2話
フィロが住んでいるトートレーゼ王国は、大陸のやや東北に位置している国だ。海に面した国であり、漁業と交易が盛んで、比較的穏やかな気候で住みやすい土地柄ゆえに、様々な人種が住んでいる。
数年前までは大きな戦もなく、平穏であったトートレーゼ王国だが、現在は隣国との小競り合いが続いており、小康状態が続いていた。
その前線――――、サンザ海の沿岸に立つ砦が、フィロの住居である。
戦場から帰還し、乗っていた馬を厩へ連れて行くよう部下に指示を出していると、黒縁眼鏡を掛けた青年が近づいてきた。
漆黒の短髪に、金糸雀色の瞳。右の目尻にホクロがある彼は、埃と泥に塗れたフィロを見やり、一礼した。
「お疲れさまです、ウェザリア隊長」
「出迎えごくろう、スバル副官」
にこやかに迎えた青年―――スバル・カナギに、フィロは機敏な動作で兜を脱ぐと手渡した。
泥に塗れたそれを厭わず受け取りながら、スバルは歩き出したフィロの後ろへ付いていく。
「首尾はいかがですか?」
「上々だ、と言いたいところだが、まぁ、それなりと言わざるを得ないな。何しろここ数日、連戦だ。現場の騎士たちにも疲れが見てとれる」
フィロはここ連日続いている小競り合いに疲れた顔をすることなく、淡々と返した。なるほど、とスバルが眼鏡を押し上げる。
「それが狙いでしょうか? しかし、長期戦になれば我が軍に分があるのは、誰の目から見ても明白です。敵は小さな島国。兵の数はもちろん、兵糧も続かないはず」
「あぁ、だからこそ、ここ数日の意図が読めん。いったい何を考えているんだか」
「ですね。こちらとしても、あの結界さえなければ、一気に決められるのですが」
「――――私は君のその、短絡的な意見がときどき恐ろしく感じるよ」
「そうですか?」
首をひねるスバルに、フィロは内心で、この副官だけは怒らせてはならないと肝に命じたのだった。
ここ数年、トートレーゼ王国へ侵略せんと兵を向かわせているのは、この海の向こうにある小さな島国、ツクヨミの天皇であるミツキ・ツクヨミだ。
海に面して隣国同士であるツクヨミとは、これまで大きな諍いもなく、ほどほどの距離間で付き合ってきた。資源が豊富にあるわけでもなく、軍事に優れているわけでもない。毒にも薬にもならない島国。それがトートレーゼにおけるツクヨミの位置だった。
それが崩れたのが、現天皇であるミツキが就任してからだ。
彼は何を思ったのか、就任して半年後にはトートレーゼへ向けて宣戦布告をし、出兵した。
――――国民の命が惜しければ、領土の半分をツクヨミへ渡せ。
陸側へ防衛の戦力を置いていたトートレーゼは、いきなり、背後とも言える海側からの攻撃に驚いた。だが、現国王、アルベスク・トートレーゼの采配により持ち直し、波のように押して引いてを繰り返している状態だ。
保有する領土や人口、戦力においてもツクヨミはトートレーゼの半分もいかない。それなのに、小康状態が続いているのには、理由がある。それがスバルの言う結界だ。
ツクヨミは、皇族家の女子に巫女姫と呼ばれる魔女が生まれる。巫女姫は守護の魔女であり、防衛に特化した魔法を使うことができる。
巫女姫の張った結界は島を覆っており、敵意を持って島へ上陸しようものなら、結界に触れた瞬間に蒸発してしまう。
この結界のせいで、トートレーゼは防衛一方になり、攻めあぐねているのが現状だった。
「結界のせいで、敵兵に紛れ込ませた密偵はもちろんですが、もとから島に潜り込ませていた隠密たちも全滅。正直、かなりの痛手です。本来であれば、真綿で首を締めるように、じわじわと殺してやりたいくらいです。ですから、一気に総攻撃するという案は、温情の部類に入るかと」
「……スバル」
