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メンタル病んだら、何故か超展開が待っていました。 前編

作者: 蠍座k

 空きコマは図書室で過ごすのが一番だ。課題を片付けられるし、当たり前だが本も読める。うちの大学は何てことない平凡な私立大だが、図書室の本の品ぞろえはなかなかのものだ。それに、静かで落ち着ける。まあ、これも図書室なんだから当たり前のことかもしれないが。とにかく俺にとって、図書室は安らぎの場所だった。昔から本が好きだからなのか、それとも本そのものにそういう力があるのか、ここは本当に落ち着く。だから、考え事をしたりするのにもここはうってつけの場所だ。

 そんなこんなで今日もお気に入りの、いくつか並んだイス付き長机の内入り口から一番遠い列の窓側の端に陣取って、机に頬杖をついて考え事をしていた。

「おい、どうしたんだ。口開いてんぞ?」

「え?あっ、ああ。」同じゼミで、図書室入り浸り仲間の江藤が声を掛けてきた。

「まあちょっとな。考え事さ。ちょっと面倒なね」

「そうか。でもいくらここ人少ないからっつっても、さすがに口は閉じといた方がいいと思うぜ」

「ああ。気を付けるわ」

「じゃあ俺、ちょっと事務局に用があるからもう行くわ 」

 次の講義が始まるまではまだ余裕がある時間だが、江藤はそう言って行ってしまった。それにしても口が開いていたとは。最も、自宅なんかで考え事をしていたり何かに集中していたりするとうっかり口が開きっぱなしになってしまっていたりするのだが、まさかそれを学校でやらかしてしまうとは。やらかしたのがあまり人がいない時間帯の図書室だったのがせめてもの幸いだった。どうやらダチの江藤以外には見られていないようだし。とはいえ口が開きっぱなしになっているのを人に見られたのは少々恥ずかしい。

 何故そうなってしまったかというと、今日こそは結論を出そうと心に決めていたせいで考え事に集中しすぎて他の事に全く注意が行かなくなってしまっていたのだろう。というのも1か月近く、ただ一つの、それでいてもの凄く重大な事について考えを巡らせていた。とある心の健康相談所に行くか行かないかという考え事だ。とはいえ実は選択肢はあって無いようなもので、事実上俺には行くという選択肢しか与えられていなかった。それなら考えなくて良いじゃないか、と言われてしまうだろう。確かにそうだ。でもそれを頭では分かっていても、なんとか何か他に手はないものかと考えてしまっていた。なぜなら俺に用意されているその選択肢は、要はつまり人の助けを借りる選択肢な訳だが、俺は誰かに頼るというのはどうしても“負けた”感じがして抵抗感があるのだ。そんなプライドはもう捨てたつもりでいたのだが、最終決断の段階になって心の中で抵抗を試みていた。でも1か月悩んで、流石にいい加減決心がついた。もう本当のほんとにプライドだなんだなんて言っていられない。何とかしないと、メンタルが持ちこたえられなくなってしまう。俺のメンタルは色々あってボロボロなのだが、ここのところそのボロボロさがよりひどくなっていっているのである。流石にこれ以上メンタルが疲弊するのは困るから行かざるをえない。もう誰かの手を借りないと、どうにも出来ないのだから。

「……やむを得ん。行こう、リライズに……」

「メンタルケアプラザ リライズ」のサイトを見つけたのは今年、2048年の5月14日。今日はもう6月10日だ。サイトの予約ページに飛んで、3日後に予約を入れた。ふと空を見上げると、朝から降り続いている雨がこれまでより少し小降りになって来ていた。


「いらっっしゃいませー」

 今日はリライズへ行く日だ。昼飯は家で済ませるつもりだったが、何と言うか気が散りまくって料理するのが面倒くさくなったので、結局外で食べる事にした。どこにしようかしばし思案した後、自宅の最寄り駅・暮野駅の東口からすぐ近くの所にあり、且つ俺の行きつけの「つけ麺 平八」へ行く事にした。

「ガー」

「いらっしゃいませー」

 整備する時間が無いのか、何だか重めの音を上げて動く自動扉が開くと同時に店員さんの声が飛んでくる。ここの店員さんの挨拶は、ラーメン屋に有りがちな声が大きいだけの機械的な挨拶とは違って、キチンと心が籠って聞こえる。麺の味だけでは無く、こういう所もこの店を贔屓にしている理由だ。

 店に入って直ぐの所にある食券機で「つけ麺 平八盛」の券を買う。平八盛は、通常の「つけ麺」の倍具材が入っているこの店の看板メニューだ。

「空いているカウンター席へどうぞー」

 繁盛している店なので、まだ12時前だがもう9割方埋まっている。とはいえ今日は土曜日なので平日よりはマシだ。平日でこの時間帯なら満席は当たり前、行列も出来始めている頃だ。

「平八盛一丁、お待ち!」

 数分後、つけ麺がやって来た。いつも通り旨そうだ。この店には、大学に進学して暮野に住むようになってからもう何べんも、それこそ40回以上来ている。

「お兄さん、今日は何かお出掛け?」

「ええ、まあ……」

 すっかり常連客になっているので、店員さんに話しかけられる事も時々ある。普段はラフな格好で訪れる事がほとんどなので、珍しく割とちゃんとした服装をしているのが目に付いたのだろう。リライズへ行くにあたって、何となくマシな格好で行った方が良いんじゃないかと思い、襟付きのシャツを着てジャケット風の上着を着て来ているのだ。

「頂きます」

 店員さんとの会話を終え、つけ麺を食べ始める。今日も旨い。この店のつけ汁は濃厚な豚骨醤油。麺は程良いコシにつるつるとしたのど越しが合わさっているのが特徴の自家製ストレート中太麺。そして特筆すべき具材が一種類。自家製の特製厚切りチャーシューだ。麺やつけ汁ももちろん旨いのだが、このチャーシューが絶品なのだ。豚バラブロックを時間をかけて丁寧に煮込み、豪快に分厚くスライスされているそれは、俺が今まで食べて来たチャーシューの中で、ダントツ1位の旨さを誇っていた。チャーシューを一口嚙み千切ると、口の中一杯に肉の旨味が広がる。そして、溶けて行く。単品で食べても旨いし、勿論麺と合わせて食べても旨い。俺が食べている平八盛は、このチャーシューが4枚も乗っていて、その旨さを十分に堪能する事が出来る。

「ご馳走様でした」

「ありがとうございましたー」

 つけ麺を食べ終え、いよいよリライズへ向けて出発だ。リライズの最寄り駅は隣の北暮野駅。駅からも徒歩10分で行けてしまうらしいので、もうあっという間に着いてしまう。

「何か緊張して来たな……」

 とはいえ、予約してしまった訳だし、今更引き返せない。意を決して俺は改札を通った。


「北暮野ー、北暮野に到着です」 

 ……着いてしまった。そもそも暮野ー北暮野は所要時間3分という短さなのだが、今日は緊張の所為でもっと短く感じた。体感1分といった所だ。でもあっという間だろうが何だろうが着いてしまったものはしょうがない。北暮野改札を出て、リライズへの道を歩いて行く。程無くして、メンタルケアプラザ リライズが入っている雑居ビルが見えて来てしまった。

「えっと、リライズは2階だったよな……」

 念のためホームぺージを確認しながら、ビル内を進んでいく。

「よしよし、2階で合ってるな。で階段は、と。あ、エレベーターあった。……乗るか」

 エレベーターに乗って2階へ行き、リライズへと到着した。

「えっと、1時からの予約を入れている星川という者ですが」

「星川様ですね。少々お待ち下さい。……ご予約承っております。時間になりましたらお呼び致しますので、そちらに掛けてお待ち下さい」

「はい、分かりました」

 受付でそう案内され、指し示された7、8人掛けのソファーに腰を下ろした。

(……結構良い座り心地じゃん。高いヤツなのかな)

 形そのものは病院とかによくあるありふれたタイプなのだがフカフカ感が絶妙で、そんじょそこらのソファーとは座り心地が全然違う。少し待っていると時間になり、名前が呼ばれた。

「星川様、相談室2へお越し下さい」

「はい」

 いよいよ、誰にも相談した事が無い事を相談する時間がやって来る。少し、体が震えている気がした。 


「お名前は星川直道さん、20歳の大学3年生で間違いないでしょうか」 

 とうとう相談が始まった。4畳ほどの部屋の真ん中に机とイス、少し離れた所にテレビが置かれていた。テレビではこのところ話題沸騰中の、新型脳領域解析システムZ-Ω(ゼータオメガ)の特集をやっていた。Z-Ωはジャパンエレクトロニクスコンツェルン(JEK)が開発した、脳の記憶領域をナノマシンを用いて治療を行う事が出来る最先端医療機器だ。専用に新開発されたコンピュータを用いて同じく新開発のナノマシンを自在に操り海馬などに治療を行い、記憶を強化したり思い出せずにいた記憶を人工的に呼び起こしたりする事などが出来るという、なんだかものすごいヤツだった。認知症や記憶喪失の治療における切り札的存在として、早速国立病院などで実戦投入されているという。そちら畑の勉強をしている訳では無いので詳しくは知らないのだが、ここ3年程特にナノマシン関連の技術発展は凄まじいらしく、中でもにZ-Ωに搭載されているナノマシンは別格で、3年前のナノマシンとは比べるのもおこがましい性能をしているらしい。ついでに言うと、そのナノマシン開発の旗手・JEKは巨額の資金を使ってその開発を続けて来たのだが、その資金があまりにも莫大で寄付による物も多い事から、よろしくない金の動きがあるのではないかと警察が水面下で動いているとかいないとか……まあ週刊誌ネタなのでただの飛ばし記事なんだろうが。後、そういえば警察が要注意人物の監視にナノマシンを使おうとしている、なんて噂を聞いた事もある。まあ、どこもナノマシンでひと騒ぎしたいのだろう。

「本日はお越しいただいてありがとうございます。担当相談員を務めさせていただく元中です」

「あ、よろしくお願いします」

「ここはあくまでも相談所で、病院ではないので楽にして下さいね。それにしても、最近はZ-Ωの事ばかりやっていますね」

「もうすぐ民間向け販売も始まるんでしたっけ?」この前たまたま見たネットニュースには確か6月下旬にも民間向け予約販売が始まると書いてあった。

「そうみたいですね。メンタルヘルスと記憶は密接な関わり合いがありますから、私にとっては非常に興味深い話題ですね。……さて、それでは本題に入りましょうか」

「はい、お願いします」

 ここにたどり着くまで、長かったなあと思う。メンタルの自己制御に限界を感じてからかれこれ一年以上経ってしまった。様々な出来事が重なって、俺のメンタルはボロボロになっていた。元々はかなり強靭な精神的防壁を誇っており、傷付きにくい心の持ち主だと自負していたのだが、それが、今となっては自分のメンタルは些細なことで心の均衡が乱れてしまう、豆腐どころかティッシュの様なものになってしまっていた。それに以前はメンタルにダメージを負っても自分の趣味、例えば好きな声優さんのラジオを聴いたり、アニメを見たりすればすっきり回復していたのだが、ここ一年くらいは何をしても回復しなかったり、回復するのに時間がかかったりと、自己修復が困難になっていた。メンタルがギリギリ正常な値を0と表すとしてして、良ければプラス方向に、悪ければマイナス方向に数字が膨らんでいくとすると、今の俺は良い時で0かそれをほんの少し上回る位で、何か悪いことがあるとすぐマイナス域に突入してしまう状態だった。 

 心の支えがないわけではない。先述の通り趣味だってある。声優さんからはいつも元気をもらっているし、アニメやゲームの推しキャラはいつも癒してくれる。でも、それだけでは埒が明かなくなってしまったのだ。メンタルの値を0には戻せても、なかなかプラス方向に上昇していかない。補充したはずの癒しや活力も、長続きしてくれない。……勿論、それらはいつも心を癒し、心の傷を治療してくれた。でも、それが今となっては悪化のスピードに追い付かなくなっていた。……決して彼女達に力が無い訳では無い。彼女達は十分、俺の心を癒し、治療してくれた。悪いのは俺だ。結果論だが、俺は自分の心をほったらかしにしすぎた。もっと真剣に考えて、心のケアをするべきだった。でも時間は巻き戻せない。彼女達の癒しが効かなくなってしまって来ている以上、何か他の手を探す必要があった。でないと再起不能になってしまう。そう思ったのはメンタルの制御が利かなくなり始め、ボロボロ度が加速しだしてから2ヵ月程経った、去年の7月のことだった。

 他者の力を借りる決断をするのには時間がかかった。元来自分の内面を基本的にあまり話さない人間だし、他人と積極的にコミュニケーションを取るタイプでもない。自分の事は自分で何とかしたい、俺はそんな人間だ。でも、もう誰かに助けて貰うしか方法がなかった。自分のプライドを捨てて、その現実を受け入れるのはつらかった。

 最初は精神科か心療内科に行こうと思った。でもなかなか良さげな所が見つからない。電話予約とかなんか嫌だし。そんな中フラフラネットの海を彷徨っていると、とあるサイトを見かけた。

「メンタルケアプラザ リライズ……?」

 どうも病院ではなくて心の健康相談所といった感じの所らしいが、相談スタッフには精神科や心療内科の病院での勤務経験がある人も多く、その上ネットで相談日時の予約や相談スタッフの希望が行えるという。

「ここにしよう」

 とりあえず行先を決めたあの日は、晴れなのか曇りなのか判別し難い、変な空の日だった。

 

「なるほど、よく分かりました。お話しいただいてありがとうございます。体調の方は大丈夫ですか? 嫌な事を思い出して言葉にするという動作は、想像以上に精神的なエネルギーを消費しますので」

「はい、何とか大丈夫です。少し疲れましたけど」今日相談を担当してくれた元中桜さんは、とても丁寧に俺の話を聞いてくれた。仕事とはいえ、重い上にたどたどしい話を聞くのは大変だろう。自分で言うのも情けないが、俺は自分に起きた出来事を詳細且つ分かり易く説明するのは、余り得意ではなかった。それでもとりあえず必要なことは全部話せたと思う。所々元中さんがリードしてくれたからだろう。流石プロ、といった所なのだろうが、聞き上手というのは本当に凄いなあと思う。元中さんは元心療内科らしい。年は……分からない。26、7歳に見えるが大学院まで出ていて転職組、ここで働き始めて3年目というのでもう少し上かもしれない。女性の年齢を詮索するのはよろしくないんだろうが、美人さんなこともあって何だか気になってしまった。身長は俺より少し低い位……160cm台中頃といった所で、小顔でスタイルもよい。ショートカットのヘアスタイルもよく似合っている。男というのはつくづく仕方のない生き物だなあと思うのだが、正直に言えば容姿で担当してもらう人を選んだ。折角重い腰を上げて行くのだから、それくらいはしたって良いだろう。もといスタッフは希望出来ても通るとは限らないみたいだから、俺はラッキーだったという訳だ。まあ、なんだかんだ言って俺の女性運は悪くない方だと思っているから、割と希望が通る自信があったのだが。いくつかその根拠を挙げると、数少ない女友達は皆可愛いし、こういう社会的な女性運、つまり病院の看護師さんとか、コンビニの店員さんとかも可愛い人、美人な人にあたることが多い。じゃあ恋愛運はとなると……なんと言っていいのか分からない。今までの恋愛の結末から考えれば問答無用で悪い、ということになるのだろうが、別に騙されたとか利用されたとか、地雷を踏んだとかそんなことは一度もないから案外普通の部類なのか…。だがやはり今に至るまでずっと非リア、女子に好意を持たれたこともおそらく一度も無しと言う現実を考えると、結局のところ悪い、というのが着地点だろう。まあ、恋愛に運なんて無いという人もいるかもしれないが、俺はあると思う。せめてあって欲しい、そういうものが。ただでさえ、失恋は苦しいのだから。心を引き裂いてしまうのだから。人から、力を奪ってしまうのだから。俺の初めての失恋は高校1年生の時。もう5年も前のことだ。5年たってもあの絶望と時が止まってしまった感じは鮮明に思い出せる。今日まで続く、長い長い真っ暗闇のトンネルの始まりとなった高1の5月の「あの日」は、確か午前中は晴れていたのに夕方になって急に天気が崩れて、土砂降りになったんだった。


「そういやあさ、明人、川辺さんと付き合ってるんだって?」

「え?! いや、さあ……」

「誤魔化さなくったって良いじゃねえか。8組の奴から聞いたぜ? それにな、この前お前ら2人が一緒に帰ってるとこ、見ちまったぜ?」

「誰だ話した奴……そうさ、付き合ってるさ」

「お、認めるんだな。ま、どのみち部内恋愛だ。今ばれなくってもその内ばれてたさ。」

「お前ら付き合ってたのか。イケメンに美人、お似合いじゃねえか! なあ星、お前もそう思うよな?」

「え? うん、ああ、そうだな……」

 部活終わり、狭いので先輩達が帰ってから使う事になっている部室で同級生達と着替えていると、衝撃的な会話が飛び込んで来た。

(マジか……そんな……嘘だろ? 川辺に彼氏が出来たなんて……)

