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はじめてのじごく

 オレンジのツナギを着た人影は一つから二つへと増えていた。

 「ロンドンズ・バーニングをロンドンの空港で歌ってたんだよ。そしたらテロリストだと間違われて捕まっちゃってさ。でも、俺まだなんにもしてないじゃん?だから警察に護送される前にスキを見計らって逃げた訳よ。そしたらそこでタクシーに轢かれちゃったんだよねー。はっはっはっ……はあ……」

 何とも悲しみに満ちた乾いた笑いが響く。こういう時、どんな顔をしたらいいかわからないの。

 俺を迎えに来た枯れたススキのような色の髪色をしたジョーは、モリオとは性格こそ違ったが地獄に来ていてもとても明るく、自分も地獄に来てまだ日も浅いというのに不安そうな顔をしていた俺を慰めてくれたり、雑談で俺を和ませてくれていた。

 今の話も、彼が死んだ原因を身振りを交えて事細かに説明してくれた。

 俺も理由さえ違うが、轢かれて死んだ事を彼に伝えると「轢かれ者は惹かれあうんだな!」と訳の分からん論法を繰り出してから、抱擁と握手をして俺との距離を一気に縮めてきた。

 これがケンエイの言っていた類は友を呼ぶということなのだろうか。地獄にいる奴だったが、微塵も悪そうには見えなかった。きっとコイツは天国に指が掛かっていたに違いない。

 「ほら、着いたぞ。ようこそ、地獄へ」

 「ご苦労」

 ジョーは大きく口を開けるトンネルの横に行き執事のように畏まってお辞儀をした。俺は笑って応対する。頭を上げてジョーも笑う。

 オレンジの小さなライトが等間隔で並んだトンネルの中を進んでいく。トンネルはさほど長くなく、すぐに光射し込む出口へ出た。

 「ここが地獄かあ。なんというか……なんだろうなあ」

 変わんねえ。

 生きてた頃見ていた景色と何ら代わり映えが無かった。

 トンネルは山の中腹にあるようだった。トンネルから出ると道は三方に別れ、左と右へ行く道は森に囲まれた小径のようだった。まっすぐ進む道は緩やかな下り坂になって続いていた。

