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上と下を見た男

 水風船に針を刺すような感覚。肋骨にぶつかる刃物の鈍い音。滴る鮮血。真っ赤に染まっていく左手。

 俺はそれを第三者として見ていた。

 最期に見たジョーの苦痛に満ちた顔が克明に見えた。しかし、ナイフを突き立てている奴の顔はどんな顔をしているのかがどうしてもわからなかった。

 俺は、息も切れ切れに跳ね起きた。体中にねっとりとまとわりつく嫌な汗が吹き出していた。

 あれから逃げる様に部屋に戻った俺は、早くも万年床となった布団に体を放り込んだ。

 暗がりの中で時計に目をやると、まだ夜と朝の丁度真ん中あたりだった。

 顎から滴る汗を拭いながら、体が逃げたした水分を補おうと乾きを訴えたために水分補給にと立ち上がる。

 羽虫のような音を立てている冷蔵庫から取り出した水を飲むと、冷たいものが体全体に行き渡っていくような心地だった。

 俺は柊に連絡しようと思い立ち、メッセージを打ち込んだ。

 「羊皮紙を取り戻した」

 メッセージは飛んでいく。

 俺は窓の外を見た。俺のガラリと変わった生活や心持ちなどはどこへやら、月明かりに照らされた海は変わること無く寄せては返していた。

 すぐに返ってくる柊のメッセージも、今回は帰っては来なかった。地獄と向こうの世界の時間はリンクしているのかはわからなかったが、こっちの世界と同じ時間帯だとすると、さすがの柊も今はすっかり夢の中だろう。

 目も冴えて、特にやることもなくぼんやりとしていた俺は、思い出したように役所からもらった「はじめての地獄」と書かれた手提げ袋に手を伸ばした。

 雑にひっくり返すと中からは音を立てて、数える程度の薄っぺらい冊子が出て来た。こんなもんで地獄は大体知ることができるらしかった。

 赤い紙の表紙をめくってみると、「地獄でのルール」という文字が、わざわざ1ページを使ってでかでかと書かれていた。これを作った奴とこれにオッケーサインを出した奴を小一時間説教してやりたかった。