 川辺莉子。うちの代の剣道部の紅一点で、出身中学は俺と一緒。そして……そして、俺の初恋の相手にして、今も片想い中の人だ。

(そんな、そんな……)

 なんて事だ。中学2年生の6月に好きになって以来約2年、ずっと想いを寄せ続けてきた愛しの人に彼氏が出来てしまった。しかもその彼氏は部活の仲間であり友達の光山明人。せめて見知らぬ誰かなら良かったのに……

「おい、直道。なんかいつもより支度遅いけど具合でも悪いんか?」

 絶望的な事実に打ちひしがれてしまい、手が止まっていた様だ。

「いや、別にそういう訳じゃ……」

「なら良いけど。じゃ、鍵よろしく。お疲れ」

「あ、ああ。うん、お疲れ」 

 ショックで気づいていなかったが、今声を掛けて来た迫田以外、もう皆帰ってしまっていたようだ。

「どうしたら……どうしたらいいんだよ……」

 胴着をバッグにしまいながら、独り呟く。

「……いやまあ一旦落ち着くんだ、俺。とりあえず早く帰ろう」

 そう思い直して帰り支度を済ませ、部室を出た。

「いや、さっきより酷くなってんな」

 部室のドアの鍵を閉めつつ空を見上げると、部室に入った時よりも雨足が強くなっている。元々土砂降りだったのだが、更に酷くなってしまっている。

「えぇ……これ……」

 思わず立ち尽くしてしまった。というのも、俺は自転車通学なのでこの雨の中自転車を漕いで家に帰らないといけないのである。親に迎えを頼む事も出来るが、そんな気分では無い。独りで帰りたい。

「はあ……」

 好きな子に彼氏が出来てしまったという衝撃の事態に加えて大雨の中自転車で帰らないとならないとはなかなかの災難だ。折笠を差し、とぼとぼと駐輪場へと歩いて行く。

「……気をつけよ」

 雨に加えて、この心理状態だ。いつもよりずっと気合いを入れてチャリを漕がないと、絶対に事故る。流石に傷心を原因とする注意散漫により事故死、なんて事になっては困るので自転車に乗る前に気合いを入れた、のだが……

「ゲっ!? マズいっ」

「ズシャーーッ」

 行程の中程にある橋梁を渡った後の下り坂のカーブでスリップし、転倒してしまった。

「いってぇ……ああ、やっちまった……」

 死にもせず、怪我もすり傷程度で済んだが、患部は痛いし、合羽も破いてしまった。

「はぁー。気を付けてたつもりだったんだけどな……いや、気を付けてたからこれで済んだのか?……」

 どちらにせよ怪我をこしらえてしまった事には変わらない。今日は本当に酷い1日だ。

「……はあ」

 もう一度溜息をつき、自転車を起こし、覆いごとカゴから落ちてしまったバッグを拾って元に戻し、いつもより重いペダルを漕ぎ、家へと帰った。

 家に帰り着いた後は、努めて普段通りに過ごした。おかげで家族には何も悟られずに済んだ。いつも通り飯を食って風呂に入り課題やら何やらを済ませ、自室のベッドに倒れ込んだ。

「川辺……まじかよ……」

「そうさ、付き合ってるさ」

「そうさ、付き合ってるさ」

「そうさ、付き合ってるさ」

 明人のつっけんどんながら、どこか嬉しさを感じさせる言葉が脳内を駆け巡る。

「はぁ……でも信じれん……」

 悲しいが、きっと、きっと本当なのだろう。俺の大好きな人に彼女が出来てしまったのは、事実なのだろう。だが信じられない。

「……自分で確かめるか……」

 受け入れるのは嫌だが、このまま信じたく無い信じたく無い言っていても仕方がないので、明日から事実関係を確かめるべく聞き込みをしようと決め、眠りについた。

 2日後、たまたま帰りが一緒になった中学からの友達で明人と同じクラスの奈良に例の件を聞いてみた。

「え、ああ、何かそうらしいな。直接聞いた訳じゃ無いし、いつからとかはしらんけど。でもそれがどうかしたのか?」

「いや、まあ別に、何となく気になったというか」

「そうか。でも光山くんちょっと羨ましいよな」

「え?」

「だって可愛いだろ?」

「あ、ああ。まあな」

 その翌日、登校する途中の信号で出会った中学からの、そして数少ない女友達且つ川辺の友達でもある西崎に例の件を聞いてみた。

「うん、そうよ。でも、同じ部活なのに知らなかった訳?『付き合ってる“らしい”んだけど』って」

「悪かったなあ……良いだろ別に」

「鈍感だと、彼女出来ないよー。」

「くっ……」 

 ……西崎は良い奴なのだが、たまの毒舌が玉に傷だ。それにしても、ただでさえ傷心なのに心をえぐられてしまうとは。まあ、 

「二人が付き合っているという事を明人自身から聞いたんだけど、川辺の事が好きな俺には信じられなくて、でも本当の事を知りたいから裏取りをしてるんだけど」 

 なんて言える訳ないから、“噂を聞いて”本当かどうか知りたいんだけど、と嘘をついた結果ああ言われてしまった訳なので、まあ因果応報と言えばそうだろう。

 その日の帰り、俺はある光景を見た。明人と、それから、それから……川辺が一緒に歩いている所だ。

「楽し……そう、だな……」

 2人とも、良い顔をしている。そして2人から醸し出される雰囲気は、友達同士等のそれでは無い、何と言うか甘さを感じるような、“特別感”を感じるような、そんな雰囲気だった。

「認めるしかない、か……」

 集まってしまった3つもの証拠の重さにうなだれながら、とぼとぼと家に帰った。

「何と言うか、実際に見るのが一番効いたな……」

 その日の晩、ベッドに寝転がって天井を見上げながら、学校帰りに見た光景を振り返った。

「終わり、なのか。これで……」

 試合終了、ゲームセット、KO……そんな言葉が思い浮かんだ。が……

「いや、違うな……俺は、おれは……」

 涙が零れて来た。

「くっ……俺は、土俵にすら乗れなかった……」

 そう、俺は告白する事すら出来なかった。好きな人に、思いを告げる事すら出来なかった。本当に文字通り何も出来なかった。告白して振られるならまだしも、告白すら出来ずにこの恋が終わってしまうなんて……好きになって約2年、誰よりも川辺の事を愛してきた自信がある。それなのに、こんな形で終わってしまうなんて……自分が情けなかった。

「畜生、俺がヘタレだったばっかりに……」

 川辺莉子とは友達だ。だがもの凄く親しいという訳では無かったから、少しずつ距離を詰めて行って、夏休み前位に告白出来たら良いなと考えていた。焦って強行して振られては元も子も無い、と。しかし、結果的にそれが裏目に出てしまった。正直言って油断していた。中学時代も誰かと付き合っている、という話は聞いたことが無かった。勿論可愛くて美人さんなので男子人気も結構高かったはずだが、一方で西崎よろしく歯に衣着せぬ物言いをするので一部の男子からは恐れられていたし、どちらかと言うと堅物でガードも堅そうなのでそういう話を聞かなかったのだろう。だからこそ、誰かに川辺を先に取られてしまうという可能性は考えていなかった。完全に自分と川辺の間でしか物事を考えていなかった。

「でも、幾ら何でも展開早すぎないか? まだ5月の上旬、高校入って幾らも経ってねえじゃねえかよ……」

 しかし、事実二人はもう付き合ってしまっている。これでも割と悪知恵が回るので、一瞬あれやこれやが思い浮かんだが、今から強引に何かやらかす訳にもいかない。自分が泡を吹いて苦しむのは一向に構わないが、川辺を悲しませる訳にはいかないから。

「諦めなきゃ、いけないのか……好きなのに、こんなに、大好きなのに……川辺の事だけ見て、ずっと走って来たのに……」

涙をダラダラと零しながら常夜灯の豆球を見つめていると、中学からこれまでの事が思い出されて来た。

 あいつを……川辺の事を好きになったのは中学2年の6月中旬のある日、貸していた学ランをわざわざ家に返しに来てくれた日の事だった。

 何故学ランを貸していたのかというと、少し前に中学で行われた「壮行会」という行事で彼女にそれが必要だったからだ。壮行会というのは6月末から始まる中学総合体育大会の市内予選に向けて、大会に出場する3年生達を激励する会だ。その会において1・2年生の有志が演舞を行うのだが、その際の衣装が男女共に学ランなのである。しかも本番だけで無く練習でも意外と着るという。なので男兄弟が居るとかで自力でその準備が出来る女子以外は、クラスメートか部活の仲間辺りから学ランを借りないといけないのである。当時俺と川辺は同じクラス且つ、部活が同じ剣道部という事で一応1年からの知り合いでもあったし、通い始めた時期こそ違うが同じ剣道クラブに通ってもいた。それに身長も余り変わらなかったからまあ借りる相手として都合が良かったんだろう。学ランを貸してくれと頼まれた時は既に彼女の事が気になっていたから、喜んで貸した。

 川辺と知り合ったのは、中学1年生の時だった。出会った頃はまさかその後彼女を好きになる事になるとは思ってもいなかった。何せ、ちょっとばかりやり合ったからだ。

 俺と川辺はそれぞれのクラスで、級長・代議員・書記で編成されているクラス委員の中でたまたま同じ書記のポストに就いていた。そして各クラスの書記を集めた書記会という物があり、その場で宿泊学習の際に行うレクリエーションの競技決めをしていた。ある日の会議で俺と川辺は、それぞれ別の案と支持者を背負って真っ向からぶつかったのだった。結局激しい議論の末俺の案が勝って採用されて幕を閉じたのだが、それまであまり女子とやり合った事が無かった上、討論の類は得意な自分にかなり食らいついて来た川辺の事がとても印象深く感じられた。さらに、この時すでに彼女から見受けられた竹を割った様な性格も、同じく印象的だった。最も、その時は恋愛感情は一切湧かなかったが。加えてこれは後から本人に聞いた話だが、彼女も「中々やる奴がいるなぁ」とは思ったらしいが、別に何か悪いイメージを抱いたりはしなかったそうである。

 そんな奇妙とも言える出会いからしばらく、特段川辺との間には何もなかった。

 話が新たな動きを見せたのは、俺達が中2に進学した頃の事だ。俺達は同じクラスになり、川辺が俺が行っている剣道クラブに入って来た。接点が多くなると、人はその人の事をそれまでより気にする様になる。……少なくとも、俺はそうだ。元々因縁? めいた物もあったので、俺は川辺の事を良く観察する様になった。そうする様になってから、彼女の内面の魅力に気づき、気になり始めるのに時間はかからなかった。

 元々、白い肌に切れ長の目、綺麗な黒い瞳に漆黒の黒髪のミディアムヘアと、見た目が可愛くて美人さんなのは知っていた。一方、中身の事はあまり知らなかった。だが、その中身も外見に負けず劣らず素敵な物である事が分かった。彼女はいつも、どんな事に対しても妥協せず一生懸命取り組んでいた。その事がとても、その時の俺の目にカッコ良く映ったのだ。人はすぐ楽をしようとする生き物だ。何かを頑張ったら、別の何かの手を抜こうとしてしまう。かく言う俺もそうだった。元来の性格上何事も真面目にこそすれど、一生懸命にはやれていない事も多々あった。でも川辺は違った。勉強も、部活も、生徒会活動も……何もかも、一生懸命やっていた。そう、その頃の彼女は生徒会の役員をやっていたから、他の一般生徒に比べて忙しかったはずである。それなのに一切妥協しない。そんな川辺の姿は本当にカッコ良く、その上輝いて見えた。そして、そんな彼女に俺は憧れた。

 そう、この時点ではまだ彼女に対して強い恋愛感情を抱いてはいなかった。もとい多少彼女の事を異性として意識し始めてはいたが。でもそれよりも憧れの方が強かったはずだ。ともかく川辺に憧れた俺は、彼女の様に何事も妥協せずに一生懸命取り組む事を心に決め、勉強や部活にその心持ちで挑む様にした。

 そんなこんなで月日が経ち壮行会が行われ、そして終わった。わざわざクリーニングに出してくれたという川辺に貸した学ランは、最初はごく普通に学校で返して貰う予定だった。だが、俺が風邪で学校を休んでしまったり、向こうが持って来忘れてしまったりして中々受け渡しが出来無いでいた。

 そこで、珍しく部活の無かったある土曜日の事、彼女がわざわざ俺の家まで学ランを返しに来てくれたのである。あの時はとても驚いた。家まで返しに来てくれるとは思ってもみなかったし、そもそも自分の家を教えてすらなかった。まあそれに関しては何て事は無く、とある俺と小学校が同じで同じ登校班だった女子剣道部員が川辺に俺の家を教えたという事であった。

 そして、この日俺は彼女の事が好きになった。生まれて初めての、恋が始まった。玄関を開けた瞬間、それまでの彼女への気持ちが、完全に「好き」に昇華した。……恋のトリガーは案外こういう物なのだろう。初めて見た彼女の私服姿、単純かもしれないがそれが俺にとってのトリガーだった。白のブラウスに黒のワンピース、学校では結んでいるが今は下してある髪、そしていつも通りの綺麗な瞳……。彼女を見た瞬間、思わず「可愛い……」と言ってしまいかけた。普段と違う姿、というものはこんなにも破壊力があるのだろうか。こんなにも、魅力的なのだろうか。惜しむらくはただ制服を返して貰うだけだったので、彼女の姿をほんの5分程しか見れなかった事だ。あの姿をもっと見ていたかった。とはいえ、あの時間がもっと長く続いていたら、好きの気持ちが急上昇し過ぎておかしくなってしまっていたかもしれないが。

 この日から俺は彼女に、川辺にどんどん惹かれていった。日に日に彼女の事を考える時間が増えていった。彼女にどんどん恋焦がれていった。好きで好きで堪らなくなっていった。そして、告白したいと思うようになった。だが……だが、元来のヘタレ差に加え、その頃には一応「友達」と言って良い距離感になっていたものの、凄く親しくはなれていなかったのでそう出来ないでいた。

 結局告白出来ないまま3年生になってしまい、クラスも別になってしまった。そして月日が経ち、進路を決める時期になった。

「川辺はさ、やっぱ西高なん?」

「んー、そうかな。星川は?」

「実はまだ考え中。まあ西か中央かってとこだけど」

「星川なら西行けるっしょ。それに中央じゃ剣道部ないじゃん? 続けるんでしょ、剣道」

「うん、まあ。川辺は?」

「私? 私は続けるよ」

 とある日の部活終わり、川辺と進路の話をした。彼女は頭が良いので、予想通り市内の公立高偏差値トップ、西山西高校が第一志望のようだ。俺も自分で言うのも難だが彼女程では無いにせよ一応その頃は頭が良かったので、その次に偏差値の高い西山中央高校とのどちらかを第一志望にするつもりだった。だが、順調に行きそうな川辺に比べて、俺の場合は苦手教科の数学を克服しつつ、他の教科も底上げしていく必要があった。

 その日の夜、第一志望校をどうするか改めて考えた。中高にするなら程々に頑張れば受かるだろう。でも西高に受かるには結構頑張らないといけない。市内でツートップの二校だが、西高の方はこの愛三県内で考えると偏差値的には8位か9位、中高はその7、8個位後ろなので割と開きがある。受かったとしても、授業について行くのに苦労するかもしれない。それに、将来的にそこそこな四大に行ければ良いと思っている俺にとっては、わざわざ西高へ行かずとも中高で事足りる。川辺にはああ言ったが、剣道を高校でも続けるかどうかは実のところまだ未定だった。だが……

「中学卒業までに、川辺に告れる気しないんだよな……」

 と、心の中でつぶやく。そう、とてもじゃないが告れる気がしない。今年はクラスが違うし、もう直ぐ部活も引退、それに伴って剣道クラブにも多分行かなくなる。そしたら川辺との接点が無くなってしまう。

(まだ卒業までは時間あるけど、事実上チャンスがあるのは引退までの残り1、2週間か……でも無理に告って爆死する訳にもいかんしなぁ……)

 現状を確認しつつしばらく考え、結論を出した。

「よし、受験勉強頑張って西高に行こう!」

 冷静に考えて、今告っても良い結果は望めない。そうであるならば、高校で告れば良い。川辺と同じ高校へ行き、剣道部に入って剣道を続ける。そしたらまた川辺と接点が持てる。もっと仲良くなるチャンスが来て、そして告るチャンスもやって来るかもしれない。そう考えて、俺は第一志望校に西山西高校を選んだ。唯々、川辺に告る為に。

