敵手  作者: えんとつ そーじ
三章 そうして、手放した
19/33

 8

.



 慣れた寝台の上、しんと静まり返った部屋であるのに、なかなか寝つけない。

 夜の帳はすっかりと下り、窓はカーテンが閉じられているため、室内を照らす明かりはなにもなかった。

 ともすれば、精神が思考へと向けられてしまい、鬱々と、ただ時間ばかりが経過していく。

 カイルは仰向き寝そべりながら、なにかを堪えるように顔を歪めた。

 ――エステルを守るために、騎士になった。それなのに。

 いつからだっただろうか。(いっそ、誰の目にも触れない場所に閉じ込めてしまえばいい)と、悪魔が耳元で囁くようになったのは。(裏切るのならば、共に死を)、それすらも、幸せなのではないかと、考え始めたのは。

「――っ」

 か細い掠れた声が、唇の隙間から漏れる。

 心を隠すように目元を手で抑え、ついで寝返りを打った。




***   ***   ***




 結婚の準備は着々と進んでいく。

 既に、季節は秋。気がつけば、婚約してから半年という月日が経っていた。

 カイルが在室する執務室は、暖房が効いているため暖かい。けれど、窓の外を見れば、木々は茶色く色づき、少しずつ枯れ落ちていく。

 落ち葉が地面に積もるように、カイルの心内にも、静かに不安が降り積もっていった。その事実は、カイルを除いて知る人はいないし、また、カイル自身も気づいていなかった部分もある。

 それこそが盲点だったのだ。

 いつまでも、恋を自覚した時のような、純粋で真白な気持ちのままでいられると思っていた。確かに当時も戦わねばならないものはあったが、それは自分が力を得る事で応戦できるものだった。

 しかし、今、カイルの行く手を阻むものは――。

 執務机に重ね置かれた、結婚式の招待状のカード。これから送るものだ。

 視線をそれに落とせば、睫毛が伏せられ灰青の瞳は色味を濃くする。

 もし、と思う。もし、カイルが両親のような仮面夫婦になれるなら、ここまで葛藤などしていない。カイルは、両親のようになりたくないと、ずっと思っていた。ならないと、誓っていた。むしろ――両親のように、なれないことを自覚していた。

 気持ちがなければ、相手の一挙一動に惑うことはない。それは大層、心が楽だろう。

 相手を想えば想うほど、今、彼女が誰といて、なにをしているのかが気にかかる。揺れる感情に苦しみすら覚える。

 きっと、両親のようになれたら――カイルは自分こそがエステルを傷つけるのではないかと、怯えることもない。

 けれど、狂愛が、愛執が、それを許さない。

「……エステル」

 名を呼ぶと同時に、コンコンコンと、扉が叩かれる音が室内に響いた。ゆえに、カイルの声は硬質な音にかき消される。

 顔を上げて無表情という仮面をつけ、「入れ」と命じた。

 現れたのは従者。

 手紙を携えた彼は、恭しくカイルへと封筒を渡す。

(……また、か)

 溜息を零しながら、封筒を開封し、便箋を取り出した。

 女性らしい文字が連なる文は、カレンからのもの。いつものように、エステルの様子について書かれたそれだが、ある言葉に、カイルの目は見開かれる。

『ウォルター・ローウェル』

 それは、エステルが不貞を犯した従僕の名として記される。

 動揺に薄く口を開いたが、喉に詰まって言葉が紡がれることはなかった。そしてくしゃりと眉間に皺を寄せ、歯を食いしばる。やり場のない感情が、力となって握られた拳にこめられ、爪が皮膚に食い込む。

 そんな痛みすら麻痺していた。

 ついに居ても立ってもいられなくなったカイルは、手の中にあった手紙を抛り、部屋を飛び出した。




***   ***   ***




 出掛け晴れ渡っていた空は、現在は雨雲が立ちこめている。

 やがて、ぽつりぽつりと雨粒が降り始めたが、カイルは馬に跨ったままクラーク男爵邸を目指した。

 クラーク男爵領とハーシェル侯爵領は隣り合っており、地図で見れば近くに位置する。

 だが、交通手段が馬ともなれば、いくら隣領地といえど数日から半月は要した。

 雨天を考え、馬車という選択肢もあった。けれど、馬に比べ到着日時は遅くなる。瞬く時間さえも惜しかったカイルは、それゆえに自身が馬に跨ることを選んだ。この方法ならば、遅くても数日中に着くだろう。

 カイル自身と馬の休憩も兼ね、旅路は宿を度々とる。

 次期侯爵であるため、さすがに一人で邸を出る事がかなわず、護衛として少数の従僕と騎士を伴うこととなったが、体力を重視で選んだ彼らも宿に着いた途端、疲労を滲ませていた。

 他方でカイルは、馬で走る間も、宿で過ごす時間も、頭の中はエステルのことで一杯だった。途中で頭を冷やすことができたのなら、次期侯爵という責任と、護衛らの疲労を考えて、引き返すという選択肢もあっただろう。