 涼やかな風に吹かれて揺れる新緑を纏う木々に覆われた道には、柔らかな木漏れ日が降り注いでいる。

 遠くの方に目をやると海が白波立っていて、海と山に挟まれるように街が形成されていた。

 「なんでこんな綺麗なの…」

 精いっぱい深呼吸して瑞々しい空気を取り込んでから、俺は呟いた。

 「すごいだろ?俺も最初来たときぶったまげたよ」

 「ここにいる奴らは全員地獄の住民なのか…」

 「そうだぜ。俺もまだ来て日が浅いけど、やっぱりあんまり治安がよくないらしいぜ」

 「そうなのか。これで治安悪かったら、俺ここに一生住んでもいいな」

 「ははは、一理あるな。とりあえず、役所に行って細々した登録を済まそう。案内するよ」

 「悪いな。それにこんな良い奴がいるんだ。地獄もアリかもしんないな」

 「嬉しいこと言ってくれるねえ。そんなこと言われたら箸の上げ下げまで世話したくなるなあ」

 ジョーの青空のように澄んだ目が微笑みを湛える。

 「さあ、こっちだぜ。ドロップ」

 彼は短期間で築き上げた友情を確認するように俺を渾名で呼ぶと、俺の前を歩き始めた。

 それは、木漏れ日のようにあたたかった。俺は日だまりのような彼の後に続くように歩いた。


 役所から、「はじめての地獄」と書かれた手提げ袋をもらって出て来た俺は、役所の近くで煙草を吸っていたジョーと合流した。

 「おー、これで晴れてお前も地獄の住民だな。家はどこに割り当てられたよ?」

 「3丁目の15番地だってさ」

 「そのへんは海の辺りだな。俺は山側だよ。土砂崩れに遭ったらイチコロだよ」

 「俺だって高波が来たらイチコロだ。大体俺達もう死んでるんだぜ。これ以上死にようがあるのかい」

 そう言って俺は笑った。だが、ジョーは笑わなかった。

 「それがどうやら死ぬらしい。二度目に死ぬ奴は今度こそ本当の地獄に落ちるらしい。お前がもらったパンフレットに書いてあるぞ」

 「家に着いてから読んでみるよ」

 「それがいい。今日の夜空いてるか?よかったら飲みに行こうぜ」

 「俺、まだ18だぜ?」

 「地獄は15になってれば大体の事はできるぞ」

 「なら行こう」

 「ようし、決まりだ。お前は家に居てもらったパンフレットでも読んでろ。夜が始まる頃に迎えに行く」

 「わかった。ジョー、何から何までありがとう」

 俺は手を差し出す。ジョーは俺の手を固く握り締める。

 「いいってことよ。じゃあ、後でな。3丁目まではこの道をまっすぐ行けばいい」

 指差す道は海の方へ出る道だった。俺は十字路で手を振って彼と別れた。

 北、西、東側を山に、南側を海に囲まれた街は、海と山を縦に繋ぐゆるやかな坂道と、山と山を横に繋ぐ道が十字架のようなメインストリートになっているようだった。道とはいえ、地獄に十字架っていいのか…。

 道を下るにつれて海の香りが強くなっていく。潮香が鼻をくすぐり、粘るような風が肌を撫でた。

 海沿いの防波堤に沿うように伸びたゆるやかなカーブの内側にある電柱を見ると、「3丁目15番地」と書かれていた。どうやらこの辺りのはずだ。

 もう一度住所の書かれたメモ紙を開く。3丁目15番地の後には、「海寄荘201号」(うみよせそう)と書かれていた。

 地獄にも関わらず平凡極まりないアパートを探そうと、俺は目線を忙しなく左右に動かした。すると、もう少し先の方に、アパートのような建物があったので行ってみることにした。

 降り注ぐ日差しに汗ばみながら歩くと、こじんまりとした二階建ての木造建築が目に入ってきた。外にあった、門を模したブロック塀に掲げられた「海寄荘」の看板を見つけた。ここだ。

 建物の横の階段を昇り、俺はメモ紙と一緒にもらっていたカギを取り出して201号室に差し込む。ガチャリと音を立てて回して、玄関のドアを開けると、六枚の畳が懐かしい香りを放って俺を迎え入れた。

 部屋の中を小さくぐるりと周ってみると、風呂とトイレは別で、洗面所が風呂場に隣接していた。

 何もないがらんとした部屋に寝転がってパンフレットを読もうとしたが、死んでから一睡もすることなく歩き通しだったので、寝転がると同時にいびきをかき始めた。

 海側に取り付けられた大きめの窓は潮風でかたかたと鳴っていたが、俺は死んだように眠っていた。死んだようにというか、実際に死んでいるのだが、とにかく死んだように小さな寝息を立てた。


