恋する獣
開け放たれた窓の外から、きゃあっ!と黄色い声が上がり、ラナは首を傾げた。
「今日は一際賑やかね?」
ラナが向かいの席で一心に書き物をしていたルークに訊ねると、大きな黒縁の眼鏡の位置を調節して、彼は顔を上げた。
それから窓の向こうを見て、また机に顔を戻す。
「ハーヴィーが魔獣を洗ってるんでしょう。水も滴るなんとやら。令嬢方も、あれを見るなら魔獣保護にもっと寄付金寄せてくれればいいものを」
「……今度からお金でも取るとか?」
「普通に上役に叱られますよ」
ルークはそう言うと、書き物に戻る。
しばらく彼を眺めていたが、もうこちらには構ってくれないようなので、ラナは仕方なく自分も書類仕事に戻ることにした。新しく保護した魔獣の種族・特性。性別・個別の性格のようなものも書けるだけ書いておく。
ここで嘘偽りなく、そしてアピール出来るポイントは出来るだけアピールして書くことによって、この後保護された魔獣の先行きが決まることも多いので、重要な仕事だ。
魔獣と魔物は違う。きちんと保護して、清潔な寝床や食事を与え、生態に沿った暮らしをさせてあげれば、人を襲うことなどまずないと言ってもいい。
各地で報告される魔獣の被害は、大抵の場合が人が彼らの領分を侵した所為で起こる悲劇だ。
しばし没頭する間、部屋には静寂が満ちる。
窓からは賑やかな声援が絶え間なく聞こえ、姦しいBGMがどこか微笑ましい。
「……今日の分はこれで全部か……あ、グードルの世話って今誰のシフト?」
やがてカルテを書き終えたラナが顔を上げると、顔をあげないままルークが言った。
「ハーヴィーですよ」
「じゃあそのまま任せておいて大丈夫か……午後に新しい子がまた来ることになってるから、部屋掃除してくるわね」
「了解です……副室長、”新しい子”といえば、うちに新人来るって話どうなりました?」
ルークが書類から顔を上げて訊ねてきたので、ラナも彼の方を見遣った。
「その話は、週初めの打ち合わせでちゃんと報告したでしょうー……次の週明けに初出勤予定!すごいわよ~アカデミーの首席卒業生なんだって」
「ははぁ……それはそれは。期待の大型新人ってやつですね、でもそんな人が何故またこんな閑職へ?」
「言い方悪いわよ、ルーク!うちは国王陛下肝いりの部所!騎士団や魔術士団の覚えも目出度い、エリート部所なんだから!」
「の、割りにパッとしませんよね……」
「そんなことないわよ!その新人さんだって、志望動機は魔獣のことが好きだから、だもの!」
ふふん、とラナが笑うと、ルークは憮然とした表情を浮かべて顔を下げる。また書き物に戻ってしまった彼を見て、ラナは苦笑を浮かべた。
彼女が副室長を務める魔獣保護室は、その名の通り保護された魔獣を一時的に預かる部所だ。
騎士団や魔術師団に引き取ってもらうこともあるし、同じ種族の住む森などに自然に帰れるようにサポートすることもある。
いずれにせよ、魔獣一体一体にかかる手間は膨大ながら、その一体と長く付き合うということがない。
その為、魔獣が好きな者が望む就職先としては微妙な扱いを受けていて、新人職員が来ることは滅多にないのだ。
「ハーヴィー以来ですね、新人」
「そうね、仲良くしてあげてね」
「僕が?冗談でしょう」
ルークは顔も上げずにハハッと鼻で笑った。
それからラナは、厩舎を改造して作られた一時預かり用の部屋に来て、掃除をしていた。檻と言ってしまえばそうなのだが、ここに魔獣を預かるのは、彼らの自由を奪う為ではない。
人間側の気休めかもしれないが、檻とは呼びたくなくて彼女は部屋と呼んでいた。
天気がよかったので天日干しにしておいた乾いた草をどっさりと盛り、桶に水を張る。午後からこちらに来る魔獣は、何度も預かってきた種族なのである程度好む環境も分かっている為、準備も捗って助かった。
換気をして振り返って改めて見ると、干し草はもう少し日陰に置いておいた方が心地よく過ごせるだろうか?としゃがみこんでわさわさと草の位置を変えた。一時的であろうとなんであろうと、寝床が快適な方が嬉しいのは魔獣も人も変わらないだろう。
「……これでよし!」
ラナが満足して溜息をつくと、背後からぎゅっ!と抱きしめられて眉を寄せる。
「ハーヴィー?気配を消さなかったのは褒めてあげるけど、人に急に抱き着いたらダメって何度も言ってるでしょ!」
振り向いて叱ると、彼女を抱きしめた背の高い青年がしゅん、と頭垂れた。彼女の頭に頬擦りして許しを請う。
「ごめん、ラナ。ラナを見ると抱きしめたくてたまらないんだ」
彼は先程話に出ていた、ハーヴィー。彼はびっくりするような美青年だ。
伝説上の生き物とされているエルフだと言われても驚かないほどの美貌といい、背の高さや、適度に筋肉のついたしなやかな体といい、王城中の女性の憧れの的だ。
その為、先程のように外で魔獣の世話をしている時などには観客が集まり、黄色い声が飛び交うことも多い。
「発情期の獣じゃないんだから、我慢なさい」
ぐぐぐ、とハーヴィーの顔を押しのけて、ラナは立ち上がる。
傍に置いておいたバインダーを開き、午後から来る個体の前情報をもう一度確認し始めた。その腰を抱いて、ハーヴィーは再度彼女を腕の中に閉じ込める。
「ハーヴィー~~??」
「あいつらの風呂終わったよ。俺もラナに風呂に入れて欲しい」
「発情期の獣じゃなければ、次は赤ちゃんなの?自分で入りなさい」
「だってラナに洗ってもらうの、すごく気持ちいい……」
すりすりと懐かれて、ラナの頬はだんだんと紅潮してくる。
「その誤解を招く言い方、よそで言っちゃ絶対にダメだからね!」
キッ!とラナがハーヴィーを睨むと、彼女の関心が自分に向いたことが嬉しくて、彼はにっこりと微笑んだ。
「うん、言わないから、洗って?」
「……髪だけならね!」
確信犯の笑顔に、うちに来たばかりのころは可愛かったのに…とラナは頭を抱えつつ、了承するしかなかった。
ハーヴィーはひどい嵐の夜に、ラナが森で見つけて保護した子だった。栄養状態が悪く、発育も悪い所為で年齢よりも小柄だった彼をせっせと世話をしたのはラナ自身だ。