淡々とした口調ながらも、どこか苦々しさを滲ませるスバルに、フィロは短慮な自分を殴りたくなった。
スバルはフィロの副官だ。そして、密偵や隠密を担う者たちの上司にもあたる。先ほど言った結界により死んだ密偵や隠密たちは、彼の直属部下たちだ。スバルは、自分の部下たちを全滅させたツクヨミに、いい感情を持っていない。
戦争は、勝つか負けるか。生きるか死ぬかだ。戦に出た以上、死ぬことは覚悟の上であるし、明日の戦で隣人を失うのが常だ。
だが、それに慣れてはならない、とフィロは思う。人の生き死に慣れてしまうのは、人としての何かを失くしてしまっている。戦場に立つことの多いフィロだからこそ、死というものに鈍くなってはならないと、自分に課していた。
だからこそ、部下を殺されて静かに憤るスバルを、咎めることはしなかった。しかしそれは、彼が感情的になって、任務に私情を持ち込まないと信頼しているからだ。
そんなフィロの信頼を理解しているのだろう、珍しく感情的になった己を恥じるように、スバルは頭を下げた。
「申し訳ありません、ただの戯言です。お聞き流しください」
「いや、君の意見はもっともだよ、スバル。……そうだな。もし、あの結界をどうにかできたら、我が軍の総力を持って対応しようじゃないか。そのときは私に指揮を任せてくださるよう、将軍にかけあってみよう」
重たい空気をどうにかしたくて、半ば冗談のつもりでそう言ったフィロに、スバルはきょとんとした表情をしたあと、にっこりと晴れやかに笑って。
「それは絶対止めてください。味方にも死者が出ます」
「……そうか」
敵と味方の選別くらいできる、と強く言えないフィロは、頷くことしかできなかった。
「閣下ぁ! 探しましたよぉ!」
砦の自室に戻り、一息つこうとした矢先、ノックと同時にのんびりとした声が室内に入り込んだ。
ノックの意味はあるのか、と毎度のことながら首を傾げつつも、フィロは声の主に向かって小さく微笑んだ。
「お疲れさま、カナタ。今回も、君のおかげで右翼は気にせずに済んだよ」
「それはどうもぉ。お褒めに預かり至極恐悦ですわぁ。って、そんな呑気なこと言っている場合ではありませんよ!」
のんびりとした口調の少女ではあるが、れっきとした軍人である。
彼女の名はカナタ・カナギ。漆黒の長髪を後ろ手に一つで結わえた、プロポーション抜群の美女だ。涼しげな双眸と、左の目尻にホクロがあり、何とも言えない色気がある。
二人いるフィロの副官の片翼を担う美女であり、スバルの双子の姉だ。
カナタは両肩に下げた双剣をカチャカチャと鳴らしながら、フィロに近づいてきた。その動きには一分の無駄はない。見事な足さばきだった。
(相変わらず、見惚れるほどに見事な体幹だな)
ぼんやりとカナタに見惚れていると、彼女はフィロの顔を覗き込んできた。細い指先が、つん、とフィロの額を軽く小突く。
「もうっ、まぁた私に見惚れてましたねぇ?」
「あっ、いや、その、……すまない。相変わらず、きれいな動きをするなぁと思って」
「褒めても何も出ませんよぉ。これくらいのことなら、誰にだってできますって」
「そんなことはない! カナタほどきれいな騎士はそうはいないと思う!」
「力説されても……。私のことをそんなに褒めるの、閣下くらいですもん。私は、剣を振ることしか脳のない人間ですから」
ほんの少し、淋しげに瞳を伏せたカナタに、どう声をかけるべきかフィロは迷った。だが、フィロが口を開くより前に、パッと顔を上げたカナタは、いつもの笑みを浮かべていた。
「そんなことより、閣下のことですよぉ! 今度はいったい、何をやらかしたんですかぁ?」
「は?」
どこか楽しげな様子のカナタに、フィロは首を傾げる。
