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【12歳の春】あの悔しさは忘れない【ケバブーッ】

作者: 平末さくら
掲載日:2026/01/22

 教科書の数が増えた。厚みも増した。本棚は手狭になった。松谷は、飾ってあったキーホルダーを手に取ると、乱雑に机の引き出しにしまった。全国少年サッカー選手権参加賞と書かれた紙が剥がれて床に落ちた。あの悔しさは忘れない。

 去年の夏の全国少年サッカー選手権決勝戦、後半に2点返されて追いつかれた。引き分けてしまうと、バルサミコスFCは相手チームを勝ち点で上回れない。優勝するには勝つしかなかった。

 そもそも、バルサミコスFCは同じ小学校に通う生徒がセレクションも無しに集まっただけの平凡なチームだ。監督やコーチも保護者が務めている。クラブチームやプロの下部組織を相手に全国大会に進めただけでも快挙だった。

 試合終了間際、相手チームのクロスボールを副キャプテンの青山が拾って競り合いながら前に運んだ。最後はゴール前に飛び込んだ柏田がボレーシュートを決めた。

 その瞬間を、松谷はソファーに寝転びながらネット配信で見ていた。全国大会のために現地入りしてから、タバコを吸っているところを大会役員に見つかって強制帰宅処分になり、メンバー登録を抹消されたからだ。

 2学期の始業式で、青山と柏田は校長から改めて金メダルを授与され、全校生徒から祝福され、女子から尊敬の眼差しを受けていた。松谷は叫びたかった。そもそも全国大会に進めたのは自分のおかげだと。県大会の決勝ゴールは自分の技ありフリーキックだった。キャプテンマークを巻いていたのも、司令塔として攻めと守りの要を担っていたのも自分だった。12年間で一番悔しい夏だった。


 真新しい詰襟の制服を壁に掛けた。隣には欧州強豪チームのユニフォームが掛かっている。ただし、量販店で購入したレプリカだ。もちろん、3年連続でバロンドール賞を獲得したバルビーノ選手のサインは入っていない。あの悔しさは忘れない。

 バルビーノ選手が所属するチームの公式戦が東京で行われる日、青山と柏田は4時間目が終わると浮き足立った様子で早退した。バルビーノ選手が全国大会で優勝したバルサミコスFCを試合に招待してくれたのだ。所属している5年生と6年生の18人を乗せたバスを教室の窓から見送ると、数人の男子が欧州リーグのレベルの高さやバルビーノ選手のすごさをサッカーを知らない女子に得意げに語っていた。

 送られてきた招待状に松谷の名前はなかった。全国大会の登録メンバーのみが招待されたからだ。青山たちがサイン入りユニフォームをもらったことや、選手たちと一緒にピッチでボール回しをしたことはテレビのニュース番組で知った。12年間で一番悔しい冬だった。


 他の小学校の出身者に舐められないように、まだ新しい通学鞄を押し潰して薄くする。両手に思い切り力を入れていると、肘が机に当たって大きな封筒が落ちた。中に入っていたのは、この1年間に学校で撮った写真だった。

 遠足のときの写真は、松谷と青山が肩を組んでいるものだ。周りには他の男子が10人ほど映っている。だけど、リレー大会以降の写真に青山の姿はない。松谷のそばに写っているのは、遠足でその他大勢としてピースサインを作っていた重森や鎌田だ。

 青山とは1年生のときに同じクラスになってから、ずっとつるんできた。サッカーという共通の趣味もあるので、夏休みに互いの家に泊まるのが恒例行事だった。体育係を一緒にやるのが毎学期の約束だった。