ちなみに最初はその美貌と長い髪ゆえに、女の子を拾ったと勘違いしていたラナである。
実年齢を本人が把握していない為、本来の年齢差は曖昧なままなのだが、ハーヴィーの親愛の表現は、大好きなお姉ちゃんに対するスキンシップにしては、行き過ぎているように周囲からは見えてしまう。
その為、最近彼のことを知った女性などからは苦言を呈されることも多い。
力仕事や雑用ならば資格もいらないし、閑職部所ゆえ人手はいくらあっても困らない、と長身に成長したハーヴィーを職場に連れて来たのだが、失敗だっただろうか、というのがラナの最近の悩みだ。
「ラナ、今日はもう帰る?」
「まだ午前中よ」
「早く帰りたい」
水場でハーヴィーの髪を洗ってやって、副室長室でタオルドライをしてあげていると、彼は椅子に座ったままの姿勢で子供のようにうとうととしながら呟く。
「先に帰っててもいいわよ、あんたは正規職員じゃないんだし」
アルバイト採用枠で雇っているので、時給換算だ。
ハーヴィーの男手はかなり助かるし普段真面目に働いている分、予定にない早退だって他の職員も快く見逃してくれるだろう。
「一人で帰っても意味ないよ、ラナと一緒じゃなきゃ」
いやいや、という風に腰に抱き着かれて、頭が彼女の胸に乗る。
「こら、重い」
「……待ってる」
「はいはい。なるべく早く終わらせるようにするから」
よしよしと頭を撫でると、きらきらと彼の銀髪が輝く。雑に拭いただけなのに美形は髪質も強いな、と思いつつ指で梳くようにしてやると、ハーヴィーがうっとりと彼女の手に委ねた。
「気持ちいい。もっと触って」
「だから言い方に気をつけなさいってば」
むに、と頬を抓っても、ちっとも美しさが損なわれることがないことに、ラナは恐れ慄いた。女の敵め。
翌週。
週初めに新しく配属されてきた職員が来た。
「ミランダ・フィッシャーです。アカデミーで魔獣学を専攻していました。魔獣医の資格と、魔獣栄養学博士の学位を持っています。よろしくお願いします!」
明るい金の長い髪に、きらめくサファイアのような瞳。快活に笑うミランダは、とても可愛らしく人目を惹く。
アカデミー在学中にスキップで単位取得し、空いた時間で資格も取ったという驚くべき才媛だ。
「じゃあしばらくはルークに付いて、色々学んでね」
「はい、副室長」
ラナがミランダをルークに引き合わせながら言うと、彼はぎょっとした。
「副室長!なんで僕なんですか!」
「あなたそろそろ後輩の指導してもいい頃合いでしょう?論文を書く時間は取れるようにするから、ミランダにきちんと教えてあげて」
「こんな立派な経歴の子に教えられることなんてありませんよ!」
ルークががなると、ミランダがラナの前に出た。
「ルーク先輩、私は確かに資格は立派なものを取得していますが、実際に働くのは初めてです、どうそご指導ください!」
ぺこ!と頭を下げるミランダに、ラナは目を丸くした。
経歴だけの頭でっかちが来たら困るな、と思っていたのだが、なかなか謙虚で感じのいい子ではないか。ルークの方もそんな風に頭を下げて頼まれて、更に断るほど悪い人間ではない。
不承不承頷いた。
「僕に教えられることがあればいいんですが」
「よろしくお願いします!」
ぱっ、と顔を上げたミランダが嬉しそうに微笑む。他の職員も、ラナもその光景を微笑ましく眺めていた。
と、
「ラナ。グードルの散歩終わった」
外に通ずる扉を開いて、ハーヴィーが戻ってきた。グードルは馬に似た魔獣で、適度に走らせてあげないとストレスが溜まるのだ。
今この部所で預かっている個体は気性が荒いので、ハーヴィーぐらい力の強い男性でないと騎乗すら難しい。
「ご苦労様。あ、ミランダ。こちらアルバイトのハーヴィーよ」
ハーヴィーを紹介すると、ミランダはぽかん、と彼を見て目を丸くした。彼を最初に見た時にはよくある反応なので、ラナは気にせず話を進める。
「力の強い魔獣の世話をする時は、なるべく彼に手伝ってもらって」
「はい……」
「…………」
ぽぅ、と顔を赤くしてハーヴィーの顔面を見つめるミランダに、彼は無表情で軽く頭を下げる。ちょっぴり人見知りの気があるのだ。
実はラナからすれば、そんな彼がこの上もなく自分に懐いていることに多少優越感を感じてしまうのだが、それは彼女がハーヴィーの家族だからだ。
若く可愛らしい女性とのそれとは全く意味が違う、と意識して、自惚れないように気をつけるのだった。
ミランダが配属されてから一ケ月。
一人増えたところで、当然新人なのだからあまり業務が捗ることはなかった。むしろミランダに説明する時間がかかる分、業務のペースは落ちているといってもいい。
だが、素直でなんでもよく質問し吸収する彼女はどんどん部所に溶け込んでゆき、あっという間に皆の人気者となっていた。
「明るくて社交的な子でいいわね~ルーク、あなたとはどう?」
丁度、副室長室に書類を持ってきたところだったルークに声を掛ける。すると彼は、書類をラナに渡して少し考える仕草をした。
「そうですね……テキパキしてて仕事の早い人です、覚えも早いし」
「うんうん。指導する上で困ってることとかはない?」
「効率重視なので、預かっている魔獣の個体差の把握が遅い……ぐらいですかね」
「なるほど。それは経験を積めば改善されそうかしら」
ラナは頷きながら、質問を重ねる。ルークは更に考え込んだ。
「……通常ならばそうだと思います。でもすみません、僕がまだミランダさんのことを把握出来ているわけではないので、言い切れません」
彼の返答に、ラナは微笑んだ。
「OK。慎重なあなたらしい意見ね。私もその辺りミランダのことを気を付けてみるようにしておくから、引き続き指導係お願いね」
「はぁ……まだやるんですか……てか副室長。そいつ、それでいいんですか?」
ルークに示されて、ラナは苦笑する。
副室長室は扉に正面向いて執務机を置いているので、足元は見えないかもしれない、と油断していたのだ。書類を机に置けるほど近い距離まで来たルークには、ラナの足元に座り込み彼女の膝に頭を乗せて眠るハーヴィーがしっかり見えてしまっていた。