 部活を引退して少し経ち、本格的に受験勉強を始めた。それは、思ったよりずっと順調に進んで行った。もっと苦戦したり、途中でガス欠になったりしてしまうのではないかと心配していたのだが、全くそんな事は無かった。苦手な数学も、多少時間はかかったものの日々コツコツと取り組んで分からない所を潰していく事が出来た。「好き」の気持ちの力はすさまじかった。川辺の事を思い浮かべるだけでどんどん力が湧いて来て、受験勉強を頑張ることが出来た。後から振り返っても、この時期が人生で一番やる気に満ち溢れていた。川辺を想う気持ちが、川辺を愛する気持ちが自分から凄い量の活力を引き出してくれた。もしも川辺の事を好きになっておらず、何か別の理由で西高を目指していたとしたら、どんなに発破を掛けられたとしても、こんなに頑張れなかっただろう。

 年が明けてから受験本番までは、あっという間だった。最後まで失速する事無く当日を迎えた俺は、しっかりと受験勉強の成果を発揮する事が出来、念願叶って西山西高校に合格した。そして、川辺も西高に受かった。俺が昨夏に描いた絵が、現実味を帯びつつあった。


 4月になり、いよいよ西高に入学した。入学式の日、俺は更に川辺の事が好きになった。単純だと言われかねないが、彼女は中学時代ミディアムヘアだった髪型をショートカットに変えてきており、それがとても似合っていたのだ。今までの髪型も似合っていたが、輪をかけて、である。

 入学式から程無くして、予定通り彼女と共に剣道部に入った。俺は勝ったと思った。何故なら川辺とはクラスこそ違えど部活は同じで、さらに中学の時に剣道部だった奴で西高に進学し且つ剣道部に入ったのは俺と川辺だけ。関係性だけで言えば自分が他の男子に比べて抜きんでているのはまず間違いないだろうと思ったからだ。その故に、俺は慎重に事を進めようと思った。ここで焦って爆死してしまったら受験勉強を頑張った意味が吹き飛んでしまうし、彼女は一目惚れとかで急に誰かを好きになって付き合いだすタイプでは無いだろう。だからゆっくり行くんで良いんだ、夏休み前までに告って、それを成功させるのを目標に、川辺との距離を一歩ずつ縮めていこう、そう思った。もう直ぐ悲劇が待ち構えているとも知らずに。

 とはいえ4月中は平和だったし、良い事が多かった。土曜日の部活の後に途中まで一緒に帰った事もあったし、無料チャット&通話アプリ「Beehive」というSNSアプリでたまにだがメッセージのやり取りもするようになった。順風満帆だと思っていた。

 5月になった。そして、「あの日」がやって来てしまった。川辺に彼氏が出来てしまった。今から考えれば慢心以外の何物でも無いのだが、そういう事が起きるかもしれないという事は全く想定していなかった。ショックだった。自分は有利な立場にあると思っていただけに、本当に本当に衝撃的だった。

 川辺の方からアタックしたのか、それとも明人の方からだったのかは分からない。どちらにせよ、俺の夢は高校入学から2ヵ月と経たずして潰えてしまった。全身から力が抜けて行き、心にぽっかりと穴が開いた。約2年、ずっとずっと大好きだった女の子に、気持ちを伝える事すら出来無かった。もの凄くショックだった。告って振られるならまだ諦めがついたかもしれない。でも、その舞台に立つことさえ出来なかった。悔しかった。対抗馬が現れる事を全く警戒せずのほほんとしていた自分を呪った。


 何もかものモチベーションが、一気に落ちていった。当たり前だ。川辺に告るという目標があったからこそ受験勉強を頑張ってこれた訳だし、高校へ入ってからも彼女への想いを力に変えて授業や部活を頑張ってきた訳で、言い方を変えればもう半年以上、その理由でしか頑張ってこなかった。その弊害か、それ以外の事は頑張る理由たり得なくなっていた。全ては川辺に告る為に。彼女への燃えるような気持ちだけが、俺のエネルギーだった。でもそれを、諦めなくてはいけなくなってしまった。ただ失恋しただけでは無く、自分が日々を頑張る理由も共に失ってしまった。どうしたら良いのか分からなくなった。

 失意の日々をを、俺はどうにか這いつくばって過ごしていた。今まで無限大の様にあったモチベーションが一気に0になってしまった中で生活していくのは、とても辛かった。授業や部活に、どんどん身が入らなくなっていってしまった。当たり前と言えば当たり前だ。他に西高へ行きたい理由があった訳でも無いし、剣道を続けたい理由があった訳でも無い。 唯々川辺に告る為だけに、その道を選んだのだから。

 悲しみに暮れる日々を過ごしながら、俺はある誓いを立てた。

「2人の関係性がどれだけ進展していっても、明人に対して変な嫉妬心を抱いたり、2人を逆恨みしたりしない」、と。

 そんな事は当たり前かもしれないが、悲しみは人を狂わせかねない。だから一応自分に釘を刺しておくのだ。こうなってしまったのは、全て自分の所為なのだ。

 また、こう思う人もいるだろう

「高校生のカップルなんて、大して長続きしないだろう? 別れるのを待てばいいじゃないか」、と。

 でも、俺はそうは思わなかった。2人の関係は、悔しいが長く続く強い予感がした。……そして悲しい事に、俺は昔から、「そうなる事で自分が得をしない場合に限り」予感が当たる人間だった。

 誓いを立ててから数日後、俺はあるお願い事をした。

「2人の関係性が、少しでも長続きしますように」 

 色々考えたが、こうなってしまった以上陰から2人を応援するのが筋だ、という結論を出したのだ。変かもしれないが、愛する人が採った道が少しでも長く続いていくようにと願ったって、罰が当たったりしないだろう。……まあ、誓いを立て、願い事をする事で自分なりにケジメを付けようと思ったのだ。だが……

 ケジメを付けた所で、何も変わらなかった。そう簡単に彼女への気持ちを忘れる事など出来ないし、相変わらず深い深い悲しみの沼に沈んでいたし、活力は圧倒的にゼロだった。どうやったら立ち直れるのかも分からないまま、惰性でなんとか授業を受け、部活の練習をこなし、課題や何やらをやっつけ仕事で終わらせる……そんな日々を過ごしていた。そして気付いたら、もう6月になっていた。


 人がどれだけ悲しんでいようと、時間という物は容赦なく進み、予定されている物事は否応無しにやってきてしまう。6月に入って直ぐに文化祭と体育際の合併行事、通称西西祭に向けての準備が始まった。正直言って祭りなんて気分では無いのだが、致し方ない。

 うちの高校では、第一日・文化祭、第二日・体育祭と二日続けて行われる西西祭において、基本的に生徒は何か一つ出し物に関わらなければならない。演劇であったり、展示であったり……傷心だからと言って、何もしないのは許されないのである。

 俺は、演劇をやる事にした。中学生の時、卒業生を祝う会で劇やコントをやった事があったからだ。

西西祭は3学年の縦割り団でポイントを競い合い優勝団を決めるのだが、演劇だけ人数確保の為に2団合同らしい。何だか変な気もするが、演者だけでは無く裏方も捻出しなければならないので仕方が無いのだろう。

 俺は、演者をやる事になった。丁度良い、役の練習でもしていれば少しは気も紛れるかもしれない。まあそんな事はさておき、俺のクラスからは俺の他に9人演劇を選び、内男子2人女子2人が俺と同じく演者をやる事になったのだが、この4人が揃いも揃って良い人達だった。皆ノリが良くて話していて楽しい。未だ失意の中にいた俺も、彼らのお陰で少しは元気になった。そして更に、これは思いもよらなかったが、ある事が起こって俺は日々を頑張るモチベーションを取り戻した。恋をしたのだ。

 大失恋からまだ1ヶ月位しか経っていないのに別の人に恋するとはどういう事だ、と言われるかもしれないがそんな事言われてもどうしようもない。何故なら気付いたら恋に落ちていたからだ。

 好きになった相手は、同じ演者組の一人、加瀬菫さんだ。演劇で一緒になるまでは、クラスメイトではあるものの席も近くないしその他の接点がある訳でも無いので話した事すら無かった……のだが、3週間の西西祭準備期間が折り返しを迎える頃には、彼女の事がすっかり好きになっていた。……実の所、今になっても明確に“いつ”彼女の事が好きになったのかは分からないままだ。

 彼女はまず、見た目が可愛かった。川辺とはまた違ったタイプの可愛い子だ。髪型は黒髪ロングの物をポニーテールやツインテールに結わえている。肌は少し日焼けした、健康的な色合い。目は二重では無いのだがパッチリとしているアーモンド目。瞳は……瞳だけは、川辺に似た、綺麗な黒い瞳だ。

 更に、彼女と彼女とは話が良く合った。互いに読書が好きな事や、水泳をやっていた/やっている事(俺は小学時代スイミングスクールへ通っていて、川瀬さんも同じくそうで、且つ彼女は中高と水泳部)等……そして土日の練習の開始前の時間とかに、何度か運よく彼女とサシで話せた事も、彼女に惹かれていった要因だろう。そして勿論……大失恋の後で、それから立ち直れずに苦しんでいるという、特殊な心理状況だったというのもあるだろう。

 もし俺がそういう状況でなければ、彼女の事を好きにならなかったかもしれない。「可愛いくて、話が合う女の子」で終わっていたかもしれない。まあそれは分からない。とにかく現実には俺は彼女にゾッコンになっていた。失恋によって空いた大きな大きな心の穴を、川瀬菫という存在が埋めていった。傷ついた俺を、彼女はそうとは知らず癒してくれた。俺はもう一度立ち上がれる、立ち上がろうと思った。まだ完全に失恋から立ち直れた訳では無いが、彼女に恋したお陰でもう一度前を向いて頑張ろうと思える様になった。そして、今度こそは告白という土俵に立とうと心に誓った。川辺への想いも、思い出として心にしまった。やはり、「好き」の気持ちの力は計り知れない。あれ程沈んでいたのに、こうしてもう一度頑張ろうと思えるのだから。


 俺が新たな頑張る理由を手に入れ、再び日々を気合いを入れて過ごすようになって少し経ったある日の事。その日は夕方から、天気予報には無かった雨が降って来ていた。文化祭本番まで後少し、俺達はその広さから「大教室」と生徒達から呼ばれている第2多目的室で演劇の練習をしていた。いつもなら演者組5人揃って練習場所へ行くのだが、その時はたまたま俺と加瀬、それから長門修一郎の3人で先に大教室へ行った。荷物を置いた後、まだ他に誰も来ていないのでその3人で話をしていた。すると長門が、とんでもない情報をぶっこんできやがった。

「あ、そういえばさ、加瀬さんって雄介……檜川雄介と付き合ってるんしょ? ほら、俺雄介と同じテニス部で仲良くしててさ、この前ヤツから聞いたんだよね。良いよなー雄介の奴、加瀬さんみたいな可愛い子と付き合えて……」

「!?」

 耳に飛び込んで来た言葉が衝撃的過ぎて、言葉が出ない。まさかそんな……

「ふふ、そうだよ~。雄介からもう聞いてるだろうけど、中2の時からね~。でも雄介の奴、また勝手に付き合ってる事人に喋って……」

「あ、なんかゴメン」

「長門くんは悪くないよ。アイツ、友達にすぐ喋っちゃうの。私的にはあんまり広まるのもあれだから出来れば止めて欲しいんだけど……」 

「ハハハ……」

「あ、だから2人共、この事は他の人には内緒だよ」

「はーい」

「……」

「おい星川、だってよ、聞いてたか?」

「え? あ、ああ。勿論喋らないさ」

 この後も会話が少し続き、そして皆がやって来て演劇の練習が始まり、そして終わり、家へ帰り諸々を済ませたが、ずっと上の空だった。


 0時を大きく回った頃、俺は自分のベッドに突っ伏し、誰にも聞こえないように声を押し殺しながら泣いていた。家族はもう寝ているが、万が一にでも聞かれたく無かった。

「クっ……ウっ……ウっ……」

 加瀬さんに、彼氏が居た。ショックだった。凄くすごくショックだった。前回の失恋よりもショックだった。またしても、俺の恋は土俵に立つ事すら出来ず散ってしまった。厳密には今回はそもそも好きになった時点で既に加瀬さんに彼氏が居た訳なので少々ケースが違うのだが、そんな些細な事はどうでも良かった。また俺は、恋した、愛した女性に「好きです。付き合ってください」と言えずに恋を諦めなければいけなくなってしまった。

「ウっ……どうして……どうしてだよ……」

 悲しい呟きが漏れる。本当に、ほんとうにどうしてなのだろうか。片想いが不成就に終わるパターンなんて幾らでもあるはずなのに、どうしてこんな悲惨なパターンに2回連続でなってしまうのか。まあ今回の件は防ぐ事が出来たかもしれないのは確かだ。どんな方法でも良いから探りを入れて、加瀬さんに彼氏がいるかどうかを確かめておけば良かったのだから。それをしなかった自分が悪いと言われればそうなのかもしれない。でも俺は、彼女を狙って好きになった訳じゃ無い。気付いたら好きになっていたのだ。彼女について調べている暇などなかった。一目惚れとまでは行かないものの、それに近い速さで好きになったのだから。

「もっと早く、知っていれば……」

 彼女が付き合っている事をもっと早く知っていれば、俺は彼女の事を好きにならなかったはずだ。何と言うか最悪のタイミングだった。彼女の事が好きになり、日に日に彼女への想いを強めて行っていた矢先でこの事を知ってしまった。何故なのだろうか。何だか神様に「お前は恋愛なんかするな」と言われている感じがした。

「……っ、クっ……」

 涙が止まらない。折角見つけた新しい光だったのに。暗闇に沈んでいた自分をそこから救い、もう一度前を向かせてくれた光だったのに。その光を、諦めなければならないなんて。

 俺は失恋の傷を、意図的では無いにせよ結果的に新しい恋で埋めた。もしもその恋が成就すれば、その手は良い手だったという事になる。だがもしそうならなかったら、それはもう悲惨以外の何物でも無い。そして俺は今回、後者になってしまった。更に悪い事に、彼女への想いは、かなり大きな物になってしまっていた。当然その分俺の心はガッツリ彼女に寄りかかっていた。だから喪失感がもの凄く大きかった。

何と言ったら良いのだろうか。そう、例えば道路の補修工事で道路に出来た穴をアスファルトで埋めたつもりが実はアスファルトでなくて爆薬で、そいつが爆発してしまったとか、もしくは家のリフォームを行ったもののリフォームに使われた柱やら板やらに爆弾が仕込まれていて、同じく爆発してしまったとか……もっと言うのであれば……こう言ってしまうと露骨に彼女が悪いと言っているようでどうも気が進まないのだが、傷口に薬だと思って塗っていた物が実は薬ではなくて毒だったとか、まあそんな感じだ。……どう例えるにせよ、元々あった傷をさらに深く、酷くしてしまった感じだ。

 自分の心が、ガラガラと音を立てて崩れて行く感じがした。

「はぁ、俺、こんなにメンタル弱くなかったはずなんだけどな……」


 そう、本来の星川直道はこんなに打たれ弱くなかった。それどころか打たれ強く、メンタルの頑丈さには自信があった。というのも、小学生の頃気弱な性格が災いしてクラスメイトにいじられたり、父親の仕事の都合で転校したりした事があったので、メンタルがかなり鍛えられていたのだ。前者はわざわざ説明しないとして後者についてだが、転校先に慣れて周りに馴染んで行くのは中々に大変で苦労も多く、精神的負荷もかなりかかる。俺の場合、引っ越したのが6年生になる春休みだったので既に人間関係がガッツリ出来上がっている所に入って行かなければならず、尚更そうであった。まあ、どちらもあまり良いメンタルの鍛え方では無い……というかむしろ良くないメンタルの鍛え方だとは思うが、とにかくそれらの所為で中学生になる頃には並大抵の事ではびくともしない、かなり強靭なメンタルを手にしていた。

 だからこそ、この2度目の失恋で前回より大きなダメージを受けてしまったのが、何だか悲しかった。まあ前回のダメージがまだ残っていた……というか、きちんと本当の意味で立ち直った訳では無かったから、当然と言えば当然なのだが。

