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羽をたたんだ折り鶴

作者: 奥住 咏

 空想家。そうユメコは自称している。こころの中での話だ。

 その名称通り、彼女は時々空想にふけった。それは、理科の授業で葉脈の違いを教わっている時だったり、栄養満点の給食を咀嚼している時だったり、いつ何時も隙があれば空想の世界に身を投じていた。

 頭の中で描かれた世界は、何もかもが彼女の思い通りである。ある時のユメコは、百戦錬磨の武士であったし、学校にあるプールを独り占めにして遊泳をする事もできた。二酸化炭素を吸い酸素を生み出して、地球温暖化を食い止めた生き物でもあった。

 実際のユメコに、そんなことはできない。

 十二年という歳月の間に頭に溜め込んだ知識は少ない。

 それに、ユメコにとって、夏にある水泳の時間は苦痛でしかなかった。雨でも降って中止になってしまえ、と心中で文句を言っても、天候は言うことを聞いてくれない。部屋に吊るしておいた逆さのてるてる坊主に効力はないようだ。

 現実はなかなか非情である。

 ユメコは窓際に視線を向けた。運動場が見える窓は開け放たれていて、微風によりクリーム色のカーテンを揺らしていた。快晴のためか、グラウンドの土は黄土色をますます明るくしている。

 三十一人が密集している教室は、熱がこもっていて暑い。

 教鞭を振るう教師の声は、普段に増して覇気がなかった。お喋りでよく注意を受けるグループも珍しく無言だ。

 天井に申し訳程度に設置された扇風機が、ぐるぐると首を回しているが、暑さが和らぐのは一瞬だけである。気移りのはやい性格なのだ。需要と供給が全くもって間に合っていない。

 ユメコは、廊下にアイスクリーム屋ができたら、きっと盛大に儲かるだろうと思った。一時でも暑さを忘れることができるのなら、少ない小遣いをはたくのも、やぶさかではない。

 黒板に並べられた飛鳥時代の年表を書き写しつつ、ユメコはコーンに乗っかったまん丸のアイスクリームを思い浮かべてみる。薄いピンク色の肌に苺を閉じ込めたアイスクリームは、熱気により溶けかかっていて、丁度食べ頃だ。歯を立てれば、冷たい甘味が口内に染み渡って、頬が緩むこと間違いない。

 気のせいか、廊下の方でアイスクリームを売り込む声が、ユメコの耳に聞こえた。

 がしゃん、と机上にあった筆箱が落下した音に、ユメコは現実に意識を戻される。

 右隣に座っているトモダチを見れば、床に筆記用具をばら撒いた筆箱を拾いあげていた。ユメコも椅子の下に転がっていたペンを拾い、トモダチに手渡す。

 トモダチはにこりと笑い、小声で言った。


「ありがと」

「うん」


 ユメコも、同じように小さな声で言う。

 トモダチが授業に戻ったのを確認して、ユメコはシャープペンシルを握った。くるりと手の中で、それを回してみる。

 脳内の大半を占めていた、甘美なアイスクリームはすでに消えていたが、思い出すことは容易だった。

 もう一度、スカイブルーの無地で装飾されたシャープペンシルをくるりと回す。一回転したそれは、冷凍庫に入っていたかのように、無機質な冷たさを持っていた。

 ユメコは驚いて、思わずペンを取り落とす。幸運なことに、それは机上を転がることをせず、ノートの上に不時着した。

 ユメコは、ほっと気を緩めた。しかし、無地のシャーペンに浮かんだ柄を見て、緩めていた気を引き攣らせる。

 スカイブルーの生地に、一口齧られたような跡のアイスが点々とのっていたのだ。まるで柄物のテープを貼ったように、アイスクリームの模様が整然と並んでいる。

 ユメコは顔が強張るのを感じた。

 不可解なことだった。

 恐ろしくなり、そのシャーペンはつまんで筆箱に投げ入れた。チャックを開けていた筆箱は、それをやすやすと飲み込む。

 奇怪なことが起き、後半の授業をユメコはほとんど聞いていなかった。授業の合間に設けられた休憩時間に、今一度現状を把握しようと、いざ筆箱のチャックを開けてみると、シャープペンシルは元のスカイブルーに戻っていた。




 妙な物質変化は、のちに常習と化した。

 美術の時に鉛筆で描いた石膏像は、ユメコと目が合うとウインクをしてきたし、グラウンドの土をならそうとしたら、とんぼが独りでにならしていた。はてまでは、浴槽に頭まで浸かってみたとしても呼吸ができる。まさか、えらでもできたのだろうかと、首を触ってみてもそのような切れ込みは見当たらない。