「昨日夜勤で一緒に泊まり込みだったから」
「バイトは夜勤免除なんですから、家に帰らせればいいんじゃないですか?」
ルークはにべもない。ラナは違いない、と頷きつつ眠るハーヴィーの頭を撫でた。
「この子、一人で家にいるのが嫌いなの。こんなに大きくなっても、まだ子供よね」
「え、えー……それマジで言ってます?副室長、それ、立派な成犬ですよ。あんまり油断してると噛みつかれますよぉ……」
「う……そうよね。そろそろ私も子離れしなくちゃダメよね、絵面的に痛いわよね……」
「あーそう取りますか……うん、まぁ、もうお互いで解決してください……失礼します」
遠い目をしたルークがすごすごを部屋を出ていくのを、ラナは見送ってしまった。
なんだか今の言い方だと、ハーヴィーがラナのことを女性として愛しているかのような言い方ではないか。
「ナイナイ」
あっさりと否定して、ラナは先程受け取った書類を開く。
別に卑屈になっているわけでもないのだ。ラナにだって恋人の一人や二人いたし、今でも時折声を掛けられることもある。でも相手はこの神代の美貌を持つハーヴィーである。
外を歩けば若くて美しい令嬢達が黄色い声をあげる超のつく美形、仕事だって何でも器用にこなすしもう一つ二つ資格を取れば正職員として採用も可能だろう。恵まれた体格は乙女が夢見る戦士のそれだし、ちょっと鈍感で無邪気な性格が可愛い。
「……うちの子、非の打ちどころがないわね……」
ふっ、と自慢の笑みを浮かべて、またラナがハーヴィーの銀糸を撫ぜる。
どれほど自惚れで下駄を履かせたとしても、彼がラナを女性として好きになるなんて、あり得ないという結論に至るのだった。
「ハーヴィーさんは、好きな食べ物とかってあります?私料理得意なんです、今度作ってきますよ!」
別のある日。王城の食堂で販売している、テイクアウトの食事を摂っているハーヴィーのところにミランダがやってきた。
お手製の可愛らしい布巾で包んだランチボックス持参だ。当たり前のように隣に座られて、彼は僅かに困る。
食事は、ラナがいないならば一人で食べたい。誰かと話すのは苦手だし、こういう時に話す話題にも興味がないのだ。
「ハーヴィーさんは副室長と暮らしてるんですよね?お弁当は作ってもらわないんですか?」
「……ラナは、料理が苦手だから」
ラナのことを聞かれて、ハーヴィーの気持ちはほんの少し上向く。
彼は、実はラナには仕事を辞めてもらいたいのだ。一日中彼女にくっついていたいし、自分のことだけを見ていて欲しい。
けれど、ラナの生き甲斐は魔獣達の世話をして、無事彼らを送り出すことなのだ。
大好きなラナの為に、大好きなラナを我慢しなくてはならない。その矛盾が日々彼の悩みだった。
「へぇ、そうなんだ。副室長ってなんでも出来そうなのに、意外」
「……ああ。ラナはなんでも出来るよ、資格もたくさん持ってるし、帰宅してもいつも勉強ばかりしている。真面目で、とてもすごい人だ」
ハーヴィーはついラナを自慢してしまう。
勉強するラナは、後ろからくっついても怒らないのでちょっとだけ得した気分になるのだ。勿論、外でそこまで言うと叱られるので言葉にはしないが。
「……そうなんですね、やっぱり副室長ってすごい方ですね!」
「ん」
ミランダに微笑んで言われて、大好きなラナを褒められたハーヴィーも無表情ながらとても嬉しく感じていた。
そこに、室長会議に出席していたラナが戻ってくる。本来は当然保護室の室長が出席すべき会議なのだが、彼は他の仕事も兼任していて多忙な為、例外的に副室長のラナが出席することを認められているのだ。
「ラナ」
するりとハーヴィーが席を立ち、彼女の方に近づく。
「ハーヴィー。ご飯食べてたの?」
「うん、ラナは?」
「室長会議で出た……量が多くて大変だったわ」
彼女が苦笑すると、ハーヴィーは眩しそうに目を細めてラナの頬にかかる髪を除けた。
「お疲れ様」
「うん、ありがとう」
ラナは、ふとミランダを見て軽く挨拶をしてから副室長室に入って行く。戻ってきたハーヴィーは、当然のように昼食の箱を手に彼女を追おうとした。
「あ、ちょっと!」
「ん?あ、ごめん、向こうで食べる」
ハーヴィーの思考では、ミランダは勝手に彼の横で食事を始めた人なので放っておいても問題ないのだが、こういうシーンで一言謝っておくべき、というのはラナの指導の賜物だ。
さっさと行ってしまったハーヴィーの背を呆然と見送ったミランダは、唇を噛んだ。
そうしてそれからまた一ケ月経ったある日。
日勤の為に出勤したラナとハーヴィーは、保護魔獣の部屋の扉が開いているのを見て驚いた。幸い中に預かっていたのは大人しい種族で、寝床の藁の中で縮こまっていて被害はなかった。
メンタルとボディのケアをして、ひとまず何もなかったことを確認する。後々影響が出てこないとも限らないので、ラナは重要、とカルテに書き込んだ。
昨夜の夜勤勤務は、ルークとミランダだった。
副室長室に呼んで、二人に詳しく話を聞く。鍵を掛け忘れたのは、ミランダの方だったらしい。
「大人しい魔獣だったから大事にはならなかったけど、魔獣の方が怯えていたわ。これからは気をつけて、きちんと確認してください」
「はい……すみませんでした」
しゅん、とした様子で反省しているのが見て取れる彼女に、ラナは頷く。
「ルークも、まだミランダは新人なんだし、ダブルチェックよろしくね」
「はぁ……二ヶ月経ってもまだ新人扱いですか?手厚いですね」
ルークは不満そうに唇を尖らせる。論文を書く時間だけは本当に確保してもらっているが、業務での二度手間は増えるだけだ。
「そう言わずに。新卒だもの、能力以前に働くということ自体にも慣れる時間が必要だと考えてあげて」
ラナが言うと、ルークは渋々頷いた。
そのまま彼には仕事に戻ってもらう。
「あの……私は何故残らされてるんでしょうか」
ミランダはそわそわとしながらラナに訊ねる。
