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 ミルクをたっぷり注いだコーヒーを、一口すする。

 最近、ずっと寝不足だ。コーヒーを飲んでも、漫然とした眠気は抜ける気がしない。


「それで、例の〈方程式〉のことなんだけどね」


 朝食の席、向いに座ったイリスが、声をかけてきた。

 最近、彼女の興味はもっぱら、〈方程式〉にある。


「また、あれですか。

 私としては、ちょっと諦め気味なんですが」

「ここまで来て、諦めるだなんて!

 それはあり得ないよ。あり得ない」


 イリスはやけに熱心だが、私としては〈方程式〉にばかりかまけていられない、という事情もある。

 そりゃもちろん、〈方程式〉の解明にすべての時間を使って良いのであれば、寝食を忘れて没頭するだろう。だが私には生徒会執行部としての仕事もある。現状、私が仕事の交通整理役を止めてしまうと、一歩間違えれば学園祭が破綻するという前代未聞の事態に陥る――もちろん教官たちが全力でサポートするだろうし、先輩方もいるのだから、そんなことにはならないだろうが。だが最悪の事態を想定しなくてはならない程度には、状況は切羽詰まっている。


「学院祭など、なるようになる。

 換言すれば、なるようにしか、ならん」


 ゲーベル師がクロワッサンを右手、コーヒーを左手、膝の上に学院生の論文といういつものスタイルで食事を処理(これを「処理」と言わずに何を「処理」と言うべきか)しながら、ぶっきらぼうに言い放つ。


「そうですかね、ゲーベル先生!

 僕としては、ユスティナ君の政治的な本能は、なかなかのものだと見込んでおりますがね!」


 余計なことを言い出したのはサイラス導師。

 ゲーベル師はサイラス師をちらりと見ると、「そうかもしれませんな」と何かを言ったようで何も言っていないコメントを残し、論文に目を落とした。


「〈方程式〉ですか。私も興味があります」


 私が適当に切り分けたお手軽クロックムッシュ(作ったのはアイリスなので、味は問題ない)を、上品に食べながら、ロザリンデ。


「客観的に申し上げれば、イリスはもちろん、ユスティナも、現代における突出した魔術師です。

 そのお二人が、額にシワを寄せて討論する内容が何なのか、興味を持つなというほうが難しいですわね」


「説明されても分からん自信はあるが、そう言われると、確かに興味が湧くな」

 ほとんど2口でクロックムッシュを平らげながら、アイリスも合いの手。

 うーむ、これは、あれか。「素人にもわかりやすく説明する」大会か。


 ……困ったな。


 実のところ、「難しい概念を、素人にもわかりやすく説明する」のには、ちょっとした自信がある。自分自身、努力に努力を重ねて理解に至る系の人間なので、「どうしたらその理解にまでたどり着けるのか」を説明するのは、わりと得意なのだ。


「説明してくださいません?」


 でもなあ。いま取り組んでいる〈方程式〉は、実に難物だ。

 〈方程式〉のゴール自体は簡単なのだけれども、そこに至るルートがまるで見えてこない。ヒントのようなものは、いくつか掴めてきたのだけれど。


「何と説明したものか――」


 自分でも弱気な声になっているなと思いながら、ミルクをたっぷり注いだコーヒーを一口。寮食のコーヒーは、いつもと変わらない味で、ちょっとだけ、ほっとする。


 ユスティナ・ノートをベースにしてユスティナの記憶を掘り起こしていくなかで、〈方程式〉の話題は何度も出てきている。そしてそれに伴い、〈方程式〉の全貌と、そこに至るルートも「思い出して」きている。

 だが、数学の解き方としては珍妙極まりない(前世の記憶をたぐり寄せることで数学的難問を解くなど、神託頼りに数学に挑む時代よりタチが悪い気がする)。それゆえに、説明するのも難しい。