 ユメコは、初めこそ未知な出来事に戦々恐々としていたが、思い返してみれば、どれもこれも、こうであったらいいな、と自らが思い浮かべたものばかりであった。

 空想が現実になる。

 そんな夢のようなことが、ユメコの周りで当たり前のように起こっていた。

 しかし、ユメコの気持ちは晴れなかった。

 ふらふらと空想に勤しむユメコでも、さすがに現実と空想の分別はついている。その境界線を見誤ったことはなかった。なのに、夢と現が混ざりあったようなこの状況は、一体どういうことだろうか。

 ユメコは考えた。

 考えあぐねていた。いくら唸ってみても結論は出ない。

 ユメコが頭を悩ましている間にも、天井に取り付けられている扇風機は、熱い視線を向けてきた。回る動作を無理やり止めているらしく、ぎぎっ、と苦しげな音が頭上からひっきりなしに聞こえてくる。涼しいことこの上ないのだが、教科書やノートが上機嫌に踊っていた。

 正常な動きをしない扇風機に疑念を抱く者は、教室内でユメコしかいないのか、教師さえも涼しい顔で比例についての説明を口にしている。

 ユメコは、頭を占めていた空想を打ち払った。

 風の軌道が外れて、暑さがまた戻ってきた。涼みたいという誘惑には、見て見ぬ振りをする。

 ユメコは、それまで泳いでいた教科書のページを、指定された場所に戻そうとして、腕を動かした。その際に、右手の甲で消しゴムを弾いてしまう。

 ユメコは咄嗟に消しゴムの行方を目で追った。机上から弾き飛ばされた消しゴムは、隣に座っているトモダチの椅子の下で止まった。

 トモダチがノートから目を離し、ユメコを一度見る。ユメコの視線が、自身の椅子の下に向かっていることに気が付くと、トモダチは上体を下げた。


「はい」

「ありがとう」


 ユメコは、消しゴムを拾い上げてくれたトモダチに礼を口にする。そして受け取ろうと手を伸ばして、はたとやめた。

 むくむくと想像が湧き上がってくる。

 真っ白な消しゴムが、炭を塗ったように濃い灰色に変わった。

 ユメコは、トモダチに訊ねた。


「消しゴム、何色に見える?」

「黒だけど」

「でも、さっき白だったよ」

「そう?」


 トモダチは、不思議そうに首を傾げてくる。

 ユメコも同じように首を傾げたくなったが、斜め前方に座しているイインチョーが鋭い視線を飛ばしてきたので、慌ててトモダチから消しゴムを受け取った。紙ケースから覗いた色は、真っ白に戻っている。

 再度礼を言うと、わずかに微笑んだトモダチは黒板に目を戻した。

 ユメコは、空想が現実になっていることを、いま一度理解した。ユメコが思い描いたものは、他人の目に現実として受け取られているようだった。

 空想が現実を侵食しているのだ。

 ユメコはその自由性に恐ろしさを感じつつも、高揚感を味わった。

 さっそく、折り鶴が丁寧に折られていくさまを頭で想像しつつ、ノートをぱらぱらと指で捲ってみる。紙面にはさみを通したように、ぴっと紙に四角形の切れ込みが入り、扇風機の風を受けて、宙になだらかに飛んでいった。

 それらは渦に取り込まれたように、くるくると生徒たちの頭上を回る。自ら折れ目を作り、均等の羽を持つ折り鶴へと変化したことに、ユメコは満ち足りた気持ちになった。

 数学の問題を書き終えた教師が、誰かわかる人は、と黒板の表面を手の甲で軽くノックする。教室を旋回する折り鶴にどよめきは起こらず、日常が続いていた。

 うっそりとユメコが折り鶴を見ていると、視界に定規のような腕が見えた。天井に真っ直ぐに上げられた手に、ゆったりと泳いでいた折り鶴の一つがぶつかる。途端、渦を巻いていた折り鶴の群れが現実から掻き消えた。

 教師が挙手をしている生徒を当てる。

 すらすらと解答を述べる生徒の声を耳にしつつ、ユメコはノートに視線を下ろした。

 空中に己が身を飛ばしたノートは、みっちりと用紙を束ねていた。紙面には、問題が半分も写していなかった。



 ◇



 放課後、部活動に向かう生徒たちが、次々に教室を出て行った。

 帰宅部であるユメコは焦ることなく、引き出しから出した教科書を机上にのせ、通学鞄に仕舞い込んでいく。パズルゲームさながらに、無駄なく隙間を埋めていき、仕上げの筆箱を滑り込ませた。みっちりと詰まった中身に満足感を覚える。