「少しヒアリングしておきたくて。仕事には慣れたかな、あと他の職員とはとても打ち解けているように私には見えるけど、何が困ったこととかはない?」
聞かれた内容に、なんだそんなことか、とミランダは安心した。
ラナはハーヴィーの家族で、ことあるごとに彼を独占するのでミランダは気に入らないが、上司として優秀なのは認めていた。
「大丈夫です、皆さん親切ですし、まだまだ至らない点は多いかと思いますが頑張ります!」
ミランダの100点満点の返答に、ラナはホッとして頷く。
「よかった。でも困ったことがあったらいつでも言ってね。それから、」
彼女は微笑んで、抽斗から書類を取り出した。それを見てミランダはハッとする。
それは彼女が昨日提出したカルテだったのだ。
ルークは自分のデスクに戻って、夜勤明けの引き継ぎ書類を用意していた。
副室長室に呼び出されていたので少し遅れている。慌てて必要な箇所に記入しながら、彼は腑に落ちない気持ちになった。
ミランダは、魔獣のことが好きで魔獣医の資格などを取ったと言っていたが、実際に見たり触ったりすることは滅多になかったのか、この二ヶ月の勤務中に挙動が変なことが多かった。
魔獣の世話を嫌がるそぶりや、時折魔獣を蔑むような発言をするのだ。よくよく観察していないと分からないが、ルークが一番彼女と行動するし、何より上司に任されているので気をつけて見ている。
それに、と考えたところで、彼の視界の端で副室長室の扉が開き、パッとミランダが飛び出してきた。
彼女は自分のデスクに着くと、小さく鼻を啜り目元を手で覆う。
日勤に出勤してきていた同僚達は皆、いつも明るい彼女の萎れた様子に驚いた。
小さく溜息をついたミランダは、赤くなった目元で、皆の視線に耐えられない、というように部屋を出て行こうとする。
ところが丁度出勤してきたアダムにぶつかり、彼は泣いているミランダを見て大いに驚いて声を上げた。
「ミランダ!どうしたんだ?君らしくもない、こんなに泣いて……」
「ア、アダムさん……!」
そこでぶわっと涙を溢してついに本格的に泣き出してしまったミランダに、皆も集まってくる。
ルークはそんな一部始終を見てぽかん、としていた。これ見よがしに顔を覆ってみたり、突然駆けだしてみたり、まるで自分に注目してください、と言わんばかりのパフォーマンスぶりだ。
「どうしたの、ミランダ」
「大丈夫?」
「何があったんだ?」
口々に訊ねられて、しゃくりあげたミランダは必死な様子で皆に語った。
「あの……副室長に……魔獣の檻の鍵をきちんと掛けていなかったことを……きつく叱られて」
「それは」
「分かってます。私が悪かったんです……」
ミランダははらはらと涙を流す。
魔獣の部屋の扉の鍵を掛け忘れたことは事実だが、大きく開け放たれていたことは省略して彼女は話した。
他の職員からしても、危険な魔獣もいるので鍵を忘れたこと自体はフォローしようがない。それらを見て取ったミランダは、更に言葉を続ける。
「……それに私の提出した書類が、内容が薄いとか、魔獣のことを全然見ていないとか言われて……」
ミランダが言い募ると、じわじわと嫌な空気が伝染していく。
「あんな言い方……ひどい……私は一生懸命やっているのに……」
元々一体の魔獣に長く関わることの出来ないこの部所は、本当の意味で魔獣好きな人は滅多に採用されない。
魔獣好きの職員は大抵魔獣育成機関に行くか、魔獣医などになるからだ。
「副室長は、魔獣に対する愛情が深いからなぁ」
「でもあそこまでの情熱をこっちに求められてもね……」
つまり、この保護室に勤めている者達で魔獣の保護がしたくて来た者はほとんどいない。今となっては室長の功績もあって他の部所に認められるまでに地位向上したが、元々は人材の墓場のようなところだったのだ。
くわえて、本当に魔獣大好きのラナの存在である。
彼女は彼女なりに精一杯やっているし、他の者に自分と同じだけの情熱や残業を望んだことはないのだが、周囲で見ている者からの感想は違ってくる。
ラナだけが頑張っていて、他の職員はサボりがち、だなんて他の部所の者に思われでもしたら困る、と皆思っていたのだ。
「いえ、私の頑張りが足らなかったのが悪いんです……副室長みたいにしなくちゃ」
自分にとっていい流れが来ていることに、ミランダは内心ほくそ笑みつつ、泣く演技を続けた。
「副室長ってなんだかんだ言ってるけど、ハーヴィーのことを独占してるしね」
「他の男の職員もいるのに、ハーヴィーにばかり頼るもんなぁ……」
小さな雫がやがて大きな波紋を呼ぶように、皆が普段気にもしていないような不満が溜まっていく。
不味い流れだな、とルークは離れた自分のデスクから、ことの成り行きを見遣って思う。
これまでも、副室長という地位に就いているにしては若いラナは、同年代の男性からやっかみを受けやすかった。
保護室が真実閑職の内は、島流しなどと陰口を叩かれつつ表面上は何事もなかったが、保護室の存在意義が王城全体で認められるようになり、おまけにハーヴィーのような派手な男を連れてきたものだから、男女両方から妬まれるようになってしまったのだ。
本人はごくごく単純に魔獣のことが大好きなだけなのだが。
そしてそこに間の悪いことに、副室長室の扉が開いて、ラナが姿を現した。
部屋の不穏な空気に気付いて、彼女は目を丸くする。
「何かあったの?」
「いいえ」
「何でもありません」
「仕事しなきゃねー」
聞くと、集まっていた職員達はいかにも何かありました、という様子で、しかしバラバラと散っていく。それに便乗して、ミランダはさっさと帰ってしまった。
「……」
ラナはあからさまな嫌な空気に眉を寄せたが、ぎゅ、と唇を引き結んで業務を再開しだした。
そういうところがミランダと全く違う。ラナはもうずっと前からこういう空気の中で働くことを余儀なくされていたので、素直に狼狽えたり、人に頼ったりすることがひどく下手だった。
ルークは一部始終を見ていて、眉を寄せた。上司と同僚達の関係に介入するほど彼とて人付き合いは上手くないし、そもそも面倒なので関わりたくない。