 しかし、心が安定するならば、そもそもこのような行動に至ってはいないのだ。

 ――怖かった。怖くて怖くて堪らなかった。

 エステルの不貞を、完全に信じたわけではない。

 動揺は確かにしたが、”まさか”という信じるに値しない苦笑がこぼれるくらいには、カレンが誤解をしている、という可能性を疑っている。

 カイルにとって、エステルは誰よりも大切な存在だ。だからこそ、彼女が不貞を犯すなどできない娘だと、心の底でわかっていた。

 わかっていたが――もう一つの真実にも、気づいてしまったのだ。

(――俺は、狂っている)

 それは、エステルの疑惑に、動揺してしまう本当の理由。

(――もし。もし、いつかエステルに裏切られる日が来たならば)

 今のエステルが、カイルを裏切ることはないだろう。

 だがしかし、人は永久に変わらないなど、あるのだろうか。時と共に、身体も心も成長する。思慮深くなる者もいれば、欲に溺れる者もいる。ハーシェル侯爵邸の中だけではなく、カイルは従騎士として過ごす時の中で、変わってゆく同僚らをたくさん見てきた。

 エステルがどう変わるのかわからない。今のエステルは、カイルが変わらないでいてほしい、という部分はそのままに、けれど優艶さを持ちあわせるようになった。エステルも、変化したのだ。

 ――不変など、ありはしない。

(裏切られる日が、来たならば。――きっと、俺はエステルを殺してしまうだろう)

 ――大切で、なによりも、誰よりも優しくしたい娘を。たった一人の最愛の娘を、自分自身が傷つける可能性。

 それが、ただひたすらに、怖かった。




 クラーク男爵邸に辿り着いたのは、土砂降りの日。

 しばらく続いていた雨が上がることもなく、日に日に雨量は多くなっていた。

 日が落ち、あたりは闇色に染まる。

 手綱を引き馬を止めると、地面におりた。地は石畳であるため、泥が跳ねる事はなく、水が既に水分を含んでいる着衣を更に濡らした。

 それすら厭わず、カイルは邸の扉へと駆け寄る。長い時間馬で駆けていたから、体力は限界寸前だった。肩で呼吸をしながら、ドアノッカーで来訪を告げる。

 そう待つことなく、扉は開かれた。

 出迎えた執事は目を丸くしながら、「カイル様」と青年の名を紡ぎ、慌てたように他の使用人を呼ぶ。

 視界の端では、カイルに続いて邸へと招かれた従僕や騎士が、安堵の表情を浮かべる。彼らの対応は女中に任されているらしく、カイルのずぶ濡れの外衣はクラーク家の従僕に預けられた。

「カイル様、まずは客間へ。お身体が冷えてしまいます」

 従僕が邸の奥へと促すが、カイルは首を横に振った。

「いや……エステルを、呼んでくれ」

 前髪から水滴が落ちる。冷たい外気を長時間吸っていたためか、肺が凍りつくような感覚がした。寒い、と感じるのは、身体なのか、心なのか。今のカイルに判じることはできず、ただただエステルに逢うことを望んだ。

 エステルを呼ぶために踵を返した従僕の後姿を眺め、ぼんやりと想う。

(ウォルター・ローウェル)

 それが、カレンの手紙にあった従僕の名前。カイルが会おうと思えば、呼びつけることも可能だろう。不安を払拭することも、できるかもしれない。

 しかし、そうするつもりはなかった。カイルの敵は、彼ではないのだ。カイルの敵こそ未来の自分自身であるかもしれないと、思うから。


 一時間にも感じた待ち時間は、おそらく五分ほどだっただろう。

「……カイル様!? そんなに濡れて……どうしたの!?」

 声に導かれるように顔を上げれば、そこには目を瞠ったエステルがいた。

 夜着に羽織を纏う姿で駆け寄ってくる娘に、なぜか、カイルは泣きたくなった。

 今、求めた存在は目の前にいる。

 カイルの顔を覗きこむように見つめる彼女は、心配そうに眉尻を下げる。

「カイル様、風邪をひくわ。すぐ部屋を用意するから」

 彼女が衣を翻そうとした姿に、咄嗟に手首を掴んでいた。

「……カイル様?」

 困惑した声。

 それはそうだろう。突然、連絡もなしに現れ、しかもずぶ濡れの姿で要件も言わずに佇んでいるのだ。

 だが、なにを言えばいいというのだろうか。

 エステルは、カレンの手紙のことを知らない。カイルの不安を知らない。カイルが恐れるものを知らない。

 この揺れる気持ちを、伝えればよいのだろうか。

 しかし、カイルは口を噤んだ。――カイルは、頼ることを知らないのだ。

 これまで、誰に頼ったことはなかった。弱みを見せる事はなかった。弱点を他人に知られれば、それは足元を掬われる理由となる。

 本来であれば、家族こそがそれを許しうる存在であったかもしれない。けれど、カイルには自分を受け入れてくれる存在がエステル以外にはなかった。そのエステルも、カイルにとっては守る存在であるから、寄り掛かってよいのかわからない。