 異変があったのは、ゴールデンウィークのサッカー合宿だ。最終日の夜、青山に誘われた。

「別棟の屋上でフットサルやってるらしい。大学生と一緒にプレーさせてもらえたら勉強になる。練習メニューなんかも教えてもらえるかもしれない。見に行ってみようぜ」

「嘘だろ? 俺たちサッカー漬けの3日間だったんだぞ。少しは遊べ。面白いもの持って来たんだ」

 松谷はバッグの奥底からDVDを取り出した。新古書店で万引きしたアダルト作品だった。

「すげーだろっ! みんなで見ようぜ!」

 パッケージには手ブラ姿の巨乳のお姉さんが写っている。みんなが群がってくる。それでも青山の意思は変わらないみたいだ。

「俺はサッカーの方が好きだ」

 青山はジャージに着替えてシューズを持って部屋を出て行った。

「俺もそういうのは遠慮しておく」

 柏田が慌てて追いかけていった。松谷は二人を「サッカー馬鹿と優等生」と笑った。

 たぶんそのときが転機だった。

 別棟の屋上でフットサルをしていたのは、青山が期待していたような本格派のチームではなく、女子大生のスポーツサークルだったのだ。翌朝、帰りのバスに乗り込む前に青山と柏田は女子大生たちと何枚も写真を撮っていた。その様子を見て松谷の心には違和感の嵐が吹き荒れた。

 たった一度フットサルをしただけなのに仲が良すぎる。

 二人が部屋に戻って来たのは何時間も経過した夜中だった。そのときの様子が明らかに奇妙だった。青山はどこか放心したような、それでいて自信に満ちた顔をしていた。柏田はそれまで見たこともないような、共犯者特有の密やかな笑みを青山と交わしていた。

 もしかすると、青山と柏田は屋上で彼女たちに混じってボールを蹴り、そのまま彼女たちの部屋に招き入れられたのかもしれない。冷房の効いた部屋で、松谷が見せたパッケージのモデルよりもずっと優しい本物の女性たちに囲まれ、お菓子やジュースを振る舞われ、柔らかいソファーで夢のような時間を過ごしたのかもしれない。

 松谷が暗い部屋で、重森たちと画質の悪いDVDに釘付けになり、安っぽい興奮を共有していたその時、青山と柏田は本物の女性たちの輪の中にいたのだろうか。だからこそ、あの夜を境に、二人の間には強固な絆が生まれたのだろうか。

 帰りのバスで青山は、座席こそ松谷の隣に陣取ったが、通路を挟んで同じ列に座った柏田と話すことが多かった。学校でも柏田とつるむことの方が多くなっていった。

 松谷は6年1組の男子を仕切っていたが、ナンバー2の青山が柏田と独自行動をとるようになったので、求心力は低下した。体育や図工の時間にコンビやトリオを作る時には、使い走り的存在だった重森や鎌田を相棒にしなければならなくなってしまった。

 喧嘩をしたわけではない。絶交をしたわけではない。用もないのに電話をかけることをためらうようにはなったけれど、クラブチームに入るために大阪の中学校に進学する青山が住む親戚の家の住所だって教えてもらった。サッカーをしていれば、いつか必ず会える。プロになって同じチームでまたコンビを組めばいい。青山がボールを欲しがる位置を知っているのは自分だけだ。青山に一番いいパスを出せるのは自分だけだ。いつか同級生コンビという名でスポーツ新聞の一面を飾る。それが今の夢だ。だからこそ練習に行く。松谷はスパイクを手にして部屋を出た。

 この春に中学を卒業した兄がサッカー部のキャプテンだったから、他の新入生より一足先に練習に参加できる手筈になっていた。


 初日の練習が終わると、キャプテンの中里に呼ばれた。

「なかなかやるじゃないか。さすが松谷先輩の弟だ。春の大会からスタメン起用もあるかもな」

「そうっすね」

 当たり前だという風に返事をすると松谷は心の中で誓った。中里のポジションであるトップ下を奪い取ってやると。あの悔しさは忘れない。


 去年の夏、松谷は重森と鎌田を引き連れて花火大会に行った。目的は花火を見ることではなく、6年3組の亜佐美と奈津子に会うことだった。1組では舞美が一番の美人だが、3組の亜佐美と奈津子も同じくらいの美人だ。松谷の中では、この3人が美少女ランキングの学年トップ3を形成していた。