それよりも、夜勤勤務の者で協力して書くべき申し送り書を書かずに帰宅したミランダに単純に腹が立っていた。
その夜。
ラナは自宅の庭に生えている大きな木の枝に座り込んでいた。
彼女の家は郊外にあり、街と反対側には森が広がっている為彼女の奇行を目撃する通行人はいない。
星の瞬く静かな夜だが、ラナの心には泥の様な気持ちが渦巻いていて気分が悪い。
人は、人を攻撃しようとする時には驚くほど効果的に攻撃してくるものだ。今日一日の職員達の態度は、随分と彼女を疲弊させていた。
これまでなんとか良好な関係を築けるように気を配ってきたつもりだが、何が切っ掛けなのかは分からないが、どんどん崩れていくのが目に見えるようだった。こういう時は何をしても裏目に出るのだ。
膝を抱えて、深い溜息をつく。
「……仕事場に行きたくないなぁ……」
「え、ラナ、仕事辞めるの?」
ひょい、と木を登ってきたハーヴィーが嬉しそうな声を上げる。
「辞めないけど」
「なぁんだ。ヌカヨロコビさせないで」
肩を竦めて大袈裟に溜息を付くと、彼はラナの体を抱えて自分が太い枝に座り、その膝に彼女を降ろした。
「元気ないね」
「うん……」
ぎゅう、と背後から大好きなラナを抱きしめて、ハーヴィーはご機嫌だ。後頭部に何度もキスを贈り、元気を出して、と動物のような行動を取る。
「……俺、全然役にたたないと思うけど、話してみる?」
「何それ、逆に頼もしい言葉」
ふ、とラナは笑って少し身じろいで体勢を変えると、彼女の方からハーヴィーを抱きしめた。
「珍しい」
「……弱ってるので、ちょっとだけ甘えさせて」
ラナが言うと、ハーヴィーは残念そうに眉を下げた。
「弱ってなくても、いつも甘えてくれていいのに」
「……そんなことしたら、私がダメになるから駄目」
「そっか。じゃあ代わりに俺がラナに甘えておこう」
ぎゅーっと上から覆い被さるように抱きしめ返されて、ラナはほっと息をつく。
魔獣に並々ならぬ愛情のある彼女は、昔から時折こうして対人関係が上手くいかない時があった。なんとか改善したり、時には修復不可能でその場を離れることになったりと色々あった。
魔獣達の方が喜怒哀楽がずっと顕著で、誠実に接していれば妬みや悪意にぶつかることはない。けれどラナは人間だから、ここで踏ん張って生きていくしかないのだ。
「ハーヴィー。ありがとう」
「俺、何もしてないけど?」
「……私の味方でいてくれて、ありがとう」
ラナが情けなく笑ってそう言うと、ハーヴィーはうっとりするぐらい美しい笑顔で応えた。
「当たり前だよ、大好きなラナ」
もう一度、抱きしめられる。
少なくとも、ここに一人。ラナのことを無条件に愛してくれている味方がいる。
それだけで、どれほど心が救われるだろう。
「私もハーヴィーのこと大好きよ」
ラナは嬉しくていとしくて、あの小さな子がこんなにも大きくなって、彼女を支えてくれていることに大きな感謝を抱いた。
それから数日は、表面上は何事もなく過ぎた。
相変わらず一度歯車の違ってしまった職場の雰囲気は悪いが、それでもラナはいつも通りの勤務を心掛けた。
部下から上がってきた書類を順に見ていると、引っかかるものを見つける。少し悩んだが、これは伝えるべきだと再びミランダを部屋に読んだ。
現れた彼女は、以前と少し雰囲気が変わっていてラナは驚く。これまでのミランダは天真爛漫でありながら謙虚な様子だった。だが今はあからさまに呼び出しに不服である、と態度で示していて随分太々しい印象だ。
「お話ってなんですか」
「……ミランダ、先日も言ったけれど、あなたが受け持っている魔獣のカルテは、自分で書いてくれなくちゃ困るの」
「何故です?」
「世話をしている者が気付く些細な変化などもあるでしょう?この魔獣に触れてもいない、別の職員が種族に関する通り一辺倒の知識で書いたものでは駄目なのよ」
ミランダは、カルテの記入を別の職員に頼んで書いてもらっていたのだ。前回残って話をしたのもその件だった。
カルテは担当者の仕事であることは職務規定にも記されているので、新人故に知らなかったのならば、皆の前で言ってミランダに恥をかかせたくなかった、ラナなりの配慮のつもりだった。
「……私が書くより、経験豊富な先輩の知識で書いてもらった方が間違いがないと思いますが」
「もし自分の書く内容に自信がないなら、指導係のルークに見てもらえばいいわ。彼は論文を書いているぐらい知識も豊富だし、経験だって……」
ラナの言葉をミランダは遮って発言する。
「私、あの人苦手なんです。魔獣に対しては親切で饒舌なのに、私に対しては皮肉ぽい言い方ばかりするし、ジロジロ観察されてる感じも気持ち悪いし」
そう言われて、ラナは眉を下げる。
ルークは確かに皮肉屋だし、魔獣以外にはあまり親切ではないかもしれないが、この数ヶ月間彼は先輩役を精一杯こなしてくれていた。
ミランダと合わなかったのならば、互いの為に早く配置変更をするべきだったのだ。
「そう……」
「それに論文論文って言ってるけど、博士号を持つ私の指導係としては、彼は力不足なんじゃないですか?」
ミランダは嘲るようにそう言い放つ。
立場上は部下だが、魔獣に関することではルークのことを尊敬しているラナにはさすがに聞き捨てならなかった。
「……あなたは魔獣栄養学の博士だったわね、称号のレベルを計るのは下らないことだと思うけれど、ルークは魔獣工学、魔獣医療学、魔獣生態研究学のそれぞれの博士号を持っているし、あなたの卒業したアカデミーの客員教授でもあるわ」
ずらずらと出て来た、特に学位を取得するのが難しいと言われている課程の名称にミランダは目を丸くする。
「特に魔獣生態研究学は国内でもトップの研究者で、そのフィールドワークとして彼はうちの室で働いているの」
魔獣保護室は、一体一体と関わる時間は短いが、国内で保護された様々なはぐれ魔獣が一度は必ず通過する部所なので、普段お目に掛かれないような珍しい魔獣に出会うことも出来るのだ。
「何それ……私より優秀だとでも言うんですか?」