 ユメコが通学鞄を肩にかけ教室を見渡すと、クラスメイトの姿はなかった。

 からりと教室の引き戸が開けられる。日誌を持ったイインチョーが室内に入り、まだ残っているユメコに目を向けた。


「戸締りをするから出て行ってくれ」


 そうイインチョーが無表情で言った。にべのない言い方である。

 イインチョーの表情筋はきっと仕事を放棄しているに違いない、とユメコは思った。

 了承の意を込めてユメコは二度頷き、教室を出ようと机の迷路に足を踏み入れた。そこで、あー、と腑抜けた声が耳を通る。引き戸の前まで来ていたユメコは振り返った。イインチョーがユメコを見て、また手に持つ日誌を見て、悩むそぶりをみせる。


「悪いが、鉛筆を貸してくれないか?」

「……いいよ」


 断る理由がなかったので、ユメコは鞄から筆箱を取り出した。イインチョーにシャーペンと消しゴムを手渡すと、礼を言われたので、どういたしまして、と無難に返しておく。

 イインチョーは立ったまま器用に日誌を記し始めた。

 手持ち無沙汰なため、ユメコは近くの机に腰を落ち着ける。踵が浮いた。もう少し深く座り直す。ぷらりとつま先も床を離れた。


「机に腰をかけるのはあまり感心しないな」


 視線と共にイインチョーに指摘され、ユメコは慌てて床に降り立った。まさか注意されるとは思わなかった。ユメコは、心にしこりが残る程度の気まずさを覚え、つつっとイインチョーから顔を背ける。


「助かった」

「いえ」


 シャーペンと消しゴムを返され、ユメコは筆箱のチャックを開けた。いそいそと仕舞い込んでいると、イインチョーがおもむろに口を開いた。


「他に消しゴムはあるのか?」

「えっ、いや、ないけど」

「それだけ?」

「うん」


 ちょっと面食らいつつユメコが答えると、イインチョーは不可解そうにした。


「お前たち、黒の消しゴムがどうとか言っていただろ」

「あ、……ああ、言ってたかも」

「でも、俺が借りたのは白だ。なのに、それしかないと言う」

「嘘じゃないよ。私は一つしか持ってない」

「じゃあ、なぜ」


 ユメコは口を閉じた。追い詰められていると感じるせいか、うまい言い分が思いつかない。


「……私は空想をするのが好きなんだ」

「空想?」


 イインチョーが聞き咎めるように繰り返した。


「そう、空想。鳥みたいに空を飛びたいと思ったり、海中に沈んだ神殿を散歩したいと思ったり、それを想像するんだ、頭の中で。でも、いつしか思い描いていたものが、現実になっていることに気がついたんだ」


 イインチョーがますます訝しげに眉をひそめた。


「自分が黒い消しゴムを想像したから、色が白から黒になったと言いたいのか? それは空想じゃなくて、妄想だろ」

「なにが違うって言うの?」

「現実になったと思い込んでいるって所」


 ユメコはむっとした。


「嘘じゃない」

「当事者は皆そう言う」


 イインチョーが冷静に切り返す。

 ユメコは鞄から水筒を引っ掴んだ。半分以上飲み干していたので手応えは軽い。その水筒を肩より上に掲げ、ふらりと揺らそうとして思い留まる。


「嘘じゃない。この水筒の中には金魚がいる」

「と言うと?」

「覗いてみて」

「家から連れてきたのだったら死んでいるぞ」

「そんなことはしてないよ。うちでは金魚飼ってないもの」


 ユメコはイメージを膨らませ、コップごと中栓をひねった。きゅっとゴムが音を鳴らす。水筒に入れられた水が、たぷりと揺れるのを手の平に感じ、笑みを浮かべる。


「ほら」


 ユメコは、口の開いた水筒をイインチョーに見せた。

 イインチョーは、ユメコと水筒を交互に見て、中を覗き込んだ。

 銀色に囲まれた水中に、金魚はいた。橙色に近い赤をもつそれは、短い尾を揺らして窮屈な住処を泳いでいる。祭りの屋台でよく見かける種類だ。

 イインチョーは、ぱちりと目を瞬かせた。

 からからと引き戸が開く音がする。


「ユメコ?」


 そう呼ばれたユメコは、思わず体を震わせた。振動は肩を揺らし手にまで及ぶと、水面を波立たせた。金魚が体を水に変えるように消えていく。

 ユメコとイインチョーは、同時に教室のドアがある方を見た。

 ユメコのトモダチが、見慣れない二人の組み合わせに一瞬閉口したが、気を取り直したように言葉を続けた。


「今日、部活が休みになったの。一緒に帰らない?」

「か、帰る!」


 ユメコは水筒の蓋を閉めると、それじゃあ、とイインチョーに軽く手を振って、教室を出た。振り返った時に見たイインチョーの顔は、目をまるくしていて、あどけなさを感じた。



