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侯爵様の好敵手  作者: えんとつ そーじ
三章 そうして、手放した
17/33

 6

.



 ――それはまるで、不幸の手紙のようだった。



 雨音が、耳鳴りのように鼓膜を打つ。

 まだ時刻は日中であるものの、どんよりとした黒い雲が太陽を覆い隠し、外界に陰を落とす。

 邸の中にいれば、ことさら部屋は闇色に染まる。その黒に抗うように、人々は燭台に火を灯す。

 それでも、湿度の高い空気と淡い光は心を重くさせた。


 薄明かりの中、執務机に向かう青年の影が揺れる。その影は、彼の心を示すようであり、またそれは、動揺よりも怒りに似た感情だった。

 自室で一人、カイルは手紙を読んでいた。朝方に届いた、幼馴染からの手紙。

 もしそれが婚約者となった娘からのものならば、彼は表情を緩めて優しく目を細めただろう。

 しかし、手紙はもう一人の幼馴染からであった。紅の髪の、先日の夜会で忠告してきた娘。

 あの夜会以来、カイルの元には何通もの手紙が届いた。それも、カレンが忠告した通りの文章が連なる手紙ばかり。差出人はいわずもがな、カレンだ。

 彼女の意図が読めない。カレンは幼馴染であるカイルを心配していると言いながら、エステルの不貞を囁く。では、エステルは彼女にとって、カイル同様の大切な幼馴染ではないということなのだろうか。

 それとも、そこまで自分の見る目に自信があるということなのだろうか。

 カイルが今手にしている便箋の内容は、『エステルと従僕の密会』をどこで見かけたか、そしてどんな雰囲気だったかということ。さらに末尾には、『――それでも、エステルを信じたい。だから、事実確認できるまでどうか内密に』と締めくくられている。

 矛盾してはいないだろうか。信じたい、と言いながら、彼女は疑っているのだ。そう勘ぐるのは、カイルがエステルしか見えていないからだということなのか。

(まるで、偽善者のようだな)

 どこか非難を滲ませた顰め面で思う。

 だが、とも心の中で独り言。カイルはカレンを昔から知っている。それも、社交界に参加する以前からの姿を。彼女は、幼い頃からエステルを妹のように見守っていた。時には窘め、時には励まし、時には友のように笑う。そんな、姉妹とも友人ともいえる二人だった。