 もっさりとした頭が方々に飛び跳ねていた。日はすっかりと沈み、夜へのカウントダウンを始めているところだった。

 玄関のドアノブを矢鱈滅多に回す音と、忙しなく鳴るインターホンの音で俺は目を覚ました。

 寝ぼけ眼を擦りながら、ドアの鍵を開けると、そこにはジョーが立っていた。

 「来たぜ。何だ、お前寝てたのか」

 「うん、爆睡だった。中入っていいよ。準備するから」

 寝起きのせいで俺の口数は少なかった。ジョーは靴を脱いで上がり込む。

 「お前、パンフレット見たの?」

 「ううん、部屋に入った記憶しかない。蓮台野をずっと歩いて来たから」

 「ああっ?お前蓮台野歩いてきたの?一体どれだけ歩いたんだよ…」

 「ジョーは歩いてないの?」

 顔を洗い終えたびしょびしょの顔で問いかける。

 「俺の時は、地獄まで直行便が出てたぞ。ご丁寧に面接中も外で待ってたしな」

 俺は蓮台野まで戻ってモリオをぶん殴ってやろうかと思った。

 「準備済んだらそろそろ行こうぜ」

 寝癖を直している俺にしびれを切らしたのかジョーは俺を急かす。

 「おう、行こう」

 俺とジョーは家を出た。

 家を出て並んで緩やかな坂を登ると、ジョーと別れた十字路に出た。さっきは気づかなかったが道の両側を所狭しと種々雑多な店が賑々しく立ち並んでいた。

 十字路を左に折れても店の賑々しさは変わらず、軒先に下がった提灯が柔らかな光で辺りを照らしていた。

 十字路から枝分かれするように伸びた細い道に入ると、飲み屋が人恋しさを凌ぐかのように密集している。

 俺とジョーは空いてそうな店を見つけて飛び込むと、ジョーはガソリンを欲する車のように慌てて注文した。

 「とりあえず、ビールふたつ。大急ぎで」

 店内に威勢のいい声が響くと、ジョーの注文通り大急ぎでビール二つと突き出しが並んだ。

 ジョーは、お預けを解かれた犬のように、すぐさまビールに手を伸ばして乾杯の音頭をとった。

 「それじゃあ、俺たちの友情に乾杯!」

 「乾杯」

 ジョッキは軽やかな音を立てたかと思うとすぐに軽くなった。ジョーのビールは一瞬で胃袋へと収まってしまった。

 「ぶはーっ、このために生きてると言ってもいいな!」

 「いや、俺らもう死んでるから」

 俺もビールを半分ほど飲みジョーにツッコミを入れる。笑い合う二人。

 生きていた頃の話しで盛り上がった。酒を飲み干す量と比例するように、声と笑い声のボリュームが大きくなり、2時間も経った頃になると、二人はテーブルに突っ伏していた。

 はきはきとした店員の姉ちゃんに追い出された頃にはすっかり午前様だった。

 俺とジョーは互いの肩を組みながら、もつれる足で帰路に着く。

 「ジョー、俺はあんたと会えてうれしい」

 「そうかい。それは俺も同じ気持ちだ、ドロップ」

 よろめく足取りの中で二人は、改めて友情を確認する。一緒に酔っぱらえる奴は大体いいやつだ。

 「だけど、いつになるか分からないが、俺はここからいなくなるかもしれない」

 俺はジョーにぽつりと呟く

 「どうゆうことだよ。俺に隠し事はナシだぜ」

 「だからこうして言ってるんじゃんか。俺はコイツがあるから生き返られるらしいんだ」

 そう言って俺はポケットに手を突っ込んで、柊からもらった古ぼけた羊皮紙をジョーに見せる。

 ジョーは目を丸くしている。

 「ぎゃーっはっはっはっは。ドロップ、お前飲みすぎて頭シャンとしてねえな?そんな紙っきれが何をしてくれるって言うんだよ?しかもそれをくれたのは美少女?担がれてんだよ、お前」

 「そうかなあ」

 「そうだ!間違えねえ!ドロップちゃんの純情を弄びやがって!」

 ジョーは激怒した。かの邪智暴虐の柊を除いてやろうと決意したような顔つきだった。吐き出される息は、大量に飲み干した大好きなガソリンの香りがしていたので、説得力は欠片も無かった。

 そうこうしているうちに十字路に着いた。夕方の喧騒にも似た賑やかさも、流石に灯を落としたような静けさだった。

 「あ゛ー…飲みすぎた。じゃあ今日は解散だな。明日、二日酔い無かったらここら辺りを案内するぜ」

 「何から何まで悪いな」

 「いいってことよ。じゃあな、相棒」

 「あいよ。じゃあな」

 俺とジョーは軽くてを振って別れた。俺は海側へ、彼は山側へとふらふらと歩いて行った。

 家までは10分も掛からずに着くはずなのに、今に限っては永遠に歩いているような気分だった。防波堤に寄りかかって呻き声をあげて座り込んでみたと思うとすっくと立ち上がり、ヘンゼルとグレーテルがパンを撒いたように、点々と吐瀉物をマーキングした。俺の体調なんかはお構いなしに海だけは変わらずに寄せては返していた。