(やらかしたって言われても、私は何もしてないぞ? ……最近は)
過去に自らが犯したアレソレは別として、最近は特に問題もなく、国土防衛のために戦場を駆け、敵を蹴散らしていた。砦へ帰還したあとは、自室に帰って報告書を作成し、食事をしたあとは睡眠をとる。そして朝が来ればまた戦場へ、といった具合で、ある意味、規則正しい生活をしていたはずだ。
思い当たる節はなく、頭上に?マークを浮かべているフィロに、カナタは笑みを深めて。
「王都へお呼び出しだそうですぅ。なんでも、火急の要件だとか。……今度は、辺境左遷じゃ済まないかもですねぇ」
どんまい! とカナタはフィロの肩を叩く。激励されたものの、顔が引きつってしまうのを抑えられなかった。
それからは怒涛の展開だった。
話を聞きつけてきたスバルが慌てた様子でやってきて、「あとのことはいいから早く準備を!」とフィロを急かし、あれよあれよという間に王都へ向かう馬車に載せられていた。馬車に乗り込んだフィロに、スバルはこれ以上ないほど真剣な顔をした。
「いいですか。とりあえず審議中は黙っていてくださいね。とりあえず、「はい」って言っておけばどうにかなりますから」
とスバルは厳しい口調でまくし立て。
「がんばってくださいねぇ。あっ、お土産はいいですよぉ」
とカナタは朗らかに手を振っていた。
双子ながら、両極端なフィロの副官たちである。
それから、ひたすら馬車に揺られて王都を目指す。サンザ海砦から王都までは、飛ばせば半日もあれば到着する距離だ。
仮眠でも取ろうかと思ったが、戦帰りで気分が高揚しているのか、いっこうに眠くならない。
何度か背もたれに頭を預けて寝ようとはしたが、妙に思考がクリアになっている。フィロは寝ることを諦め、馬車の窓から景色を眺めた。
王都への招集でいい経験をしたことはない。たいがい、フィロが何かをしでかしたあとに、軍のお偉いさんだとか、官僚の皆さんとかに囲まれて、調書という名の取り調べを受ける。
チクチクと微妙に刺さる嫌味をただただ受け流し、処分を言い渡されるだけの苦痛の時間だ。
(何をやらかしたんだ、私は)
何度思い返してみても、王都に招集されるほどのことをした覚えはない。
戦中、勢い余って味方を攻撃したこともないし、ちょっと気分が乗ってきて大砲を敵へぶん投げたこともない。
そうならないよう常に心がけているし、最近は雑兵ばかりで強者がおらず、気分が乗ることなどなかったはずだ。
「どう思う? フルーカス」
フィロは腰に下げた剣に向かって話かけた。
すると、鞘の部分に装飾されていた瑪瑙色の宝石が、ぼうっと淡い光を放った。
『どうと言われてもなぁ。ここ最近のお主は大人しくしていたほうだし、私にもよく分からんよ』
老人の声がフィロの脳裏に響く。
彼の名はフルーカス。フィロの持つ剣に宿る、彼女の使い魔である。何百年と生きている使い魔らしく、彼ら悪魔の中では古株にあたるらしい。
ただの老いぼれじゃよ、とフルーカスは言うが、フィロにとっては大事な相棒だ。
『ただ―――、ここ数日、妙な気配を王都から感じてはおった。あちらで何かあったかもしれん』
「妙な気配?」
『そうじゃ。魔法の気配はしたが、肝心の魔女の気配はなかった。……とにかく、妙な感じじゃ』
「なるほど、魔女関連か。それなら、フルーカスが分からないなら、どうしようもないな」
考えても無駄なことには、思考を割かない。とりあえず行動あるのみ。
フィロは早々と思考を切り替えて、スバルが持たせてくれた弁当に手を伸ばす。腹が減ってはなんとやら、だ。
馬車に乗るまでそんなに時間はなかったはずなのに、こうして食事を準備してくれた優秀な副官に感謝しつつ、フィロは束の間の休息を取るのだった