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傷一つない、意匠をこらした一台の馬車が、門をくぐる。
庭園を走る馬車に刻まれる紋章は、ハーシェル家のもの。その馬車が向かうのは、クラーク男爵邸である。
春の終わり。庭園は映える緑に彩られ、色鮮やかな花が咲き誇る。よく手入れされたそれは、庭師だけではなく、邸の住人も植物に興味関心があることが窺えた。
そうして馬車は庭園を抜け、邸の前に停車する。
御者が降り、馬車の扉を叩いて到着の旨を伝えた。ついで彼が扉を開ければ、一人の青年が姿を現す。
気取らぬ出で立ちに身を包んだ彼は、黒い髪を揺らして邸を仰ぎ見た。
灰青の瞳が映すのは、長い間ご無沙汰だった懐かしい邸。そこには、婚約者と、もうすぐ家族になる人たちが住んでいる。
つい、口元が緩んでしまう。
(――やっと、戻ってきた)
感慨深さに心を和ませ、邸の扉を叩いた。
邸の中に促され、執事に案内されたのは男爵の執務室だった。
窓辺の執務机に向かう男爵は、よく知った青年を目にすると徐に立ち上がって目を細める。
「お久しぶりです、カイル殿」
握手を求めた男爵は執務机の前まで出ると、右手を持ち上げた。
それに、カイルは倣う。
「お久しぶりです。お元気そうで、よかった」
カイルも口元を綻ばせれば、男爵は苦笑した。
「エステルは今、部屋です。ただ……残念ながら、熱を出して布団から出られないので、よろしければ顔を見せてやってはいただけませんか?」
どこか溜息交じりに言った男爵。
カイルは熱を出したという事実に驚きながら、家族煩悩な男爵が、熱を出して寝込む娘に対する台詞とは思えずに内心訝る。
救いは、男爵の落ち着きようから、エステルは重い病、というわけではないと察せられることだ。
ゆえに、カイルは少しの心配とともに頷く。
「はい。……風邪、ですか?」
男爵から見舞いを勧めていることから、移る病気だと思えない。ともすれば、風邪というわけではないのだろうか、とカイルは首を傾げた。
しかし、男爵は困ったように笑むだけだった。
*** *** ***
エステルの部屋までは、侍女の案内に続いた。
侍女が二、三回小さく扉を叩き、返事がないのを確認してそれを開けた。
「どうぞ」
彼女はそう告げ、カイルはエステルの部屋へ足を踏み入れる。
邸に顔を出した経験はあるが、その頃の幼いエステルの部屋は、まだ子ども用の玩具や小さな寝台が置かれていた。
今、カイルが目にする部屋とはまるで異なる。
淡い壁の色と、配色が考えられた家具、大人用の大きさの寝台。年頃の娘の部屋にしては装飾が控えめだが、むしろそれが落ち着く雰囲気をつくっていた。
カイルが寝台へと進むと、背後で扉を閉める音がした。
ふと、カイルは立ち止まる。首をめぐらして扉へと振り向き、部屋に二人きりになったことを知る。その現実に、突如、体中に緊張が走った。
婚約している者同士とはいえ、室内に……密室に年頃の男女を二人きりにするとは――しかも、エステルは熱で臥せっているのに。
そんな戸惑いがカイルの脳裏を過ぎるが、それだけ信用されているのだと思えば、なんとなく複雑な心境だった。
溜息と深呼吸を織り交ぜた吐息をつき、再び寝台へと足を向ける。
そうして、眠るエステルの枕元に立った。
カイルはわずかに目を瞠る。
眠るエステルは、婚約前に見た彼女よりも、大人びていた。
銅色の髪は変わらない。肌の色は、熱のせいか若干赤らんでいる。
起きている時の彼女は、以前のものしか知らないけれど、ころころ変わる表情がどこかあどけなかった。
しかし、今の彼女にその表情はなく、人形のようですらある。
伏せられた睫毛が時折震え、肌には汗が滲むことこそが、エステルが生きていて、人形ではないことの証だった。
それでも、あまりに静寂な空間は、不安げに心を揺らした。
――元気なエステルに会いたかった。
だが今は、目の前にいるエステルが幻でも人形でもなく、本物であると確かめたかった。
ゆえに、おそるおそる手の甲をエステルの頬に伸ばす。手は、情けないことに震えていた。
少しずつ距離が縮み、ようやっと肌に触れれば、しっとりと吸い付くような、体温の熱がカイルに伝う。
それにほっと安堵する一方で、現物のエステルと認識すれば、異性として意識してしまう。
幼さは影を潜め、どこか艶かしい。
だが、カイルが嫌う女性らのような、纏わりつくような、粘着質な色で迫るようなものではない。
その差が、魅惑的にみせた。
思わず頬へと伸ばしていた手を離し、色欲を心の底に押し込める。目を閉じて一度深呼吸し、気分転換を図ると、額に乗せられた手巾に触れた。
(温いな……)
手巾を手にとり、近くにあった洗面器の水に浸す。温かくなった手巾を冷やしている時間で、エステルの上気した顔を見下ろし、名を呼んだ。
「エステル」
起こすつもりはなかった。ただ、目の前にいる、という現実を噛み締めたくて、言葉にしただけだ。
しかし、エステルはうっすらと目を開く。潤んだ紫の瞳が覗いた。
「……誰?」と、赤く色づいた唇が問う。
カイルは撫でるように額にはいついた髪を梳きやり、固く絞った手巾をそこに乗せた。
その動きを追っていたエステルの視線がカイルを捉え、彼はわずかに動揺し、身体を揺らす。
