カミちゃんのカミカクシ
カミキリムシの死体が無かった。イチジクの切り株の上に置いてたはずのカミキリムシの死体がいなくなっていた。それは小学生の時だった。飼っていたカミキリムシが死んだので埋めようと庭に穴を掘っていたら、電話が鳴ったので取りに行ったらセールス電話で「今お母さんいません」とかなんとかいって庭に戻ったら、レンガの上に置いてたはずのカミキリムシの死体がなくなっていた。跡形もなく消えてしまっていたのだ。どこかにある筈だと思って庭中を必死に探したけども、死体の欠片すらも見つけられず、途方に暮れたという事があった。
実はカミキリムシはひっくり返って死んだふりをしていただけで私を謀って逃げ出したのか、あるいはカラスかなんかが見つけて咥えて飛び逃げて行ったのかはわからないが、とにかくあんなに可愛がっていたカミちゃんがこの宇宙から忽然と消えてしまったように感じられて、神隠しにでもあったような途方もない喪失感に突き落とされた私であった。せめてカミちゃんがカラスに咥えられ連れ去られ必死に追い縋る事ができれば、カミちゃんがアリに集られて蝕まれ分解される様を苦汁をもって見守る事ができれば、こんな気持ちにはならなかった筈だが、カミちゃんは何の脈絡もなく瞬く間もなく唐突に消えてしまったのだ。湾曲した触覚も、たくましい顎も、黒く美しい翅に浮かぶ白の斑点も、悩ましい複眼も、全てが影も形も無く消えてしまった。まるで最初からカミちゃんが存在していなかったようにすら感じられた。喪失感……いや喪失と呼ぶにはあまりにも信じがたい、喪失そのものの喪失とでも呼ぶべきどうにもならない事態に私はただただ茫然と項垂れる事しかできなかった。ダジャレになってしまうが、カミちゃんはカミカクシにあってしまったのだ。
そういうわけでその事件以来、私はカミちゃんのように消えたいと思うようになった。この世界に一切の痕跡を残さず素粒子レベルで揮発してしまいたいという欲望に囚われるようになっていった。別にペシミズムという奴でもない。死にたいとか生きるのが辛いとかそういうのとも違うし、そんなことはどうでもいい。どうでもよすぎて反吐がでる。私はただただ何の意味も無く分子レベルで消失してしまいたい、できるなら私と言う存在を最初からなかったことにしてしまいたい、そういうマゾヒズムだかサディズムだかよくわからないネジくれた欲望がずっと私の中で渦巻いていて、ふとした瞬間に思い出したように思い出すのだった。
そもそもがカミちゃん事件前から私は「私」と言う概念が嫌いで仕方なかった。どうして世界は広いのに私の視点はこんなにも狭量で自分勝手で、自己中心的なのだろう。世界にとってどうでもいいような事に囚われ全く無意味に生を貪り、矮小な感覚に囚われてばかりいる。そのくせ自分が世界のすべてだと、自分が世界で一番偉くて大事だと、心の底では思っている。そんなわけないのに。そういうのは馬鹿だし、美しくない。一方でカミちゃんは本当に信じられないほど美しくこの宇宙から消失してしまった。カミカクシにあってしまった。それはとてもすごいことだと私は思った。私もカミカクシにあいたくてしかたがなかった。
しかしこの気持ちはニヒリズムという奴なのかな。ニーチェさんにこんな話をしたらけっとばされて、あの病的に力強い目で見下されちゃったりするのだろうか。それはそれで悪くないけれど、矛盾しているようだけども、私はこの消えたいという気持ち自体は心地よいと思っているし、生まれて来なければ良かったなんて事を言っているわけではないのである。生まれて来なければ消えたいと思う事すらもできないのだから。だからお母さんアリガトウ。お父さんアリガトウ。空を見上げれば消失という概念となったカミちゃんが脚と翅を広げ、黒地に白の斑点を湛え、雲の合間を縫っていく。朝も昼も夜も。カミちゃんは永遠に消え続けていた。
しかし、しかし、どうした事でしょう。庭のイチジクの切り株に止まっているのは、どこからどう見ても在りし日のカミちゃんではありませんか。記憶の中のカミちゃんと寸分たがわぬオスのゴマダラカミキリムシではありませんか。……いや、そんな訳がない。ゴマダラカミキリムシがそんな何十年も長生きする訳がない。触覚のサイズや斑点を比較してみれば、彼がカミちゃんではない事はすぐにでも明らかになるだろう。……しかし、だがしかし、私の記憶の中のカミちゃんは長い年月のうちにボヤけてしまっており、別カミキリであるかどうか精微な比較検討を為すことは叶うべくもなく、直感的にはやはり彼こそが正真正銘カミちゃんに違いなかったのである。カミちゃん、カミちゃんだ。カミちゃんは消えていなかった。少なくとも私は、そういうふうに腑に落ちてしまったのだ。
やがてカミちゃんは羽を広げ、震わせ、庭を飛び出し、水路のフェンスの方へと飛び去って行く。やっぱりカミちゃんは消えてなんていなかった。ずっとこの世界に生きていたんだ。そして、これから交尾するか交尾できないかして、食われるか凍えるか飢えるかしてひっそりと死ぬんだろう。私と大して変わらないじゃないですか。だからやっぱり、私もこの世界から消える事なんてできないんでしょう。死ぬ事しか出来ないんでしょう。悲しいけれどそれが本当の事なんでしょう。そういうことを、私はカミちゃんの翅の黒に、白の斑点にまざまざと突き付けられたのでした。