もしかして:危機
結局その日は部屋に戻って〈ユスティナ・ノート〉の最重要部分を確認、おばさんにメールを打ったら即レスが帰ってきたので(たぶん予想されてた)、慎重にメールを確認。仮説が正しいことが、実証された。
でも、そこで手が止まった。
難問を1つクリアしたら、新しい難問が出現したのだ。
思わぬ強敵の登場に、自然と私は高揚した。
今までとは違うアプローチが、新しい切り口を見せてくれたのだ。
しかも今回の切り口は、落ち着いて手を動かしていれば解ける、そんな気配がある。
手強いことは手強いが、この1週間弱ハマり込んできた泥沼に比べれば、コイツはまだまだ雑魚の範囲だ。
そんなこんなでテンションが上がりまくった私は、お気に入りのヘッドフォンを装着、ショパンのピアコン1番を爆音で無限ループさせながら(最初はおとなしめにかけていたのだけれど、一瞬寝落ちしたので音量を上げた)問題に取り組んでいたら、突然轟音でFacebook Messengerの着信音が鳴り響いて、思わず「ぎゃっ」とか叫んでしまった。
あわてて音声をミュートして、ブラウザのタブを切り替えると、そこには大量の怒りスタンプと、「お昼ですわよ!」というメッセージ from エマちゃん。デスクトップの時計を見ると、確かに13時。お昼というか、お昼すぎだ。
仕方なくノートPCを閉じ、〈ユスティナ・ノート〉を片付けて、立ち上がろうとした――ら、足に力が入らず、無様に床に転がってしまった。
あれれれ。
ちょっと焦りながら、必死で立とうとするも、文字通り「足腰が立たない」。
ドアの向こうでは激しいノックの連打。
これはまずい。
たぶんエマちゃん、12時くらいからノックしてた。
仕方ないので床を這いずって、ドアに到達。なんとか鍵を開けると、勢い良く扉が開かれて、怒り心頭なエマちゃんと、床で芋虫みたいになってる私の目があった。カフカ的遭遇。
顔を真赤にしていたエマちゃんが、さあっと青ざめて、「お医者様を!」と絶叫するまで、2秒。
上を下への大騒ぎの後、養護の斉藤先生が飛んできて、やがてつまらなさそうに「消化にいいものをしっかり食べて、寝なさい、お馬鹿さん」と叱られるまで、15分。
エマちゃんの肩を借りて食堂に降り、いつもの特製おじやを頂いて(なんと、お代わりを貰った)、食後のコーヒーを飲もうと思ったらエマちゃんが激怒したので、仕方なく麦茶を飲んだところで、意識が飛んだ。
次に目が覚めたときは、寮のエマちゃんの部屋で、実にファンシーなパジャマ(むやみに胸が余る)を着せられていた。時計を見ると、朝6時。ざっと16時間寝ていた計算になる。
こんなにぐっすり、夢も見ずに眠ったのは、久しぶりだ。
寝返りをうつと、暖かくて柔らかいものに手が触れた。
「うぅん……」
妙に色っぽい声がして、私は慌てて手を引っ込める。
うひゃ。エマちゃんと同じベッドで寝てたのか。
エマちゃんを起こさないよう、慎重に姿勢を変える。
エマちゃんは、やけに幸せそうに眠っていた。
その寝顔を見ると、なんだか急に眠くなってきて、私はまた眠りの底に落ちていった。
■
エマちゃんの部屋で泥のように眠るのと、連行されるように寮食を往復するだけの毎日を2日ほど繰り返したら、体調はすっかり回復した。
エマちゃんも、「そろそろ放免でもいいですわね」と認めてくれたので、私は改めて、〈方程式〉の最後の詰めに入る。
おそらく、たっぷり眠ったのが良かったのだろう。
2日ぶりに〈ユスティナ・ノート〉を見た私は、あっけないほど突然、すべてを説明できる仮説を手に入れた。
そう。これは、割り切れたあとの物語であると同時に、割り切れない話でもあったのだ。
だが現状、この仮説は、仮説の範囲に留まる。
そこでまず、私はスマートフォンを手に取り、ある人にLINEを入れた。
「内密に、相談したいことがあります。
午後3時頃、学内カフェでお話できますか?」
相手は時間通りにカフェに姿を現し、私の仮説は大きく強化された。
あとは、もうひと押し。
――なの、だが。
まずは、学園祭だ。その前にコミケもある。
エマちゃんにはさんざんお世話になったのだから、コミケの案内くらいしなくては、バチがあたるというものだ。
最後の詰めは、その全部が終わってからでも遅くはない。
そしてたぶん、相手はそれまで逃げないはずだ。
この推測には、理論的な論拠はない。
それでもなお、私は確信する。彼は、絶対に、逃げない。