ミランダが反抗的な目でラナを睨むと、彼女は困ったように眉を下げた。
「……キャリアも経験も違うのに、どちらの方が優れている、なんて言えないわ。あなたとルークが合わなかったのは仕方がないけれど、でも指導係として彼が力不足ということはない筈よ」
その言葉に、ミランダはキツくラナを睨みつけデスクに置かれたカルテを引っ掴んだ。
「書き直してくればいいんですよね!失礼します!!」
彼女はそう言うと、副室長室を足早に出て行ってしまった。
ラナは言い方が悪かっただろうか、と悩んだが、カルテの件は事実なのでどうしようもない。
こんな落ち込んだ気分の時に、ハーヴィーに退職を勧められたら乗ってしまうかもしれない、と考えて気を紛らわせた。彼が魔獣の散歩に出て行ったばかりでよかった。
落ち込んだ姿を見せたら、心配を掛けてしまう。
一方、部屋から出たミランダはまた周囲の関心を惹き、ラナへの不満を集めようと画策した。
だが、どうも先日のように上手くはいかない。
「まぁ副室長って誰よりも熱いけど、それを私達に押し付けるわけじゃないしね」
「自分がどれだけ忙しくても、質問すると必ず手を止めて答えてくれるし」
「魔獣好きすぎてちょっと鬱陶しいところはあるけど、うちの部所に彼女がいるからなんとか成り立ってるとこあるしなぁ」
なんて調子にいい奴等だろう!とミランダは呆れた。こんな日和見主義ばかりではラナは割を食うのだろうな、と彼女は室全体を蔑む。そして、
「あ、でもやっぱりハーヴィーの独占はズルいわよね」
という女性職員の声に、内心で大いに頷いた。
この部所に来て、今のところ収穫と呼べるのは王城中の令嬢達の憧れの美青年、ハーヴィーと並んで歩くことが出来る事だ。
彼は顔に似合わず本当に力が強く、王城の資料室から資料を運ぶ作業の時などに一緒に廊下を歩くと、羨望の的なのだ。あの心地よさをいつもラナが感じているかと思うと、ミランダはひどく腹立たしい。
聞けば、ハーヴィーが幼い頃に彼を保護したのがラナだったというではないか。単にミランダよりも早く出会っただけで、あの特に秀でたところのない、冴えない女にハーヴィーのように美しい青年が独占されているなんて許せない。
時折話す感触は悪くないし、ラナさえ排除すれば職場もハーヴィーもミランダの思いのままだ、と夢想して彼女はうっそりと微笑んだ。
そんなことがあってから。更に数日後。
珍しく職員が出払っていて、部屋にはミランダとラナだけが残っていた。
ラナはしきりに不思議がってシフト表を見つめいるが、それぞれ違う理由で皆出掛けていて、集団ボイコットだとかいうことではないようだ。たまたまそういう時間もあるだろうか?とまだ腑に落ちない彼女だったが、渋々今日の分のカルテを書き込み始めた。
おかしいのは当然だ。
これはミランダが画策したことだった。一人一人に声を掛け、何かしらの用事を頼んだり逆に書類仕事を引き受けたり、そしてそれをまた別の誰かに任せて仕事を交換したり、とまるでパズルの様に組み替えて、彼らをそうとは知らせることなく操ったのだ。
ミランダは学生時代からこういうことが非常に得意で、最終的には自分が何もしなくてもノートやレポートが手に入るシステムを構築していた。
このシステムの狡猾な点は、歯車の一人一人は何かのメリットと交換に何かの作業を任されている為、不満が出ないことだ。
ハーヴィーとルークはどうしてもシステムに入れることが出来なかった為、結果的にルークには単発の用事を頼み、ハーヴィーが魔獣の散歩に出る時間に決行せざるを得なかった。
皆が出払っている為、来客対応も兼ねてラナは保護室の空いたデスクで書類仕事を黙々とこなしている。
その背後に近づき、ミランダはさっ、と彼女に用意していた粉を掛けた。
「!?ミランダ、これは……ファーラムの粉……?」
突然どっさりと粉を掛けられて驚いたラナは、粉の香りを嗅いで顔を顰める。
「さすが副室長、香りだけで分かるんですね」
ファーラムの粉は、市場で手に入るスパイスなどで簡単に調合出来る、魔獣栄養学では基本の、魔獣の興奮を誘う粉だ。
立ち上がったラナは粉を払いながら、ミランダに訝しげな視線を送る。
「どういうつもりなの……?」
「私、副室長が邪魔なんです。仕事でも……恋でも」
意外なことを言われて、ラナは目を見開く。
「恋」
「そうよ。あなたが邪魔してくるから、私はハーヴィーと上手くいかないの、迷惑なのよ」
ミランダの独りよがりな言葉に、ラナは顔を顰めた。
「私は邪魔なんてしてないわ。ハーヴィーと恋仲になりたいのならば、自分で努力すればいいでしょう」
「家族だからって思い上がらないでよね!あなたみたいな年増の冴えない女、彼が相手をするわけないでしょう!?」
話の通じない様子に、ラナは溜息をついた。とにかく粉を落とそうと、部屋を出て行こうとする。
が、扉を開けた瞬間、ラナは目を見開いた。
廊下には、比較的狂暴な魔獣ロドナーが数匹放たれていたのだ。彼らは肉食で、四肢での跳躍は人間の逃げ切れる速さではない。
「ミランダ……!まさかあなた」
「鍵と扉を開けておいたの。魔獣大好きな副室長なら、自分があの獣の餌になるのだって、本望でしょう?」
青褪めるラナに、ミランダはニヤリと笑う。
慌てて扉を閉めて、ラナは信じられない!と叫んだ。
「同じ部屋にいれば、あなたも危険なのよ!?」
「私は魔獣除けの護符を持っているから、平気です」
ふふん、と笑ったミランダは、首から下げた金属製のプレートを見せつけるように晒す。その護符に描かれた魔術文字を見て、ラナは慌てて首を振った。
「その護符では意味がないわ!今うちで預かってるロドナーは密輸入で国内に持ち込まれた変異種よ、効果がないの!カルテに書いてあったでしょう!?」
ラナが叫んだ瞬間、廊下側の窓を割って、ロドナーが部屋に侵入してきた。
保護室に連れてこられてからは比較的落ち着いていたものの、廊下にも粉は撒かれていて彼らを十分に刺激していた。
血走った目でぎょろりとラナとミランダを見て、魔獣は意外なことにまずミランダの方に襲い掛かった。