 結局、家に着いたのはジョーと別れて1時間後だった。俺は必死の思いで家に着くと、とんでもない悪友を親友に選んでしまった、と後悔する時間も惜しむかのように大いびきをかきはじめた。

 なんだか今日は、倒れこむように寝ている一日だった気がする。


 目が覚めたのは、お天道様がすっかり昇りきった時だった。

 頭の中では、まだ春も真っ盛りだというのにガンガンと除夜の鐘が鳴り響いていた。口の中は、胃酸がせり上がってきているのか、苦さと酸っぱさが充満していた。

 最低のコンディションに、もう一生酒は飲まないと心に誓いつつ、のそのそと動き出してシャワーを浴びようと風呂場へ向かう。

 裸になったついでに、吐瀉物がこびりついたツナギを洗おうと思いつき、風呂場に入れるのに濡れたらいけない大切な羊皮紙を取り出そうとポケットの中をまさぐり始めた。

 だが、羊皮紙はどこにもなかった。

 俺は目を丸くしながら、一回深呼吸をしてもう一度手を突っ込む。ポケットも裏返してみたが、ゴミの一つも出てこない。

 血の気が引いて冷えるような感覚で酔いも吹き飛んでいくようだった。

 犯人は誰だ。

 俺は素っ裸で考え込んだ。

 泥棒にでも入られたのだろうか。しかし、普通の紙切れを盗む奴なんかいるとは思えなかった。

 真剣に考え込む顔は青白く、石膏で出来た像のようだった。青白い体と顔が洗面所にある鏡に映り込む。

 ぼやけた記憶を辿るように、頭はキュルキュルと音を立てて巻き戻っていった。

 一時停止になったあと再生されたのは、ジョーと肩を組んで夜道をふらつき、へべれけになりながら、ジョーに羊皮紙の秘密を親友の証しに明かしているシーンだった。

 よく思い出してみると、この話しを聞いた後、ジョーの一瞬の顔つきには凄みのようなものがあった。すぐに与太話だと一笑に付しているが、時折見せる顔はやはり何かを決めたような顔つきだった。

 この顔を思い出した俺には、誰がやったか大体の察しはついた。

 一瞬で世界がぐにゃりと曲がるような目眩が襲いかかる。

 こんなにあっさりと裏切られるなんてどうしても考えたくは無かった。

 胃からものすごいスピードでこみ上げてくる。俺は洗面台に顔を突っ込んで、こみ上げてきたものを吐き出した。

 二日酔いで吐いたんだ。そう言い聞かせながら口の端に付いた胃液を手の甲で拭った。

 鏡の中でジョーが高笑いしている錯覚を見た。俺の決心は寄せては返す波のように、早くも揺らいだ。


 ふと気づくと右手に巻いたシリコンバンドが薄緑色に点滅していた。

 今の精神状態ではあまり見たくもなかったが、こいつの扱い方も少し慣れておかねばと思い、ショックで震える指を伸ばした。

 『やほー。そっちはどうだい』

 なんと間延びした文章だろうか。こっちはそれどころではないのだ。

 『ちょっと聞きたいんだが、羊皮紙のスペアはあるか?』

 すぐにメッセージが返ってくる。

 『ある訳ないでしょ。なんかあったの?』

 『地獄で盗まれた』

 俺は正直に白状した。

 『あ?』

 『すまん』

 『急いで取り返さないと生き返れなくなっちゃうよ!』

 『取り返したらまた連絡する』

 なんとも頭が痛かった。よくよく考えてみれば初対面の人間に簡単に心を許しすぎていた。でも、一人の時に声かけてもらって嬉しかったんだもん。

 嬉しかった記憶が蘇ってきたが、今は俺の蘇りが掛かっている。そんな思い出に浸っている暇は1秒もなかった。

 向こうは俺の家を知っていたが、俺は向こうの家を知らなかった。わかるのは海へ下る道を登っていくという事くらいだった。

 しらみつぶしに探してみようと考えてはみたがいかんせん効率が良くない。どうしたものかとすっきりしない頭で考えていると、妙案が浮かんだのかすっくと立ち上がって家を出た。