長年連れ添った嫁の、カンだ。外すつもりは、ない。
■
エマちゃん大興奮のコミケ(初参加で初コスプレはさすがに止めたが)も無事終わり、すっかり魂が抜けたようになっていた鴫原さんも数日で回復したので、滞っていたパンフレット周りのイラスト進捗は一気に前進した。
このぶんなら、当日に当日パンフが間に合わないとか、パンフの表紙が真っ白で校長入魂の一筆だけが踊るといった大惨事は避けられそうだ。
ま、最悪それも侘び寂びあっていいと思いますが。
執行部は目の回るような忙しさだったが、8月も20日を越えたあたりから、私もだいぶ指揮官役のコツをつかみ始めた――というか、あれだけさんざんユスティナの記憶を引っ掻き回しただけあって、体に染み付いた「指揮官の要諦」を、自然に使いこなせるようになっていた。
指揮官としてのユスティナは、必ずしも有能とは言い難かったが、それでもこの程度の人数の部隊を回す程度なら問題ない。魔法を使って仕事の効率を上げることこそできないが、そこはそれ、こっちにはコンピューターにインターネットがある。そんじょそこらの魔法より、ずっと強力だ。
そんなこんなで8月を1週残して夏休みも終わり、2学期が始まった。
夏休み明けのテストは、内心ヒヤヒヤしていたが、意外な大差で首位キープ。
エマちゃんに数学を特訓してもらったのが、効いた。英語と社会でボロボロ点数を落としたものの、数学の最後の大問を解けたのが学年でエマちゃんと私だけだったのが効いて、そこで大きく突き放す形。
エマちゃんもそのボーナスポイントが効いたようで、40位にランクイン。
9月に入ると、いよいよ学園祭の準備で学校は一色に染まる。
とはいえこの頃になると、忙しさのピークを越えたなという手応えも出てきた。実際に展示物を作ったり、出し物の練習をしている人たちにしてみると「追い込みまっただ中」だが、執行部視点に立つと「この段階で自分たちが大わらわだったら詰んでる」のが本音だ。
現状は、仕事はたくさんあるけれど、手を動かし続けていれば、やがて解決する、といったところ。実に理想的な進行だ。
とはいえ突発的な事故は、起こる。
あれが足りない、これが足りない、それはどうなってるで、振り回されることは、振り回されている。
放送部の部長が、前夜祭の3日前になって、こっそりと打ち明け話に来たのも、その1つだ。
何でも、生徒会長を中心とした有志が、前夜祭の最後にサプライズを用意しているらしい。執行部のメンバーも、それなりに絡んでいる、とのこと。
まったく。会長から率先して、そういうイレギュラーをやるかね。
……と思ったけれど、言っても仕方ない。あれがアホなのは、良く知っている。
それより、真面目をそのまま人物にしたような放送部長が、この手のイレギュラーに積極的に関わっているということに、驚かされた。そのことを素直に指摘したら、彼は苦笑しながら、言った。
「6年間、ずっと裏方をやってきた。別に、そのことに悔いはない。
卒業したら、本格的に舞台の裏方を目指して勉強しようと思ってるし、師匠もバイトで雇ってくれると言ってる。
だから、かな。俺も一度舞台の上に立って、舞台人がどんな風景を見ているのか、見ておかなきゃと思ったんだ」
なるほど。蓋を開けてみたら、とても真面目な理由だった。
「それに、な。
6年やって、俺もちょっとだけ、飽きたのさ。
灰色ってやつに、な」
放送部長の告白に、「ホータローは、薔薇色が羨ましかったのかい」と反射的に返してしまったら、彼は大笑いした。それから急に真面目な顔になって、「高梨は、同人誌に暗号を刻まなきゃならないような、そんな思いだけは残すなよ」と言うと、去っていった。
■
1日、また1日と忙しい日々が過ぎて、ついに学園祭の、前夜祭前日となった。ややこしい。いわゆるイブイブだ。
ただ、「今日の段階で間に合っていないものは、明日になっても間に合わない」という意味において、執行部的に言うと今日が「学園祭前日」だ。
前夜祭のスタートは、明日の19時。仮に朝9時に何かを発注したとしても、17時までに(必要な物品は、ただ届くというだけではなく、それを仕込む時間も必要だ)到着するサービスは、限られている。
また、展示や造作物の作り込みも、今日が最後の追い込みだ。今日だけは、学園は特別に深夜まで門を開けており、場合によっては徹夜での作業も許されている――逆に言えば、徹夜で作業するグループが1つでも存在する限り、執行部員は帰れない。
