プロローグ(2010.8.29)
夜の帳がおりた執務室は、ぼんやりとした明かりが一つ灯されているだけだった。
執務机に肘をつく青年は、ペンを片手に浅い眠りに落ちていた。
黒絹のような髪は、彼の疲れた表情を隠し、閉じられた瞼の奥に、感情を宿す灰青の瞳は秘される。
つぅ、と雫が彼の頬を伝った。
形のいい唇が紡ぐのは、かつて婚約者だった女の名前。――今も変わらず青年が愛し続ける、最愛の女。
夢の中で、青年は何度も彼女と逢瀬を重ねた。
「カイル様」
そう青年の名を呼び、はにかんで笑う。
「……エス、テル――」
カイルは苦しげに顔を歪めて微笑んだ。
いつだって彼が夢の中でエステルと逢う場所は、幼い頃、結婚の約束を交わした”白い草原”だった。
必死に手を伸ばし、エステルの身体を抱きしめる。閉じ込めるように力を込めた。
「エステル……好きなんだ。愛しくて仕方がないんだ。――セシルに……他の誰かに奪われるなら、俺がすべてを奪おうと思うくらい、愛してるんだ……」
カイルは婚約していた頃には告げられなかった言葉を伝える。
あの時、彼女に伝えていたら結果は変わったのだろうかと、何度も考えた。だから、夢の中でもかまわないから、結果が知りたかった。
「エステル、隣に、いてくれ――……」
逃がすまいと抱きしめる腕により力を込めると、エステルはその重さに体勢を崩す。カイルが押し倒すようにして二人共に草原へと飛び込めば、拍子に舞う白詰草が目の端に映る。
「カイル様、私は――」
続く言葉を遮るように、カイルはエステルの口を封じた。押し付けるように己の唇を彼女のものに重ね、閉じられたそれを割るように舌を侵入させる。
カイルは、夢だとわかっていた。
それでも。たった一度の口づけの記憶を夢の中で辿る事で、自分の身体に刻み付けたかった。
角度を何度も変えながら、貪るように求める。絡められた舌が紡ぎだす水音に、頭が痺れるような感覚がした。抗おうと拒む行為も今のカイルには煽ぐ効果しかなく、そのすべてが心に甘く疼く。
(――もう一度、ここからやり直せたら)
何度も思った。遠い昔、エステルと結婚の約束をした日からやり直せたら――きっとすべては変わっていたかもしれないと。
だから、何度も神に祈った。――神などいないと、知っていた筈なのに。
胸が締めつけられるように苦しくなった。夢にも拘らず、頭の片隅にある現実に喉が鈍く痛む。涙が勝手に流れ、伝った。
けれど、儚い逢瀬は突如終わりを告げる。
コンコン、と音がする。
(ああ、目を覚まさなければな……)
切なく苦笑し、カイルは現実へと引き戻された。
もう一度、扉を叩く音が部屋に響く。
「入れ」
短く許可を出すと、申し訳なさそうに開かれたそこに、執事がいた。
「カイル様、夜分遅くに申し訳ありません」
罪悪感を宿した低音のしわがれた声。
カイルは睫毛を伏せながらも、首を横にふって促した。
「いや。――報告か?」
視線をあげて問えば、執事は一通の封筒をカイルに渡した。
カイルは専用のナイフで封を切り、手早く中身を確認する。
『ウィクリフ伯爵家、当主および親族の着服・横領・殺人罪等により財産没収の上、爵位剥奪、さらに王都への立ち入り禁止との沙汰がおりる』
そう連なる文字に、嘲りを宿した瞳で会心の笑みを浮かべる。
カイルの笑みを見た執事は、身体をぶるりと震わせた。ついで、彼は躊躇いながら尋ねる。
「……カイル様?」
すると、カイルは小さく嗤い出した。
「ああ、父上に報告してくれ。ウィクリフ伯爵家が没落……いや、滅びた、といった方が正しいか?」
カイルの言葉に驚き、瞠目した執事は息を呑む。
「――ウィクリフ伯爵家が、ですか? カレン様が嫁いだ、かの伯爵家、でございますよね?」
信じられない、と物語る表情を浮かべる。しかし、執事の思いは正しいのだろう。かの家は歴史こそ浅いものの、近頃はその権力を確固たるものにしていた。家格こそ伯爵であるが、財力と権力、王族からの信頼でいうならば侯爵家や公爵家とも引けをとらないのだ。だからこそ、カレンの実家は申し出を拒めなかった。
――だが、その伯爵家は追い落とされた。
執事が何かに気がついたように、息を呑むと、カイルを窺い見る。
視線に気づいたカイルは、答える変わりにこう述べた。
「……継続的な資金援助と後ろ盾を失った子爵家は、どうなるだろうな?」
まるで未来が読めていると物語る灰青の瞳を細める。
途端、執事の顔色がわずかに蒼みを帯びた。
――執事は、悟ったのだ。
これまで、カイルが起こした行動から。環境から。そして……過去から。
そんな執事の様子を見受け、カイルは声をかける。
「用件はそれだけか? ならば、父への報告を頼む」
思考に沈んでいたが、落ち着いた声音の命に顔を上げた執事は急いで礼をとり、部屋を後にした。
*** *** ***
扉で隔たれた廊下で。退室したばかりの執事は後ろを振り返り、扉の向こうのカイルを思い起こす。
彼の笑み。言葉。瞳の奥に秘められた、渦巻く激情。
『ウィクリフ伯爵家が没落……いや、滅びた、といった方が正しいか?』
『……継続的な資金援助と後ろ盾を失った子爵家は、どうなるだろうな?』
そう告げた青年の声は、凍りつくほどの寒気を覚える、残酷で冷徹な色をしていた。
(まさか……カイル様の仕業だろうか……? だが、次期侯爵であるカイル様に、そんなことが可能だろうか?)