 人波をかき分けて亜佐美と奈津子を探した。カキ氷もリンゴ飴も食べずに亜佐美と奈津子を探した。午後8時半を過ぎて打ち上げ花火のピークを越えた頃、やっと2人と出会えた。チョコバナナを買いに行かせた重森を噴水池で待っているとき、浴衣を着た亜佐美と奈津子が松谷に気づいて声を掛けてきたのだ。

「マックンたち今日も来てたんだ? 昨日も来たんじゃないの?」

「昨日?」

 意味がわからなかった。

「舞美は1日目に1組の男子と行くって言ってたよ。一緒だったんでしょ?」

「いや……。こいつの自転車がパンクして俺たちは間に合わなかったんだ」

 隣にいる鎌田の背中を強く叩いた。舞美たちには誘われてない。一緒に行った男子というのは青山と柏田のことだろう。柏田は女子からの人気が高いのだ。もう一度、鎌田の背中を叩いた。先程よりも力を込めて。鎌田は前につんのめった。

「そんなにぶったらかわいそうだよ。これあげるから許してあげなよ」

 亜佐美は手に持っていたカキ氷を差し出した。既に半分以上がなくなっている食べかけだ。

「わかったよ……。ちょうど喉渇いてたんだ。サンキュー、亜佐美」

 イチゴ味のカキ氷を受け取ると、松谷はプラスチック製のスプーンで氷をすくった。冷たさや甘さを味わうことよりも、スプーンについているはずの亜佐美の唾液を残らず吸い取ることを意識した。もちろん、悟られないように自然な仕草でだ。

 いつの間にか亜佐美と奈津子は松谷の隣に座っていた。亜佐美の白い肌は夜の暗さの中でも、屋台や街灯からの光を綺麗に反射している。奈津子の長い髪は夜風で揺れている。

「腹減ったな。たこ焼きでも食うか」

 財布から千円札を取り出して鎌田に渡した。亜佐美たちの雰囲気から察すると、邪魔者がいない間に必ず進展があるはずだ。仮になかったとしても、たこ焼きを亜佐美と奈津子の口まで運んで食べさせてあげることによって進展させる。松谷は財布をしまうふりをして肘を亜佐美の脇腹に触れさせた。

 可能性が高いのは、カキ氷をくれた亜佐美か。それとも、子供会の打ち合わせで自宅を何度も訪れたことがある奈津子か。松谷は悩んだ。何気ない会話で2人の様子を探りながら頭をフル回転させた。

 近づいてくる人影があった。重森か鎌田が戻ってきたのだと思った。しかし、違った。

 亜佐美は立ち上がると、松谷よりも背がかなり高いその男の腕に飛びついた。

「りっくん。もう待ちくたびれたよ。何やってたの」

「部活の友達と話し込んじゃってさ」

「マックンに紹介しておくね。いとこのりっくん。中2でサッカー部だよ」

 りっくんと呼ばれている男は、松谷に手で軽く挨拶しただけで、すぐに亜佐美に視線を戻した。

「俺のカキ氷どうした? まさか食っちゃったのか?」

「私たちは一口も食べてないよ。でも、マックンにあげちゃった」

「同じことだろ」

 男は亜佐美の頬をつねった。

「帰りにコンビニでアイス買えばいいじゃん。もちろん私と奈津子の分もね」

 奈津子は男の空いている方の腕に飛びついた。美少女を両腕にぶら下げた男の表情は、どこか誇らしげに見えた。

 亜佐美たちが行ってしまうと、松谷はカキ氷の容器を握りつぶして地面に叩き捨てた。イチゴのシロップの甘さは、亜佐美の唇の甘さように感じられた。溶けかかった氷のシャリシャリした食感は、秘密の会話のように思えた。しかし、その甘ったるい氷が、実は汗臭い中学生の残りカスだったと知った瞬間、喉の奥でイチゴ味が鉄の錆のような味に変わっていた。

 重森と鎌田が戻ってきた。チョコバナナとたこ焼きを一気食いする。凍ったバナナがこめかみを刺激する。チョコレートのどぎつい甘さと、たこ焼きのソースが口の中で混ざり合い、吐瀉物のような味がする。頭の痛さと胸焼けに腹が立ったから重森の尻を蹴り上げ、鎌田の肩を殴った。