 気を取り直してページをめくっていくと、中々衝撃的な一文が目に入ってきた。

 「地獄に法律はありません。何があっても自己責任でお願いします」

 へりくだった文章で随分物騒な事を言ってくれる。

 と言うことは、物を盗まれても、殺されてしまっても、自分が悪いということになる。

 やったもん勝ちと言うか、人間の汚い部分を誰にも気兼ねなく見せられる悪人のパラダイスに放り込まれてしまったと言った方が近いかもしれない。

 しかし、これで俺の罪は問われないとわかると、少し気持ちが落ち着くようだった。いや、落ち着いてしまったらそれこそ俺も悪人の仲間入りだ。

 たとえ裁かれることがないにしても、俺は人を殺した重責を一生背負って生きていかねばならないと心に決めた。

 決心を新たにしてページをめくると、新しいルールが目に飛び込んできた。

 「地獄で死んでしまうと、さらに下層の地獄に連れて行きます。そこには、何にもありません。本当に何もないのです」

 いやに念を押してくる。

 俺にはあまりピンと来なかったが、ジョーはおそらくさらに下の地獄に行ってしまったのだろう。

 俺は、少しの間はじっくりと冊子とにらめっこをしていたが、やはり疲れていたのか、まぶたがシャッターのようにゆっくりと落ちていった。


 朝もすっかり終わりかけている頃に目を覚ました。

 鳥の巣のようになった頭を掻き回しながら寝ぼけ眼で洗面台へと向かう。

 顔を洗ってさっぱりしてから、窓を開けると潮風が鼻腔をくすぐる。肺腑いっぱいにしょっぱい空気を吸い込んで、手首に視線をやると、薄緑に点滅を繰り返していた。

 柊からのメッセージを開く。

 「おー!それはすごい!でかした!」

 文体からもわかる。テンション高めである。

 しかし、この悪人しかいない世界で、褒められるというのはむず痒いというか気恥ずかしい感じがする。

 「これで、また生き返られるチャンスが戻ってきた」

 俺はメッセージを返す。

 「ところで、ちょっと言いたいことがあるんだ」

 「なんだいなんだい、改まって。プロポーズならお断りだよっ」

 「俺、人を殺しちゃったんだけど……」

 テニスの壁打ちみたいにリズミカルに返ってきていたメッセージは、少し間を置いて返ってきた。さすがの柊も少し返答に困っているように逡巡しているようだった。

 「お、おう…」

 完全に答えに窮している。

 俺は、話題を変えるようにこう続けた。

 「人を殺したあと、羊皮紙によくわからん赤い文字が一つだけ浮かび上がってきたんだ。何か知らないか?」

 「わからない」

 「なんにもか?」

 「なんにもわからない」

 「お前さあ、自信満々でこれを俺に渡してんだから、なんかないワケ?」

 「ないね!」

 開き直っているのか知らないが、随分と自信満々である。

 「わかった。こっちで少し調べてみる」

 俺は諦めたようにメッセージを返した。

 「私も、何かわかった事があったら連絡するよ」

 ちっとも調べる気が無さそうな柊の返事を見ると、俺は畳に寝転んだ。

 子どもがおやつをねだりだす頃に、俺は図書館にいた。左の頬には畳の跡がくっきりと付いていた。また寝てしまっていた。何だかこっちに来てから寝てばかりだった。

 地獄の図書館はどんなもんかと、等間隔で並べられている本棚の間を練り歩いて、どんな本があるのか見てみると、『毒草全集』『初めての完全犯罪』『矛盾のないアリバイ』『ヒトの三枚おろし』『警察に怯えるな』などと言った、なんとも物騒なタイトルの本がこれでもかと言う程にびっしりと本棚に並べられていた。

 羊皮紙の秘密について探ろうと図書館にやってきたものの、見つかったのは物騒な本ばかりで、こんな紙切れの秘密に迫るような本は見つかりもしなかった。

 少し落胆しながら図書館を出ると俺に声を掛ける奴がいた。どこか嗅いだことのある香りを放つやつだった。

 「久しぶりだな、ドロップ。あれから調子はどうだ?」

 相変わらずの殺人的なスメルが鼻を(つんざ)く。

 「まあ、ぼちぼちってところだな。ホーさんは何でこんなところにいるんだ?」

 「図書館は俺みたいな家なき子にとって天国だからな。賢く時間が潰せて、無料のお茶が飲み放題だからな」

 ホーは黄ばんだ歯でにっこりと笑う。ホーがいたということがわかると少し空気が澱んでいるような気がした。

 「家なき子って……子って歳でもねえだろ」

 「そりゃあそうだ。ところで、あの約束覚えてるか?」

 「ああ、飯を奢るってやつか。もちろんだ、なんなら今から飯行ってもいいぞ」

 それを聞いたホーの目は輝きを増した。

 「おお!そうか!それなら行こう。すぐ行こう!」

 落ち込んでいる俺に半ば強引に肩を組むように絡みついて、拉致するように飲み屋街の方へ足を運ばせるホーに俺は言った。

 「これ…匂いって何とかなんない…?」

 軽く気絶しそうになりながらホーに訴えを起こす。

 「無理だね。これはワインと一緒で年月を重ねるごとに芳醇になっていくから」

 訳の分からん論法で俺の訴えを棄却すると、歩みを早めた。俺は、まずこいつを風呂に入れてやろうと固く決心した。


 久しぶりの酒だったのか、ホーの顔は赤くなっていた。

 俺は頑なに拒むホーを何とか説得して、入浴と散髪をさせた。

 二つを終えたホーは、すっかりいい男になった。ボロを纏っていた時は、野性的な眼光が生命力を漲らせていたが、すっきりとしたホーには清涼感あふれた水が滴るほどにいい男になった。

 「いやー、風呂と床屋何て何十年ぶりだろうか。いやー、実に爽快!」

 「よかったな。だけど、なんで銭湯で堂々とつっ立ってたんだよ」

 「あれはなあ、あまりに久しぶりに来たもんだから、何をどうしたらいいかわからんかったんだ」

 「マジか……」

 「シャワーの前まで座ったのはよかったんだが、シャワーの出し方とかシャンプー?とかコンディショナー?とかいうのがよくわからんかった」

 「ああ、だから俺に洗えって言ったのね」

 大学生とおそらく三十路前だと推測されるダンディなホームレスが銭湯で洗いっこしてたとなると、さすがに通報されないまでもご近所で良くない噂が立つことは請け合いだった。まあ、人の噂も七十五日と言うので何とか七十五日が過ぎるのをじっと耐えていればいいのだ。