平静を装おうと、寝台横にある椅子に、何気なく腰をおろした。
「……カイル、様」
エステルがカイルを認識した。そのことが嬉しくてたまらない。
本当は、久々の逢瀬に抱きしめたい。けれど、(彼女は病人だ)と自身を戒めることでようやっと我慢する。
そんなカイルの心中を知らないエステルは、「おかえりなさい、カイル様」と無邪気に微笑む。
そうして布団から出された手を、カイルは両手で包み込んだ。熱のせいか熱い、自分のものより華奢な手は、手放せば――守らなければ、壊れてしまうのではないかと思うくらい儚く感じた。
過ぎったのは、失う恐怖。
男爵の様子から、エステルが重い病気ゆえの熱ではないとわかっていても、不安でたまらない。高熱で命を失う者も少なくない。兄弟が数人いても、この世の中、老齢まで生きることが適うかどうかは、運がものをいう。兄弟が誰もいなくなってしまう者もいるのだ。
思わず眉間に皺を寄せる。
「エステル、そんなことはいい」
辛く当たろうとしたわけではなかったが、きついもの言いになってしまった。久々の再会だというのに、と自己嫌悪に溜息を漏らしそうになる。だが、それを遮ったのは、エステルのか細い呟きだった。
「そんなことじゃ、ないわ。……王宮からお戻りになって、正式な騎士になったんだもの。お祝い、しなくちゃ」
「いいんだっ」
咄嗟に声を荒げてしまい、カイルは後悔に口元を押さえる。
拗ねるように頬を膨らませたエステルを横目に、気持ちを落ち着かせようと、そっと溜息をついた。
(怯えさせてどうするんだ……)
ぐるぐるとカイルの胸のうちを占めていたのは、もし、彼女に何かあったら――という恐怖だ。カイルには守れるものと、守れないものがある。力を尽くしても、できないことがある。それが、怖いのだ。
やがて頬に溜めていた空気を抜いて、睫毛を伏せたエステルは、落ち込んでいた。
カイルは自分の気持ちをどう伝えたらいいのか、弱音を吐くことを躊躇い、エステルの火照った頬を手のひらで覆って見据える。
「――もっと自分を大切にしろ」
言えたのは、それだけだった。
もっと器用なら、気のきいた慰めができただろう。ジョエルや――セシルならば、きっと。
それでも、エステルはカイルのもどかしさに歪んだ表情から察したのか、眉尻をさげて上目でカイルを見つめていた。
「……カイル、様」
彼女は呟いて、口元まで布団を引き寄せる。
「……はい。――ごめんなさい。……ありがとう」
カイルは少しだけ、目を見開く。
あまりに口べたで素っ気なくなってしまったが、彼女はカイルの伝えたいことを受け止めてくれたのだ。責めたいのではなく、心配しているのだと。
それが、まるで心がつながっているようで、カイルの心があたたまる。
嬉しくて、でもそれを言葉にするのはどこかおかしい気がして。結局、エステルの頭に手をのせ、髪をくしゃくしゃと掻きまぜた。
照れ隠しに言えたのは、「今後気をつけるように」という言葉。
そんな自分に苦笑すれば、エステルは嬉しそうに微笑んだ。
視線を感じたカイルは首を捻る。
「なんだ? どうかしたのか、エステル」
「……どうもしないわ」
そう返したエステルは、くすくすと笑う。理由がわからず、カイルは眉宇を顰めた。
エステルの笑いは、”嗤い”ではない。変な意味ではないのだろう。しかし、一人で笑っていられると、気になって仕方がない。
カイルはエステルの様子から読み取ろうと、紫を瞳をまっすぐ見つめれば、エステルは身じろぎした。しばらく口ごもらせていたが、ついには観念したのか、笑みを照れたものに変える。
「また格好良くなったと思ったの」
思わぬ言葉に、カイルは一瞬言葉を失った。まさか、そんな言葉が返ってくるとは思わなかったのだ。
だが、愛するひとからそういわれて、嬉しくないはずがない。
心の奥から滲み出る喜びに、頬が自然と緩む。それでも、あまりに締まりのない顔は見せられないと、言葉の心地よさに浸りそうになる自分を叱咤して言葉を紡いだ。
「エステルも綺麗になった」
その言葉に嘘はなかった。
甘い言葉をそのまま伝えるのは苦手ではあるが、今、この時は雰囲気が言わせてくれた。
思わず、といった風に赤面したエステル。けれど、言ったカイル自身も耳まで赤くなるほど顔を赤らめている。
つい、エステルは噴出した。まるで惚気あっているようで、カイルは恥ずかしさにエステルの額を軽く叩く。
「笑うな」とわざと不機嫌ぽく呟くと、エステルはさらに笑みを深めた。
それが、ずっと求めていた時間だとカイルは今更ながら実感する。ずっと、ずっと手を伸ばして、やっと触れた――でも、まだ手に入ってはいない幸せ。もうすぐ、浸ることができる幸福。
確かに、もう既に幸せだ。エステルと出逢うまでのことを想えば遥かに。だからこそ、たまに不安が心を過ぎる。
幸せを求めることに貪欲になりすぎて、実は夢だったなら、と。もし、そうだとしたなら――。カイルは、カイルとして生きていくことができるだろうか。
「……エステル、早く良くなってくれ」
笑うエステルを目の前に、祈るように囁いた。
エステルの頷く気配が、カイルにとってなによりの慰めだった。
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