 だからこそ、カイルにはどちらも疑いきれない。

 エステルは、不貞を犯す娘ではない。そう信じている。他方、カレンはエステルを確かに大切に想っている。エステルにとって、彼女自身が心から信頼する、無二の友人だ。

 ゆえに、カイルはカレンの誤解だと判じた。頭では、そう、決定していた。

 カイルの、便箋を持つ手が小刻みに震える。拍子に、くしゃりとそれは音をたてた。

「――いい加減にしてくれ!!」

 声を荒げながら、彼は拳で執務机を打つ。室内に、鈍い音が響き渡った。

 カイルが俯き、黒髪が普段は涼やかな瞳を隠す。ついで、なにかを堪えるように、片手で目元を覆った。

「……いい加減に、してくれ」

 震える溜息と共に、その呟きは吐き出された。


 夜会で会うエステルは、いつだって不審な様子はない。

 それでも不安に襲われるのは、カイルが侯爵就任の準備のために、エステルと会う機会がめっきり減ったからだ。

 結婚するには準備がいる。目先のことに捕らわれておろそかにすれば、カイルの夢は遠のくばかり。

 ゆえに、今は我慢したとしても、将来を想えばこそ身体的距離を置くことになったのだ。

 それはカイルだけではない。エステルも、結婚準備のために奔走している。

 考えてみれば、カイルが従騎士として王宮にいた時よりも、遥かにエステルの傍にカイルはいる。正式な婚約者となったことしかり、男爵邸と侯爵邸の距離しかり。

 それなのに、どうして心が揺さぶられるのか。

 ――身体的な距離が、会えない時間が、口の端が。カイルにエステルとの、心の距離を感じさせるのだ。

 そのもどかしさに、少しずつ少しずつ、心の底に沈殿するように不安が積もっていった。心が不安定になっていった。


 邸に帰ってきてから、カイルは即座に確認する破目になったことを思い出す。

 父と母の醜態だ。

 父は、カイルに会うやいなや、エステルとの結婚に不快感を滲ませていた。母は、労うようにしてカイルを出迎えた。

 その日の夜――父の執務室の前を通れば、女の嬌声がしたし、母が眠るはずの寝室に入っていく若い男の姿を見た。

 本当に、なにも変わってはいない。

 呆れながらも、諦めていた。ただ醒めた目で、若い男を見送った。

 軽蔑と嘲りしか、両親に対する感情は残ってはいなかった。もはや期待などしていないから、どうでもよかった。

 幼い頃に見限ったのだから、今更、としか言いようがない。


 そんなカイルにとって、エステルだけだった。

 エステルだけがすべてだった。

 自分が全身全霊を懸けて捧げるべき相手。

 たった一人の、特別。


 カイルの脳裏に、カレンの手紙の一文が過ぎる。

『もしわたしが信じられないのであれば、仮面舞踏会にいらしてください。』

 どこともなく睨めつけるように、カイルは窓へと視線を投げた。

「それで、エステルへの誤解がとけるのなら、行ってやるさ」

 そう口にする一方で、胸の奥に渦巻く、優しさで覆われた黒い感情から目を逸らした。そしてその正体をカイルが知るのは、まだ先のこと。




***   ***   ***




 カレンの指定した仮面舞踏会へは、エステルを伴って出かけた。

 心苦しく感じながらも、婚約者の彼女には”情報収集のため”と誤魔化して。

 決して嘘ではない。確かに、その目的も仮面舞踏会に参加する時は持ちあわせている。ただ、今回の参加は、エステルの誤解を解くこと――それに重点が置かれているだけで。


 目元を覆い隠す仮面を装着し、カイルとエステルは回廊を歩む。

 通常の夜会とは異なり、”秘めごと”と物語るように会場までの道のりはほのかにしか明かりが灯されていない。

 強張るようにカイルの腕に手を絡ませるエステル。その様子からは、従僕と密会するような人物像は窺えない。

 少し力んだ手に口元を緩めて、広大な間へと歩を進めた。


 円蓋の天井の間には、仮面を被った人々が既に多く集う。

 女性陣はいつもにも増して、胸元が大きく開いたドレスを着用していた。首元を美しくみせる仕様に、真珠や彩な宝石を散りばめる。さらに、身体に密着した形のドレスで、体型の線を強調する。

 男性陣は逆に、一見紳士だが、暗闇に身を潜ませることが容易な黒や灰色の衣を纏う。

 仮面をしているため、一目で知人を捜し当てるのは難しい。それでも、髪や肌の色、仮面に覆われていない口元と顔の輪郭から、無理、というわけではなかった。

 人影を映すほどに磨かれた、白い石床を歩く。

 中央へと進めば進むほど、数多の噂話が耳に届くようになる。

 シャンデリアに照らされた広間は、輝かんばかりに明るい世界なのに、空気はそれとは間逆といえた。

 欲望渦巻く仮面舞踏会。

 名も身分も伏せ、参加する夜会では、既婚者すらも一夜の恋に興じる。

 そんな場所に、エステルを連れてきたくはなかった。

 宝物のように閉じ込めて、綺麗な世界だけを彼女に見せたかった。

 けれど、ハーシェル侯爵家に嫁ぐ彼女は、今後穢れた世界を目にすることになるだろう。カイルの父と母だけではない。一族のほとんどが、欲を貪っているのだ。

 今宵の参加はカレンの勧めではあったが、そういった意味で免疫を多少なりともつけるにはいい機会だ、とカイルは自分を無理にでも納得させた。


 適当な会話の輪に入り、他愛もない話に花を咲かせる。

 心の開放感ゆえか、卑猥な話もいくつか語られる。

 ある高位貴族の不倫、ある官吏の賄賂、ある富豪の謎の死。本当にさまざまな話題で溢れていた。

 その最中、カイルはエステルを横目で観察した。

 彼女は時に口元を引きつらせて笑みをつくり、時に眉を寄せ、時に恐怖してか唇を引き結ぶ。

 人の死すらにやりと口角を上げ、瞳を輝かせながら語る場は、本来ならば異質で――しかしこの場ではそれが普通だった。それに倣えば、これらの話題に不快感を覚えるエステルやカイルこそが異分子なのだ。

 時々、カイルは視線を彷徨わせる。紅の髪を持つ、仮面の娘を捜して。

 適当に情報収集しながら時間を過ごしたが、時計の針が深夜零時をさす頃にはエステル共々すっかり疲れを感じていた。

 収穫がなかったわけではない。ハーシェル侯爵家の当主となるのに役立ちそうな話題はいくつかあった。

 それは確かだが、本来の目的ともいえるカレンが見当たらない。ともすれば、カレンがなぜカイルを仮面舞踏会に参加するよう手紙に記したのか、その理由すらわからなかった。

 カイルは疲労を滲ませて溜息を吐き、前髪を掻きあげる。

 いつもの夜会では、途中から抜けて東屋で休憩しているエステルも、今日はずっと隣に連れていた。

 おそらく、彼女も疲れているはずだ。

 カイルはエステルへと視線を落として囁く。

「今日はもう帰ろうか」

 その声に、見上げたエステルは「はい」と頷いた。


 そうして二人、会場の出入り口へと向かう途中のことだった。

「――――っ!!」

 なにを言っているのか判じられないまでも、明らかに男のものであろう嗄れた怒声。しっとりとした、淫気な雰囲気の場には不相応な声へと視線を向ければ、そこに白髪交じりの中年男性と赤髪の娘の姿があった。

 娘の腰には男の手がまわされており、彼女は男の身体を拒むように両腕で胸板を押しやっていた。

「……あれって」

 カイルはエステルからの視線を感じ、彼女へと顔を向ける。

「ああ、カレン、だろうな」

 名がエステルを除く人の耳に聞こえぬよう、耳元で彼女の言わんとしている言葉を続けた。

 とりあえず、助けなければならないだろう。どう見ても、彼女は上半身を捻りながら、必死に距離をつくろうともがいているのだから。

 だが、カイルとエステルが向かえば、もしかしたら正体がわかってしまう可能性も否めない。普段の夜会で、幼馴染三人集まっていることも多い。それを目にしたことがあれば、髪の色や体格から、カイルらが仮面舞踏会に参加している、と勘付く者もいるだろう。

 それは、外聞よろしくない。

 カレンを心配そうに見つめるエステルに、苦笑する。ついで、彼女の銅色の髪を一度撫でた。

「……行ってくる」

 カイルの言葉に、エステルは安堵するように目を細めた。

「気をつけてね」

 カイルは頷きながら、カレンのもとへと向かう。上体を反らし、「じゃあ、いつもの場所にいてくれ」と告げて、手を軽く振った。




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