「何と言うか……今回は本当にダイレクトに食らっちまったもんな……」

 前回の失恋の時は、強靭な心の防壁が多少なりともダメージをカットしてくれた。心の防壁……誰しもが持っている物で、俺にとってのメンタルの強さの所以だ。メンタルの強さには色々あると思うが、俺のメンタルの強さの根源は外部からの干渉を徹底的に防ぐ、この心の防壁の圧倒的な堅さだった。その心の防壁が、今回はほとんど機能してくれなかった。何故なら、前回の大事件の時……川辺と明人が付き合っている事を知ってしまった時のあまりの衝撃に心の防壁が耐えられず、ガッツリ破損してしまっていたからだ。その結果メンタル本体にもダメージを受け、川瀬さんの事を好きになるまで碌に回復もせず失意の沼に沈んでいた。その間当たり前だが防壁の方も壊れたままだった。そこから彼女の事を好きになり、メンタル本体が回復していくのに従って防壁の方も少しずつ修復されて……は行かなかった。まあ実際そう感じていた訳では無く結果論だが、本体の修復に手一杯で、防壁にまで手が回らなかったのである。結果川瀬さんに彼氏が居る事を知ってしまった時俺の心の防壁は大破したままで、結果その事を知ったショックを全くカット出来ずに心の本体に通してしまった。まあ防壁が治っていた所で大してショックを緩和できなかっただろう。それに今回に関しては外からの直接的なショックに加えて、何と言うか“内から”ダメージを食らった感もあるので、尚更心へのダメージは酷かった。でもやはりあの瞬間の衝撃、川瀬さんに彼氏が居ると知ってしまった瞬間の衝撃を少しでも和らげる事が出来ていればこんなにダメージを負わないで済んでいたかもしれない。何事も初動が肝心だ。初撃を少しでも抑えられていれば、その後実感が湧いてくるに従って次から次へと食らったダメージも、少しは軽減出来たかもしれない。

「はぁ……俺、これからどうしたら良いんだろう……どうやって、生きて行ったら良いんだろう……」

 真っ赤な目で小さく呟いた。恋はまたしても諦めなければならなくなり、同時にまた頑張る理由、前を向いて生きる理由を失ってしまった。そして心に大きな大きな傷を負ってしまった。全然立ち直れる気がしない。この前沈んでいた沼より、もっと深い沼にやって来てしまった気がした。真っ暗闇の中、物凄く重い悲しみや辛さ、悔しさが自分を包み込んでいった。結局この晩は、ほとんど寝れなかった。


 次の日からは、毎日が地獄だった。何せ頑張る理由は失い、メンタルもものの見事にボロボロになってしまっているから何をするにも全然やる気が出ない。残りの演劇の練習と本番は元々そんなに重要じゃ無い役だったのもあり無理やり絞り出した空元気でなんとかやり切ったものの、そこから先はダメダメだった。授業も課題も部活も、惰性惰性惰性……勿論何とかしないといけないのは分かっているのだが、どうしたら良いのかが全然分からない。思いつかない。川瀬さんの事も早く諦めないといけないのだが、それすらも出来ないでいた。そんな中俺は、どんどん夜更かしをするようになっていった。何故かと言うと、単純にやる気が出ないので中々課題などのやらなければいけない事が終わらないという事に加え、陰惨な展開が繰り広げられる事が特徴のゲーム、所謂「鬱ゲー」と呼ばれるゲームの実況を動画サイトで観るのにハマって行ったのである。落ち込んでいる時に暗い物を観るのは変かもしれないが、どういう訳か明るい物を観るよりそういう物を観たいという心理状況だったのだ。何故なのかは分からない。一つ言えるとするならば、自分より辛い目に遭っている人を見つけてその人に対してマウントを取りたいとか、そういう訳では無かった。何だか分からんがとにかく暗い物を観たい、そんな感じだった。

 色んな鬱ゲーの実況を観た。その中で俺は、特に「レイン&レイン」という鬱ゲーの実況にハマって行った。「レイン&レイン」は鬱ゲーの中でも「ヤンデレ」と呼ばれる好きになった人への異常な執着をみせる女の子達が主人公を巡ってえげつない争いを繰り広げる、所謂「ヤンデレゲー」と呼ばれるジャンルの物だった。……ヤンデレゲーは恋愛シミュレーションゲームの一種だろ、と突っ込まれるかもしれないが、少なくとも俺にとってはヤンデレゲーは鬱ゲーの一種だ。

 「レイン&レイン」はストーリーがとても良く作り込まれていて、更にキャラクターのビジュアルも可愛かった。そして初めて触れた「ヤンデレ」という属性の女の子に、非常に魅力を感じた。確かに狂気を孕んではいるのだが、それすらも含めて彼女達の重い重い愛が、魅力的、魅惑的に映った。彼女達の愛と同じ位重くて深い愛ならばきっと、俺の心に空いた大きな穴も埋めてくれるんじゃないか……そう思った。

 俺は、「レイン&レイン」のキャラクターの中でも、神重月愛かみしげつきあいという子が一番好きになった。見た目もそうだし、劇中でみせる様々な表情がとても魅力的だった。勿論、彼女のヤンデレっぷりも最高だった。同作品の実況を全て観終わってしまった後は、実況動画の中から彼女の可愛いシーンや印象的な部分だけを探して観たり、そういうシーンが集められている動画を観たりしていた。更に、ネットで彼女のイラストを探して見たりもしていた。そんな生活がずっと続いて行った。

そんな訳なので、部活も勉強もテンで駄目な成績だった。当たり前と言えば当たり前だ。やる気が出ない上にほぼ毎日寝不足なのだから。授業ではしょっちゅう居眠りをしているし、部活では体が重くて満足にパフォーマンスを発揮出来ない。どちらもただでさえ西高の中では下位の部類なのにそうなので、何と言うか本当にダメダメだった。特に前期の期末考査も軒並み低空飛行で、追考査を食らわなかったのが奇跡だった位だ。

 しかし、そんな俺ではあったが不思議な事に授業や部活をさぼろうとか、そういう風には思わなかった。まあそれはひとえに元々の真面目な性格のお陰だろう。授業だって起きてる時は基本的に真面目に受けてるし、課題はキチンと出している。部活だって意図的には手を抜いていない。まあ、いっそのことサボって遊びにでも行ける神経をしていたらなあと思った事は何度もあるし、真面目にやっていると言っても熱意の一つも籠っていないのだが。


 そんなこんなで2学期になった。二度目の事件からもう2ヵ月以上経ってしまったが、心境に変化は無かった。つまり、メンタルはボロボロのままだった。ヤンデレゲー実況も愛ちゃんも、その日の楽しみにこそなるものの、心まで癒してはくれなかった。相変わらず万物低空飛行の日が続いて行き、あっという間に2学期の中間考査がやって来た。

 中間考査2日目の事。久々に加瀬さんとサシで話をする事が出来た。ありがたい事に加瀬さんをはじめ西西祭の時の演劇演者組4人とは西西祭終了後も良好な関係が続いていた。それでもって何故彼女とサシで話せたのかと言うと、放課後にどこかへ呼び出した……訳では無く、放課後2人とも教室に残ってテスト勉強をしていたのである。彼女がそうしているのを見るのは、その日が初めてだった。一方の俺はと言うと、定期考査の時はいつもこうだった。大して変わらないかもしれないが、学校でやる方がまだテスト勉強が捗る気がするからだ。最も、俺の場合テスト勉強と言ってもその実各教科のテスト課題を終わらせるのに手一杯で、+αの事なんてほとんどやっていないのだが。

 その日、放課後になってしばらくは俺達2人以外にも教室に残っている人が何人かいたが、そのうち帰ってしまった。二人っきりになって少し経ち、俺はふと思い立って加瀬さんに話しかけた。

「勉強お疲れ様ー。あのさ、加瀬さん」

「おつかれー。何?」

「実はその……ちょっと相談したい事があるんだけど、良いかな?」

「良いよー」

「俺……さ、好きな人が居て……」

「うん」

「でもその人……彼氏君が居てさ。だから……早く諦めなくちゃと思ってるんだけど中々諦められなくて。……それで、どうしたら良いもんかなあと思って」

「なるほど。って何か緊張してない?」

「え? ああ、うん。してる……恋愛相談なんてするの初めてだから」

「そうなんだ。ところで何で私に相談しようと思ったの? あ、嫌って訳じゃ無いよ? 単純に何でかなーって」

「それは……男友達に相談するのは何か絶対嫌だったし、女子の友達でこういう事相談出来るの加瀬さんだけだから……」

「絶対嫌なの?」

「嫌じゃない? 同性に相談するの」

「私は別に……それに女子は同性に相談する子の方が多いと思うよ」

「そうなんか。男子はどうなんだろうな……相談した事もされた事も無いから分からんな」

「ふふ、今度誰かに聞いてみたら? 後、私ってそういう事相談しやすそうに見える?」

「それは遠慮しとこうかな。で、そう見えると言うよりか、相談事全般しやすそうに見えるというか。多少込み入った内容の事でも、ちゃんと聞いてくれそうというか……」

「そんな風に見てくれてたんだ。嬉しい♪」

(ああ~可愛い……嬉しいって言われただけだけど何かメッチャ刺さる……) 

 なんて事は勿論口に出せないので曖昧に返し、話を本題へと戻す。

「うん、どうも。それでもって、どうしたら早く諦められるかなぁ……」

「無理して諦めなくても、良いと思うよ?」

「え?」

「だってその子の事、まだ好きなんでしょ? だったら、無理やり急いで諦めなくても良いと思う」

「でも……」

「確かに、好きだからってその子を奪おうとしたりするのはダメだよ。でも、その子を好きでいて良いのは彼氏君の特権じゃ無いと思うし、他の人は好きでいる事すら駄目なんじゃちょっと酷すぎると思う」

「……」

「それに、誰かを好きでいるのって悪い事?」

「いや、違うけど……」

「でしょ? だから、その子を好きでいる事まで我慢する必要は無いと思う。その子の事を好きでいるかどうかは、誰々がどうこうとかじゃなくて星川君の自由だと思うよ」

「!? ……そうか……」

「あくまで私の意見だけど、ね」

「ありがと。何か胸が軽くなったわ」

「よかった。どういたしまして」

 その後少し雑談をして、各々のテスト勉強に戻った。


「お先にー」

「あ、じゃあねー、お疲れさーん」

 別のクラスの彼女の友達に声を掛けられた加瀬さんは、その人と一緒に帰ってしまった。俺は教室にポツンと1人残った。そんな静まり返った教室で、俺は1人呟いた。

「ありがと、加瀬さん……お言葉に甘えて、もうしばらく加瀬さんの事、好きでいさせて貰うね……」 

 そう、結局ずっと加瀬さんの事は諦められないでいた。幸いうちのクラスには可愛い子が加瀬さんの他にも居たので、別の子の事を気にしてみるとかもやってみたのだが、全然効果が無かった。彼女には彼氏が居るのだから早く諦めなければとは思うのだが、加瀬さんの事が頭に焼き付いて離れないのである。だからいつも彼女の事を考えては、諦めなければならないという事実に打ちひしがれて傷ついたままの心を更にえぐられていた。

 こんな日々が続いては、おかしくなってしまう。そう思った俺は、いっその事どうしたら良いか本人にアドバイスをして貰おうと思い立ち、俺が誰の事が好きなのかは内緒にした上で思い切って彼女に聞いてみたのである。どういう返答を得られるかは全く分からなかったが、勇気を出して聞いた甲斐があった。それにしても、意外な答えだった。今まで俺はもし自分が好きな人に彼氏が出来てしまったら、その時は出来るだけ早く想いを断ち切らなければならないと、何とはなしに思っていた。だから加瀬さんが言っていた、「その子の事を好きでいるかどうかは、誰々がどうこうとかじゃなくて星川君の自由だと思うよ」という答えは、俺にとっては本当に斬新だった。でもその返答のお陰で救われた。無理して諦める必要が無いのなら、とりあえず今はまだ加瀬さんの事を好きでいて良い訳だ。そう思うと、少し心が軽くなった。

「……せめて部活位、ちゃんと頑張るか」

 別に何か新しく頑張る理由が出来た訳では無い。でも、どうしても諦められない彼女の事を考えては独り苦しむということをとりあえずはしなくて良くなったので、なんとなくそれ位はキチンとやろうと思ったのである。元々剣道そのものは好きだし、同期の仲間も良い奴ばかりだから。

 

 ある土曜日、学校からの帰りの事。俺は学校から出て直ぐの下り坂を自転車で下っていた。

「シャーーー」

(やっぱ下り坂はぶっ飛ばすに限るぜ……)

「ガタッ!」

「うおっと!」

 道路の段差で、自転車が跳ねた。

「クっ!? いてっ……」

 左手首の筋に、ピシッ! と痛みが走った。跳ねた瞬間、反射的に自転車のハンドルを握り込んで車体を抑え込もうとしたのがマズかったのだ。

「チキショーいてえなあ……」

 坂を下った所で自転車を停め、独り呟く。

「剣道やってるのにここ痛めたなんて言ったら、洒落にならんからなぁ……」

 そう、剣道は基本両手で竹刀を扱うが、主に力を入れるのは左手。左手でしっかり竹刀を振らないと、一本を取れない。だからもし左手首を本格的に痛めたとなると、中々によろしく無い。

「帰ったら湿布貼っとくか……」

 家に帰った後湿布を貼り、出来るだけ左手首に負担を掛けない様にして過ごした。そのお陰か、2日後には痛く無くなっていた。痛みが長引かないかと心配したが、どうやら大丈夫のようだ。痛めたのが土曜日で、日・月と2日続けて部活が休みだったのが運が良かった。うちの剣道部は基本月曜~土曜の週6日なのだが、たまに月曜日が休みになるのである。そんな訳で左手首負傷は大事に至らず、剣道への影響も無かった、はずだったのだが……

 左手首負傷から3週間程経ったある日の事、部活の最中に左手首に痛みが走った。

(まさか……治って無かったのか……?)

 その日だけのたまたまだと信じたかったのだが、次の日も、その次の日も痛い。どうやら左手首の筋は、完治していなかったようだ。剣道とか、その他左手首に負担が掛かる事をしていない時は基本痛く無いのだが、逆に言うのならそれらをしている時は結構痛い。しかも、日に日に少しずつだが痛みが増していっていた。本当なら病院に行った方が良いのだろうが忙しいし、ドクターストップが出るのが怖いので行く気も起きない。とはいえ流石にほっぽらかしにするのもマズいので、サポーターを買って部活の時などに着ける事にした。

 サポーターのお陰である程度痛みが緩和されるようにはなり、テスト期間など左手首の負担が減る時期になると一時的に痛く無くなったりもした。だが後日談としては、結局左手首の筋の慢性的な痛みとは長きに渡って付き合う事になってしまった。当然剣道の稽古にも影響が出て、コンディションが余程良い時でないと全力で竹刀を振る事が出来なくなってしまった。実は元々中学時代に蓄積疲労が原因で1年生の時に右膝を、2年生の時に左膝を故障していて、その古傷を抱えながら剣道をやっていたので、コンディションの良し悪しである程度力をセーブしなければならなかったのは元々のことではあるのだが。しかし、今回の一件でより一層剣道を全力でやれる日が少なくなってしまった。

「折角、部活のモチベーションだけは取り戻せてたのにな……」

 加瀬さんに相談したお陰で部活だけは頑張れるようになっていたのに足枷が増えてしまったのは、正直とても悔しかった。だがまあ、おかしくなってしまった物は仕方が無い。不幸中の幸い剣道が出来ないほど酷い訳では無かったので、騙しだましやっていくしかない。病院に行こうかとも思ったが、ドクターストップがかかると怖いので行かなかった。

  

 そんなこんなで月日が流れて行き、あっという間に高校3年間が終わってしまった。振り返ってみれば高1の一学期から二学期の途中までには色んなことがあったが、そこから先は特に何も無く過ぎて行ってしまった。中でも現実の対人関係に関してはまさしく本当に「無」という感じだった。そんな中特筆すべき事はといえば、心にはまだ多大なダメージが残っている事、まだ川瀬さんの事が好きだという事、そしてゲームオタク・声優オタクになった事である。

 川瀬さんに相談したお陰で多少心の負担は軽くなったものの何か根本的な解決をした訳では無かったので、メンタルの状況は結局のところ芳しくないままだったのだ。

 話は変わって高1の2月頃、俺は「セブンスグリッター」というスマホゲームに出会った。いわゆる音ゲー、リズムゲームの一種なのだが、このゲームはその要素にアイドル育成という要素がプラスされているものだった。別に俺は元々そういうジャンルの物に興味があった訳では無いのだが、剣道部の仲間の迫田に薦められて、何となく始めてみたのだ。そしたら重厚なストーリーと魅力的なキャラクター、そして数多の素敵な楽曲にグングン引き込まれ、すっかりハマってしまったのだ。ゲームを始めて幾らも経たないうちにお気に入りの楽曲が出来、推しのキャラクターが出来た。

 そしてそのゲームにハマってしばらくはそのゲーム内でその方面の趣味は完結していたのだが、ある時そのゲームの運営が行った配信形式のミニトークイベントを観て、推しのキャラクターの中の人、つまりは声優さんに興味を持ち、程無くして声優さんも推すようになった。

 推しのキャラクター、そして推しの声優さんが出来てからはボロボロなままの俺の心をそれらが癒してくれた。残念ながらメンタルが正常に戻るところまで行った訳では無いが、推しのお陰で極端に気分が沈む事が無くなってメンタルが安定するようになった。失恋が相次いだ時は生きている意味が無いとすら思った事もあったが、推しに巡り合えてからはそうは思わなくなった。推しが沢山元気をくれるから、何とか大変な高校生活を乗り切る事が出来た。絶望的な出来事が連続した時には大学受験の事なんて到底考えられなかったが、推しが支えてくれたお陰で平凡な所とはいえ何とか高校卒業後の行き先を確保する事が出来た。