 俺の足は賑わうメインストリートを通り過ぎた。役所へと向かい、そこでジョーの家を調べられないかと考えたのだった。

 役所は北西の辺りに位置していた。地獄の入口から西側に伸びた道を伝って役所へ着く。

 「あのう、すみません。市民課はどちらでしょうか」

 静かな場所が自然に小声にさせる。受付は2階を指すと俺は階段を上がる。上がった所に置いてある機械で67と書かれた番号札をもらい、まばらに空いている席でしばらく待っているとアナウンスが掛かった。

 「67番でお待ちの方、右側の席へどうぞ」

 うとうととしていた俺は目を覚まして、右側への席へと座る。

 「それで、今日はどういった御用?」

 付けていたメガネが食い込みそうな程に太った初老の女性が、白かったであろう薄黄色のハンカチで汗を拭いながら俺に問いかける。

 「あの、友達の家の住所を知りたいので住民票を調べてもらいたいのです」

 「住民票は余程の理由がない限り秘匿されていますが、どのような理由で知りたいのですか?」

 大きな顔で質問を投げつけてくると、妙な圧迫感を感じる。俺は少しひるんだが、気持ちを強く持って言い返す。

 「友達が事故に遭って入院してしまったらしいんです。それで、入院に必要な道具を持って行ってやろうと思ってまして。だけど、彼とはまだ友達になって日が浅いので、どこに家があるのか聞きそびれてしまったのです。それでこうしてこちらのお力を借りようと思った次第です」

 俺は、少し涙ぐむ目を擦るようにして誤魔化す。もちろん、こんな話も俺の悲しみも嘘っぱちだ。自分の思っていた以上に堂々と出来たので少し驚いた。生き返ったら俳優に挑戦してみるのもいいかもしれない。

 俺の応対をしているおばさんは、俺のホラ話を信じ込んだのか「ちょっと待ってて」と言葉を残して席を立った。心なしか鼻の頭が少し赤くなっていたように見えた。

 少しして席に戻ってくる職員の手には、なにやら書類を持ってきていた。

 「こちらがあなたの言うお友達の家の住所ですね」

 そう言うと彼女は、細々と書かれた書類と共に、住所が書いてある紙を渡してきた。

 俺はそれを受け取ると一礼してさっさと帰ろうとする。

 「お友達、早く元気になるといいわね」

 「彼もきっと喜びます」

 俺は、見送る彼女を背に一階へ向かう。俺は計画通りと言わんばかりにほくそ笑んだ。


 もらった住所を頼りに歩を進める。再びトンネルへと戻り緩やかな坂を下っていくと、大きな十字路にぶつかる前に左に細い道があった。どうやらこの道を入るとジョーの家に着くようで、曇りになったような薄暗く細い路地を行く。裏路地に置いてあるゴミ捨て場を横切るときは鼻を押さえた。

 「ジョー!出てこい!」

 俺は細い路地を歩きながら呼びかける。しかし案の定返答は無い。とにかく俺は怒りをぶちまけたかった。

 ジョーの家の前に着くと、ベニヤを重ねたようなドアを激しくノックをする。

 「ジョー、いるか?」

 何度ノックをしても出ないのでドアノブを回してみると、ドアは意外にもすんなりと開いた。

 恐る恐る足を踏み入れてみると、間取りは俺の部屋と少し似ているようだった。綺麗に整頓された部屋は、ジョーの新たな一面を見たようだった。

 部屋を隈無く探したが見つからず、俺は苛立ちながら大きな音を立ててドアを閉める。

 爪を噛みながらどこに行ったかと思案に暮れていると、細い路地にあったゴミ捨て場を漁る黒い影が蠢いているのが見えた。

 「誰かいるのか」

 俺は蠢く影に声を掛けた。のっそりと起き上がって近づいて来る。

 くすみきってボロボロに擦り切れた作業服を上下纏い、靴の先からは指がむき出しになっていた。髪の毛も脂で所々が固まりハエの生産所と化していた。香りも大変香ばしく、草原の歩こうものなら草木は瞬殺されてしまうだろう。