 しかし、三十路前とは思いながらもシャンプーを知らなかったりと不審な点がちらほら見られたが、すごく楽しそうに風呂や床屋に行っていたのでまあ良しとしよう。

 「ところでドロップ。探していた奴は見つかったのかい」

 俺は答えに詰まった。見つかったけど殺しちゃった♪とは、ちょっと――というよりかなり言いづらかったからだった。

 所在無さげに手を組んだり俯いたりしていると、ホーは察したのか話題を変えた。

 「地獄には慣れたか?お前を見かけるようになったのは最近だが」

 「ああ、家はかなりいいね。海が近いのが気に入ってるよ」

 俺は、泡立つ黄金色の液体を飲み干しながら答えた。唇と鼻の間に白い髭が出来上がる。

 「いい飲みっぷりだねー。ようし、俺も負けてられん!」

 そう言うとホーも半分以上残っていた泡立つ黄金色を一息で飲み干した。

 「よっ!社長!やりますなあ!」

 俺は、ホーをはやし立てるようにおだてる。ホーも満更でもないような笑みを浮かべた。歯も磨かせたので口から出る(かぐわ)しい香りは微塵も感じなかった。

 身だしなみコーディネーターとでも言おうか、彼を華麗に変身させた俺は自然な笑みがこぼれるくらいの満足感に包まれていた。

 「社長かあ……懐かしい響きだなあ」

 ホーはポツリと言った。

 「ん?何か言った?」

 「俺なあ、昔社長だったことあるんだぜ」

 ホーがにやりと笑う。

 昔の小汚い格好でそれを言われていたらちっとも信憑性は無かったが、今のホーの話しはどんな大仰な話でも信じさせてしまいそうな不思議な説得力を持っていた。

 どんな悪人――ホーは今のところ悪人では無かったが、悪い奴ほど身なりに気をつけると言う。清潔感から来る爽やかさの信用させる力をまざまざと見せつけられた。

 「またまたー。ホーさんだって今いくつよ?」

 「俺40の時に死んだから、今は40だな」

 「40!?わけー……俺20代だと思ってたよ……」

 「それはうれしいねー。家無しはストレス無いから若く保てるのかもね」

 そう言って笑うと、運ばれてきたジョッキに手を掛ける。

 「ドロップは『シリウス』ってアパレルブランド知ってる?」

 「洋服メインのセレクトショップみたいなやつだっけか。最近の若いもんは大学生くらいになるまでに、一度は行ったことあるんじゃないかな。服に無頓着な俺でも一度行ったことあるくらいだしね」