 振り返って考えても、あの時セブンスグリッター、通称“ナナグリ”と出会えていなかったら、高校三年間を走りきれなかったと思う。それほどまでに推しの存在は大きく、言い換えれば俺の心の傷は深かった。


 そんな訳で俺は傷を抱えながらも、大学生になった。大学の場所は首都・東新都の南隣、那賀県の浜沢市だ。到底実家からは通えないので春休みの中程から、同市に隣接する暮野市で独り暮らしを始めた。隣の市とは言っても電車で40分程かかるので、自転車で20分だった高校時代から考えると徒歩移動も足して考えると通学時間が倍以上になってしまった。まあもっと時間をかけて通学する人も居るので、あまり贅沢は言えないのだが。

 大学生になり通学時間が伸びてしまったのは悪い事だが、良い事もあった。推し関連のイベントに行けるようになったのである。イベントはどうしても都内やその近隣が多いので、そこから離れている俺の地元から行くとなると移動に時間もお金もかかるので行くのが困難だった。金の方は何とかする事も出来たのだがなまじ高校が進学高だった所為でとても忙しくて時間の確保がままならず、結局高校時代はイベントの公式生配信を観たりするのがやっとで一度もイベントに現地参戦する事が出来なかったのだ。それが大学に進学した事で距離的な問題を解決する事が出来た。加えてバイトも始めたので、高校時代に比べて自由に使える金が増えた。この2点によって、大学生になった事で推し関連のイベントに行けるようになったのだ。1年生のうちにライブにも行ったし、トークイベントにもお渡し会にも行った。この大学1年次の1年間は嫌な事もほとんどなく、イベントに行って好きな声優さんに直接会えたりしたお陰で、全快にはまだかかる感じではあったとはいえメンタルは終始回復傾向にあり、高校時代から比べるとだいぶ心の状態は良くなった。勿論大学でもバイトでも何だかんだ気合いをいれないといけない事は沢山あるものの、元気をくれる推しのお陰でいつも頑張れた。

 

 ところでその俺が始めたバイトであるが、何のバイトかというと朝の通勤・通学ラッシュ対応要員の駅員のバイトだ。仕事内容としては、列車進入時・発車時の安全確認や列の整理とか、押し込みとかだ。……何を押し込むのかというと、ずばりお客様とそのお荷物だ。その時間帯全部の列車がそういう訳では無いのだが、混雑具合によっては車両のキャパシティの限界中の限界までお客様が乗り込むので、こちらがドア口から押し込まないと車両のドアが閉まらないのだ。これに加えて列の整理も結構せせっこましく動いて且つ声を出さないといけないので割と体力を使うバイトだ。それにそもそも時間帯が時間帯だけに早起きしないといけないので楽なバイトでは無いのだが、給料が良い事に加えて単純に鉄道が好きなのでこのバイトを選んだ。

 

 2年生になり、少し経ったある日の事。夜飯を食い終わって片付けをしていると、高校時代の友達の一人である鈴久友則から電話がかかって来た。

 しばらく思い出話や世間話をした後の事。鈴久が号外級の話題を振って来た。

「そういえばさ、明人と川辺別れたって。えっと、かれこれ1ヶ月位前に」

「は?! マジで?? ホントか?」

「ホントだよ。わざわざそんな事で嘘つかんわ」

「いや、でもだってメッチャ仲良さそうだったじゃん」

「別に喧嘩別れとかじゃないから安心しろって。星川が川辺の事心配するのは分かるけどさ。2人は中学からのダチな訳だし」

「まあそんな事はいい。それより何で別れたか知ってるのか?」

「何となくなら」

「教えてくれ」

「ホント大雑把なんだけど、まあ遠距離だとやっぱ関係を続けるのが大変って2人共が思ったから、らしいよ。」

「そうなんか……」

「ぶっちゃけ俺もびっくりしたぜ、聞いた時は」

「明人から直接聞いたのか?」

「うん、そうだ」

 鈴久は明人と中学が同じで、その時からのダチらしいので込み入った話も出来るのだろう。……やっぱり個人的には男友達に恋愛相談なんてもっての他だと思うのだが、まあそういう抵抗の無いヤツもいるのだろう。

「……わざわざ教えてくれてありがとう」

「いやいや。あ、それでさ、全然話変わるんだけど……」

 その後は、ひとしきり他愛も無い会話が続いた。

「久々に喋れて楽しかったわ、じゃあな」

「俺も。じゃあ」

 スマホを置き、ベッドに寝転んだ。

「マジか……別れたのか、アイツら……」

 大学に進学してからの川辺達の動向は、そういえば全然知らなかった。……彼女達の進学先は流石に知っていたが。川辺は地元の西山市立大学、明人は地元の愛三県の西側の2つ隣の県・帝西府にある国公立、帝西大学だ。西山市立は県内2番目か3番目に頭の良い所、帝西に至っては東新都の東都大学と共に「東の東都・西の帝西」と並び称される日本きっての名門大学だ。

 何故彼女達の動向を知らなかったのかと言うと、大学に進学してからはどちらともほとんど連絡を取っていなかったからだ。大学に入学してからこれまでに連絡を取ったのは1年の正月の時だけだ。それにその時も軽く年始の挨拶をしただけで、その他の事は特に話さなかった。まあ話した所で恋愛事情を聞き出せたかは分からんが。

「ああ……ショックだなぁ、何か……」

 川辺達2人の関係が少しでも長く続いてくれる事を願っていた俺にとっては2人が別れてしまったのはショックだったし、残念だった。俺は川辺の事を好きで無くなった訳では無いが曲りなりにも諦めを着けていたので、彼女が別れたからと言ってじゃあ告ろう、という気にはならなかった。

「4年か……もう少し、長続きして欲しかったな……」

 学生同士の交際で4年間続いたというのは、決して短く無いどころか、多分きっとむしろ長い方なのだろう。でも2年間の想いを告げられず人知れず悲しみに暮れた身からすれば、正直4年というのは短かった。

 そんな事を言っても仕方がないのは分かっている。決めるのは俺では無く、彼女達なのだから。そして彼女達は選択した。関係を終わらせる事を。だからもう終わってしまった物を他人があれこれ言ったってどうしようもない。どうしようもないんだ……

「……はぁ……俺、そんなに聞き分け良く無いぜ……」

 頭ではどうしようもないと分かっていても、中々それを納得出来る心境にならなかった。やはりあの失恋が全ての始まりである以上、どうしても4年という歳月に短さを感じてしまう。じゃあ何年続いたんだったら納得出来たのかというと、それはそれで分からない。でもとにかく、4年では短いのだ。これが一つの失恋だけなら4年で十分だろう。でも実際には俺はもう一度絶望しているのだ。二度目の絶望の直接的な原因は別にあるとはいえ、そもそも一度目の絶望が無ければ、つまりあんな恋の終わり方でなければその先どうなっていたか分からない以上、2つの絶望分2人には長続きして欲しかった。そんなのはエゴだと分かっていても、である。本当に自分勝手だと思うが。


 そういう訳でなんだか落ち込み気味になってしまっていた俺だが、ある時そうしょげていられなくなる出来事が起こった。何事かというと、バイト先に可愛い女の子が入って来たのである。東村真奈というその子は都内の大学に通う、一歳下の子だった。最初はただ可愛いなあと思っていただけだったのだが、割とシフトが被る事が多かったり、うちのバイトでは新人の人を2年目以降の人が教える「教習」というシステムがあったりしてそれなりに話す機会が多かったりした事もあって、気付いた頃、具体的に言うと彼女がバイトのメンバーに加わってから1ヵ月程たった頃には好きになりかかっていた。

「さてと、どうすっかなぁ……」

 本格的に好きになって良いものかどうか、俺は考えあぐねた。過去の失恋が頭をよぎったからだ。今の自分の心は、川辺達が別れてしまった事でダメージを受けたとはいえ、推しキャラや押しの声優さんが元気をくれるお陰で安定している。だが本気で彼女に恋をして、もしそれがまた叶わずに終わった時、自分の心がもつか分からない。もしかしたらもたないかもしれない。でも俺みたいなモテるポイントが全然無い人間は、こっちから何とかしないとリア充なんて夢のまた夢だ。

「よし、決めた」

 かれこれ1ヵ月程悩んだ末、俺は彼女に現在彼氏が居るかどうか確かめてから、彼女に対してどうするかを決める事にした。いくら俺が不用心でも流石に前回と同じ失敗はしない。という訳で、彼女とバイトの休み時間に上手い具合に恋愛の話題に持っていき、直接今は彼氏が居ないという事を聞き出す事が出来た。という訳で、俺はそれまで掛けていたストッパーを外し、彼女の事を本格的に好きになった。

 

彼女の事をすっかり好きになってはや2ヵ月、やっとそこそこの頻度でBeehibeでやりとりをする段階までいけた。何せ接点がバイトしかないので、中々トントン拍子にという訳にはいかないのである。まあでもゆっくりとはいえ前には進めているはずなので、全然ダメという訳では無い。今のところ誰かに出し抜かれたりもしていないし。

 と、どちらかと言うと前向きに捉えていたのだが、そこから中々前に進まない。父親が転勤族だとか、中高の部活が偶然にも同じ剣道部だったとか、大回り乗車が好きだという事とか、共通の話題は割とあって、毎回の会話もそこそこ盛り上がるのだが、御世辞にも高いとは言えない自分の対人スキルの低さが足枷になってどうにも突破口が開けない。

 そんなこんなで更に時間が経ち、10月になってしまった。だが、無い知恵を絞って策を考え、遂に東村さんに2人でのお出掛け(?)を持ちかける事が出来た。バイト終わりに、2人で駅周辺を散策しないかと提案したのだ。それのどこが策だと言われるかもしれないが、俺に言わせてみれば立派な策だ。駅周りの事をもっと知っておくには実際に足を使って見て回るのが一番、と言って誘ったのだ。

 正直誘いを受けてくれる自信は無かった。どういう形であれ、女の子をお出掛けに誘うのはこれが初めてなのだから。

 が、その心配は杞憂に終わった。意外にも彼女は受けてくれたのである。普段の物静かな感じから、男性からの誘いはあまり受けなそうな感じがしていたのだが。まあ誘った理由は一応論理的だから、それが功を奏したのだろうか。

 そんな訳で建前的にはバイトの為の散策、俺の気持ち的にはデート、のお出掛けを東村さんと2人でする事が出来たのだった。しかも、一度の散策では要所を回り切れなかったので2回目を提案したところ、これも受けてくれた。東村さんの都合もあってどちらもあまり長い時間では無かったが、2人で会話しながら歩くのは非常に楽しく、そのうえ人生初の女子と2人きりで歩くという経験をする事が出来、とても充実した時間を過ごせた。

「もしやして……」 

 ここから先は意外と早く行けるかもしれない。そう思った。

 しかし、そう思っていた矢先の事、悲劇が起こった。ある時たまたま出先の駅で東村さんを見かけたのだが、その時に衝撃的な事を聞いてしまったのだ。彼女は彼女の友人と思わしき人と話していたのだが、聞こえてきたのが

「ねえ、その人とはデキてるの?」

「ううん」

「じゃあ、これから?」

「いや、良い人だけど、恋愛対象じゃない、かな」

 というものだったのだ。そんな、まさかとは思ったが、それは照れ隠しの方便とかでは無く、ガチのトーンだった。……そういえば、この日は雨だった。しとしと降っている雨だった。

 家に帰ってから泣いた。盛大に泣いた。涙と共に、心が崩れ去って行く感じがした。俺は今回の恋に持てる心のエネルギーを総動員して臨んでいた。そうでもしないと、勝利を掴めないと思ったから。もうほとんど心そのものを賭けているといっても良い位な感じだった。たかが恋愛如きに、と思われる事だろうが、推しキャラや推しの声優さんに癒されているとはいえ二度の失恋でそれ以前に比べて心が弱体化している俺にとっては、そうでもしないと心の熱量が足りなかった。恋というものはエネルギーを多く使うものだから。彼女に本気になると決めた時、覚悟はしていたつもりだった。自分の心を賭けてする恋になるであろう事を。だが勝てば良い。彼女とのお付き合いを始める事が出来ればそれで良いのだからと、恋が叶わず終わった時の事はほとんど考えていなかった。しかし結果としてそうなってしまった。自業自得だが、どんどん心がズタボロになって行った。高校時代のあの頃のような、意味も無く夜更かしをし、惰性で毎日を送る日々が帰って来てしまった。本当に気力が湧かない。まあ当たり前と言えば当たり前だ。ほぼ心そのものを賭けて臨んだ恋が爆散したのだから。

 その日から先はもう地獄のようなものだった。推しキャラや推しの声優さん達には癒してこそ貰えたが、何だか以前より効くのが遅かったり、癒しが不十分に感じたりしてしまうようになっていった。彼女達に興味が無くなったとか、そういう訳では無いのにである。以前より癒し成分を大量に摂取すれば効き目があるのが幸いではあったが。

 でも本当に、本当に毎日生きるのが大変だった。失意の沼にこれでもかと飲み込まれてしまったから。そして、みたび心がボロボロになってしまったから。今回は、2度目までは耐えてくれた部分も壊れてしまったのかもしれない。そう思う程ボロボロだった。それでも大学へ行って講義を受けないといけない。課題もやらないといけない。バイトもやらないといけない。そういう「やらないといけない事」を何とかこなす為、俺はなんというか家の暖を取る為にその家の柱を切って燃やすような、そう自分で感じられてしまうような破滅的なやり方で体から気力を絞りだして生きて来た。そのせいで、俺のボロボロの心はもっとボロボロになって行った。

 これが俺の辛くて悲しい、過去の失恋の記憶の全てだ。俺を苦しませている記憶の全てだ。



「おはよう、起きて?」

「ん、ぐ、ああ」

「おはよう、起き」

「んぐっ」

「今日も一日、頑張って下さいね!」

 推しキャラの目覚ましアプリを止め、何とか体を起こす。

「ああ眠……でも起きないと」

 眠い目をこすりながら、服を着替える。

「眠い……やっぱもっと早く寝れば良かった……」

 今日はバイトのシフトが入っているのだから昨日は早く寝るべきだったのだが、ダラダラと動画サイトを見たりして夜更かししてしまったのである。

「はあ、どうしてもこうなっちゃうんだよなぁ。これもメンタルが疲弊してるからなのかなぁ……」

 冷蔵庫からパンと牛乳、それから栄養ドリンクの「ハイパーチャージャー200ストロング」を取り出して机に置きながら嘆いた。そう、いつもこうなのである。なのでバイトの日はいつも朝飯を食った後にこの強めの栄養ドリンクを飲んで無理やり体と頭を起こしてから出勤している。

「あぁ、そろそろ出ないとな」

 何だか今日はいつもより体が重い気がする。だがウダウダしていると遅刻してしまう。

「行くか。」

 皿やら何やらを片付け、水筒に水道水を流し込み鞄に放り込んで準備完了だ。

「はあ、行って来ます」

 当然誰からも「行ってらっしゃい」とは返ってこないのだが、これとただいま、後食前・食後の挨拶だけはする事にしている。まあ、深い理由は無くてなんとなくやっているだけだが。

 駅への道を歩きながら、脳内で今日の予定を確認する。

「今日はバイトの後は時間割通りに大学の講義があって、休講も提出物も無し。そんでもってその後は、一旦家に帰ってから19時にリライズへ行く、と」

 そう、今日はまたリライズに相談に行くのである。


(それにしても眠い……放送する時寝ぼけてミスらないようにしないと)

 電車に揺られながら、心の中で独り言を呟く。そう、俺がやっている駅員のバイトには駅のホームで案内放送を行う「放送担当」というポストがあり、今日は俺がそのポストなのだった。もうこのバイトを始めて1年以上経つので流石に放送にも慣れたが、寝ぼけて変なミスをしない様に気を引き締めねばなるまい。 

「2番線、各駅停車発車致します。扉付近のお客様、お荷物・お体しっかりとお引き下さい。また、これからの無理なご乗車はお止め下さい。扉閉まります」

「プシュー、ガチャン。フーーンフーーーンタタン、タタン……」

 勤務時間最後の電車が、無事に出ていった。

「終わったぁ……今日は平和だったな」

 大きな遅れも、トラブルも無かった。いつもこうなら良いのだが。大きな遅れ等が発生するといつもより放送する事が増えて忙しくなるし、一層集中して放送しなければならなくなってしまうので、身勝手だがせめて自分が放送担当の時だけは何も起きませんようにと願いながら仕事をしている。

「さて、大学へ行きますか」

 今日の科目はそんなにキツくないし、リライズへ行くまではこの後も平穏に過ごせるだろう。本当は寝るまで平穏に過ごしたいのだが、リライズでは当たり前と言えば当たり前だが深い話もするので平穏では無くなってしまうのである。まあそれは仕方無い。