 完全にホームをレスしている奴の出で立ちだった。だが、そこまで老け込んでいるという印象も受けなかった。

 「なんか用かい」

 開く口も出る息も香ばしい。俺は息を止めた。

 「この辺に住んでる金髪っぽい奴を探してるんだ。あんた、見てないか?」

 「さあね、見たといえば見た。見てねえと言えば見てねえ」

 彼は何か含みを持たせるような答え方をすると、笑って黄ばんだ歯を見せた。

 「何か知ってるなら教えてくれ。頼むよ」

 「嫌だね。教えたって俺に何のメリットがねえ」

 「なら、飯おごるよ」

 「話がわかるな。だが、1回じゃだめだ」

 「何回ならいいんだ?」

 「三日間分だ。三食きっちりお前が俺の飯の面倒を見ろ」

 いやに強気なのはきっと失うものが何もないからだろう。それに、俺はどうしてもジョーを探さなければならなかった。

 「わかった。それでいい」

 「交渉成立だな」

 彼は交渉成立を肌で感じたかったのか、俺に握手を求めて右手を伸ばした。少し動くだけで彼からは悪臭が放たれたが、俺は我慢して握手をした。垢が皮膚に地層のように積み重ねっているのか手の感触がザラついていた。

 「それで、どこに行ったのか教えてくれるか?」

 「ああ、そいつなら山の方へ向かっていったぜ」

 「山ってどうやっていくんだ?」

 「トンネルがあるだろ。そこを左に曲がると役所。右に行くと山に行く道に繋がってる」

 「ありがとう。事が片付いたら、飯おごるよ」

 「俺の縄張りはこのメインストリートの近辺だから見つけて声かけてくれ。こんな汚ねえ格好してるのは俺くらいなもんだし、すぐわかる」

 彼は笑った。自分で汚いの自覚してるのか。俺はまだ人間としての当たり前の感覚は残っているのかと胸をなでおろした。

 「それじゃあ」

 俺はジョーを探しに行こうと路地を出ようとした。

 「ああ、そうだ。あんた名前何てんだ。折角知り合ったのも何かの縁だ。名前のひとつくらい聞いておきたいね」

 そう俺を呼び止めるとまた汚い歯をむき出しにして笑った。

 「俺は佐久間って言うんだ。皆はドロップって呼ぶからあんたもそう呼んでくれ」

 「そうか。わかったぜ、ドロップ。俺はホーってんだ。ホームレスのホーだ。呼ぶ時はホーさんと呼んでくれれば後はなんでもいい」

 自虐なのかウケを狙ったのかは定かではない。少なくとも笑っているのはホーだけだった。

 「じゃあ、またな」

 少し遅れた自己紹介もそこそこに終えると、俺は陽のあたる道へと出て行った。


  俺は来た道を引き返し、再びトンネルがつながっている十字路へと戻った。さっきは左に折れて役所へ行ったが、今度は右に曲がって山へ向かった。なんだか今日は歩いてばっかりだ。俺はうんざりしながら棒になりかけている足に力を込めて歩き始める。泣き言を言っている暇は一秒でも惜しかった。

 右に折れると現れた道は、自然に囲まれていた。少し歩いた道の右側は柵のない崖になっていて、少し用心して歩かねばならなかったが、そこだけは視界が開けて、乱反射する海や、米粒ほどになった建物がちらほらと目に入ってきた。

 程なく歩くと、崖もなくなって木々のトンネルと化した道は次第に険しさを増していった。

 九十九折(つづらおれ)になった頂上に伸びる道を、肩で息をしながら進む。これを登りきれば頂上のようだったが、何故山を登っているのかを忘れてしまいそうなほどの険しさだった。

