10 (2011.9.7)
父侯爵の行動は速かった。
恐らく、彼が王宮から去り、侯爵領へついてすぐにクラーク男爵へ縁談の文をしたためたのだろう。
カイルの元に、その旨が記された手紙が届くことはなかった。しかしカイルは、王宮に今度はエステルの父であるクラーク男爵が訪れたことで、そのことを知ることとなる。
真白な一室でカイルを待っていた男爵は、カイルが現れると同じくして、どこか後ろめたさを秘めた表情で深々と礼をした。
「この度は、我が娘 エステルと婚約していただき、まことにありがとうございます」
その時、はじめて知った事実にカイルは目を丸くした。が、男爵が顔を上げることはなかったために、彼はそんなカイルの表情に気づくことはない。
心の揺れに、カイルは男爵に顔を上げるよう伝えることも忘れ、どこか呆然と呟く。
「……婚、約? 正式に、決まったのですか?」
「……はい」
カイルが現実を受け止めるまで、数拍の時間を要した。
「……本当に?」
どこか信じられなかった。というのも、以前カイルがエステルと婚約したい気持ちを男爵に話した際、娘の承諾と騎士としての帰還、言葉にはしていなかったがカイルの気持ちが恋愛感情へと成長したならば、という条件があったのだ。
もうずっと、カイルは男爵と会ってはいなかった。まだ、騎士にもなっていない。――そして。
「エステルは、頷いてくれたんですか……?」
「はい」
腰を折ったままの男爵は静かに答えた。
そのたった一言に、カイルは時がとまったかのような感覚に陥る。
――エステルが承諾してくれなければ、父侯爵への言葉はもともと意味をなしていない。
――けれど、本当に。幼い日の約束は、有効だった。
(――エステル)
彼女は、約束を守ってくれた。
嬉しさを噛み締めながら、カイルは慌てて男爵に顔を上げるよう促す。
やがてゆっくりと姿勢を正した男爵は、カイルの顔を見た途端、驚愕に目を見開いた。
不思議に思い、カイルは髪を揺らす。
「男爵? どうかしましたか?」
「――カイル様、あなたは、心からエステルを望んでくださっているのですね」
父親の表情をして、穏やかに微笑した男爵の言葉にカイルが目を瞬くと、彼は一層目を細めた。
「幸せそうな顔をしていらっしゃいますよ」
どこか苦笑まじりな声に、カイルは咄嗟に口元を拳で覆う。
言われてみれば、頬が緩んでいる気がしないでもない。義父となる存在を目の前にして、信頼における紳士を装いたいものの、心と表情は直結しているのか歓喜を隠すことができなかった。
――資金援助ゆえに成立した婚約。それは、傍から見れば貴族世界にありふれた政略結婚でしかない。けれど、真実はそうではないのだ。
――少なくとも、カイルとエステルにとっては。
カイルは嬉しさに顔をくしゃりと歪ませながら、男爵に頭を下げた。
「か、カイル様っ」
「ありがとうございます!」
下を向いたせいか、カイルの視界が歪む。知らぬうちに目が潤んでいたらしい。自覚すれば、声が震えだす。
「承諾くださり、ありがとう、ございます」
男爵はカイルの背に手を添え、顔を上げさせた。
「カイル様のご帰還をお待ちしております」
優しい表情に、カイルは眉尻を下げて笑みを返す。
「――はい。男爵、あなたは義父になる。どうか、カイルとお呼びください」
刹那、男爵は困惑を示したが、一度頷くと「では、カイル殿、と」――そう口元を綻ばせた。
*** *** ***
翌日、カイルが棒術鍛錬のために使用人用の裏庭へ向かうと、驚きに目を瞠ることとなった。
それは、カイルが白亜の宮殿から華やかさのない裏庭へとおりた瞬間。集っていた従騎士たちが一斉に注目したかと思うと、次々に駆け寄ってきたのだ。
その場には、カイルやジョエルの部隊だけでなく、セシルとウォーレスの隊もいた。人の多さは練習場の入れ替わりゆえの混雑のようではあるが、人が多ければ視線もその分増える。
「カイル、なんでだ! なんで幼馴染なんだ!?」
「お前は漢だ、カイル! そうだよな、やっぱり愛だよな!」
「あんたのせいで破産じゃねーかっ」
等々の、八つ当たりが入っているような野太い不特定多数の声に、カイルは一歩後ずさる。
ついで逃げ場を求めて視線を彷徨わせると、人垣の中で大きく手を振っている存在に気づく。
「ジョエル?」
小さな呟きに、ジョエルはなんとか人を押しのけ、カイルのもとにたどり着いた。
「何事なんだ、これは?」
首を捻るカイル。ジョエルは肩を竦める。
「本当に君は……」
どこか呆れを滲ませて嘆息した親友は、カイルの肩に手を乗せて続けた。
「君がエステル嬢と婚約した話は、既に王宮中に広まってるんだよ」
カイルは口をあんぐりと開ける。たった一日でここまで広まるとは思わなかったのだ。しかも、婚約が正式なものになったと教えたのは、同室のジョエルだけ。どうせ広まることだとしても、これはあまりにも速い。
ジョエルは苦笑を浮かべた。
「君は知らなかったと思うけど、君の婚約に関してはみんなで賭けをしていたんだ」
「……なんで俺が婚約するかもしれなかったことを、みんなが知ってるんだ」
眉間に皺を寄せ、軽く睨む。しかしジョエルは怯むことなく答えた。
「そりゃ知っているさ。だって、候補の一人は王族の令嬢なんだよ? 狙う男は多い。玉の輿といってもいい。気にならないはずがないだろう。まぁ、君に懸想する令嬢方が結果に興味を示していたのも噂が一気に拡大した要因ではあるだろうけれどね」
からかうように言ったジョエルは、表情を緩めた。
「――おめでとう、カイル君」
その祝福の言葉を皮切りにして、カイルを取り囲む面々は破顔一笑で口々に祝いの言葉を述べる。
首に腕を巻きつけられ、ぐしゃぐしゃと先輩従騎士に髪をまぜられるカイルの表情は、喜色満面だ。
これまで見たこともないその表情に驚いた者は、少なくないだろう。
心を満たす幸せゆえに、優艶なその笑み。
人垣の隙間から、カイルが好敵手と認めるセシルとその友人ウォーレスが眉を上げ、一驚している様が見えた。
そして、それよりもさらに遠方、回廊の柱の影で。――ユーフェミアが、蒼白な色で凍りついた顔をして立っていた。今にも倒れそうに震えながら。
けれどその時のカイルは、それすらも取るに足らないことで。
心は既にエステルに囚われ、脳裏では婚約者となった少女に今度会ったら、何を贈り物にしようかと思い描いていた。
滲み出る笑みは、涸れることを知らず。
(――神様の存在を信じてもいい)
生まれて初めて、カイルはそう思った。