 大学では予定通り平穏に時間が過ぎていき、帰路も何も起きなかった。「リライズへ行くまでは平穏にすごせるだろう」との予測は無事に現実になりそうだった。

 だがしかし……自宅へ帰った後、少々ネットサーフィンをしている時にとあるバナー広告に何となく目が留まってしまったのが運の尽きだった。

「まーた美肌化粧品か……『この夏彼女をゲット』、ねえ……彼女か……俺も巡り合わせが良ければもしかした……あっ……ウっ」

 しまった、と思ったが、思考回路を切断するのが間に合わなかった。胸が苦しくなってくる。それに心臓の辺りが痛い。

「何で……何でなんだ……どうして俺は……ウっ!? ゲホゲホ、ウっ……ハア、ハア、ハア……頼む、落ち着いてくれ……ウっ、ハア、ハア……」

 ふらつきながら立ち上がり、水道へ向かう。湯呑に水を注ぎ、急いで流し込む。

「ハア、ハア、ウっ……」

 収まらないどころか吐き気を催す。何とかこらえねば。

「ウグっ、ハアー、ハアー、ハア――……」

 何とか吐かずに済んだ。

「ゴクッ、ゴクッ……フー、ハー、フー、ハー……」

 もう一度水を飲み、深呼吸をして体を落ち着かせる。

「フーー、ハーー……やっと落ち着いて来たな……それにしても、今回もフルコースか。全く困ったなぁ、ホント」

 俺はある時から、自宅などのプライベートな空間で過去の失恋を思い出すと発作が起きるようになってしまっていた。症状は息が苦しくなる・心臓の辺りが痛くなる・吐き気がしてくるの3つだ。周りに人がいれば自制心が働いて何とか発作を起こさずに済むのだが、だからと言っていつも誰かを家に呼んでおく訳にもいかない。なのでそもそもプライベートな空間では過去の失恋について考えないようにしているし、恋愛そのものについても考えないようにしている。だが、今さっきのように些細な事から過去の失恋を想起してしまい、発作が起きてしまう事がある。 

「いてて……はぁ、ひどくなったもんだな、ホント」

 何も最初から3症状揃い踏みだった訳では無い。段々症状が増えていったのである。発作が起きるようになった頃は急に息が苦しくなるだけだったのだが、それから半年位経った時から心臓の辺りが痛くなる症状が加わった。強く圧迫されるような痛みだ。そしてさらにもう約半年後、それらに加えて吐き気を催すようになった。今の所ギリギリ実際に吐きはしていない。とはいえ、吐き気を結構無理やりこらえるのでその際に食道だかどこだかをかなりの痛みが襲う。吐くという動作は何だか自尊心を傷付けられるので頑張ってこらえているのだが、あんなに痛いのなら我慢せず吐いてしまう方がもう良いのかもしれない。当然この発作の事もこの前リライズへ行った時に元中さんに相談したのだが、こういうのを仮に薬で防ごうとすると、いつ発作が起きるか分からないのでしょっちゅう精神安定剤薬を飲んでいないといけなくなってしまうらしい。でもいくら発作が起きなくなると言ってもそれは嫌なので、そうはしない事にした。後発作が起きてからだと特に専用の薬は無く、市販の吐き気止めでの対処するのが良いらしい。……精神的なものの発作には、効果が微弱らしいが……まあ結局のところ発作の原因を解消しない事にはキチンと発作を治す事は出来ないらしい。

「ふう、何か観るか」

 発作が起きてしまった後は好きなアニメとか好きな声優さんのライブとかを観たり、好きな歌を聴いたりしないと、発作がぶり返してしまうのだ。

「……辛うじて効くんだよな。発作の後は」

 そう、メンタルの修復効果が低くなってしまっているそれらではあったが、まだ発作の後には効いてくれていた。もしも発作の後に効いてくれなくなってしまったら、他にぶり返しを防ぐ方法が無いので時間薬に任せる事になってしまう。

「……そんなん困るし嫌だけど、その内そうなりそうなんだよなぁ……はあ……」

 深い溜め息を付きながらテレビの電源を入れ、本棚の一番上の段を見つめた。


 好きな声優さんのライブのBlu-rayを観て、発作は収まった。

「やっぱいつ観ても良いなぁ……ってもうこんな時間か。そろそろ支度しなきゃな」

 Blu-rayをしまい、出掛ける支度をしてリライズへと向かった。


「そうですか、また発作が……」

「はい」

 リライズで元中さんに発作の事をまた相談した。

「やっぱり、根本的に解決しない事には……でも安心して。……私が治すわよ」

「っ!?」

 そう言って俺の目を見つめて来た元中さんに、ドキッとしてしまった。


 それから数日後。

「はあ……ラーメンでいいかな」

 何か作ろうかと思ったが、やっぱり面倒くさい。そういう時のためにカップラーメンがいくつか食料棚にストックしてある。しばし吟味して、本党食品の「麺や味噌次郎 カップ麺」を取り出した。これは人気店で「つけ麺 平八」と並んで俺の好きな店の一つである「麺や味噌次郎」とのコラボカップ麺で、同店の看板メニューである「濃厚味噌ラーメン」が再現されている。もっとも、同店売りのもっちりとしたちじれ中太麺の再現性は雰囲気こそ出ているがあまり高くない。まあ、カップ麺なので仕方無いのだろうが。とはいえスープの味の再現性・全体の雰囲気はかなり高く、俺のお気に入りのカップラーメンの内の一つだった。

「卵、あったよな……」

 冷蔵庫から卵を取り出して、机の上に置いた。ラーメンのトッピングに使うのだ。もちろんこのカップラーメンはそのまま食べても十分美味しい。だが、お湯を入れて蓋を閉じる前に卵を入れて落とし卵を作り、食べる直前にプランター栽培の小ねぎを散らすダブルトッピングを行うと、美味しさが倍増するのだ。この落とし卵プラス小ねぎトッピング、一人暮らしの弊害でインスタント食が増えていた矢先に思い着いたものだ。今まで様々なカップラーメンでやってきたが、初めて試したこの「麺や味噌次郎 カップ麺」が一番相性が良い。濃厚な味噌仕立てのスープに、半熟の卵がよく合うのである。

 麺を卵の黄身に絡ませながら啜っていると、スマホの通知が鳴った。

「なんだ?」

「新着メッセージ一件 Beehibe」

誰かからの連絡らしい。それにしてもこの無料チャット&通話アプリ「Beehive」、名前がダサい。全国No.1シェアだから使わざるを得ないのだが。ついでに最近重い。最もこちらは自分のスマートフォンのせいかもしれない。なにしろ安物のスマホをもう2年半も使っているのだから。積んでいるOSもこれ以上アップデート出来ず、インストールしようとしたアプリが非対応、なんてこともよくある。流石にそろそろ替え時かもしれない。こちらが型落ち品で頑張っている間に、世間ではホログラムスマートフォン、略してホロスマなんて物も出てきてしまった。電話をする際に相手のホログラムアバターを表示したり、ホログラム化した地図を表示したりできる代物だ。なんせ高いので俺は手を出せないが。

「元中さんからだ」

 この前リライズへ行って相談をした折に、連絡先を交換していたのだ。

「何々……!?」

 メッセージには、メンタルのケアの一環としてプライベートで会いたいので、一緒にランチでもと書いてあった。

「マジか! えっと……その日は何も無いよな……」

 急いで予定を確認する。 

「よし、何も無いな。行けます。お店等はお任せします、と……」

 こんな展開になるとは思いもよらなかった。珍しく何だかツイてるのかもしれない。


「ここよ」

「蕎麦処味一……お蕎麦屋さんですか」

 ランチのお誘いをありがたく受け、元中さんに連れられてやって来たのは暮野駅から少し歩いた所にある蕎麦屋だった。勿論暮野は自宅の最寄りだがこの場所は丁度駅を挟んで家と反対側で、且つ家側にもそれなりに旨い蕎麦屋があるので、ここには来た事がなかった。

「意外だったかしら?」

「ええ、少し。何というか……元中さんからはあまり連想されない食べ物だったので 」

「あら、私は優雅さが足りないってことかしら?」

「い、いえそういう訳では無いです。ただ何となくそう思ったというか……その、ごめんなさい」

「別に怒ってはいないわ。あ、もう私達の番ね、行きましょう? 何はともあれ、ここのお蕎麦とっても美味しいわよ」


「お蕎麦、とっても美味しかったです。後、奢って頂いてどうもすいません。ご馳走様でした」

「良いのよこれくらい。楽しい時間を過ごさせてもらったもの」

「僕も楽しかったです」

「それは良かったわ。あら、もうこんな時間。そろそろ行くわ」

「お仕事前にどうもありがとうございました。駅まで送りますか?」

「いえ、いいわ。ここからリライズまでなら歩きでもそんなにかからないから、歩いて行く事にするわ」

「そうですか。それでは、ここで失礼します」

「ええ、それじゃあ。何かあったらいつでも連絡して下さいね」

「はい」

 ……優雅、か。

「蕎麦の事優雅な食べもんだって思った事、今まで一度もなかったな。でも言われてみれば、確かにそんな気もするな。怒っていないとは言ってくれたけど、発言には気を付けないとな」

 小さくなって行く元中さんの背中を見送りながら、そんな事を考えた。


「それにしても、旨かったな。」

 一人反省会を終え、俺は先程食べた蕎麦の事を思い出していた。この店の常連だという元中さんお薦めの天ざる蕎麦は、凄く旨かった。特にカボチャ天が逸品だった。

蕎麦屋に行って蕎麦以外のものを一番に褒めるのは変かもしれないが、とにかく旨かったのだ。勿論麺も麺つゆも、他の天ぷらも旨かったが、なかなかあのクオリティのカボチャ天には巡り合えない。サクサクとした少し厚めの衣と、甘くねっとりとしたカボチャ。その2つが実にハイレベルにマッチしていた。

「また食べたいな」

 今度学校帰りにでも、1人で行ってみるか。

 

 それから暫くして、元中さんからまたお出掛けに誘われた。今度はランチでは無く、ショッピングだ。今回もメンタルケアの一環という事だが、本当にそうなのだろうか。

「ひょっとして……いや、まさかな……」

 この俺が女性側から好かれるという事が、あるのだろうか。

 

「今日はありがとう。貴方とのショッピング、とても楽しかったわ。星川君と居ると、直ぐ時間が経っちゃうわね」

 去り際の一言が、心にしみわたる。幸せだ。というかああやって言われて嬉しくない男なんて居ないだろう。それにしてもこんな気持ちになるのは一体いつぶりだろうか、随分久し振りな気がする。長いこと失恋の悲しさやつらさに苛まれてきたこの俺が、全身を暖かく包みこんでくれるような幸せを味わっている。

「好きになって……本気になって良い、のかな?……」

 そう思えてしまう。

「まあ、とりあえず帰ってカレー作ろう!」

 幸せ一日の夜飯は、好きな物に限る。俺は食べ物の中でカレーライスが一番好きだ。ついでに言うと2番目はラーメンだ。

  俺は料理のレパートリーはあまり多くないが、幸いカレーは作ることが出来る。スパイスから……という訳にはいかないが、市販のルーを使うのでも少し工夫をすれば結構お店のカレーっぽくなる。1つはルーを2種類使う事、もう1つはみじん切りにした玉ねぎを飴色になるまでよく炒めて入れることだ。後者は少々面倒くさいが致し方無い。旨いカレーを食うためだ、それぐらいする価値は十分にある。前者は何てことはない、所定の量の半分ずつ2種のルーを入れるのだ。一種類のルーで作るよりもずっと味に深みが出る。2種の組み合わせは色々試してきたが、最近はコクが売りの「ユニコーンカレー」とスパイシーさが特徴的な「サンダーボルトカレー」の組み合わせにはまっている。

 飯が炊け、今食べる分に明日の昼飯、明日と明後日の夜飯の分を加えた4食分のカレーも完成した。旨い上に作り置き出来るカレーは、本当に優秀な食べ物だと思う。土日限定と決めている缶ビールを開けて、楽しいディナーの始まりだ。

「やっぱり旨い。カレーは最高だな。ん?」

 わしわしカレーライスを食べ進めていると、Beehiveの通知がなった。

「誰からかな……おっ、元中さんからだ」

「改めて今日はありがとう。また付き合ってくれると嬉しいわ」

「ええっと、僕も楽しかったです、ぜひまた誘って下さい、と」

 それにしても、俺は本気になってしまいそうだが良いのだろうか。向こうからアプローチを掛けられた事なんて無いから、なんだか戸惑ってしまう。

   

その後も2回程、元中さんに誘われてデート(?)を楽しんだ。Beehiveでのやり取りも頻繁になっていった。いつの間にか戸惑いを感じなくなり、俺にとっての彼女の存在が段々と大きなものになっていった。そして俺は、彼女の事を好きになった。元中さんと一緒に居たり、話していたりすると心が彼女で満たされている感じがした。職業柄だろうか、本当に人を癒すのが上手い。


 夏休み真っ最中の8月のある日、その日は特に予定が無くて暇だった事もあってふと思いたちお出掛け用の弁当を作ってみる事にした。まだドライブみたいな弁当の出番がありそうなお誘いを受けた事は無いがいざそういうお誘いが来た時に「じゃあ僕が弁当作って来ます!」と自信を持って言えるように備えておこうと思ったのだ。とはいえ一口に弁当と言っても色々ある。が、正直凝った料理や構成は残念ながら出来ないのでシンプルに御飯と卵焼き、鶏の照り焼きにキュウリとミニトマトのサラダというラインナップで行く事にした。

 まずは卵焼きを作ろう。卵焼きには結構自信がある。特技と言える位に。俺は自己紹介をした時とかに「特技は何ですか?」と聞かれるといつも困ってしまう。趣味のプラモデル作りが惜しい線を行っているが、特技というにはもう少し腕を上げないといけない。そんな俺が唯一特技だと言えるのが、卵焼きを作ることだった。初めて作ったのは確か小学5年生の時。実家のキッチンで母親に教えてもらいながら作ったのが俺の初めての卵焼きだ。

 高校生の頃までは、まあ割と上手い方かな、という感じだった。中々良いものが出来るじゃないか、と自分でも感じるようになったのは大学生になって自炊を始めてしばらくしてからのことだ。朝飯にも昼飯にも夜飯にも、そして弁当にも使える。その上いるものは卵と調味料だけで、おまけにアレンジもしやすいという便利料理の権化の様な存在なので自炊を始めて以来凄い量の卵焼きを作ってきた結果、いつの間にか上達していたのである。

 上手に卵焼きを作るコツは、フライパンによくよく火を入れておくこと・油をしっかりひいておくこと・火加減に気を付けること・卵をフライパンに流し入れたらよくかき回すこと、の4つを守ることだ。

この4つのポイントを押さえて作れば、綺麗で旨い卵焼きが出来る。

「よし、と」

 今回も上手く出来た。良い感じにふわっとしていて、中は少し半熟の部分がある。卵焼きの硬さは人によって好みが分かれる所だが、偶然にも元中さんの好きな卵焼きのタイプは俺と同じ、このタイプの物らしい。今回のメニューは卵焼きがエースなので、実際に作る時が来たら、弁当の出来は卵焼きの出来に懸かっている。

 残りのメニューも順々に作っていき、弁当が完成した。

「うーん……絵面が地味、かなぁ……」

 食べてみたところ卵焼きでは無いにせよどれも作り慣れているので(それにサラダの方はほぼ技術介入要素ないし)味はまあ人に出しても大丈夫だろうが、案の定絵面が若干地味だ。そんな訳で、御飯に鮭のでんぶをかけて鮮やかな色味を増やして絵面を改善した。

「よし、完成」

 これでいつそういうお誘いが来ても大丈夫だ。


「ぐあぁ……飲み過ぎたぁ……」

頭が重い。人生初めての二日酔いだ。酒にはかなり強い方なのだが、流石に昨日は飲み過ぎた。元中さんとの2人きりのディナーということで完全に舞い上がってしまっていた。幸い記憶は飛んでないしちゃんと家に帰り着いているので、セーフと言えばセーフだがこれからは気を付けよう。……そう、昼跨ぎのデートに備えて弁当作りの練習をした日の数日後、元中さんになんとディナーに誘われたのだ。ディナーというとデートの中でも結構上の方なイメージだったので、先に昼跨ぎ系が来ると思っていた俺にとっては意外で、その時は電話で誘われたのだがスマホを持ったままびっくりして飛び上がってしまった。恋愛の神様に見捨てられた感のあった自分が、可愛くて美人で内面も素敵な人にディナーデートのお誘いが来たのである。自分自身に起こっている事に驚くのも当然だ。

