脳内と出会いの季節はピンク色
「あの…すみません。そこのショートカットの黒髪のあなた。突然ですが、俺、あなたのこと好きです。付き合ってくれませんか」
言った後、ハッと我に返った。ああ、俺はなんということをしてしまったんだ。
きっと疲れているに違いない。何に疲れているのかは定かではないが、したこともない告白をこんな大胆にさらっとやってのけてしまったのだった。しかし、昨日はたっぷり9時間睡眠をとった。疲れていないのならば、俺の頭は、脳内がピンク色で満たされすぎて、彼女が欲しくて欲しくて欲しくて欲しくてたまらなくてイカれてしまったに違いない。
ここは大学の校門前。校門の隣には桜の木が一本新入生を歓迎するように咲き誇っていた。
眠い目を擦りながら一限目の授業に出ようとしている生徒でごった返していたが、何処からか聞こえてきた告白に、周りの生徒の目は覚め、視線は声の出処に向かって一斉に集まった。
イエスかノーか。答えによって大きく人生は変わる。
おそらく答えは、わかっている。
ノーだ。
彼女の後ろ姿だけを見て、告白してしまった。見切り発車にも程がある。
告白した文言にもある、『ショートカットで黒髪の子』という視覚的情報しか無い。あとは服装と体格くらいだが、少し小柄でスリム、ボーイッシュという事くらいしか言えそうなことはなかった。
チクチクと刺さるような視線が集まる中、彼女が短い髪をなびかせて俺の方を振り返る。
そこには、可愛い女の子がいた。朝だから眠いのかはわからないが、少し冷めたような目。
冷めた視線を送るのは当たりまえだろう。見ず知らずの男に告白されているのだから。
「すみません。私のこと呼びましたか。音楽を聞いていました。黒髪でショートカットのところだけは聞こえたので」
彼女の声は少し落ち着いているようだった。
俺は膝から崩れ落ちたかった。心は既にボロボロと崩れていた。
しかし、振り向く彼女を見た俺の崩れゆく心に、何かが突き刺さるような感情も確かに感じていた。
彼女は確実に俺の心に良い衝撃と悪い衝撃を与えていた。
俺の血迷った告白は、無かったことになっていた。周囲からは刺さる視線。
この究極に気まずい状況をどうすれば打破出来るだろうか。
「あ…あのっ…」
何か話しかけねばと思い、何とか声を捻り出す。無理に出した声は嗄れていた。
このまま、へらへら笑って「なんでもないっス」と言って謝れば、この場はなかったことにできる。
しかし、何かが突き刺さった心が、それを許さなかった。
彼女は、さっきより細くなった目から冷たい視線を送っていた。
「特に用がないなら、もう行きますね。失礼します」
彼女は踵を返し、手に持っていたイヤホンを再び耳に付けようとしていた。
「待ってください!」
必要以上に大きな声で彼女を呼び止める。集まっていなかった視線までもを集めてしまった。
「俺、あなたの事が好きだ!よかったら付き合ってくれないかなって」
言った。言ってしまった。
背中から汗が噴出し喉が渇く。砂漠を歩いている気分だった。今、水があったらどんな値段でも買うだろう。
彼女に届いたのだろうか。特に噛んだりはしていない。声も小さくなかったはずだ。
彼女はゆっくりと振り返る。
視線は、さまよっている俺の砂漠を凍らしてしまうと感じるほど冷たかった。
「ごめんなさい」
さっき聞いた声より比べてトーンが低い。言葉少なに終わらせた彼女は、足早に校舎の方へと去っていった。
半ば勝敗は決まっていた試合を何かミラクルが起きないかと見守っていた視線も、やっぱり負けかと言わんばかりのものへと変わっていった。
一陣の風が吹く。舞い上がった桜の花びらが俺にまとわりついてきた。なんだか桜に慰められているみたいだった。
ゾンビの様な足取りで教室に向かう。おそらくここまで最低の大学生活をスタートした奴もそうはいないだろう。
教室に入ると、後ろの半分はすでに埋まっていた。
俺は、真ん中辺りの席を取り、両側の椅子に荷物を置き、隣に座らせないようにした。
授業に集中したいわけではなく、ただ隣に座られるのが鬱陶しく感じたからだった。
始業ベルと同時に教授が来て、初めての授業が始まる。
高校の授業とさして変わらないように感じた。
永遠とも思える授業のようだが、時計に目をやると、まだ10分しか経っていなかった。
寝てしまえば、このささくれだった心も少しは落ち着くだろうと思い、ノートを開き、右手にペンを握り、一応授業をしているという体裁を整えて机に突っ伏しようとしていた時だった。
「すみません、隣いいですか」