 中里に会うのは、あれ以来だ。松谷に会ったことなど全く覚えていないみたいだ。あのとき松谷の顔さえ見なかったのかもしれない。名前を気にするほどの興味すら湧かなかったのかもしれない。

「自主練するけど来るか? 5キロのランニング。新入生にはまだ厳しいかもしれないけどな」

「そんなことないっすよ」

「やる気あるな。夜7時にスクエア公園に集合だ」

 中里と2人きりで走った。ショッピングモールとマンションを囲むように走っている大通りの周回コースを3周した。

「残り500メーター。次は右に曲がるぞ」

 中里の言葉で松谷は最後の力を振り絞った。強がったけれど、これほど速いペースで5キロのランニングをするのは未知の世界だった。走りきれたことと中里に見下されずに済んだことにほっとした。

 狭い路地に入ると街灯の数が減った。一戸建てやアパートに挟まれた道を走っていくと、古びた薬局の前で中里はスピードを落とした。

「ちょっとストップ」

 中里は息を切らせながら数枚の硬貨を店の前に置いてある自動販売機に投入した。売っている商品はジュースではなく、コンドームだった。

「ここ、ばら売りしてるから便利なんだ。覚えておいて損はないぞ」

 中里は4枚のコンドームを大切そうにウエストポーチにしまった。

「おまえも買っていくか? 練習に付き合ってくれたお礼に奢ってやるよ」

「あざーっす! ちょうどなくなったとこだったんすよ」

「せっかくのチャンスに、これがなくて我慢するのは辛いもんな」

 表情で嘘が見破られないように、できるだけ暗がりに立った。本当は使ったことはもちろん、買ったことすらなかった。

 大通りに引き返してランニングは終了した。公園の水道で顔を洗ってから帰途に着く。

「中里先輩の家ってどの辺なんすか?」

「3丁目だよ。郵便局の近くだ」

「方向、逆じゃないすか?」

 1丁目に住んでいる松谷と同じ道を歩いていた。

「いいんだよ、今日は。いとこの家に泊まるから」

 いとこの家というのは、つまり亜佐美の家のことか。泊まるということは、つまり亜佐美と一夜を過ごすということか。一夜を過ごすということは、つまり亜佐美と……。それ以上は考えたくなかった。あまりにも実現可能性の高い想像だからだ。

 先輩を見送るという理由をつけて中里と最後まで歩いた。中里が入っていったのは、やはり亜佐美の家だった。

 早くその場を立ち去りたくて、松谷は走った。ランニングの後だったけれど走った。走っているうちに冷静になれた。亜佐美の両親がいる家で何かが起こるわけがないと。

 当たり前の常識に気づくと、急に疲労感が襲ってきた。団地の一角にあるベンチに座った。自動販売機でジュースを買って喉を潤した。炭酸飲料の刺激で脳が活性化すると、亜佐美の家の光景が蘇った。庭先が妙にすっきりしていたような気がした。どうしても気になった。

 亜佐美の家の前に戻った。違和感は正しかった。駐車場に車がなかった。代わりに自転車が置いてあった。それは奈津子の自転車だった。松谷は悟った。亜佐美の両親は車で出かけた。あえて駐車場のど真ん中に止めているということは、今夜は両親が乗っていった車が戻ってくることはない。奈津子が泊まりに来ている家に中里も泊まる。

 全てに合点がいくと、松谷は自宅に向かって走った。息苦しいのは走っているからか、それとも亜佐美の家の中で起きることのせいか。込み上げてくる不快な気持ちに押し潰されないためには、とにかく今は走るしかなった。




 松谷はオレンジ色のスパイクを履くことに決めた。中学校の校庭ではサッカー部だけでなく、ソフトボール部や陸上部やテニス部の女子も練習している。目立てば注目を集められる。