 そんな訳で高揚しているのが丸分かりな声で二つ返事でお誘いを了承し、後日イタリアンレストラン・ブーツで元中さんとディナーを楽しんだのだ。

「でもっていったいなんじ……ゲッ!?」

 何ともう11時半。今日が休日で助かった。とりあえず簡単に朝昼兼用の飯を済まそう。

「そうだな……ま、卵かけご飯だな」具合が悪い時はこれに限る。スマホの通知を確認して、布団から這い出る。

「飯食う前に昨日のお礼をしておこう」

 Beehiveで元中さんに昨日のお礼をしてから、冷蔵庫に向かった。

「あっ、米……」

 卵かけご飯は簡単だ。ご飯をよそってかき回した卵をいれるだけ。でも米がないと成立しない。そう、いくら簡単でも米がないとどうしようもないのである。

「今から米炊くか……でもそしたら30分はかかるしな……冷凍庫に冷凍ご飯なかったっけ。あ、あったあった」

 米がない大ピンチ到来かと思ったが、幸い数日前に余ってしまったご飯を冷凍したものがあった。ラッキーだ。冷凍ご飯をレンジでチンし、卵を小さい器に割り入れる。ご飯の上にダイレクトに行く人もいるらしいが、それでは黄身と白身を混ぜにくいではないか。それとも混ぜないのだろうか。それにそもそも割るのに失敗して卵の殻の破片が入ってしまったら取り出すのが面倒くさいではないか。直接インする利点を考えてみたが、洗い物を減らせることぐらいしか思い付かない。という訳で卵を別皿でよくかき混ぜて麺つゆを垂らす。醤油でもいいがなんとなく麺つゆを使う方がおいしく出来る気がする。

 湯気が立ち上るご飯を茶碗に盛り、麺つゆと混ざって茶色っぽくなった溶き卵をかけ回す。最後に削り節と刻み海苔をかけて完成だ。

 5分もしない内にあらかた食べ終わってしまった。最後に茶碗の底に残った、卵を全身にまとわりつかせたご飯をかき込んだ。

「ごちそうさまでした」

 今日はこの後どうしようか。大学の課題は片づけてあるし、特段何も予定を入れていない。

「いやあそれにしても、昨日は楽しかったなぁ……」

しばらく昨日の余韻に浸ることにした。元中さんとの二人きりのディナーは最高だった。食事も旨かったし、会話も楽しかった。そして彼女の艶やかな表情や仕草がとても素敵だった。さらに極めつけは、別れ際に耳元で囁かれた一言だ。

「次は、……ふふ、やっぱり内緒」

 その後の思わせぶりな表情も相まってとてもドキドキしてしまった。今も思い出しただけで、気持ちが昂ってしまう。

「ふう、いかんいかん。いったん昨日の旨かったメニューの事でも思い出して落ち着こう。」 

 イタリアンレストラン・ブーツで食べた料理は、どれもこれも旨かった。その中でも特に、その中でも特に、ミラノ風カツレツとラム肉のソテー、この2つが飛びぬけて旨かった。まずはカツレツ。あの衣のサクサク感、そして肉のしっとりジューシー感、コク、旨味、甘味がたまらない。お高めな店なので、あれぐらいこのクラスの店なら普通だ、なんて言われてしまえばそれでお終いなのだが、普段行かない(というか行けない)グレードの店・普段食べない(同じく食べられない)肉なので何だか感動してしまう旨さだった。

 次にラム肉のソテー、これはそもそもラム肉自体食べるのが初めてだった。だからどんな味なのかとドキドキしながら食べたのだが癖などは全く無く、しっかりとした存在感がありつつも柔らかくとても旨かった。そして凄いなと思ったのが、癖は無いのにも拘らず牛や豚、鳥とは違うラムオリジナルの旨味をしっかりと感じられた事だ。

……回想をしていたら、また食べたくなってきてしまった。

「ああ、また行きてぇなぁ。酒も旨かったし、店の雰囲気も良かったし……」

 ブーツという店は、本当に良い所だ。

「……でもって、そろそろ告らなきゃな……」

 もう既に元中さんに恋焦がれている訳だが、まだ想いを告げられていない。年がら年中彼女の事を考えてしまう程彼女にどっぷりなのだが、どうもビビりな所が出てしまって告れずにいるのだ。流石にこれ以上モタモタしている訳にもいかないので、早く告らねばなるまい。


 元中さんとブーツでのディナーデートをした日の数日後、所用で大学へ行った時の事。

「よお星川! この前お前が六本木方面で美人なお姉さんとデートしてるの見たぜ?」

「なっ!?」

 用事を済ませ、いそいそと帰り支度をしている所に、江藤と同じくゼミが一緒の友人・倉橋康生が絡んで来た。どうも元中さんと二人で居た所を見られてしまったらしい。

「モテないとか言ってたのにカノジョさんか? どんな手で騙したんだ? 中々あのクラスの人と付き合えるって無いぜ?」

「ちょっと待った。騙してないし、彼女でもない」

「ほーう……随分親しそうな感じだったけどなー」

「彼女じゃないんだって!」

「そうかいそうかい。じゃ、そういうことにしといてやるよ」

「そうしといてくれ」

「ああ。あ、そうだ」

「なんだよ」

「オモチャにされるなよ、なんてな」

「はぁ? 何だとからかいやがって」

「おっと、彼女からBeehiveが。またな」

「チッ、逃げやがった」

 別に変に絡んでくる悪いヤツ、という訳では無く倉橋は気さくな良いヤツなのだが、彼はからかい屋な所がある。ついでに言うとヤツはいつも言動に余裕があって、会話の主導権を握るのが旨い。今さっきも終始彼ペースで会話を展開されてしまった。そういえばヤツには可愛い彼女がいるが、もしかしたらあの余裕はそのお陰なのだろうか。それにしてもオモチャにされるなよ、か。失礼な奴だ。

(でもなんとなく、ただのからかいにしては言葉に何だか薄っすらと重みを感じるような気がしたな。気のせいかもしれないけど……)

 倉橋は俺と違ってイケメンだし、気さくな奴だ。からかい屋な所を除けば性格も良い。それに加えてスポーツも出来ると来ている。なのでよくモテるし、可愛い彼女もいる。モテて損する事なんて中々無いと思う。だがさっきの奴の言葉をただのからかいでないとするならば、もしかしたら過去に女性に好まれ易いが故に年上の女性にオモチャにされた、もしくはされかけた事があるのかもしれない。女性経験の豊富そうな彼の事だ、そんな事があってもおかしくはない。

「オモチャねぇ……」

 元中さんにオモチャにされるなんて事は無いだろうが、まあ一応からかいでは無く忠告だと受け取っておこう。


 元中さんとディナーに行ってから1ヵ月弱が経ったある日の事、俺は元中さんに呼ばれてリライズを訪れていた。

「私ね、星川君に言いそびれてた事があるの」

「な、何でしょうか?」

「心理カウンセラーや精神科医、脳外科医達で作っている、メンタルヘルスケアの改革を目指す団体に入っているの。後、私達はZ-Ωを持ってるの」

「はあ……別に大した事では。あ、企業とかじゃ無いそういう団体であの最新マシンを持ってるのは珍しい事なのかもしれないですけど。とはいっても、2ヵ月くらい前に民間向けの販売も始まりましたし……」

「それでね、その事に関しての頼み事があるの。……ずばり言うと、300万円で売って欲しいの。貴方の忌々しい思い出、忌々しい記憶を」

「えっ?ど、どういうことですか?そもそも記憶を売ったり買ったりって、できる訳……」

「出来るのよ、このZ-Ωを使えば。公にはなっていないけれど、あの機械のナノマシンは脳の情報をコピーして本体に持ち帰ることが出来るの。脳への負担を考慮してあまり高度な解析を行えなかった従来の脳解析機と違ってZ-Ωはナノマシンが持ち帰った情報を解析する訳だから、今までよりも様々な分析を行うことが出来る。ずっと緻密に、ずっと詳細に」

「ということは、まさか」

「そう。そのまさかよ。ナノマシンが持ちかえった脳の情報、つまり記憶を緻密に解析すると、任意の記憶を抽出することが出来るの。だから貴方の記憶の内、悲しくて悔しくて忌々しい記憶だけを売買できるの」

「……それで、僕が記憶を売ったとして、元中さん……いや、元中さん達はいったい何に使うつもりなんですか?」

「私たちがこの国のメンタルヘルスケアの現状を変える為に開発中のAI『リスタート』に学習させるのよ、その記憶を。近年、日本では心の健康に不安を抱える人は増える一方だけど、それに反してその相談に応じる人、治療する人は中々増えて行かないという状況にあるの。でも政府とか、医学界のお偉いさんはあまり良い手を打ってくれていない。そこで、私達は組織を結成して、独自に心の分析やカウンセリングが出来るAI知っているかもしれないけれど、AIは多様かつ膨大な情報を学習することによってより高度な思考や演算を行う事が出来るの。だから、学習させる情報は多ければ多い程、多様であればある程良いの」

「でも、悲しい記憶なんか役に立たないんじゃないですか?」

「立つのよ。深い思考を行うにあたっては、そういうマイナスな感情を含んでいる記憶が必要なの。楽して生きてた人間より、色んな経験をしてきた人間の方が深みがあるでしょう?機械も同じなのよ。だから―」  

「だから?」

 彼女が一瞬、言い淀んだ気がした。

「リスタートにはどうやったら人が悲しむのか、人間はどういうことが苦しくてつらいのか、良く理解しておいて貰わないといけないから。繰り返すようだけど、それが重厚な思考の元になるの」

 なんだろうか、何か引っ掛かるような気がする。でも、話を聞く限りでは苦しんでいる人を救う物だし、危ないものではないはずだ。極秘でやっているというのが少し気になるが。勿論、元中さんの役に立てるなら協力したいが……

「それで、どうかしら。売ってくれる? あ、貴方が望むのなら、記憶をコピーした後、失恋に関する記憶を消してあげる事も出来るわ」

「記憶を、消す? Z-Ωはそんな事も出来るんですか?」

「ええ。綺麗さっぱり消す事が出来るわ。ピンポイントでね。だから、貴方は失恋の事を思い出して苦しむ事が全く無くなるの」

「全く……それは、魅力的ですね」

「そうでしょう? ピンポイントで消せるから、他の記憶の心配はしなくて良いわ」

 どうしようか。売ると即答しても良いが……

「1つ良いですか?」

「何かしら」

「過去に好きになって来た人の事自体も、忘れてしまうんですか?」

「その可能性は高いわね。名前位なら、残るとは思うけれど。でも、もしそうなっても……」

 元中さんが見つめて来る。確かに、今は元中さんが心の支えになってくれている。告れないでいるままだけど。とはいえ、川辺達の事を忘れる決断は、流石にすぐには出来無い。

「……すいません、売る寄りの気持ちなんですけど、一応一度家で考えさせて下さい。」

「分かったわ。良い返事が聞けるのを待っているわ」


 俺にはターゲットに初接触する日の前日の夕飯に絶対に食べると決めている食べ物、つまりは勝負飯がある。それは何かというとずばりカツ丼だ。ありふれているかもしれないが、やはり“カツ”というのは縁起が良いし、カツ丼は子供の頃から大好きな料理だ。縁起物+好物、これに勝る勝負飯がこの世にあるのだろうか。本当は接触当日、朝・昼・夕の内接触直前の食事メニューをカツ丼にしたいのだが、当日はターゲットと予定の時刻・場所通りに接触出来るとは限らず食事の時間を確保し辛いので、落ち着いて食べられる前日の内に食べておくのだ。 

「いらっしゃいませー」

 いつも通り、自宅の最寄り駅近くのカツ丼屋「カツ一番」に入った。カツ丼はここに限る。かれこれ10年以上通いつづけている、行きつけの店だ。

「ご注文は」

「上カツ丼1つ」

「かしこまりました、上カツ丼1つですね」

 頼むメニューもいつもこれと決めている。ノーマルのカツ丼よりも値段は張るが、その分使われている肉の等級がワンランク上がっている。ゲン担ぎなのだから、ケチってはいけない。

「おまたせしました。ごゆっくりどうぞ」

 上カツ丼がやってきた。卵でとじてあるタイプの物で、特段変わった所の無いカツ丼だが、いつもの事ながら旨そうだ。

「いただきます」

 おいしい、やはりおいしい。何度食べても飽きない唯一無二のおいしさが、口中いっぱいに広がる。肉のジューシーさと卵のとろけ具合が絶妙にマッチしている。カツの衣の食感も実に丁度良い。どうしたらこんなにおいしい物が作れるのか。一度厨房の中を覗いてみたいものである。今度店主にダメ元でお願いしてみようか。流石にこれだけ通っていると、向こうも顔を覚えてくれるのである。

 最後にセットでついてくる味噌汁を飲み干し、勝負飯晩御飯は終了だ。帰ってチームの副長の表崎に明日の件の最終連絡をしなければ。

「ごちそうさまー」

「またお越しくださーい」

 俺にはこの店に限らず、外食をした時のマイルールがある。当然御飯を食べ終わったらごちそうさまを言うが、外食をした時は店を出る際にもう一度言うのだ。なんてことは無いが、その方が感じが良い気がするのでそうすることにしている。

「それにしても、今回は中々手こずったな。普段はファーストコンタクトまでもう少し早く行き着くんだが」

「カツ一番」からの帰路、気付くと任務の事を考えていた。今回のターゲットであるテロ組織、極東解放同盟機構はかなり用心深いため捜査が難航し、随分と苦労させられていた。最近になってようやく組織の構成員の一部がメンタルヘルス業界や情報工学業界で素性を隠して働いているという情報を何とか掴み、一部の構成員の特定や重要関係者の洗い出しを行う事が出来た。尾行による捜査も済み、明日やっと接触出来る。最も明日接触するのは構成員では無く、その関係者なのだが。


「そうか、特段奴らの動きは無しか」

「ええ、今の所は。件の物が完成するまでは恐らくそれ以外の活動は控えておくつもりなんでしょう」

「そうだろうな。奴らも馬鹿じゃない。そうそうリスクを冒しては動いてこないはずだ。後何か伝達事項は」

「特にありません」

「では明日、予定通り対象B-bとの接触を実行する」

「お願いします、キャップ。それでは」

 表崎との連絡が終わった。

「さて、もう寝るとするか」

 重要な任務の前日は、早寝に限る。



 大学からの帰り道、自宅の最寄り駅を出て、なんとなく空を見上げた。今日は曇っている。曇りというのは、どうも気が滅入るし、嫌な感じだ。まあ今日は特に買っていくものもないしさっさと家に帰ろう、そう思っていた時だった。

「お兄さん、ちょっといいですか?」

「……何ですか?」

 突然、上下黒のスーツに身を包んだ見知らぬ警察官に声を掛けられた。年は40歳位、背は170cm前半といった所だろうか。少なくとも覚えている範囲では、こんな人とは面識がなかった。もっとも、人の顔を覚えるのは得意ではないので、うっかり忘れてしまっているのかもしれないが……いや待て、やっぱりこんな人は知らん。知り合いに警官はいない。

「いやあ、突然すいませんね。那賀県警生活安全課の浦川というものですが、ちょっとお話させて頂いて良いでしょうか?」

「は、はあ……」

 警察官に話を聞かれる心当たりは無いと言えば無いが、あると言えばある。そんなことあるはずがないが、万が一あのAIが何がしかの法律に引っ掛かってしまっている物だったとしたら、である。とはいえもしもあのAIがらみの話だったとしてどこから警察に伝わったのだろうか 。そもそも元中さんとはサシでしか会ってないし、元中さんとの話は誰にもしていない。自宅に盗聴機でも仕掛けられていたのだろうか。

「最近、『メンタルケアプラザ リライズ』へ行きましたか?」

「はい、行きましたけど」

 しらを切ってみるのも良いかもしれないが、仮にあのAIがマズい物だとしても少なくともいまの時点では俺は何も悪いことはしていない。変に嘘をついてあらぬ疑いを掛けられるよりは正直に答える方が得策だろう。

「そうですか。最近リライズに限らず、複数の心の健康相談所に関する相談が警察に寄せられているんですよ。怪しい新興宗教に勧誘されたとか、高額なサプリメントを買わされそうになったとか。他人様の不安定な心理状態を利用して、良からぬ事をしている連中がいるみたいなんですよ。貴方は……星川さんは、何か騙されそうになったり、変なものを勧められたりしたことはありませんか?」

「いえ、特に何も。ん?ちょっと待ってください。何で僕の名前を知っているんですか?僕名乗ってませんよね?」

ああ、すみません。リライズの入っている雑居ビルの出入り口は、ちょうど警察が設置している街頭防犯

カメラの撮影圏内なんですよ。そして、1階の歯医者さんと2階のヨガレッスン室が揃って休みの水曜日の午後は、同じく2階にある『リライズ』へ行くのか、地下にあるスポーツジムへ行くのか、カメラに映った服装でおおよそ分かってしまうんですよ。3階は金・土・日限定営業の会員制バーですし、4階は倉庫とビル事務所ですから。なので、水曜日の午後にあのビルに入っていった人たちがどの店舗に行ったか、だいたい分かってしまうんです。ですから、あとは防犯カメラに顔が写っていれば、個人を特定できるんですよ」