「ユスティナが過去に示した論文にある通り、魔術には重大な欠陥がある。

 こと魔術においては、エネルギー保存則がまるで機能していないかのように見える、ということだね。

 多くの魔術理論家がこの問題を指摘してきたけれど、未だに完全な解明はされてない」


 その通り。精神を統一し呪文を唱えただけで、破壊的なエネルギーが発生するなど、どう考えても理にかなっていない。そのエネルギーは、どこから来たのか? これは魔術理論において、積年の課題となっている。


「ま、その責任の一端は、ユスティナにもあると思ってるけどね」


 あいた。そこを指摘されると、ちょっと弱い。


「理由は分かるんだけど、やっぱ、アレはないと思うんだ。

 おかげで〈カラクフ劫掠〉にも、あの論文っていうか『同人誌』は、奇跡的に耐えたんだけどさ」


「へえ、同人誌。そんなの書いてたの?」


 いやはや、ここで黒歴史を暴かれますか。

 そりゃご覧のとおり、私だって一端のオタですからね。お化けみたいな顔をした鴫原さんに「4ページ、どうしても埋まらないから、朝までに何か書いて!」ってお願いされれば、嬉しさ半分で書きましたよ。バスケットボールの歴史記事(世界で最初のバスケットボールの試合には日本人も参加してた、みたいなトリビア)ですが。


 私はクロックムッシュをつつきながら、コーヒーをもう一口。


「〈ユスティナ・ノート〉っていうタイトルがなかったら、ボクも存在に気付かなかったと思う。

 でもあれ、調べようがなかったから途中で追跡調査は諦めたけど、マジで実験したんだよね?」


 コーヒーカップを机の上に置いてから、私は仮面の裏で軽く微笑む。


「もちろん。御存知の通り、私は想像力豊かな人間ではありませんから。

 論文ではなく、フィクションという形で記録を残したのは、ひとつはお察しの通り、私がやってみた実験が『あまりにも危険すぎる』と判断するしかなかったから。先生にも、秘密にするしかなかったからねえ」


「ひとつは? 別の理由が、あったの?」


「教養で取ってた政治学、期末レポートが『小説を提出せよ』だったから」


「――あの人は……。いや――でも……斉藤教授の、読み勝ちかもね。

 だからこうして、〈ユスティナ・ノート〉は残った」


「斉藤先生、ほんと不思議な先生だったよね。

 中間レポートは『カレーの美味しいレシピを提出せよ。ソクラテスの死について語っても良い』だったし」


 たらこスパゲティ(シチリア風。そういえば、なぜシチリア風なのだろう?)を食べ終えた私は、あまり美味しくないコーヒーをすする。


「それで宮森ちゃん、〈ユスティナ・ノート〉は解けたの?」


 そう言いながら、眠気を飛ばそうと、軽く首を振る。

 何かが、ズレている。そんな感覚があった。でもミルクをたっぷり注いだコーヒーを飲むと、気持ちが少し落ち着く。


「ユスティナがやった実験、あれはほんと、一歩間違えれば世界が終わってたよね?

 それでもやったのは――やっぱり?」


「ええ。ミラ先輩を殺されて、自暴自棄でした。

 何も考えられなくて、気がついたら次の年も政治学を取ってて。

 それで、サイラス師に相談して、『もしかしたら世界が滅ぶかもしれない実験をしてもいいか』と聞いてみたんです。サイラス師の答えは、言うまでもありません」


「なぜ、そんなことを続けたんですの?

 皆が心配しているとは、思いませんでしたの?」


 頭痛がする。コーヒーを飲む。


「もし魔法が、何らかの未知のエネルギーを消費することで発現しているのであれば――〈魔力粒子〉が、真にエネルギー源そのものであるならば――魔力そのもので魔力を消費するような機構を構築すれば、魔法を行使するエネルギーそのものを使いきれるはず。

 残念ながら私は炎しか扱えませんから、自力では達成不可能な実験でしたが、同輩がいろいろ手伝ってくれました。皆、『世界を滅ぼすかもしれない実験』に、興奮してましたね」