 息も切れ切れで、ようやく頂上に着いた。

 ここにジョーがいる。

 いや、確証なんてものは一つもない。薄汚いホームレスが見た定かでもない情報に縋らなければならない程に手がかりは無かった。

 頂上は少しだけ人の手が加わっているのか、公園のような広場になっていて、登山者を癒すベンチや、水飲み場、東屋などが設けられていた。

 広場からの景色は、下の崖から見た景色とあまり変わらなかったが、見晴らしが良くなった分、自分の住む街の全景がよく見えた。

 「ジョー!どこいるんだ!コノヤロー!」

 俺は景色を見ながら叫ぶ。もちろん返事はなく、虚しくこだましてボリュームを落とすように消えていく。

 ここには、いなかった。

 当然といえば当然だ。身を隠そうという奴が素直に山の頂上で待ってるはずもない。

 俺の一縷の望みを掛けた山登りは空振りに終わった。夕景がオレンジ色に染め上げていた。

 肩を落として帰ろうと踵を返した時だった。

 頂上の入口に誰かがいた。そいつはこちらに向かってきていた。

 俺は息を潜めて身構えた。

 俺の羊皮紙同様にかっぱらってきたのか、食料と酒瓶が抱えられていた。

 「おい、それも盗んできたのか」

 俺は、ジョーに正対し声を掛ける。

 「おお、ドロップ!久しぶりだなあ!どうだ調子は?二日酔いは平気か?」

 彼は、白々しく大仰なリアクションを取ると、持っていた荷物を芝に落としてから手を広げて俺の方へ近づいてきた。

 「こっちに来る前に俺の質問に答えてくれ」

 「ああ、いいぜ」

 「俺の羊皮紙盗んだか?」

 「さあ、どうだかなあ」

 広げた手をポケットに突っ込むと口笛を吹いた。

 「ジョー、もうやめてくれ。お前しかいないんだ。羊皮紙の効果を知っている奴は、俺とお前だけなんだよ」

 それを聞くと、ジョーは俺との距離をみるみる縮めてくる。ジョーの目は、酔った時にふと見せた目つきになっていた。

 握りこぶし一個分の隙間ほどになるまでジョーは近づくと、ポケットから手を出して俺の服の襟をねじり上げるように掴んで引き寄せると、こう呟いた。

 「あばよ、もう二度と会うことはねえだろう」

 下からキラリと反射するものが見えた。ジョーのもう一方の手には、ナイフが握られていた。

 ナイフの切っ先は俺の顔をめがけて猛然と襲ってくる。

 ジョーを突き放してよろめくように避ける。頬に一条の熱線が走ったかと思うと、俺に流れる赤いものが滴った。

 また再び間を取って正対する俺とジョー。

 言葉にならないような雄叫びを挙げてジョーが俺にまた食って掛かってくる。右手にはしっかりと握られたナイフを振りかざしている。

 困った。さっきはなんとかなったが俺は喧嘩を一切したことがない。

 喧嘩というよりも、殺し合いと言った方が近かった。

 俺は、ジョーのナイフを持った手を掴んで制した。

 「ジョー!もうやめてくれ!俺は紙だけ返してくれればいいんだ!」

 ネゴシエーター・ドロップは、攻撃を制しながら交渉を持ちかけた。

 「そしたら、俺は生き返れねえじゃねえかよおっ!」

 がなるように返事をした。予想はしていたが、交渉は見事に決裂した。

 俺は、せめてナイフだけでも振り払おうと制していた手に力を込めて、ぶんぶんと振り回していると、ナイフは夕日を浴びて煌めきながらあさっての方へ飛んでいった。

 「生き返ってやり直すんだ。前のくだらねえ人生を。ゴミ溜めでしてるような生活を」

 「そりゃあ俺もだよ、ジョー。きっとここにいる奴ら全員がそう思ってるはずだ」

 俺は頬を伝う赤いものを拭う。ジョーは拳を握り締めて、また俺に向かってくる。

 「スリ師なんて、俺ぁもう懲り懲りなんだよぉ!」