 ◇



 ユメコは頬杖をついて、次の時間に提出する宿題を解いていた。

 教室は、がやがやと言葉が行き交っていて、目前の問題に集中しようとしても、たちまち周りの会話に耳を傾けそうになる。

 授業中にも関わらず、室内には気の抜けた空気が充満していた。

 原因は、教室にある固定電話がもたらした一報だった。受話器を取ったイインチョーが言う所によると、担当の先生が出張のためにいないらしく、自習をしておくようにとのことだった。

 それを聞いたクラスメイトは、はち切れんばかりに歓喜の声を上げた。

 ユメコも嬉しかったが、窓が開いていたので、隣のクラスにその声が聞こえてはいないかと、内心ひやひやした。あまりにも煩いと怒られてしまう。大人に叱られるのは嫌だった。

 そんなユメコの気持ちとは裏腹に、室内は声が溢れかえっていた。特に耳につくのは、後方の隅を陣取っているヨドハシグループだ。いつにも増して、口が回っているように思える。

 ヨシナガ、ドイ、ハタ、シミズの四人衆は、教師に目をつけられている、やんちゃなグループだ。クラスでは、四人の頭文字をとって、ヨドハシグループと密かに呼称されていた。ごく稀に室内の空気を一変させる彼らは、生徒からも注意を向けられていたのだ。

 ユメコは、はあ、とため息をつく。それは音となる前に、喧騒で掻き消えた。

 登場人物の気持ちを述べよ、と書かれたテキストから目を離し教室を見渡すと、イインチョーの鬼気迫る背中が見えた。この状況が大変遺憾らしい。背中から怒気が滲み出ている。やかんでも乗せたら、湯でも沸きそうだ。

 声の聞こえない海底に教室が沈めばいいのに。そうユメコは思った。

 思ってから、視界が膜を張っているように歪むのを感じた。髪がふわりと浮かぶ。口を開けば、空気がぶくぶくと外に出た。

 水の中である。教室が水槽と化していた。窓が開いているのに水は溢れることがなく、逆に侵入してきた風が泡となってユメコの横顔に当たった。

 ユメコは呼吸をしてみる。水を吸い込んだのにも関わらず、酸素のように肺に落ちた。不思議と息苦しさは感じない。

 お喋りをする生徒たちの声が気泡となって、天井に上っていく。ぶくぶくとした泡の音しか耳に入らない。ぱくぱくと口を開けるさまは、餌を求めている金魚に似ている気がした。