 「俺、そこで社長やってたんだ。さらに言うと俺が興したブランドなんだよね」

 「……マジで言ってんの……?」

 酒で柔らかくなっていた表情も少し強ばった。

 「マジだ」

 そう短く答えてジョッキを一気に煽る。

 そうなると、色々と質問したいことが湧水のように出てくるが、一番聞きたいのは当然これであろう。

 「じゃあ、何でホームレスやってんのよ」

 「んー、それは話すと長いんだよなあ」

 「もったいぶるなあ。そこと何とか」

 「じゃあ、もう一軒奢ってくれたらいいよ」

 「あんまり高くないところなら」

 「あはは、ちゃっかりしてるなあ。よし、じゃあ行こう」

 飲み屋を後にすると、ホーは俺を先導するように歩く。

 着いたのはうなぎの寝床のような店に合わせて作られたカウンターが置かれたバーだった。

 折り目が正しく付いたタキシードを着込んだロマンスグレーが目立つ初老くらいのシブいおじ様がカウンターの中で恭しくお辞儀をして、俺達みたいな若造を出迎えた。

 「やあやあ、おじさんしばらくぶり」

 「ホーさん久しぶり。今日は財布の方大丈夫?」

 少し笑いながらホーを気遣う。ホーとマスターは懇意にしているようだった。

 「今日は心強い援軍がいるからね。紹介しとくよ、こいつはドロップ。まあ俺の友人みたいなもんだな」

 「はじめまして。俺はホーさんと違ってホームレスじゃないですけどね」

 その場に居合わせた三人は笑った。客は誰もいなかった。

 「座りなよ。今日はとことん飲むぞう!マスターも飲みなよ。今日どうせもう誰も来ないでしょ」

 「その言い方はひどいなあ。まあ、そうなんだけどね。じゃ、一杯だけ頂くよ」

 頭を掻きながら苦笑いを少し浮かべると、グラスを三つ持ってきて席に置いた。どうやらマスターも本当に飲むらしい。

 グラスの置いてあるカウンター席に着くと、目線の先には見たこのとない酒瓶が所狭しと棚にならべてある。

 泡立つ黄金色が三つのグラスに注がれると軽く乾杯をして腹の中に収めこんだ。

 「いやー何杯飲んでもうまいものはうまいね」

 ホーは空になったグラスを置いてしみじみと呟く。

 「そうですね。ところでホーさん、例の話聞かせてくださいよ。俺何だか眠くなってきちゃったんで」

 あとに続くように、飲み干したグラスを置いた俺はホーに話を催促した。俺は次の酒を頼んだ。飲み口にライムが添えてあった透明な酒が細長いグラスに入ってやってきた。

 「俺がちょうどドロップくらいの歳だったな」

 そう口火を切ってから、マスターに酒を頼んだ。後ろの棚から茶色の瓶に手を伸ばして、ホーのグラスに琥珀色の酒を注いだ。それをひと舐めして話を続ける。

 「大学に行ってた時に会社を作ったんだ。会社というより服屋と言った方がいいな。当時の俺はファッションに興味があってな。講義そっちのけで、バイトに精を出して運転資金を貯めたりしてたんだ。付き合ってた彼女も呆れてたよ。そういやドロップは彼女いないの?」

 唐突な質問に俺は少しむせこんだ。それと同時に、頭の中に柊の顔が浮かんだ。

 「今はいないんだ。今はね」

 何とも見え透いた虚勢を張ったあと、気まずくなったのか汗をかきはじめたグラスに手を伸ばして、火が出そうな顔を少しでも冷やせはしないかと酒を流し込んだ。酒なんか飲んだら火の回りは早くなりそうだったがそんなことはお構いなしだった。

「若者がごった返す街の外れに小さな店を出すことが出来たのは、大学生活が半分過ぎた頃だった。立地は良くなかったが、俺が仕入れた服はよく売れた。評判が評判を呼ぶにつれて、店の規模はどんどん大きくなっていって、ついには人通りの多い通りへと移転したんだ」

 「なんというか……すごいな。俺と歳が変わらないのにそれだけの成功か…」

 「まあもちろん運もあっただろうけど、俺には仲間がいた。小学校からの友達だった奴と一緒に服屋を興したんだ。俺はバイヤーとして国内外問わずに服を買い付けた。友達は、事務と経理をメインにあらゆるデスクワークをこなした。こうして二人三脚で自分たちの城を大きくしていったんだ。大学にいたときは出来た彼女と友達と俺でよく遊んだもんだ」

 そう言って話を切ると、喉の乾きを潤すようにグラスに手を伸ばす。第一幕終了といったところであろう。

 「それから三年くらい経った時だったかな。俺は、大学から付き合っていた彼女と結婚をしたんだ。友達も喜んでくれたよ。俺は社長になって会社を束ねた。友達は経理と事務をまとめてくれた。店も順調で別の場所に何店舗か構えることもできて、すべてが順調だったよ」

 俺は黙って話を聞いていた。ホーの濃密な人生に些か考えさせられる節がいくつもあった。

 「俺は、俺が買い付けてきた物を客が買って喜んでいるのを見るのが嬉しくて、服を買い漁った。自分の為じゃなくて、客の為に。世界中の西から東、北から南を所狭しと駆けずり回ったんだ。だけど今思えば、これが良くなかった」

 「良くなかった?こんなにお客の為に動いてるのに?」

 「確かに客のためには駆けずり回ったが、俺は、一番身近な家族を構うのにすっかり忘れてしまっていたんだ」

 「嫁さんか…」

 俺の答えにホーは黙って頷くとグラスを傾けた。俺も黙ってグラスを少し傾ける。

 「ある日、俺が例のごとく海外での買い付けから帰ってきた時だった。その時は商談がスムーズに終わってな、予定よりも二週間くらい早く帰って来れて、俺は疲れもそこそこに家に着いたんだ」

 初めて聞く生々しい修羅場の気配に身の毛がよだつような肌寒さを覚えながらも心は踊っている。ちょうど、ホラー小説のページをどきどきしながらもめくっているいうような怖いもの見たさの感覚に近かった。

 「玄関はいやに整頓されてたんだよ。俺は、久しぶりに帰ってくる俺を喜ばせようとして嫁さんが掃除でもしてくれたのかと思ったんだ。リビングに向かうと誰もいない。夕方なのにだ。俺の嫁は最初は店を手伝ってくれてたが、その頃はもうすっかり専業主婦になってたから家にいてくれてるはずだった。」

 話しのクライマックスはもう近かった。ホーは、それを焦らすようにグラスに手を伸ばして口を潤した。

 「俺は寝室に行ってみることにしたんだ。もしかしたら、風邪でも引いて寝込んでるんじゃないかと思ってな。買いたてだった割に軋む廊下を歩いていると、軋む音に混じって何か別の音が聞こえてくるんだ。俺が足を踏み込む時とは違うタイミングで、小さな声が混じった軋む音が聞こえてくるんだ。それは寝室に近づくにつれて少しづつ大きくなっていく。俺は、固く閉ざされた寝室のドアをノックしたんだ」