そういう意味でも、執行部にとってはこのイブイブこそが、決戦の日と言える。
そして案の定、生徒会室は蜂の巣をつついたような大忙しになった。
やはりここに来て、準備期間の不足が露呈した。細かな連絡の行き違いや、担当者の思い違い、注意事項の不徹底など、小さなトラブルが連鎖的に発生している。
とはいえ、総体として言えば、致命的な問題は起きていない――か、少なくとも、露見していない。
私としてはクリティカルなミスがどこかに隠れていないか、めっちゃビビってるんだけど、それを態度に示すと執行部員が動揺するから、「大丈夫だ、問題ない」な風情で進捗を管理するホワイトボードの前に鎮座している。
あー、コーヒー飲みたい。タバコ吸いたい。
ともあれ、間際ならではなトラブルの交通整理を続けたかいもあり、19時頃には生徒会室に飛び込んでくる生徒も、ほぼいなくなった。時折、ちょっとした怪我の対応とか、放送部との間での最終確認とか、そういうのがある程度。
執行部員もだいぶ落ち着いてきて、スマホをいじり始めている部員もいる。
かく言う私も、かつての星野先輩の指定席に移って、macでウェブサーフィン中だ。明日の夜から始まる学園祭に向けての期待はなかなか高まっているようで、twitterやブログには「頑張ってまーす!」写真も散見できるし、それに対して好意的なリプライやコメントも増えている。
と、そこに梓先輩が戻ってきた。梓先輩には、星野先輩のお見舞いと、学園祭の進捗報告をしてきてもらっていたのだ。
あの星野先輩のことだ。学園にどんな思いを抱いていようが、それでもなお、学園祭が遺漏なく開催されるかどうかは、気になっているに違いない。そのあたり、梓先輩なら上手く空気を読みながら、説明してくれるだろう、と。
「ただいまー! 静香、ずいぶん明るくなってたよ。
で、遥ちゃんの読み通り、学園祭のこと、めっちゃ心配してた」
それみたことか。
ふふん、ロージィの考えることなど、お見通しなのだよ。
「例のフランス人の講師にもちゃんと連絡取れてるし、宿の案内とかはエマちゃんが対応してるって伝えたら、喜んでたよ。
それよりさ、これ見なよ。
このネームプレート、今日の朝、作ったらしいんだけど。
こうして見ると、これで良かったんだなって、思うねえ」
梓先輩は、病院で撮ってきたと思しき写真を、スマホの画面に表示して見せた。
そこには無味乾燥なベージュのドアと、小さく「宮森静香」と書かれたネームプレートが写っていた。
その4文字は、確かに、星野先輩が――いや、宮森先輩が、新しい(そして間違いなく前向きな)一歩を踏み出せたことを、示していた。
「そうですね。本当に、良かった――」
でもそのとき、突然、何かが胃袋の底をぎゅっと掴んだ。
強烈な、デジャヴュ。
吐き気と、恐怖が、体の内側を駆け巡る。
本当に、良かった……?
――私は……これを――言ったことが、ある……?
内心の動揺を押し殺しながら、私は「いかにも仕事をひとつ思い出した」風を装い、macに向き直った。
自分のEvernoteにアクセスし、ユスティナの記憶をメモしたテキストを、かたっぱしから開き直す。
そうだ。私は――いや、ユスティナは、何度も何度も、「して当然の注意を払っておけば」という後悔を味わっている。
その「当然の注意」を、私は見逃しつつある……の、か?
落ち着け。
落ち着け、高梨遥。
いま一瞬浮かんだ、かすかな違和感を、逃すな。
私が見たのは、病室のドアと、ネームプレートだけが写った写真。
あの、ありふれたドアに、「何か」を感じたとは、考えにくい。
だとしたら、「宮森静香」の4文字に、どんなリスクがあり得る?
次の瞬間、私は跳ね起きるように、椅子から立ち上がっていた。
もやっとした違和感の向こうに渦巻く、悪意の可能性。それに、思い至ったから。
「すみません、院長先生からのメールが入ってましたので、ちょっと病院まで行ってきます。
小一時間ほどで戻れると思いますが、念のため会長にも連絡しておいてください。
たしか今、会長は前夜祭実行委員会と、前夜祭会場のチェックをしてるはずなんで」
自分でも驚くほど、スムーズな嘘がつけた。
梓先輩さえ、私の嘘を素直に信じてくれた。
「いってらっしゃーい」
執行部員の声を背に、私はいつのまにか、走り始めていた。
大切な先輩を、危機から救うために。