 ユメコの視界に、大量の泡が天井に上っていくのが見えた。沸騰した水に現れる気泡みたいな激しさだ。くるりとイインチョーが体を後ろにひねって、ユメコを睨む。

 ぱしゃんと、教室の床が抜けたように、水が引いた。

 ユメコの耳に、周りの声が容赦なく詰め込まれる。思わず、耳を手で塞いだ。手から転げ落ちたシャーペンが机を逃げ出していった。




「なぜあいつらは、喋らずにはいられないんだ」


 帰り支度をしているユメコを取っ捕まえたイインチョーが、開口一番にそう言った。

 ユメコは、通学鞄に教科書類を収めながら、なぜだろうねえ、と返答をする。とうにホームルームが終わった教室は、二人分の声を内部に蓄えた。


「なぜあいつらは、喋らずにはいられないんだ?」


 ユメコに話を流されたと思ったのか、イインチョーが再び言った。

 疑問を含んだ声に、ユメコは顔を上げてイインチョーをちらりと見る。


「なんで私に訊くの」

「この手の話は、友人には好まれん。それに、お前たちは授業中に話をしていただろう」

「今日はしてないよ」

「ならば、次もしないことだ」


 イインチョーに駄目出しをされ、ユメコは納得のいかない気持ちで口を閉じる。しかし、視線に促されて渋々と思考を回し始めた。


「なんで話すのか……、その方が面白いからじゃないかな。少なくとも宿題をするよりは楽しいよ」

「そんな事、空き時間にすればいいじゃないか」


 イインチョーが憮然とした顔で言った。

 そうだけども。ユメコは言いよどみ、逆に訊ねた。


「イインチョーは、どうしてみんなが話すのだと思うの?」

「大方集中力が切れたからじゃないのか。授業に身が入らないとか」

「なるほど。どうして身が入らないんだろう」


 イインチョーが口を噤んで、考え込んだ。

 ユメコは、引き出しに物が入ってないか確認をして、通学鞄のチャックを閉める。これで帰り支度は整った。

 少しして、イインチョーが話し始めた。


「……面白くないから?」


 語尾を上げる辺りに、イインチョーがその回答を不可解に思っていることがわかる。

 うんうん、とユメコは相槌を打った。


「興味がないとやる気が出ないよねえ。じゃあ、なんでやる気が出ないのだろう」


 イインチョーが怪訝そうにユメコを見た。


「さっきから俺しか考えていないんだが」

「いいじゃん。自分で考えた答えの方がしっくりくるもの」


 イインチョーは黙った。

 黙って考えているようだった。その顔は、美術室にある胸像の石膏のように気難しい。

 結局の所、その日に答えは出なかったらしく、イインチョーは職員室に学級日誌を返してくると言い、一旦話し合いに区切りがついた。



 ◇



 翌日の放課後、亀が歩くような速さで荷物を鞄に入れていたユメコは、またしてもイインチョーに捕まった。イインチョーは先日と変わらず、難問を解いている最中のような顔をしていた。


「わからない問題を解けるようになったら、達成感を覚えないか」


 急な問いかけに、ユメコは目を瞬かせる。


「え、ああ、そうだね」


 イインチョーは、ユメコの肯定に軽く頷いた。


「ならば、その達成感を味わえば、おのずと楽しさが見出せるのではないだろうか」

「なるほど」


 ユメコは、自分に置き換えて考えてみる。

 ユメコは理科が苦手であった。植物内の構造は頭から抜け落ちていくし、鏡に当たった光の屈折なんてものは好き勝手に曲がればいいと思っている。ゆえに、理科の時間は苦痛で仕方がなく、授業の大半を空想に使い果たしていた。

 そんな理科の問題がすらすらと解けるようになったとしたら。それはとても素敵なことだろうとユメコは思った。


「じゃあ、どうしたらいいんだろうね」

「簡単だ。わからない事をわかるようにすればいい」

「なかなか難しいことだと思うけど」

「勉強会を開けばいい」


 ユメコは、鞄にノートを詰め込む作業を止めて、イインチョーに目を向けた。


「難題だよ。どうやって勧誘するのさ」

「まず、君を勧誘する」


 ユメコは目を丸くして、己を人差し指で差した。本気かと言う意味を込めた動作に、イインチョーが真面目な表情で頷く。残念ながら、冗談を言っているような素振りはなかった。

 かくして、ユメコはイインチョーと勉強会なるものをする事になった。イインチョーは他人のわからない事が理解できないらしく、ものを教えるという行為があまり上手ではなかった。しかし、夏から秋に移行し、片や教える事を上達させ、片や理解の幅を広げていった。

 その勉強会はいつしか教室に広まり、ちょくちょくクラスメイトが質問をしに来るようになった。その度にイインチョーは嬉しそうに頬を緩めた。その様子を見ると、ユメコも自然と口角が上がった。

 教室は少しずつ変わってきていた。

 ある日の放課後、まだクラスメイトがいる中で、イインチョーがユメコに話しかけてきた。今までにないことだった。そのただならない状況に、ユメコは身構える。

 そう警戒しないでくれ、とイインチョーは前置きに言った。


「俺は今日ヨドハシグループに話しかけようと思う」

「……そっか、勉強会はなしってことかな」

「ああ」

「りょーかい」


 気をつけて、とユメコが声をかけると、イインチョーは重々しく頷いた。

 獲物を狙う豹のような足取りで、まだ教室に残っているヨドハシグループに歩み寄るイインチョーを、ユメコは見送った。

 南無南無と手を合わせる事も忘れずにする。こころの中での事だ。

 さて帰ろうと、ユメコは通学鞄に荷物を入れ始めた。引き出しからファイルを取り出し、鞄に仕舞おうとして手を止める。

 ユメコはファイルに目を向けた。その薄っぺらい間に挟まれた用紙を一枚取り出しみる。学級便りというタイトルが視界に入った。

 ユメコは、紙がひとりでに折り鶴になる様を頭に思い描き、それをぴんと指で弾き飛ばした。

 紙はふらりと空中に舞い上がり、刹那静止すると、ジグザグに空を切って床に落ちた。

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