 近くのショッピングモールには売っていなかった。重森を引き連れて自転車でターミナル駅まで行った。西口のショッピングビルには、サッカー専門ショップがある。

「マックン、俺は本屋に行ってきていいかな?」

「ああ。行って来いよ。2階のエスカレーター前で待ち合わせだ」

 スパイクを選ぶときに、サッカー経験がない重森がいても邪魔なだけだ。1人でサッカーショップへ入った。

 店内はすいていた。数人の高校生がいるだけだった。店の奥へ歩いていく。シャツや靴下の売り場を過ぎて、スパイクやランニングシューズが並ぶ棚の前に着いた。そこで出会った。スパイクの靴紐を熱心に選んでいる柏田に。

「久しぶりじゃねーか」

「ああ、マックン……」

 柏田に会うのは卒業式以来だ。先輩からは入部予定者を知っていれば練習に連れて来いと言われていたが、柏田には声を掛けなかった。あの悔しさは忘れない。


 卒業式は生憎の雨だった。晴れていれば卒業生は式の後、在校生に見送られながら校舎の前を並んで歩いて校門の前で大団円となるはずだった。しかし、雨が降っていたので校舎の中を歩いてから体育館で恩師や仲間との最後の別れを惜しむことになった。

 松谷は体育館に着くなり、担任だった千夏の元へと急いだ。思えば、重森や鎌田をいじめて叱られたこともあった。国語の授業中にふざけてばかりいて頬を叩かれたこともあった。だけど、通学中に民家のガラスを割ってしまったときは一緒に謝ってくれたし、強制帰宅処分で全国大会に出られなかったときには電話をくれた。運動会の時には、学校で一番大きい応援旗を作りたいという松谷の希望を叶えるために、休日を返上して都内の工場まで足を運んでくれた。どうしても感謝の気持ちを伝えたかった。

 まだ20代半ばの千夏は6年生の担任の中で一番人気だった。男子だけでなく、親身になって話を聞いてくれるということで女子からも支持を集めていた。松谷が駆けつけた時には既に数人の生徒に囲まれていた。

 それでも、千夏は松谷に一番多くの時間を割いて別れを惜しんでくれた。

「マックンがプロのサッカー選手になったら、サインちょうだいよね」

「おう。1枚500円でな」

「何言ってるのよぉ。ただで100枚ぐらいもらうからね」

 千夏は松谷の頭をグシャグシャになるまで撫でてくれた。

 30分ほど経つと、卒業生の姿も徐々に少なくなっていった。松谷も名残惜しいが千夏の元から離れた。あまり長くいると他の生徒に冷やかされる危険もあった。

 松谷が重森や鎌田を引き連れて帰ろうとすると、柏田が千夏の元へと歩んでいった。柏田は体育館に着くなり女子に囲まれて写真撮影や寄せ書きなどを求められていたために出遅れていたのだ。

 千夏は柏田と1対1で話していた。その仕草や表情を見る限り、他の卒業生にするのと似たような会話が繰り広げられているのだと思えた。

 出口付近で千夏と柏田を見ていると、教頭が近づいてきた。

「別れるのは寂しいだろうけど、そろそろ終わりだ。いつでも遊びに来なさい」

 この後すぐに在校生が片付けをするらしく、他の教師や卒業生も出口に向かって来た。

 千夏と柏田はそれでも話し込んでいた。ゆっくりと出口に向かって歩みを進めているけれど、人の流れの最後尾を維持したままだ。

 松谷は体育館から出ると、反対側から再び体育館に入って物陰に隠れた。出口付近にいる千夏と柏田は、靴に履き替えている人たちを待ちながら尚も熱心に話をしていた。いつしか出口付近にいるのは、千夏と柏田以外には、柏田に何かを伝えたいのであろう数人の女子だけになった。そのとき、千夏は柏田の正面から首に腕を回した。しばらく離れなかった。教師が生徒との別れを惜しむハグというには時間が長すぎるような気がした。

 柏田には両親がいないから、千夏が柏田のことを他の生徒よりも気遣っていたことは知っている。とはいえ、そのような事情を差し引いても、松谷の心に棘が刺さった。


「俺がスパイク選び終わるまで待っててくれ。一緒に帰ろうぜ。急いでるなら、重森は置いていってもいいしな」

 柏田には、松谷の地位を脅かすようなリーダーシップや攻撃性はない。しかし、重森や鎌田のように気軽に使い走りにできるほど格下でもない。だから、今まではナンバー3やナンバー4として扱ってきた。