 エステルが、カイルの濡れた頬をハンカチで拭う。それは、カイルにとって、自我が確立して以降、初めてともいえる”甘え”だった。

 心にこそばゆさを感じながら、エステルの手が自身の髪を掻きやる感触に、喉の奥が鈍く痛む。歪みそうな顔をなんとか堪えれば、かわりに灰青の瞳が揺れた。

 訝るように、エステルの紫の瞳はじっとカイルを見つめている。そして、異変に気づいたかのように冷えきった青年の頬に手を添えた。

 思わず、カイルは無表情という仮面が外れてしまう。苦しみを露わに、切なく顔を歪ませ――「カイル様、――っ」と言葉を発した婚約者を、力の限り抱きしめた。

 エステルが身体を強張らせていることに気づいていた。でも、銅色の髪に顔を埋めたまま、彼女を離すことはどうしてもできなかった。

「カイル様、痛いっ。カイ――」

「エステル、エステル、エステルっ」

 エステルの言葉を遮って、ひたすらに彼女の名を呼ぶ。そうすることで、腕の中の存在をより実感することができる気がした。

 愛おしすぎて、苦しかった。助けてほしかった。

 そして、知ってほしかった。どれだけ自分が彼女に溺れているのか。狂うほどに愛しているのか。

 想いの欠片をぶつけるように、言葉にする。

「エステル……好きなんだ。誰よりも、なによりも。だから、おまえを――信じたいんだ」

「……カイル様? どうしたの?」

 要領を得ないエステル。それもそうだろう。彼女はなにも知らない。それでも、気持ちの決壊を止めることはできなかった。

「信じたい……のに。好きすぎて、怖いんだ。おまえを守りたくて騎士になった。それなのに……裏切られたら俺は……」

 続く言葉が、エステルに届くことはない。

(このままじゃ、誰の目にも触れないように、おまえを閉じ込めてしまう。大切にしたいのに、壊れてしまえばいいと――誰かに奪われるのなら、その前に俺がすべてを奪ってしまおうと、思ってしまう)

 喉の奥で紡がれた言葉は、発せられる前に留められた。

 それは、狂気を孕んだ恋。

 カイルにとって、エステルは初恋の君だった。

 ――彼女はきっと知らないだろう。どれくらいその存在に支えられたのか、そして、この狂おしい想いも。

 ――自分はこんなにエステルのことが好きなのに。きっと彼女はその十分の一も愛してくれていない。

(――どうして、俺ばっかり……)

 いつだって簡単に絡めとられ、愛しさばかりが募っていく。

 やるせなさと温度差に歯をくいしばる。

「カイル、様」

 エステルの声を、耳元で聴く。

 すべてを伝えれば、彼女がカイルを恐れ、離れていくのではないかと、恐怖に身体が震える。

 だから、逃がさないとばかりにエステルを腕に閉じ込めた。

 そんなカイルを、エステルは慰めるように背を撫でる。

「カイル様、好きよ。私は、あなたを裏切らない」

 それだけ伝えた彼女に、カイルはようやっと腕の力を緩め、エステルの両頬を手で覆って上向かせた。

 視線が絡む。紫の瞳はまっすぐに、カイルに向けられている。今、彼女の瞳に自分が映っていることで、自分が彼女の傍にいることを実感した。

 その事実に、どれほど胸が締め付けられただろう。

 目頭が熱く感じ、視線を逸らす。ついで、震える唇で彼女の額にそっと口づけた。

 拍子に、雨粒とは違う熱い雫が、エステルの頬に落ちた。


「……カイル様、傍にいるわ」

 カイルにとって、その慈しむような声が、心に突き刺さるかのように痛かった。

 慰めるように優しく濡羽色の髪を指で梳くエステルは、どこまでも優しい。それこそが、カイルに温度差を感じさせる。

 確かに、エステルはカイルを愛してくれているだろう。その気持ちを、疑ってはいない。

 ――けれど。

「……エス、テル」

 繊細な硝子細工を扱うように、再びカイルの手がそっとエステルの頬を包んだが、それはすぐさま首へと滑らされ、名残惜しく離れていった。

 そうして、カイルは笑む。今にも泣きそうな、痛みを堪えた微笑みで。

「……カイ」

「……突然、驚かせて……すまない。――おやすみ、エステル」

 エステルの銅色の髪を一房すくい、口付ける。そうして指の隙間からすり抜ける髪を見つめ、最後の一筋が落ちると同時にカイルは踵を返した。


 エステルを、狂うほどに愛している。裏切られるのなら、誰かのものとなるのなら、殺してしまいたいほど。共に死ねるのなら、なんて幸せだろうと、想ってしまうほど。

 ――けれど。

(彼女は、狂うほどに俺を愛していない)

 それが、カイルにとっての、二人の温度差だった。



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