もしかして:解けた
都合、本日2度めの投稿となります
最初に感じたのは、圧倒的な恥ずかしさだった。
当然だ。星野先輩と執行部を守ろうと息巻いて、見当外れな努力をさんざん繰り返した挙句、結局は面と向かって話をしようしなかったどころか、〈ユスティナの方程式〉に逃げ込むほうを選んだのだから。
どんな顔をして、おばさんに会えばいいというのか。
でも少し冷静さを取り戻した途端、その恥ずかしさは、驚きにとって代わられた。
確か宮森おばさんは、アメリカでの研究会から帰ってきたら、次はインドに出張するはずだ。だのに、なぜ今ここに?
いや、それどころではない。
なぜ梓先輩が、おばさんをここに「呼んでこれた」のだろう?
梓先輩は古参の執行部員だけど、宮森おばさんに直接連絡を取れるルートを持っているようには思えない。だのに、なぜ?
戸惑っていると、宮森おばさんが口を開いた。
「高梨さんは、良い先輩に恵まれましたね。
インド出張は、取りやめました。それどころではないと、私も判断しましたので。
成田に着いて、入国ゲートを通ったら館林さんが待っていたときには、心底驚きましたよ。しかもその場で土下座してお願いされたとあっては、よほどのことが起きていると考えざるを得ませんでした。
実際、よほどのことが起きているようですね。話は聞きました。
食事もろくにとらず、カフェイン中毒が疑われるレベルでコーヒーを飲んでばかり。
明らかに睡眠不足の顔で、寮では〈方程式〉がどうのこうの言うばかりで人の話を聞こうとせず、なのに執行部の仕事となると不気味なくらい完璧にこなす、と」
「――ど、どうして……」
あまりの話に、思わず声が上ずる。
「芝田に相談したんだよ。
そしたら、フェイクブック? とかいうやつ? で、学長先生が今から乗る飛行機の写真を撮ってたみたいで。
乗る飛行機が分かれば、到着時刻はスマホで追っかけられるから、狙い撃ちできるはずだ、って」
――なるほど。特定の時間に、特定の空港から、日本に向けて飛び立つ飛行機は(しかも航空会社まで分かるのだから)、特定が容易だ。ちなみに梓先輩、フェイクブックじゃなくてフェイスブックです。
「まったく、最近はいろいろ便利になりましたけれど、油断もなりませんね。
とはいえ、今回ばかりは館林さんにも、芝田君にも、感謝するほかないですが」
宮森おばさんが、私を真っ直ぐに見た。
一瞬、沈黙の時間が、流れた。
何かを、言わなきゃいけない。
何を言うべきか、それは、わかっていた。
でもその言葉は、喉の奥に引っかかって、出てこなかった。
沈黙の時間は、すぐに終わった。
意を決したように、宮森おばさんが口を開いたから。
「――高梨さん。いえ……遥」
びっくりする。宮森おばさんに呼び捨てにされたのは、後にも先にも、これが初めてだ。
「こんな大の大人が、恥ずかしいことですけれど、まずは見苦しい言い訳をさせてください。
私があなたの後見人になったのは、あなたのお母さんが、私の親友だったからです。それ以外の理由はありません。
いえ――ないと、思っていました。
でもね、本当は違う。
あなたに初めて会ったとき、私はこう思いました――『この子の母親になってあげなくては』と。
どうしてそんなことを思ったのか。どうしてそんなことができると思ったのか。今でも、理由はわかりません。
でも、私は、あなたのお母さんになりたかった。
だからあなたが、自分は緑の娘のままでいたいと言ったとき、最初に感じたのは敗北感でした」
息が、詰まりそうになる。
あのときの、宮森おばさんの申し出は、こんなにも重いものだったのだ。
「誤解しないでくださいね?