俺は舌打ちしてしまいそうだった。初めての授業に遅刻してくる神経も分からないし、この広い教室でなぜこの席をチョイスしているのかも謎だし、よりにもよって何故今日このテンションが著しい俺に声を掛けてくるのか。失恋からくるやさぐれなのか、俺は全ての事柄に因縁を付けずにはいられなかった。
「よそ行ってもらっていいですか」
そう言ってやろうと決めて、相手の顔へと振り返った。
そこには、朝から冷ややかな目線を突き立ててきた黒髪のショートカットの女の子が立っていた。
僕は、目を丸くした。彼女の声を掛けた後、気まずそうな顔を浮かべている。しかし、その後の愛想笑いに俺の心はフルスイングされたようだった。
平静を取り繕いながら、徐ろに左側の椅子にあった荷物をどけて、小さな溜息を一つついて机に突っ伏した。
溜息は、隣に座られる鬱陶しさから来るものでなく、一目惚れにも似た感覚から来る体の奥底から湧き出てくる熱みたいなものを排出する苦肉の策にも思えるようだった。
退屈で睡眠にはうってつけの授業だったのだが、隣の黒髪ショートカットの侵入者によって一気に緊張が走った。
後ろ姿から見ても可愛い。前から見ても可愛い。そして、寝たふりをしながらちらりと横に目をやる。
顎にシャープペンシルの頭を当て、物憂げに板書を眺めている。横顔もまたパーフェクトだった。
俺は顔を赤くなるのを覚えながら、再び寝たふり決め込むことにした。
授業は淡々と進んでいたが、初回ということで20分も早く授業を切り上げてしまった。
後ろに席を陣取っていたモラトリアムを謳歌しようとしている学生たちは、よくやったと言わんばかりに拍手をし、がやがやとノイズを発し始めた。
そのノイズが目覚ましとなって俺はうつらうつらと目を覚ます。寝たふりのはずだったが本当に寝てしまったらしい。教室の人は既にまばらになっていた。それを見たときに、もう授業が終わっていることを悟った。
しかし、隣の一番気になる女の子はまだ教室に残っていた。
ま、まさか…俺のことを待ってい………た訳ではなかった。10分遅れて来たため、遅れた分の板書を取っていたようだった。
俺は少しばかり垂れていたよだれを拭いて立ち上がって、そそくさと教室を出ようとした。
悪いな、俺は一回敗れた奴には興味は無いんだ。あばよ。
言葉には出さなかったが、精一杯の負け惜しみを吐き捨て、舌を出しながら椅子から立ち上がった。
「あの…」
隣にいたショートカットの宿敵が、おずおずと俺に向かって声をかけてくる。
「は…はあ…」
内心、どきりとしながら生返事をする。
「あなた、朝告白してきた非常識な方ですか」
非常識という言葉が出た時点で、俺は眉間に皺を寄せた。こんなマイナスな言葉…と言っても、こんなこと言われて当たり前のことをしている訳だが、話しかけてくれただけでも、正直な話嬉しかった。
「そうだけど。朝は悪かったね。迷惑かけて」
「いえ、それより今度遊びに行かない」
「あ?」
思わず、間抜けな声が出てしまった。声だけじゃない。顔までも何とも拍子抜けしたようになっていた。
「君、なんか宗教でも入ってんの?俺は宗教はゴメンだぜ。誘うならよそ当たんな。」
朝の何とも畏まった態度は微塵と消えていた。もういい格好する気はないという俺の決意の表れだった。
しかし、もしかしてもしかする事もある。このあといきなり家やらホテルやらに直行して一夜のアバンチュールなんてこともある。そうなれば、一人で寂しく練習してきた成果を発揮する千載一遇のチャンスだ。
そんな甘い妄想を巡らせると、寄っていた眉間は戻り、口角はゆるむになる一方だった。
「そんな事ないわ。ちなみに肉体的関係を結ぼうという、あなたの考えている都合のいいお誘いでもないの」
彼女は、そんな俺のくだらない妄想を見破ったのか、ぴしゃりとこう言った。
バツの悪そうな顔をしている俺を見て彼女は話しを続ける。
「いえ、朝はあまりに無慈悲に断ってしまったので罪悪感が少しだけ芽生えてしまったの」
「少しだけか」
「ええ、少しだけ。それにちょっと気になることもあるし」
「それで、無慈悲な拒絶を発動したあなたが、その強権で千々と俺の心を引き裂いたあなたが何のようだい」
その、『気になること』ということが、俺にも気になったが、何だか遠慮してしまって気にするのをやめた。
彼女は教室を出ようと立ち上がった俺を、板書を取るのを止め、下から上目を使いながら見ている。
その顔はなんとも愛くるしかった。また、右目尻の少し下には黒子があった。
彼女の顔の泣き黒子は北極星のように煌々と輝いているようにも見える。きっと、ピンク色のふしだらな液体で脳内を満たしたリビドー溢れる男どもを導いてきたに違いない。
しかし、声を掛けた相手がこのような美少女だったとは、俺のヒキも中々悪くないではないか。