「――つくづく、魔術師というのは、無茶をする」

 呆れたように、アイリス。ロザリンデも頷く。


「最終的に作った魔術具の構造は、簡単です。

 円盤を1つ用意して、そこに風の魔力粒子を吸収するスイッチと、吸収した魔力粒子を使って風を吹き出させるノズルをつけました。

 円盤そのものは、風の魔法で空中に固定。これで空気抵抗以外には、この円盤の回転を止める要素はなくなります。

 円盤は魔力粒子を吸い込み、それを風として噴出させることで、急激に回転速度を上げていきます。同時に魔力粒子を吸い込む速度も、ノズルから吹き出す風速も、上がっていきます。

 これまでの実験で分かっている、空間中の魔力粒子密度から言えば、円盤は30分ほどで回転を止めるはずです。さもなくば世界中から風の魔力素子を吸い込み続け、最終的には世界から風の魔法は失われる。そう、予測しました」


「でも現時点において、風の魔法が失われていないということは――」


「はい。円盤は1時間を経過しても回転し続け、その間もずっと、周辺で行使した風の魔法の効率は変化しませんでした。

 1時間15分くらいのところで円盤は加熱しすぎて破損、実験は終了しました。世界は、滅びませんでした」


「それが、〈方程式〉?」


「〈方程式〉は、ここから派生したアイデアです。

 もしこの理論が正しければ、今度こそ、世界を滅ぼします」


「――あなたは、何がしたいんですの?」


 頭痛。急激な眠気が押し寄せてくる。

 だが朝食の席で寝落ちなんてことをやらかしたら、イリスにどんな顔で怒られるか、想像もできない。


 コーヒー。コーヒーが必要だ。

 ミルクをたっぷり注いだ。熱いコーヒー。


「緑。あなたはこれを、完成させることもできたはず。

 だからひとつだけ、聞かせて。

 あなたはなぜ、こんな小さな余白に、わざと書いたの?」


 頭痛。違う。眠気だ。

 コーヒー。コーヒーが要る。


「だって、遥ちゃんが困るじゃない」


 違う。それじゃない。

 それは、私じゃない。


「あなたは、こんなにも愛されている。

 こんなにもたくさんの人が、あなたを心配しておりますわ。

 それでもあなたは、こちらを見ようとしないんですの!?」


 そうじゃない。私はただ、眠いだけだ。

 コーヒー。コーヒーがあれば、この眠気はスッキリする。

 そしてまた、〈ユスティナの方程式〉に取り掛かれる。

 大丈夫、今日は執行部の仕事はオフにしてある。

 盆休みに入った業者さんが多くて、連絡がつかないから、オフにするしかない。

 だから今日は、ちゃんと〈方程式〉に立ち向かえる。


 ああそうだ、こんな時こそ、タバコが必要だ。


 そう、タバコだ。コーヒーでは足りない。

 目の前にイリスがいようが、知ったことではない。

 今の私には、タバコが必要だ。


 お願いロージィ。今は、そっとしておいて。

 そんなに私を、責めないで。


「――もう一度、聞かせて頂きますわ。

 なぜ私の目を見ようとしないんですの!?」


 だからロージィ、そんなに責めないで。

 今日はちゃんと、寝るから。

 タバコを1服だけ、それで、寝るから。


 ……ロージィ――?


 違う。


 その声は、ロージィじゃない。

 あんた、誰だ。


「〈方程式〉が、もう少しで――」


「そうだね、ユスティナ。

 この〈方程式〉が解ければ、世界は変わる。

 ボクは、諦めるつもりはないよ。

 ごめんね、ユスティナ。ユスティナは〈魔王の猟犬〉としての仕事があるもんね。でもさ、実はボク、嬉しくて仕方なくてね。

 やっと誰にも憚ることなく、不世出の天才ユスティナと仕事ができるっていうのが、とっても嬉しいんだ。

 世紀の天才だ、万能の天才だと呼ばれてきたけど、ボクはいろんな面で、ユスティナにかなわない。だから、嬉しい。ボクは、一人じゃない。

 姉さんを失って、〈勇者〉を失って、子供も失って、世界が終わったと思った。でもボクは、一人じゃない。ボクと同じものを見てくれる人が、この世界には、いる。それが嬉しい」


 まったくの過大評価だと、思う。

 でもイリスの一言一言が、とても嬉しい。

 そうだ。


 私は、一人じゃない。


 だから〈方程式〉を、解かなきゃいけない。


「そうねえ、この〈方程式〉が解ければ、遥ちゃんは、お母さんを越えたと思っていいわねえ。

 お母さんとしても、それはとっても嬉しいことよ?