 青山がいない今、少々の物足りなさを感じるが柏田をナンバー2にしておくしかない。重森や鎌田みたいな雑魚を引き連れていても他の小学校出身者に舐められるだけだ。とりあえず柏田とタッグを組んでおけば部活内での地位は確保できるはずだ。サッカーの実力はそれなりにあるからだ。

「今日は車で来たんだ……。だから、悪いけど先に行く」

「そうなのか。車で来たならしょうがないな」

 納得したという返事をしてから、黄色の靴紐を持ってレジに向かう柏田の背中を睨みつけた。祖父母と同居している柏田の家で車を運転するのは大学生の姉だけだ。きっと姉の里穂に連れてきてもらったのだ。サッカーの練習を手伝いに来ることもあったから、松谷もよく知っている人物だ。ぱっちりした目と惚けた口元が印象的な柔和な顔に内巻きのロングヘアが似合っていて、会うだけでドキドキしてしまう魅力的な女性だ。

 里穂と柏田の姉弟は仲がいい。二人が遊園地で手を繋いでいたと女子から聞いたことがある。柏田を問い詰めて、6年生になってからも一緒に風呂に入っていると白状させたこともある。つまり、柏田は里穂の胸や割れ目を見たことがあるのは確実で、もしかすると触らせてもらったことさえあるのかもしれない。姉がいない松谷にとって、柏田の姉弟関係は永遠の憧れだ。羨ましさで心が爆発しそうになって寝つけなかった夜は何度もある。それでも松谷は柏田にもう一度声を掛けた。

「俺はもう部活に出てるんだ。練習内容とか教えてやるよ」

「今日は急いでるから……。明日、学校で教えて」

 柏田は店を出て行った。入れ違いで、重森が慌てた様子で店に入ってきた。

「マックン。本屋で千夏先生に会った。しかもビッグニュース。もう先生じゃないんだってさ。心理学の専門家になるために大学院に入ったんだって」

「なんだって?」

 千夏に会えると聞いて店を飛び出した。エスカレーターを1段飛ばしで6階まで駆け上がった。立ち読み客で溢れる本屋の中に飛び込んでいった。

「おい、いねーじゃねーか」

「さっきまで本当にいたんだよ。駐車券の時間がどうのこうのっていってたからもう帰ったのかも」

「それを早く言えよ、バカ。行くぞ! 走れ!」

 松谷はエスカレーターを1段飛ばしで駆け下りた。1階に到着すると身軽に方向転換し、カップルや女子高生の隙間を縫って外に出た。

 地下駐車場の出入り口はひとつだけだ。そこで待っていれば必ず千夏の車が現れるはずだ。遅れてやってきた重森に自転車を取りにいかせた。

 重森が松谷の自転車を持ってきた後、自分の自転車を持ってくるのとほぼ同時に、黄色の軽自動車が駐車場から出てきた。自転車に跨ったまま運転席を見る。眼鏡を掛けてマスクをしていたが、卒業式の日以来2週間ぶりに見る千夏だった。

 手を振ったが気づいてもらえなかった。仕方がないので追いかけることにした。スタートダッシュが大切だから立ち漕ぎでペダルに力を入れようとした。その瞬間、後部座席が視界に入った。そこには外から身を隠すように柏田が横たわっていた。

「どうなってんだよ!」

 足の裏で重森の自転車を思い切り蹴り飛ばした。

「ふざけんなよ!」

 もう一度、重森の自転車を蹴り飛ばした。よろけた重森は自転車ごと植え込みに倒れた。千夏の車は大通りをゆっくり右折していく。松谷は我を忘れて叫んでいた。

「ケバブーッ!」

 喉が焼けるような絶叫。驚いた通行人が立ち止まった。交通整理をしていた警備員が近づいてくる。

 明日からは中学生。新たな門出は笑顔で迎えたい。


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