あなたの選択は、綺麗に理屈が通ったものでした。だから私は、さすが緑の娘だなと、感心もしたのです。
でも――はっきり言えば、それは、私の甘えでした。
謝らせてください。私は、あなたに甘えてきました。
まだまだ子供でしかないあなたに、私は、在りし日の緑を重ねて見ていました。
それを理由に、あなたの母親であろうとする努力を、放棄しました。
まだ12歳の、小さな子供でしかないあなたを、たった一人で放り出しました」
そんなことは、ありません。
そう、言いたかった。でもその言葉は、声にならなかった。
「私なりに、悩みもしました。
私があなたに対して特別な感情を見せれば、それを贔屓だと思う人も出るでしょう。そういう煩わしさを、あなたが嫌っているのは、すぐに分かりました。
でもそのこともまた、私は、自分自身への言い訳にしてきました。
あの子自身が干渉を嫌っているのだから、自主性を重んじるべきだ、と。
なんとも、都合のいい言い訳ですね。そもそも、筋が通ってません。私は、あなたが生徒会活動でも、学業でも、素晴らしい活躍を続けていることを、まるで我がことのように誇らしく思っているというのに」
それは、それでいいんです。
そんな風に配慮してもらえていたことが、嬉しいです。
でもその言葉もまた、どうしても、声にならなかった。
代わりに、なぜか、涙が零れそうになった。
自分でも、理由がわからなかった。むしろ、今この状況で泣いてしまいそうになる、その必然性のなさに、戸惑いと、可笑しさすら感じていた。
ただ、今ここで泣くのは、まずい。
おばさんに、あらぬ誤解を与えてしまう。
――そんなことを考えていたら、ふわりと、優しい暖かさに包まれた。
宮森おばさんが、私を、抱きしめていた。
■
「ごめんなさい。出来の悪い義母を、どうか許して。
あなたは、まだまだ、子供でいいの。
そんなに慌てて大人になる必要なんて、ない。
もっともっと、いろんな人と触れ合って、いろんな人に頼って、いろんな人を手伝って、多くのことを学んだり、学びそこねたりしていて、いい。
小さな偶然を心底喜んだり、世の不条理に怒ったり、些細な行き違いを悲しんだり、友達と一緒に過ごす時間を楽しんだりして、いい」
呆然と立ち尽くす私の内側に、おばさんの一言一言が、染みこんでいく。
「――やめて、ください」
辛うじて、そんな言葉を絞り出した。
「私は――そんな、立派な人間じゃ……ない、です――」
言いながら、自分の嘘つきっぷりに嫌気がさす。
私は今、とても幸せだ。
とても。
でも、私は恐い。
この幸せが、不意に消え去ってしまうことが。
私のせいで、この幸せが、壊れてしまうことが。
おばさんは、抱擁を少し緩めると、私の目を真っ直ぐに見た。
「緑は――あなたのお母さんは、あなたのことを、心の底から愛していたわ。
あんなにも愛した数学より、緑はあなたを選んだ。何の後悔も、迷いもなく。
だから、私は自信をもって言える。あんな痛ましい事故に巻き込まれた緑が、最期に思ったのはきっと、あなたのこと。
緑の人生に悔いが残ったとしたら、それは幼いあなたを残して死ぬこと。それ以外になかったでしょう」
「でも――でも、それは……」
それは、私のせいだ。
私が、ユスティナなんかじゃなかったら。
前世を思い出して、倒れてしまう、そんな子供じゃなかったら。
母は、死ななかった。
「あなたは、悪くない」
おばさんは、私の目を見据えながら、そう断言した。
何の根拠も、証明も、ない。
ただ、そう断言した。
「――そうかも、しれません。でも」
涙が、こぼれそうになる。
「あなたは、悪くない」
おばさんは、もう一度、繰り返した。
「……でも」
ふと、昔見た映画を思い出した。
あの映画と違って、私は母に虐待されていたわけではない。
むしろ、たっぷりと愛情を注がれていたという自覚も、自負もある。
ただ――私はきっと、私自身を、許せずにいた。
誰かに、罰してほしかった。
お前は間違ってる、お前が悪だと、断罪してほしかった。
「あなたは、悪くない」
数学者でもあるおばさんは、にも関わらず、ただ結論だけを、自明として示し続ける。
「――でも……っ!」
でも、本当に欲しかったのは、許しだった。
そうだ。
私は、許されたかった。
「あなたは、悪くない」
こんなふうに、許してほしかった。
理論も検証もなく、ただ、許してほしかった。
こらえきれず、私はおばさんにしがみつき、泣いた。
声をあげて、泣いた。
泣きながら、呻くように、何度も繰り返した。