 まったく、絶妙のタイミングでいつも休憩に入る。いいところでCMが入るヘタクソなテレビみたいだった。ただ、ヘタクソなテレビと違ってイラつきみたいなものはちっとも湧き上がってこなかった。

 「ドアを開けるとそこにいたのは、素っ裸の嫁と俺の友達だった。入ってきた俺を見て二人共ぶったまげてたよ。まあ一番驚いたのは俺だったけどな」

 苦笑いを浮かべるホーを見つめる。俺は彼みたいな状況に遭い、それを思い出して笑えるだろうか。俺には出来ないだろう。

 「流石に体から一気に力が抜けていったね、それを見たときは。汗が滝みたいに全身から吹き出してくるんだ。怒りたくてもショックで声がでなくなって、金魚みたいにぱくぱくするだけなんだ。それから少すぐに自分でも驚くくらいに体が熱くなっていって、怒りが血管を切り裂く音が頭の中で響くんだ」

 「それでどうしたんだ?」

 「だけど俺にはどうにもできなかった。だってそうだろ?嫁と親友。俺にはどっちも大切だ。ぶん殴りたくもなったが、そもそもの原因は俺だ。たとえ、忙しいスケジュールを組まれても電話の一本でもしてやれたはずだ。嫁と親友どっちかを選ぶのを放棄しているのかもしれないが、俺は片方を失うくらいならどっちも選びたくなかった。随分と女々しいけどな。二人で幸せにやってくれって、それを見た俺はそう言ってひっそりと家を出たよ。会社にも電話して友達を社長にする旨を伝えて、俺は全てから解放されたよ。金はあったが部屋を借りる気にあまりなれずに公園に寝泊りしてたのが、今の俺の始まりだ。もっとも、去年の冬にくたばっちまったがな」

 事の顛末を話し終えるとホーは酒を煽ってグラスを開けた。からからとぶつかり合う氷の音だけが虚しく響いた。

 軽々しく聞いてみた話ではあったが、なんとも壮絶だった。しかし、それを話すホーにはつらさや、未練、やりきれなさみたいなものは微塵も感じなかった。むしろ、二人の成功を心から願っているようにも見えた。

 ホーの選ばないという選択が正しかったのかはわからないし、一見女々しくも感じるのかもしれない。

 だが、俺には海のように広い心と全てを許す深い慈悲の心を持つ男のように映った。

 「ホーさん……すげーなあ」

 「いやあ、どうかなあ。俺なんか逃げてばっかりだよ」

 そう言って笑うと注がれていた酒を飲む。

 俺は笑っているホーを見てから、席を立った。トイレに行きたくなった。

 上から取り込んだ黄金色を、下からこれまた黄金色で放出する。うーむ、ナイスリサイクル!

 ホーの立派な話しに涙を浮かべるように聞いていた俺はどこへやら、ただの酔っ払いへと戻っていた。

 俺特製の搾りたての黄金色を大量生産し終えると、俺はトイレからホーの話を聞きに戻った。

 すると、さっきまで俺に含蓄ある話を聞かせてくれていたホーの姿が忽然と消えていた。

 「マスター、ホーさんどこ行きました?」

 「ああ、帰ったよ。明日は炊き出しがあるんだとさ」

 「なんだ、水くさいなあ。ああ、お勘定……」

 俺はポケットから財布を出そうとすると、マスターが制止する。

 「お代はホーさんから頂いてるよ」

 「えっ?」

 「ホーさんは不器用だからねえ。初めから君に払わせるつもりなんかなかったんじゃないかな」

 マスターは水に濡れた台ふきを絞りながら話す。

 「まあ、これからもホーさんと仲良くしてあげなよ。いろんなこと教えてくれるし、何より金持ちのホームレスなんて彼くらいしかいないと思うよ」

 「そうします」

 俺は、マスターにお礼を言って店を出た。

 大通りの方に出てみたが、ホーの姿はやっぱりどこにも無かった。

 夜も朝になりかけていて、空が白む中、それはキラキラと輝きを放っている星があった。まだ昇りきらない太陽とは違った輝きで、青白くしっとりとどこまでも照らしてくれるような輝きだった。

 太陽、月、惑星を除くと全天で最も明るい星のシリウスが、夜と朝をつなぐように辺りを照らしていた。

 「シリウスか……」

 俺は、その輝きを見てぽつりと呟くと帰路に着いた。

 なんだか、ホーを見つけた気分になった。

ポイントつけてくれた方ありがとうございます。

すごく励みになります(・-・)

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