起
大陸の南、肥沃な大地広がる妓栴国。
国の西端、国境線に沿って連なる山々があり要害の態をなしている。
わざわざ山越えを望まずとも、少し廻り道をすれば開けた国道があり、人の流れは易い方におのずと集まる。
山麗には人の口も少ない寒村が一つあるが、年に二度徴税役人が訪れる以外は、誰にも見向きもされない村である。
村の名を、義栴村と言う。
村には凡という名の青年がいた。
小太りでずんぐりとしており、目が小さく、動きはすばしこい。
年の頃は十九。すでに成人男性として扱われる年齢であるが、知恵が遅れており、語彙が少なく、時と場所を選ばず大声を出したり、少し複雑な話になるとついていけなくなり、何度も同じことを問いかけたりして、同年代の若者から少し煙たかられることもあった。
襟を正すことができず、童のようなだらしない格好をしており。
すぐに言葉が詰まってしまい、会話というものができない。
ずっと幼い子供達に囃したてられて、本気で怒ったりする。
人から馬鹿にされることの多い男だった。
凡の父親は十年前の悪盗として名を轟かしていた武山団追討の兵役に出て、遠方で病没したという。母親はその一年後、夫と同じ病に倒れた。
それ以来、村長の家の預かり人、下男として扱われていた。
村長の息子もまた、同じく兵役の最中に死に、未亡人と遺された孫と細々と暮らしている。それに加えて白痴の子供一人でも養うのは大変なことであるが、この凡という個性は、人の嫌がる仕事でもやれと言われればなんでも一生懸命こなしたので、いつのまにか年老いた村長夫妻は彼を可愛がるようになったし、彼なしでは生活できないくらい頼っていた。
ただ、理解する力は乏しいので、何をするのかは説明しないといけない。
村長の孫である松林が凡に「洗濯をしておけ」と命じると、破顔して汚れた布を水場で洗い始めた。それを見てうんうんと頷き、友達と原っぱに遊びにでかけた。
もう洗濯が終わった頃と家に戻ると、凡はまだ丸い体を丸くさせて水場で布をごしごしと擦っていた。松林は怒り「何故水を切って干さない」と怒るが、彼は自分が怒られているのはわかるが、何を怒られているのか、どうすれば友人の怒りをとけるのかわからず、さらに布を必死に擦るのだった。
結局、母から怒られたのは松林だった。
何故自分が悪いのか納得できない少年は、凡をこずいた。それでまた怒られた。
万事が万事その調子で、面倒をみてやらない松林が悪いということになるのがどうにも気に入らなかったが、凡に悪く当たって取り巻きと一緒になっていじめるという行為に発展しなかったのは、松林と凡と同じ年齢の少女、花蓮の存在であろう。
可憐で、礼節を重んじ、年齢の割に思慮深いまるで物語の中にしか出てこないような美しい娘は、白痴の少年を軽んじなかった。ほかの同世代の男子と同じように扱ったし、そうなれば男達も彼女の前で喧嘩をしようという気にもならなかった。松林も、花蓮の前では大きな顔はできなかった。その大きな瞳でじっと睨まれると、たじろいでしまう。
花蓮の母は元々この村の出身ではない。在所にいられなくなって辺境の村へと逃げてきた。そして受け入れたのが花蓮の父親であった。見捨てられたような土地ではよくある話である。花蓮も、母の在所がどこで、何故逃げてきたのかも知らない。彼女にしてみれば、ふるさとはこの辺鄙な村である。それだけで十分なのだろう。
凡もまた、彼女には特別な敬意を払っていたように思われる。
なお、理性のタガが少しゆるい凡が、言葉にできない気持ちをどうすればいいのかわからず、花蓮と二人きりの時に抱きついて髪の匂いを嗅いでしまった時、花蓮はただ拳骨で泣きそうな青年の鼻っ面をぶん殴り「そんなことをしては駄目よ、嫌われてしまうわ」と優しく諭したことがあった。
松林、凡、花蓮はそういう間柄であった。