執事は身を強張らせながら考える。
(――いや、可能かもしれない)
王宮で従騎士として生活し、ウィクリフ伯爵同様、王族からのおぼえもめでたい彼ならば。
執事はカイルが婚約を解消してから幾度となく届く文を思い出す。
(カイル様は、王族の姫君に恋い慕われているのだから……)
きっと、一伯爵家を潰すことなどわけないのだろう。
(これは、きっと復讐か)
最愛の女を失うきっかけを与えた娘への。
――ハーシェル家が望むままの姿を完璧に演じる彼が、たった一つ望んだ願い。
長き時を侯爵家に身を捧げた執事ゆえに知る、カイルの過去。かつて、我慢を強いられていた彼が、ただ一つだけ口にした我侭の成就を、心から願っていた。
その、カイルの望みを壊した報いは、復讐という刃で向けられた。
そして、その復讐は、これで終わりなのだろうか。
その答えは、カイルがエステルとの婚約を破棄するに至った真意に起因する。
(あなたはきっとこれからも、知りながら茨の道を歩むのですね……)
執事は切なく目を細める。
やがて彼は、目的地へと歩を進めた。
*** *** ***
ひとり取り残された部屋で、カイルは執務机の抽斗を開ける。
取り出したのは、二つの指環が入った小瓶だ。それは――行き場のない結婚指輪。
カイルは大切に瓶をなで、指環に刻まれた文字を確かめる。
『永久に愛することを、誓う』
照れくさくて口したことはなかった言葉。贈る指輪に刻むことで、知ってほしかった。
それでも、カイルは自分が生涯エステル以外に心を預けることはないとわかっていた。そしてそれは、エステルにも通じていると、思っていた。
「――エステル」
慟哭するように呟く。
身勝手だなんてわかっていた。狂気に駆られ、執着する自分から逃れたくて、一方的に婚約を破棄したのだ。
(自業自得だと……そんなこと、わかっている――っ)
けれど、諦められないのだ。諦める、諦めないの問題ではない。――諦められない、という自分ではどうしようもない感情。
今日、エステルはセシルと結婚式を挙げた。
そうして、彼女はセシルと閨を共にするのだろう。
考えるだけで、耐えがたい。
張り裂けそうに胸が痛む。心が悲鳴をあげている。
彼女の華やかなドレス姿を見たかった。だが、それは自分の隣でなければ許せなかった。
セシルの隣に立つ彼女を目にしたら、彼女のドレスを深紅に染め上げ殺してしまうのではないかと、怖くなった。セシルに処女を奪われる前に、彼女を連れ去って犯してしまうのではないかと、悪寒がした。
――エステルには幸せだと笑ってほしい。
しかしそれは、自分の手でないと意味がない。笑うのも悲しむのも、喜怒哀楽のそのすべてを自分のものにしたい。
カイルは自嘲するように笑う。
「やばいだろ……。狂ってるな、俺……」
涙を堪えるように奥歯に力をいれた。
掌の小瓶を両手で強く握りしめ、額にあてて狂気を沈める。
こんなに苦しいのなら、出逢わなければよかったと、何度思っただろう。その度に、だが、出逢っていなければこの世界に光があることも知らずにいたのだと、前言を否定して。
何度も何度も繰り返し。いつだって堂々巡り。
気持ちは欠片も消化できなかった。――いや、するつもりも今やない。
エステルとの邂逅を思い出にする気はさらさらない。
記憶のまま留めるのだ。何をも忘れないように。
――傷は一生癒えない痕として残ればいい。それが彼女と過ごした証となるのなら。
――癒えることなど、望まない。
――たとえ美化されなくとも。彼女といた時間を、一時も忘れないように。
そうして、今夜も静かに目を瞑り、記憶を辿った。