第五章19 嘆きの河
ズゥウンッ!
氷塊は地面を押し潰し、激しい振動が周囲を襲った。
「う、うわわ……ッ!?」
まるで旗のごとく不規則に波打つ地面に翻弄され、何度もバランスを崩しかける。
それに追い打ちをかけるように、荒れ狂う冷気の嵐が周囲を埋め尽くした。
私は、ヒビ割れた結界に魔力を送り込み、その嵐を耐える。
亀裂が入った場所から、冷気が流れ込んでくるが……思いの外苦痛では無かった。いや、むしろ心地よいとすら思えてきた。
考えてみれば、当たり前かもしれない。
先程まで、ヒビ割れていた箇所から流れ込んできていたのは、高熱の炎だった。
それを一身に受けていたお陰で、今は全身軽度の火傷状態なのだ。
火照った全身が冷気で冷やされ、苦痛が徐々に和らいでいく。
(まあ、欲を言えばそよ風くらいの威力にして欲しかったけど……!)
今にも崩れそうなほどガタガタと軋む結界を見て、私は小さくため息をついた。
テレサ一人を相手にするには、いささか威力が高すぎる攻撃だ。
もちろん、このくらいしないと勝てる相手ではないことは、身を持って知っているが……
氷塊の墜落地点から一〇〇メートル以上も離れているというのに、墜落の余波だけで、圧倒的な防御力を誇る複合魔術結界を軋ませる、桁外れの大魔術。
なんというか……レイシアさんを敵に回すことだけは、絶対にしたくない。
このとき私は、心の底からそう思った。
やがて、辺りを埋め尽くしていた冷気の嵐がぴたりと止み、地面の震動も止まる。
魔術障壁を解除して、目前に広がる光景を目の当たりにした瞬間、私は言葉を失った。
先刻までの煮えたぎる地面が、一転。
テレサの作ったマグマごと地面を凍り尽くして、一面を氷に塗り替えていた。
その姿はまるで――神話に聞く地獄の最下層、冥府を流れる嘆きの河。
その分厚い氷の上には、当然のようにテレサの姿は無かった。
「死んだ……んですかね?」
私の呆けたような呟きも、氷に閉ざされた世界に吸い込まれてゆく。
これほどの威力を誇る魔術を喰らって、生きていられるはずがない。
氷の下に生き埋めにされたか、凍気で全身が凍り付いて瞬時に絶命したか、あるいは――
「……いや、生きている」
淡々としたレイシアの台詞に、私は思わず彼女の方を見る。
鷹のように鋭い琥珀色の瞳は、真っ直ぐに遠くの一点を注視していた。
釣られて私もその方向を見るが――どこまでも氷の地面が広がるだけで、テレサらしき人影は見えない。
「え、どこにいるんですか?」
「馬鹿者。肉眼で見える距離ではない。魔術的な視覚で見て、遠くの方で微かにテレサの魔力が揺らいだのだ。最も、今の貴様ではまだ魔術的な視覚は扱えないだろうがな」
「す、すいません……」
「ふん、気にするな」
鼻を鳴らし、レイシアはそっぽを向く。
「貴様が魔術的な視覚を扱えるようになりたいというなら、その……今度余が教えてやっても構わん」
「本当ですか! ありがとうございます!」
「ふんっ」
テレサはまた鼻を鳴らす。
だが、その頬はほんのりと赤くなっていた。
「それよりも、奴のところへ行くぞ。先程の衝撃波で相当遠くまで飛ばされ、おまけに魔力も明らかに弱まっている。生きていることに変わりはないだろうが、まあ虫の息だろうな。奴が本音を吐く前にくたばったら、寝覚めが悪い」
「そ、そうですね」
私とレイシアは、テレサのいるであろう方向へ歩き出した。
レイシアはどう思っているのかわからないが、私は密かに思っていることがある。
テレサの真意を知りたいのは事実。
だがそれより、彼女の容態が心配だった。
今、レイシアは確かに「テレサは虫の息だ」と言った。
それは即ち、今は生きているが、この後どうなるかわからないわけで――
(お願い、生きていて!)
冷たい氷の上を歩みながら、私は密かに天へ祈った。