「はぁ!?獲物はあっちだってば!これだから魔獣なんで馬鹿で嫌いよ!」
ミランダの護符はラナの言った通り効果がなく、おまけに彼女は粉を調合したり、廊下に撒いたりした所為でプンプンと香りを発していたのだ。
ミランダは傍にあった椅子を投げてロドナーを牽制するが、下手に抵抗した所為で逆上を誘ってしまう。
咆哮を上げてミランダに襲いかかった時、ロドナーの前にラナが身体を滑り込ませて庇った。牙が彼女の腕を掠め、血飛沫が飛ぶ。
「ミランダ、逃げて!」
「はぁ!?アンタ馬鹿なの!?私にとっちゃ好都合だけど!」
「人を食い殺したら、この子達が殺処分されちゃうでしょうが!さっさと逃げなさい!!」
ラナが怒鳴ると、ミランダはせせら笑って逃げ出す。が、他の個体が彼女の進行方向にいて、阻まれた。
「チッ!アンタ、こいつらを纏めて引き留めることとか出来ないわけ!?副室長なんでしょ!」
ミランダが行儀悪く舌打ちをして、とんでもないことを言う。
正直なところ、出来なくもないのだが、それではこのロドナー達を傷つけることになってしまう。こんな悪意ある人為的なイレギュラーは想定していない為、誰もが無傷で事を収めることは不可能に思えた。
そして、ハーヴィーが悲しむので普段はなるべく考えないようにしているのだが、ミランダが先程言ったことは正鵠を射ているのだ。
実はラナは、彼らの飢えが満たされるのならば魔獣の餌になることをそれほど悪い最後だとは思っていないのだ。生まれ変わったら魔獣になりたいし、こんなひどいことをする人間として生きていくことに拘ってはいない。
ハーヴィーを拾うまでは本当にそう思っていた。今は、可愛くて大切な彼が絶対に悲しむことが分かるので、足掻くつもりでいるが。
「腕一本ぐらいは仕方ないかなぁ……」
自分の腕を撫でて、ラナは眉を下げる。ロドナー達は悪くないのだ。
人が勝手に調合した粉で、無理矢理興奮させられているだけ。本来ならば、こちらが何もしなければ襲い掛かってくることもないのに。
「……ごめんね」
ラナは悲しくて、とても辛い気持ちになった。
「早くしなさいよ!!」
ミランダの声に発奮して、ロドナーが跳躍する。その影がラナを覆い、開かれた顎に狂暴な牙までが、まるでスローモーションのように具に見えた。
彼女が腕を餌に使おうと構えた瞬間、
ガシャンッ!!!
大きな音と共に、扉をぶち破って巨大な魔獣が外から入ってきた。
「ヒィィッ!?化け物!?」
ミランダがそう呼ぶのも無理はない。
体長3メートルほどの巨躯の狼のような姿だが、うねる銀の鬣は刻一刻と色を変え、波打つ真珠のように輝き、その金の目には瞳孔がなく虚のようだった。牙は大きく、逞しい四肢に、爪で引っ掻くと石造りの床が削られた。
新たに現れたその魔獣はラナを見て、ミランダを見て、ロドナー達を最後に見ると、大きく顎を開いて唸るように咆哮を上げた。
それは大きく響き渡り、ロドナー達は目が覚めたように興奮を抑え、首を垂れた。
その衝撃で、ミランダは気を失う。
魔獣といえども動物。自分よりも強い個体には恭順の意を示すのだ。ロドナー達がすっかり戦意を失ったことを確認すると、銀糸の魔獣はするりとその身を人間のものへと変えた。
ハーヴィーの姿に。
「ラナ!!」
「ハーヴ……助けてくれてありがとう」
「怪我してる、助けれてない!!」
勢いのままにラナの前に立ったハーヴィーは、彼女の肩から血が流れているのを見て自分の方こそ倒れそうなぐらい真っ青になる。
「医務室行こう!」
ハーヴィーはラナを抱き上げた。
「え、駄目よ、ロドナー達を部屋にいれてあげないといけないし、ミランダを放っておくわけにも……」
「大丈夫、こいつらは自分で部屋に戻れるし、あの女もその内目を覚ますよきっと!」
「暴論過ぎる!!!」
ラナが頭痛を感じて顔を顰めると、そこにようやく話の通じそうな相手が戻ってきた。
「うわ、なんですこの惨状……」
「ルーク!ロドナーを部屋に、ミランダが犯人だから捕まえといて、俺はラナを医務室に連れて行くから!」
「え、どう見てもこの器物破損は変身したお前が犯人だろ」
ルークが呆れたように言ったが、ハーヴィーの必死な様子と腕からの出血がひどいラナを見て手を振る。
「あとで室長にちゃんと説明してくださいね、副室長」
「うん、ごめんなさい、お願いねルーク」
ラナの方も出血が多かった所為で、安心するとぐったりとしてしまう。ハーヴィーは奇声を上げて、医務室までの最短距離を駆け抜けていった。
数時間後。
医務室のベッドに横たわるラナの傍らに、ハーヴィーが忠犬よろしくぴったりと張り付いていた。
適切な治療を受け、後始末を終えて訪れたルークに事情を説明して以降、ラナはぐっすりと眠っていた。
「おい、犬ッコロ。張り付いていてもラナの傷は早く治るわけじゃないんだぞ」
魔獣保護室の一番近くにある医務室にいた医師は、ラナの親友のダフネだった。
彼女は口が悪いが腕は確かで、よくラナの家にも出入りしているのでハーヴィーのこともよく知っているのだ。
「ダフネ、俺の血をラナにあげたら元気になったりしないかな……」
「いやぁ……輸血っていうのは非常にデリケートなものでな。しかもただ血が足りればいいってものでもないからな、傷ってのは」
「そうか……俺はすぐ傷が治るし、ラナにも分けてあげられたらいいのに……」
しゅん、としてハーヴィーはラナの額にかかる髪をよけてやる。
ハーヴィーは、魔獣に姿を変えることの出来る人間だ。
獣人族も存在するこの世界では、己の姿を変えることの出来る者は大勢ではないが存在する為、そこまで珍しくはない。ただ、ハーヴィーの変身する魔獣が、他に同種族が確認されていないことが、少し話をややこしくしていた。
躍動に合わせて毛並みが真珠色に波打つ魔獣だなんて、誰も見たことがないのだ。過去の文献にも登場せず、その種族は謎とされている。
その為、ハーヴィーが人前で変身することは滅多になく、彼の秘密を知る者も非常に少ない。