 自分が生きてきたのは、無駄じゃなかったってことだから。

 だから遥ちゃん、もうちょっと、がんばろう?」


 そうだ。私は、〈方程式〉を解かねばならない。

 ロージィのような声で私を呼び止めようとする、こんな女に構っている場合ではない。


 コーヒーを、一口。眠気が、少し、すっきりする。

 部屋に戻ったら、タバコを用意しよう。

 それがあれば、〈方程式〉を陥落させられる。

 もうちょっと。もうちょっとなのだ。


 こんなところで、無駄な時間を使っている暇はない。


 決意をあらたに、私はコーヒーカップを机の上に置いて、立ち上がった。

 〈方程式〉を、解くために。


          ■


 突然、右の頬に強烈な痛みが走った。

 奥歯のあたりから、眠気でぼんやりした脳まで、衝撃が突き上げる。


 一瞬、何が起こったのか、分からなかった。


「高梨遥! この期に及んで、無視ですの!?

 あなたは、何を見ているんですの!?

 何を聞いているんですの!?」


 ――この声は、エマちゃん、か。


 右の頬が、ズキズキと痛む。

 私は――エマちゃんに、頬を張られた、のか。


 ……そう……そうだ。


 ここは、寮食。

 私は、高梨遥。

 今は朝で、私は朝食を食べに食堂に降りてきて、そこでエマちゃんと会って。


 背筋に、寒気が走る。


 ……私は、そんなことも、把握できなくなっていたのか。


 恐る恐る、視線を上げる。

 視線の先には、半泣きになった、エマちゃんがいた。


「――大丈夫、です。ごめんなさい。

 ちょっと……ぼうっと、してました。疲れてるんだと、思います」


 そんな言葉が、口から出てくる。


「大丈夫!? どこがですの!?

 これのどこが、どう、大丈夫なんですの!?」


 エマちゃんは、本格的に泣き始めている。


 気が付くと、周囲には人垣ができていた。

 うわ、めっちゃ恥ずかしい――と思ったが、人垣をよく見ると、テスト勉強で一緒だった人たちはもちろん、鴫原さんや、永末さんまでいる。


 私は、こんな心配されるほど、おかしくなっていたのだろうか。


 いや――多分、そうだったのだ。

 改めて、状況の悪さに、ゾッとする。


「おうおう遥ちゃん、巨乳で可愛い彼女を大泣きさせちゃって。

 まったく、相変わらず無駄にクールなイケメンだねえ!」


 威勢のいい(そして大幅に見当外れな)声に思わず振り向くと、そこには梓先輩がいた。

 って、先輩、今は東北で大会に参加してるんじゃ!?


「エマちゃんから、電話をもらってね。

 あの強気なエマちゃんが、泣きべそかきながら、静香がやらかしてから遥ちゃんがおかしくなった、自分ではどうにもできない、このままじゃ遥ちゃんが静香の二の舞いになるんじゃないか、助けてくれ、ってねえ。

 だから、来たよ。

 可愛い後輩が二人も困ってるのに、のうのうと泳いでられるかっての」


 そんな。

 そんな、ことって。


 星野先輩が自殺未遂にまで追い込まれて、退学するしかなかったことは、誰よりも梓先輩が堪えているだろうに。

 なのに、エマちゃんと私のために、大事な大会を蹴って、駆けつけるだなんて。


「とはいえ、あたしじゃあ、まるで役不足だ。

 だから、遥ちゃんをシャッキリさせられる人を、連れてきたよ。

 というわけで、お願いします」


 梓先輩に促され、人垣をかき分けて姿を表したのは――宮森おばさんだった。


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