ごめんなさい。
言うべき言葉をようやく吐き出せた私は、何度も何度も、その言葉を繰り返した。
■
そうやって、5分も泣いたのだろうか。
気持ちが少し落ち着いてくると、良く考えたら自分は、寮食のど真ん中で、たくさんの寮生に囲まれて、学長にしがみついて泣いているのだということに思い至った。
思わず赤面して、反射的に抱擁を解く。
おばさんもそれに思い至ったのか、少し顔を赤らめると、抱擁を解いた。
途端に全身から力が抜けて、思わず椅子に座り込んでしまう。
梓先輩が咄嗟に支えてくれなかったら、ひっくりかえっていたかもしれない。
おばさんも、ゆっくりと椅子に腰を下ろした。
つられるように、周囲の寮生も、次々に着座していった。
ギャラリーの中には、もらい泣きしている人もいるようだった。
それからしばらく、他愛もない話を続けた。
エマちゃんや鴫原さんは、部の合宿や、学園祭の準備の様子を。
梓先輩は、芝田先輩との惚気話を。
負けじと、永末さんが御木本会長との図書館デートの話を(進展してる!)。
勢い、星野先輩の話にもなった。
おばさんには、私がちょこまか動いていたのは、筒抜けだったようだ。
でも、中等部のときの妊娠と堕胎を、「次はない」ことを前提として特例中の特例として見逃した以上、二度目を看過することはできないというのは、最初から決めていたという。冷静に考えれば、仕方ないことだ。
処分が下るまでに時間がかかったのは、星野先輩の実母のネグレクトを法定機関に認めさせ、親権を放棄させるのに手間取ったからだ、という。なんでも、宮森おばさんは星野先輩を養子として引き取るそうだ。
「今にして思えば、最初にしでかしたときに、私が引き取るように動いておけばよかった」というのが、おばさんの述懐だ。
だが梓先輩は「それは無理だったと思いますよ」と一刀両断。
「ご存知かと思いますが、あの頃の静香はもう身も心も、有原先輩とケッコンしてましたから。有原先輩が全力擁護しなかったら、学長先生も静香を一発でクビにしてたでしょ? っていうか、今後は有原先輩がガッチリ監督するから、執行猶予だったわけですよね?」
――なんと。そ、その、身も心も、というのは、つまり。
「有原さんには、大きな借りがありましたからね。MITにその名を轟かせる天才で、特許収入だけでも莫大な資産を築いている有原さんを引きぬいたのは、私でしたから」
梓先輩のあけすけな言葉につられるように、宮森おばさんから衝撃の事実が飛び出した。
え、ええっと、有原先輩って、高校生なんじゃ――あ、そうか。飛び級か!
「有原さん、研究に飽きてたんですよ。だから私が、『あなたの好きなようにしていい』ことを条件に、大学改革の切り込み隊長として引き抜いたんです。
ただ有原さんは、日本の学校生活をまったく体験していないのが心残りだったらしくて、3年間だけ彼女の実年齢にふさわしい学生生活を送ることも、追加で要求してきましたが」
まったく、エマちゃんといい、有原先輩といい、なぜこうも世の中には天才馬鹿が多いのか。
「でも、やっぱり辛いのは、辛いなあ。
有原先輩のいない学校は、静香にとって意味がなかったのかなあ、って思っちゃうよね」
梓先輩が、冗談めいた口調で、ぼやく。
でも素早く、宮森おばさんが釘を刺した。
「星野さんは、大人でも耐えられない状況に追い込まれていました。
彼女を救うべきだったのは、私も含めて、彼女の周辺にいた大人たちです。
退学処分は、星野さんへのペナルティの意味もありますが、それと同じくらい、私たち大人に対するペナルティでもあります。
私たちは必ず、偉大な才能を育てきれなかった愚かな大人たちとして、星野さんを語る伝記の中に記録され続けるでしょう」
なるほど。そういう見方もある、か。
確かに星野先輩ほどの才能があれば、近い将来、その能力によって世を驚かせることになるだろう。そして宮森学長は、そんな偉大な才能を見抜けなかった教育者として、その名を刻むことになる。
学園経営や、あるいはそこに関わる大人たちの名誉だけを考えれば、星野先輩を処分しないほうが、メリットが大きい。でも今のこの学園は、星野先輩という特異な才能を育てるには、「足りなかった」。その事実を認め、より先輩にふさわしい環境を探す――それが、宮森おばさんの下した判断、というわけだ。
「――お話を伺う範囲で言えば、とても合理的で、適切な判断だと思いますわ。
ですがこれは、日本の教育システムの問題ではありませんこと?