そもそも幼い頃、嵐の夜にラナに拾われた時には魔獣の姿だった為、ラナはしばらくハーヴィーが人の姿も持っていることに気付かなかった程なのだ。
「失礼します」
ノックをしてルークが再び医務室に現れる。そしてラナが寝ているのを見て、片眉を上げた。
「副室長、寝てるんですか」
「何かあったのか?」
ダフネに聞かれて、ルークは頭を掻く。
「ミランダの処遇が決まったので、お知らせに。保護室からは当然除名、明らかに副室長を殺そうとした罪で、投獄されることになりました」
「随分早いな」
「臭いものには蓋をしたいんでしょう。あの後室長が来て、ササッと事後処理してまたどっか行っちゃいましたよ」
ルークが言うと、ダフネは呆れる。
「アンタんとこの室長って本当そういうの上手いな……怖いぐらいなんだが」
「うちの部所としても、魔獣が暴れたとか王城に広がるとまた色々煩いことを言われるので、速やかに処理したかったんでしょうね。ミランダの住まいから粉を調合した形跡や、職員の配置を操作した証拠も出て来たし、彼女のしたことは明白でしたから」
ダフネは顔を顰める。
「ああ、でも見物でしたよ。ミランダが他の職員にあちこちで仕事を代わりにさせていたことが皆の前で発覚した時は、彼女は針の筵に座っているかのようで副室長にも見せてあげたかったな」
「……素晴らしい経歴は、人の力を利用して手に入れたものだったのか」
「そのようですね。魔獣のことも全然好きではなく、最近注目されている分野だから就職先として目を付けたようですし」
ルークの言葉にダフネはうんざりと首を振った。彼女はラナの医学校時代の同期で、ラナが様々なことで苦労してきたことを知っているのだ。
生半可な悪意で彼女を傷つけられることが、ダフネには我慢ならない。
「……ラナとは正反対だな」
「そりゃ合いませんよねぇ……」
二人は肩を竦めた。
「副室長ってもう少しで起きますか?このこと、報告するように室長に言われてるんですが……」
彼の言葉に、ダフネは時計を見て頷いた。
「そろそろ薬も切れる頃だし、目が覚めて問題ないようなら話すといい。私は少し所用で出るが、構わないな?」
「はい」
すぐ戻る、と言い置いてこの場をルークとハーヴィーに任せ、ダフネは医務室を出て行った。
ハーヴィーがラナの傍から離れないので、仕方なく様子を見るのは諦めてルークはデスクの方の椅子に座る。
「ハーヴィー、お前は変身してもしなくても副室長に迷惑かけてるな……」
「またその話か。何を言われようと、俺はラナから離れるつもりはないからな」
ハーヴィーは、ラナには絶対見せないような冷たい表情を向けもせずにルークに返す。
「……普通獣人はその姿を人間に戻す時、当然素っ裸で戻るってのは知ってるよな?獣の姿の時には、人間の衣服なんて身に纏ってないんだから当然だ」
ルークの言葉に、一心にラナだけを見つめていたハーヴィーが彼の方をようやく見遣る。
「で?」
「……お前は魔獣から人間の姿に……戻った時はまた服を着てるよな。そんなこと、物理的に可能なのか?そもそもお前は、どちらの姿が本来の姿なんだ?…………お前は、”何”なんだ?」
睨みつけてルークが訊ねると、ハーヴィーは、ふっ、と笑った。とびきり、美しく。
「俺?俺はラナのことが好きな、ただのイイ男だよ」
「……そういうところ心底腹立たしいな」
ルークは溜息をついて、立ち上がった。この問答はラナのいないところで何度か繰り返しているのだが、いつもハーヴィーに煙に巻かれて終わるのだ。
「帰るのか?報告は?」
彼に聞かれても、ルークは首を横に振る。
「起きなかったので、明日にする。お前、副室長の前でだけ猫かぶるのやめろよ、気持ち悪いから」
「ラナの前で見せてる俺が、本来の俺なんだよ。世界は魔獣に冷たいからな、よその人間には厳しめに対処してるだけ」
嘲るようにハーヴィーにべぇ、と舌を出されて、ルークの額に青筋が立つ。
ラナはハーヴィーのことを甘ったれで可愛い弟のように思っているようだが、とんでもない。
腹黒くて口が悪くて、虎視眈々と欲しいものに狙いを定めている、生粋のハンターだ。頼まれても関わりたくない。
ハーヴィーの”正体”には多少興味があるが、ラナが手綱を握っている内はその凶暴性は鳴りを潜めているようだし、藪を突いて獣を出すつもりもなかった。
「帰る。副室長が目を覚ましたら、お疲れ様って言っとけ」
ひらひらと手を振って、もう振り返らずに医務室を出て行くルークの背を、ハーヴィーは見送らなかった。
彼の関心事はこの世にたった一つしかないのだ。
昏々と眠り続ける、ハーヴィーのたった一人の大切な人。
ラナだけが大切で、彼女だけがいとおしい。そして、それ以外はハーヴィーにとって真実どうでもいいのだ。
あの時、ラナを傷つけたロドナー達も、首謀者のミランダのことも、殺してしまえばよかった。
そうしなかったのは、ロドナーを失えばラナが悲しむからだ。ミランダを殺せば、保護室は閉鎖されてラナが困るからだ。
本当はハーヴィーは保護室自体も早くなくなればいいと思っている。ラナが仕事を辞めれば、一緒にどこか遠くの魔獣がたくさん住む地域に住めばいいと、思っている。
魔獣として強い個体であるハーヴィーが常時ラナにくっついて匂いをつけている為、他の魔獣達はラナを食おうとはしない。興奮したロドナーが最初にミランダの方を襲ったのもその所為だ。
ハーヴィーと一緒ならば、魔獣だらけの森でもラナは安全だ。煩わしく、彼女を悲しませる人間関係もないし、きっとラナも今より心安く過ごせるのではないだろうか、とハーヴィーは考えていた。
それを我慢して、こんな我欲と煩悩に塗れた人間の坩堝みたいなところに居続けるのは、ひとえにラナがそうしたい、とまだ望んでいるから。
「…………早く起きてよ、ラナ……」
そして、その瞳で自分のことを見つめて欲しい。
ハーヴィーの声に反応するようにして、ラナの長い睫毛が震え、ゆっくりと瞳が姿を現す。
「ラナ」
彼女は傍らの愛しい存在をすぐに見つめて、安心したように微笑んだ。
「……ハーヴィー」