「なるほど、そういうことですか。」

「ええ。それで、リライズで何か迷惑なことをされたことはないということでよろしいでしょうか?」

「はい」

「分かりました。捜査へのご協力、どうもありがとうございました」

「い、いえ。どうも」

「それでは、私はこれにて失礼させて頂きます」

 何も突っ込んだことは聞かれなかったと安堵した矢先、彼が振り返った。

「あ、言い忘れていました。1つ、貴方に忠告しておきたいことがあります。スタッフさんとはあまり、仲良くしすぎない方が身のためですよ。それでは」

「!?」

 ドキッとした。元中さんとデートしている所を見られていたのだろうか? という事は、俺か元中さんが尾行されていたという事なのだろうか。でもなぜだ? そんな念入りに捜査されてしまう程、リライズは悪評が立ってしまっているのだろうか。それともさっきのはブラフで、元中さん達が開発しているというAIが何か捜査されてしまっているのだろうか。

「これ、元中さんに伝えた方が良いのかな……」

夕闇が迫る空の下、遠くなっていく男の後ろ姿を街頭に立ち尽くして見送りながら、しばし考えた。


「ああ、対象との接触は予定通り遂行した。後は彼が対象B-aに今日の事を話してくれれば、ここまではひとまず計画通りだ。無論、彼は絶対に話す」

「相手に敢えてこちらの動きを知らせて焦らせる。そして焦ってボロが出た所を、一気に叩く。キャップの十八番ですね。」

「いくら慎重で用意周到なFELOでも、焦ればボロが出るだろう。ボロがでさえすれば、後はこっちのモノさ」

「ええ。絶対に叩いてやりましょう」

「もちろんだとも」

「では、本日はお疲れさまでした」

「ああ、お疲れ」

 表崎との連絡を終え、携帯を置いた。接触任務の時は基本直行直帰なので、チームメンバーとの連絡は電話な事がほとんどだ。

「待ってろよ、FELO。貴様らの謀略の全容を明かし、そして貴様らが何か事を起こす前に全員に縄を掛けてやる」

 そうつぶやくと、ふと対FELOの任務を受領した時の事が思い出された。

「本当に、随分と手こずらされたものだ。あの日からもう、だいぶ経ったものなあ……」


「松出課長、どの様なご用件で」

 3年前のある日の事、俺は直属の上司である松出俊正・組織犯罪対策部重点捜査課課長に呼ばれ、第2小会議室に来ていた。

「今終わった幹部会議で、ここの所不穏な動きを見せているFELO、極東解放同盟機構を叩く事が決定した。ついては君たちの班に、重点捜査を行って貰う。君をここへ呼んだのは他でもない、この事を伝えて引継ぎを行って貰うためだ。こちら監視課クモドメ班班長、雲留壮一一等監視官と、班員の名草昂介二等監視官だ。」

「初めまして、雲留一等監視官です」

「初めまして、名草二等監視官です」

「初めまして、捜査科アマダ班班長、特務捜査官の天田貴行だ」

 監視課の二人に軽く一礼し、課長の方へ向き直る。

「課長、お話の件承知しました。しかし、確かFELOに関しては先月の会議で『若干の不穏な動きを認むるも、依然情報希薄につき監視班の増強を行うのみとする』と決まっていたはずでは?」

「状況が変わったんだ。先日他の組織の構成員の取り調べの最中に、FELOが何かデカい事をしでかそうとしているらしいという証言を得たんだ」

「具体的には?」

「いや、あくまで『らしい』というだけだ。その他にも別の筋から奴らが資産を現金化しているらしいという情報も入っているが、残念ながらどちらも噂の域を出ない」

「ではなぜ? 確たる情報を掴んでからでも良いのでは?」

「駄目だ。相手が奴らである以上、噂が噂でなかったとしたら今から動かないとまた間に合わなくなってしまう。あの時の様に」

「あの時……あっ、あの16年前に起きた、警視庁データセンター襲撃事件……」

「ああ、それだ。実行部隊こそ別の組織だったが、舞台を整えていたのはFELOだった。当時から奴らは慎重だった。事件前、奴らの動きは噂レベルでは掴んでいたものの重点捜査開始の決定打になるような情報を得る事は出来ず、監視班の増強で済ませてしまった結果、奴らに対する本格的な対処が出来ないままあの事件が起きてしまった。奴らは事件に使用された武器の入手や欺瞞情報のリーク、事件直前のデータセンターへのハッキング未遂等を行っていたのにも拘わらず、だから今回は、あの時の二の舞を演じる事は出来んのだ」

「……なるほど、それで今回はこの段階で重点捜査に切り替えるという訳ですか。改めて承知しました」

「頼んだぞ。難敵FELOが相手といえども、百戦錬磨の君が率いるチームなら必ず結果を出してくれると信じている。あの事件で散っていった者達の為にも、頑張ってくれ」

「はい。ご期待に沿えるよう、全力を尽くします。彼らの為にも」

「ああ、よろしくな。……機動捜査科タキシマ班及びハヤシナカ班壊滅、滝島・林中両班長殉職……良き部下達を何人も一度に失ってしまった……」

「課長……」

「おっと済まない。早速だが引継ぎ業務に移ってくれ。後、この件の正式な命令は明日伝達する事になっている。今日は人事異動があるからな」

「はぁ」

「名草くんを臨時に君のチームに加えてもらう。重点捜査が完了するまでの期間限定でね。彼は対FELO監視任務に就いてもう14年、雲留班長、狩野副班長に次ぐベテランだ。おおいに力になってくれるだろう。それでは、私は先に失礼する」

 課長が足早に出て行ってしまった。

「天田さん、お世話になります」

 名草監視官が声を掛けて来た。

「ああ、よろしく頼む」

 彼に言葉を返し、さらに雲留班長へ視線を移す。

「雲留さん、人員の配慮までしてもらってどうもすいません」

「いえいえ。どういたしまして。それでは早速引継ぎを。まずFELOの基本データですが、……」

 そして翌日。

「本日より、天田貴行班長以下アマダ班は極東解放同盟機構への重点捜査を開始せよ。また、本捜査においても天田班長の特務捜査官権限における各種執行行為はこれを全て許可する。以上」

「承知いたしました」

 予定通り正式に命令が下され、この日からFELOへの重点捜査が始まった。



「元中さん、この前、警察の人に声を掛けられたんです」

「え? 本当に?」

「はい。なんでも、リライズとか類似の相談所とかで悪質な勧誘とかが行われているらしくて……」

「おかしいわね。すくなくともこの店でそんな事してる人、いないはずよ?」

「そうですよね……」

 俺は警察の人に会った次の日、電話で元中さんにその事について話した。……去り際に言われた一言については言わなかった。何と言うか、無かった事にしたかったからだ。

「何だ、また考え事か?星川」

 江藤が声を掛けてきた。俺も大概だが、こいつもしょっちゅう図書室に居る。とういうか、考え事をしてるのが顔に出てたのか。

「まあな。」

「俺もな、考え事の最中なんだ」

「何のだよ」

「明日の昼飯」

「しょーもない」

「しょーもなくないわ!ここん所素麺続きで飽きちまったんだよ。」

「もう秋だぜ?何で素麺続きなんだ?」

「実家から2箱も送られて来たからだ」

「ああ、そういえば素麺の産地の徳島出身なんだっけ」

「そうだ」

「別に何か他の物食えば良いじゃねえか」

「そうしたいが金が無い」

「あぁ、なるほどな。素麺を使うのは確定事項なのか」

「そうだ。でももうラーメン風も食べたし、スパゲティ風も食べた。冷やし中華風もだ。ネタ切れなんだ」

「いきなり言われてもなぁ……」

 脳内のレシピ本をめくってみる。

「とりまそろそろ4限始まるし、歩きながら話すか」

「そうだな」

 時間を稼ぎつつペラペラめくっていると、良さげなものに目が留まった。

「そうだ、あれが良いかな。卵あるか?あとスライスタイプの溶けるチーズ、出来ればハムかベーコンか薄切り肉も」

「卵とベーコンはあるな。チーズは無い。まあどっちみち帰りに牛乳とか買いにスーパー寄るから買うわ。安い奴でも良いんだろ?それぐらいの金はある」

「分かった。じゃあ作り方を教えるわ。まず素麺は普通よりちょっと硬めに茹でて、良く水気を切っておく」

「おう」

「次にちょっと塩で味付けした溶き卵を作っておく。そいでもって熱したフライパンに油を引いて、素麺をドーナツ状に敷く」

「ほう」

「そしたらドーナツの穴部分から溶き卵を流し入れる。卵に少し火が通ってきたらその上にベーコン、溶けるチーズの順で好みの量載せる」

「火が通ったら完成か?」

「いや。それでもいいけど、チーズがとけて来たらその上で目玉焼きを作って、それが好みの硬さになったら完成だ」

「なるほど、結構旨そうだな」

「ああ、旨いぞ。あ、でも油を引く量ケチると素麺がくっついて大変なことになるから気をつけろよ」

「その顔は経験者の顔だな」

「うるさい」

「怒るなって。まあなんにせよ助かったわ。面倒な工程も無いみたいだし。」

「そりゃどうも」

「お返しに考え事の相談にでも乗ろうか」

「いや、いいよ。そろそろチャイムなるし、一人で考えたい事だし」

「そうか、分かった」

「ああ、ありがとな」

 江藤は良いダチだ。でもだからと言って奴にあの件を相談する事は出来ない。相談するとなると過去の失恋と、それによって苦しめられてきたこれまでの日々の事も話さないといけなくなる。いや、それは上手く誤魔化して心の健康に不安を抱えているとだけ説明するとしても、今まで友達に自分の内面関係の相談をした事が無い俺にとっては、結局それはかなりハードルの高いことだった。オブラートに包むにしても包まないにしても、メンタルに不安があることをダチに打ち明けるのは、俺にとってはもの凄く困難なことだ。そしてそこに触れないと事の経緯を説明出来ない以上、親友の江藤相手であってもこの件は相談出来無いのだ。ついでに言ってしまえば家族にすら内面の相談をしたことが無いし、相談しようと思った事も無い。今回も家族に相談する気は更々無い。

 本鈴が鳴った。

「ま、とりあえず授業を聞こう」

 普段は退屈な講義も、今日は気分転換になる気がした。


 数日後、俺はリライズを訪れていた。

「えっと、記憶、売ろうと思います」

「ありがとう、助かるわ。そしたら、手術の日程を決めないと」

「そうですね」

「いつが良いかしら?」

「僕は土日ならいつでも良いです」

「分かったわ。ちょっと今は即答出来無いけど、今月中には出来るようにするわ。日程が決まったら私から連絡するわ」

「分かりました。お願いします」

「それで、記憶をコピーする手術は当然ここでは出来無いから、八ツ塚脳外科という場所に行って貰う必要があるの」

「八ツ塚脳外科?」

「ええ。この前話さなかったけど、私はそこにZ-Ωを置かせて貰ってるの。場所はここよ」

 元中さんがスマホの画面を見せてくる。

「最寄り駅は?」

「南橋よ。地図で言うとここね」

「あ、ここですね。分かりました。ありがとうございます」

 あれこれ考えて、結局記憶を売る事にした。彼女達の事を忘れてしまうかもしれないのは残念だが、それで苦しみから解放されるのなら、それは仕方の無い事だという事にした。


「よっ!」

「よう」

 学校帰り、校門の所で江藤が声を掛けてきた。

「このまま駅直行?それともどっか寄ってく予定ある?」

「いや、ないけど?」

「おっけ。じゃ、駅まで一緒に行こうぜ」

「いいぜ」

 江藤とはたまに駅まで一緒に帰る。駅から乗る電車は路線自体は同じなのだが、方向が逆なのでそこから先はバラバラだ。

「こないだ教えてくれた素麺料理、おいしかったぜ」

「そうか、そりゃ良かった」

「それでさ、あの料理をヒントにおれも素麺アレンジレシピ考えてみたぜ」

「お前が? どんなんか教えてくれよ」

「良いぜ。まず使うのは素麺と卵と溶けるチーズだ。あ、チーズはスライスタイプの奴な」

「俺が教えた奴とほぼ同じだな」

「ああ。あの料理の亜種みたいなもんだからな。で、作り方だけど、初めに素麺を少し硬めに茹でて、水気を良く切っておく。それから溶き卵を作っておく」

「ほんとに別の料理になるんだろうな」

「なるさ。次に溶き卵の中に茹でておいた素麺を入れて、よくかき混ぜる。麺と卵をしっかり絡ませるんだ。」

「ほう」

「そしたら、よく馴染ませる為に少し置いておく。」

「なるほど。あ、漬け置きって何か料理してる感強いよな」

「分かる、それ。本格的感ある。まあ実際には大した事して無いってパターンがほとんどだけどな」

「確かに。あ、すまん続きを頼む」

「おう。熱したフライパンに油を引いて、油が温まったら渦巻状になるように素麺を投入する。」

「箸で一束掴んで『の』の字に垂らす感じか」

「そうだ。そしたら、残った卵の内半分を上からかける。でもって時折フライ返しで押し付けながら、しばらく焼く。ある程度火が通ってきてひっくり返せそうになったらひっくり返す。後は、残りの卵をかけて、全体に火が通ったら完成だ」

「味付けは?」

「お好みだ。ソースでも良いし、醤油でも良い」

「旨そうだな。今度やってみるわ」

「おう。あ、そういやあこの前の考え事は片付いたのか?」

「え? ああ、まあな」



「何? 元中の狙いは星川の記憶だと? どういう事だ?」

「班長、新型脳領域解析システムZ-Ωって知ってますよね?」

「ああ、何となくだが」

「あれを使うと、脳の記憶領域から任意の記憶をコピー出来るらしいんです」

「何? そんな事が出来るのか。で、そのコピーした記憶は何に使うんだ」

「AIの開発です。これを聞いて下さい」

 表崎がタブレット端末を操作する。

「そうだ。……『リスタート』って名前の、大規模テロ用のAIだ」

「何!? テロ用のAIだと?」

「ああ、そうだ。その戦力・兵器・条件で可能な最大被害量を演算したり、最適な人員配置を演算したりする為のな。後は、自動的にハッキングしたりも出来るようにするらしい。政府や警察のパソコンをハックして、混乱させてやろうって事だ。それでもって、俺は技術畑じゃ無いから良く分からんが、そのAIの開発に負の記憶がたっぷりいるらしい。まあ、テロっつう負の事に使うには、悲しいとか苦しいとか辛いとか、そういう負の感情を沢山学習させて、人にとってどういう事がキツい事なのかしっかり理解させる事が必要らしい。まあ確かに、そういう事が分かってないと陰惨な事は考えられんからな。でもって、AIの学習傾向的に、創作の話や体験談を読み込ませるよりも、人の記憶そのもの、この場合強い負の記憶そのものを読み込ませる方が効果的らしいのさ。だからアイツは、ひと様から負の記憶をコピーしてリスタートの開発に使ってやろうって魂胆なのさ。後、どうしてZ-Ωが記憶をコピー出来るかっていうとな、あれの開発陣の周りにうちの工作員が紛れ込んでてな、ちょっと脅しじみた取引をしてそういう機能を追加させたのさ」

「録音データは以上です」

「最後のは、つまりZ-Ωの陰にFELOがチラついているのは知っていたが、だからだったのか。……それにしてもなんてこった……星川の記憶が危険に晒されているじゃないか。自分の記憶が大規模テロに使われたなんてなったら、悔やんでも悔やみきれんぞ」

「ええ。それで、専門家に問い合わせた所、AIの学習傾向的に創作の話や体験談を読み込ませるよりも、人の記憶そのものを読み込ませる方が効果的というのは本当のようです。なので彼女は負の記憶をコピーする為に、そういうものを持っている人が確実に来る場所、記憶を売ってくれる獲物を探せる場所としてリライズを選択してそこに素性を隠して就職したんでしょう」

「そして、虎視眈々とターゲットを探していた、と」

「ええ」

「……彼以前に狙われていた者、餌食になってしまった者が居るかもしれんな」

「はい、今の所そのような情報は掴めておりませんが、目下調査中です」

「分かった。それにしてもマズかったな……彼に接触したのは。彼女が計画を早めてしまう恐れがある。……直接本丸に行くべきだったか……脇腹をつつく作戦が裏目に出てしまった……クソっ」

「急いで彼に接触する必要があります。しかし、まだ作戦が失敗した訳ではありません。それに先に元中に接触してしまうと、結局逃げられかねません」

「まあそうだが……いやすまない。今は失態を憂いている場合では無いな。表崎が言うように、彼……対象B-bと早急に再接触せねばならない」

「ええ。手順はどうしますか?」

「そうだな……彼には悪いが、少々騙されて貰おう」

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