飛び級制度があれば、星野先輩はもっと早く、あの才能に見合った研究環境を得られたのではありませんでしょうか?」
などと言い出したのは、バカロレアの国からやってきたエマちゃん。
でも、宮森おばさんは首を横に振った。
「星野さんに必要だったのは、もっとちゃんと子供であれる環境でした。
例えばですが、高梨さんを飛び級で3年生に進級させたとして、昨日までの高梨さんがどうにかなったと思いますか?」
うわ、なんか遠回しに失礼なことを言われた気がする。
「ああ。確かに、あり得ませんわね」
うわ、なんか直接失礼なことを言われた。
「――とはいえ、やはり、惜しいという気持ちは、拭えませんわ。
もっともっと、星野先輩に教えてほしいことがありましたのに……あんな見事なフランス語を使う方は、フランス本国でもなかなかおりませんわよ?」
微妙な気持ちになっている私を放置して、エマちゃんは星野先輩の才能を讃え続けた。
その気持も、わかる。私だって、頭ではなんとか理解したけれど、感情レベルではまったく割りきれていな――い……?
「星野先輩の処分に関しましては、仕方ないとしか申し上げられませんわ。
ですがやはり、割り切れない気持ちは、残ってしまいますわね」
――割り切れない。
そう。
そうだ。
「割り切れない」
「そうですわ。遥さんも、割りきれませんでしょう?
特に遥さんは、星野先輩に恋愛感情を――」
エマちゃんが何か危険なことを言っている気がするが、それどころではない。
そう。割り切れない。
そうだ、割り切れ、ない。
「……割り切れ、ない?」
いや。これは――これは、割り切れない問題……なのか?
違う。似て、異なる。
これは、割り切ったあとの、問題だ。
だとすれば――でも……まさか。
いや、あり得る。
十分に、あり得る。
「――遥さん?」
気が付くと、私は立ち上がっていた。
■
「解けた」
■
いくつもの仮説が、ひとつに編み上がっていく。
「解けたと、思います。検証は必要ですが。
でも――ああ、そうか……すみません、何か――鉛筆か、シャープペンシルを……誰か――」
誰が差し出したのかも確認しないまま、ピンク色のシャーペンを奪い取るようにもぎ取って、寮食のテーブルの上で検算する。小学生でもできる、簡単な筆算。
――間違いない。
ならば、確認すべきことがある。
「すみません、部屋に戻ります。
宮森おばさん、後ほどメールします。
たぶん、送ってもらうべきものが、あります」
「遥さん!
あなた、まさか、また例の〈方程式〉とかいうものを!?」
エマちゃんが、悲鳴とともに立ち上がった。
が、宮森おばさんは、実に落ち着いていた。
「高梨さん。1つだけ――いえ、2つ、約束してください。
1つめ。報告・連絡・相談を怠らないでください。今回のように、何かをやってしまった後ではなく、やってしまおうと思った段階で、連絡すること。
2つめ。きちんと3食、お友達と一緒に食べること。食事の写真を撮影して、FacebookにでもUPしてください。私もなるべく、朝はこの食堂で食べるようにしますから、時間が合えば一緒に食べましょう」
私は強く頷くと、逸る気持ちを抑えきれず、部屋に向かって走り始めた。
「まったく――あの子は、緑の娘ね」
そんな声が聞こえた気がしたけれど、私の頭の中は、仮説と数字で一杯になっていた。