思えば、今まであまり運のいい方ではなかった。給食の余り物を争奪するジャンケンでは必ず負けた。
テストの選択問題でも二つにまで絞れた問題も、結局外してしまう。これまでのツイていない人生を挽回するように降って湧いたチャンスの様にも思えた。
このチャンスは何とかモノにしたい。
「この先、まあいつになるかはわからないけど、私に付き合ってもらえない?」
「付き合うっていうのは、交際関係ってことか」
「私は朝あなたを軽快にフっています。そんな事は太陽が西から昇っったって有り得ないわ」
言葉の端々に刺がある。刺というよりもナイフに近い。
「買い物にでも付き合ってもらおうかなと思っているんです。ちょうど荷物持ちが欲しかったので。」
なるほど、俺は現代における奴隷ということだろうか。そういうことなら俺も男だ。ちっぽけとは言えプライドがある。そう安々と首を縦にすることはない。
「わかった。行くよ」
心とは裏腹に、口は容易く服従の誓いをする。どうやら俺の脳はくだらないプライドなどは燃えないゴミにでも出すという採択をしたのだろう。
「それじゃあ決定ね」
初めて笑顔を見せる彼女。話しは続く。
「じゃあ、日にちが決まったら連絡するから」
「俺達、連絡先を知らない」
「何を言ってるの。今交換したらいいでしょ」
彼女は携帯を差し出す。それを見た俺も慌ててズボンのポケットに手を突っ込む。携帯を持つ手は汗ばみ、少し震えている。
思えば、母と妹…所謂家族というものだが、家族以外で女性の連絡先が入るというのは史上初めてのことだった。今夜は祝杯だ。赤飯を蒸して、鯛でも焼こう。
吹きこぼれそうなほどに出てくる、桃色ドーパミンが思考を阻害する。
「はい、終わったよ」
女の子の声が、いやに教室に響く。見回していると、いつの間にか、俺の彼女の二人しかいなかった。
気づけば、連絡先の交換も終わっていた。俺の一大イベントは、あっという間に終わっていた。
「じゃあ、覚えてたら連絡するわ」
「誘っといてそれかい」
「うふふ。冗談に決まってるでしょ」
彼女は板書を終えたのか、筆記用具を片付け、小走りで黒板へと向かった。
「教授に板書消すように頼まれちゃった」
几帳面に端から端まで丁寧に黒板消しを走らせる。
「ねえ、あなた名前何て言うの」
黒板を消し終え、手についたチョークの粉を落とすように手を叩いてから教卓から問いかける。
「俺の名前は、佐久間智浩、サクマトモヒロ」
「ふーん、何だか甘そうな名前ね。でも私ハッカが一番好き」
きっとサクマ式ドロップでも想像しているのだろう。
「そのアメのおかげで、ずっと、ドロップってアダ名だったよ」
「何だか似つかわしくないけど、響きが可愛いから私もそう呼ぶことにする」
「そういう君は、何て言うの、名前」
「私は…」
彼女は俺に背を向けると、消したての黒板に文字を書き始めた。
「私の名前は、神原柊よ。カンバラシュウ」
黒板には、でかでかと彼女の名前が書かれていた。背が低いため、黒板の真ん中より下に寄って書かれていた。
「ふーん。なんだか男っぽい名前だなあ」
「お父さんが、生まれるまでずっと男が出てくると思ってたらしくて、男の名前しか用意してなかったらしいの」
彼女の親父は随分とテキトーだ。きっと柊も適当に違いない。
ボーイッシュで小動物のような愛くるしさ。礼儀はあったりなかったり。天衣無縫で自由闊達。それでいて少し毒のある冷ややかな視線や、言動。
顔だけではない。何とも不思議な魅力に溢れている。
フラれたとはいえ、友達くらいには何とかなれないだろうか。
「あ、私そろそろ行かないと。二限目は小クラスだから、少し予習しておきたいの」
席の方へとまた小走りし、机の脇に置いてあったリュックを背負った。
イヤホンを取り出し、耳にはめる。どうやら、どんなに短い移動でも音楽が無いとダメらしい。
「なあ」
俺は柊に声を掛ける。
「なに」
まだ音楽が流れてないのか、イヤホンをしたまま返事をする。
俺は、さっき柊が言っていた『気になる』事を聞いてやろうと思った。
「名前の漢字が柊ってことは誕生日は、節分の日か?」
柊は、教室の後ろのドアから出ていこうとするところだった。ドアに手がかかっていた。
「当たりだよっ。じゃね」
柊は俺に笑いながら軽く手を振って、出て行った。
「当たりだよっ」と言った時の彼女の笑顔が、俺の心にも当たって粉々にしていった。
少しのぼせたような感覚になっていると、後ろのドアがまた開いた。
二限目の授業を受ける学生がぱらぱらと入ってきた。
俺は逃げる様に教室を出た。
目まぐるしく起こった出来事を思い出しながら。