 力の限りを込めた彼の右ストレートは俺の鳩尾を抉る。俺は強烈な圧迫感を覚えると逃げることも忘れてその場にうずくまった。

 そうなってしまった後は俺の防戦一方だった。

 前頭部に膝が飛んでくるのが見えた瞬間、俺もあさっての方向へもんどり打って仰向けに倒れた。ジョーは馬乗りになってリズミカルに拳をお見舞いしてきた。

 俺の顔はあちこちが切れて、湧水のように赤いものが噴き出していた。俺にはやり返すと言う気持ちが砂時計の砂が落ちていくようにさらさらと消えていった。

 「ひゃーっはっはっはっは!ザマぁねえなあ!ドロップちゃん」

 ジョーが拳を振るうのを止めて高笑いをする。俺には返事をする言葉も残っていなかった。肩で息をしながら眠るように目を瞑る。

 「あー、生き返ったらどこに行くかなあ。この羊皮紙をくれたっちゅう美少女のところにでも行こうかな」

 その言葉を聞くやいなや全身が熱くなった。こんな奴を柊に合わせたら何をしでかすか分かったものじゃない。

 内側からマグマが迸っているようだった。

 俺は何か無いかと普段あまり使わない頭をフルに動かした。頭を動かして左手の方へ視線をやると、そこには、俺と同じあさっての方向に先に飛ばされていたモノがあった。

 それは丁度左手を伸ばせば届くような位置だった。左手を伸ばすと中指の先が柄に触れた。しかし掴むところまでには至らなかった。

 「ぐうっ…」

 俺はもどかしさを呻くような声に出す。

 「痛ぇか。そろそろゲームセットにしてやんよ。また死んでも頑張れよな。あばよ」

 ジョーは拳を振り上げた。俺は歯を食いしばるように腕を伸ばした。

 拳がどんどん近づいて来る。

 その時だった。伸ばしていた左手の指がナイフの柄に掛かった。握りしめて手繰り寄せると、ありったけの力を込めてジョーの横っ腹に突き立てた。

 一回。二回。三回。

 噴水のような返り血が俺の左手を染めていく。

 刺された刹那、ジョーの(まなじり)は裂けんばかりに見開かれた。しかし、穴のあいた風船がしぼんでいくように、ジョーの顔はみるみるうちに青白くなって、ついには、俺に覆いかぶさるようにどさりと倒れた。

 俺は、ジョーの亡骸を払い除けて起き上がる。物言わぬジョーに視線を送る。

 蒼白な顔。物言わぬ口。ガラス玉のような眼。糸の切れたマリオネットのような体。

 俺の体の中からマグマは消え去り、それと入れ替わるように全身を震えが襲った。血のついたナイフは手から滑り落ち、悪寒が全身を駆け巡った。

 震える体を奮い起こして最後の仕事をしようと、体にのしかかったジョーの体をひっくり返して、あらゆるポケットをまさぐると、ズボンの左側で懐かしい感触が小さく丸まっていた。

 俺は迷子になっていた子供を迎えて抱きしめるように握ってしっかりとポケットへと収めると、生まれたての仔鹿のような足取りで立ち上がった。

 事切れたジョーは立ち上がることなく地面にへばりついている。

 俺は人を殺した。

 俺は、ポケットにしまった羊皮紙をわざわざもう一度取り出してまじまじと見た。

 羊皮紙を開いてみると、赤いインクのようなもので、見たこともない文字が一文字だけ浮かび上がっていた。

 マグマの残滓が脳にこびりついていたのか、その意味をすぐに理解すると、濁ったガラス玉のような目をしながら、それを見た俺はぽつりと呟いた。

 「俺は、一体何人殺さなきゃいけねえんだ……くそったれめ……」

 深く沈んでいる俺をよそに、太陽はどこまでもオレンジ色に染め上げていた。

着地点が見えません。

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