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(さすがに「原本」は強烈だ。
幼い文字で書かれた、たどたどしい文章を読んでいると、次から次に記憶が溢れかえってくる。
間違いない。ユスティナの方程式は、この先にある。
とにかく、まずは記録だ)
神聖暦1972年
死にたくない。
心の奥底から淀みきった液体が滲み出す。
耳の奥で、甲高い音がしている。
心臓が正しく脈打っていない、気がする。
息を吸っても吸っても、酸素が足りない。
脳が、痛い。
脳そのものには、痛みを感じる機能がない、という。
だがいま、間違いなく、頭蓋骨の内側に痛みを感じる。
――私は、選ばれなかった。
そんな言葉が、心の皮膜にふっと舞い落ちる。
違う。
違う。
違う、違う、違う。そうじゃない。
彼の選択は、まったくもって合理的な判断の、その結果だった。
手を差し伸ばせるのは、ひとり。
いまの彼女は、彼の手助けなしには、生存はおぼつかない。
翻って私は、こういう状況において、最高の捨て石になれる。
だからこれは、合理的な選択の、結果。
でも。
死にたくない。
でも、でも!
こうじゃなかったら。こうじゃない世界だったら。
こうじゃない結果を選び取れる自分であったら。
急に、おかしさがこみ上げてきた。
学院時代、ミラ先輩に感化され、政治学の講座を取ったことがあった。
ミラ先輩は、一家の誰とも違うタイプの人だった。
どこまでも情熱的で、圧倒的な自信家。そして、微妙に欠如した学術的才能。
でも私に、他の人の体温を感じながら眠ることの素晴らしさを思い出させてくれたのは、ミラ先輩だった。
「好き」という根拠のない判断に身を委ね、その「好きな人」が与えてくれる原始的な快楽を受け入れることが、本当はこんなにも幸福なのだということを教えてくれたのも、彼女だった。
いや、今はその話ではない。
政治学の講義の初回、サイラス導師は「まず諸君らに問おう、政治とは何か?」と叫んだ。
みな呆気にとられて黙り込むと、サイラス導師はよりによって私を指さし、
「君! 君は確かゲーベル君の一番弟子だな! ゲーベル君は君に、政治とは何だと教えている!」と言い出した。
当たり前だが、私は師からそんな抽象的な定議論など、聞いたこともない。
だが師の名誉を賭けて問われたからには、答えねばならない。
少し悩んだあと、脳内でゲーベル師をシミュレートし、ひとつの解答を得たので、それを答えた。
「あくまで私見ですが、ゲーベル師であれば、『集合論における内包的記法のプロトコルの一種』と言うのではないか、と推測します」
サイラス導師は大きく頷き、「素晴らしい! それが一般的な誤解なのだ! 実に、実に政治的である!」と、またしても大興奮して叫んだ。
そして急に真面目な顔になると、私の前に立ち、「君は、好きな人がいるかね?」と問いただした。
あまりに突拍子もない問いだった。
だがサイラス導師の目は真剣そのもので、私は少し顔を赤らめながら、頷いた。
と、サイラス導師は感極まって大いに拍手をし、天を仰ぐと、「素晴らしい! 君はゲーベル君のような朴念仁を師としながら、政治学の第一歩を正しく歩んでいる! 君はきっと、ゲーベル君より偉大な学者になるだろう!」と、またしても脈絡もないことを叫んだ。
教室の全員が呆然とするなか、サイラス導師は演壇に戻ると、黒板に大きく「politikos」と書いた。
「政治とは何か。
古くからこれは、集団における意思決定行為である、と言われる。
だが我々が日々行っている最大の意思決定とは何か?
それは、生きる、という選択である。
我々は生きることを選択し、ゆえに、我々は生きている。
政治とは、生きるという選択にして行為、それそのものである」
「法典であるとか、統治機構であるとか、あるいは哲学や思想、宗教、イデオロギーといったもろもろは、政治の一部ではあるが、政治全体を規定しない。そんな御託と、政治は、本質的には関係がない。
関係があるように見えるのは、それらの御託はすべて、社会的生物である我々人間がより効率よく生きていくための、技術または道具として成立しているからだ」
「まずは、諸君らの手元にある、なんの役にも立たない書物を閉じよ。
そして、諸君らの心が求めるがままに、人を愛するのだ」
「人が、人を、好きになる。愛する。一生、添い遂げたいと願う。
この選択は、高度に政治的な判断である。
ゆえに政治学を志す諸君は、まず人を好きになり給え。
あるいは同じくらい、人を憎悪し給え」
サイラス導師は、奇人変人が群れなす学院でも、飛び抜けた奇人だった。
そしてまた、導師が教える政治学は、「帝王学」として歓迎されるようなものでも、なかった。
だがいま、改めて私は、サイラス師が天才であることを、確信している。
『まず、人を好きになり給え。
あるいは同じくらい、人を憎悪し給え』
おかしさが、止まらない。
サイラス導師。まさかあなたは、私がこんな人生を歩み、そして私が「決定する」のではなく「決定される」側としてこんな状況におかれ、そしてそれでもなお、死にたくない、死にたくない、絶対に生き延びてやると脳が悲鳴を上げる、そのことを、予見していたんでしょうか。
それとも、私では最初から最後まで、どうにも理解しきれなかったあなたの講義を、もっとしっかり理解できていたら、こうはならなかったんでしょうか。
でも私は、やっぱり、死にたくない。
たとえ選ばれなかったとしても、私が人生を生きるという選択を、手放したくない。
自分でもこんなに死にたいのに、それでも、死にたくない。
俯いたまま、狂おしい笑いと焦燥を押し殺していると、カツリ、カツリと、威圧的な足音が聞こえた。
「哀れなものだな、魔術師。いや、〈世界の破壊者〉。
お前は、〈勇者〉に捨てられたのだ。
きゃつにとって、お前は都合の良い暴力装置に過ぎない、ということだ。
口では何を言ったか知らぬが、現実は目の前の通り。
〈勇者〉はイリスを救いに行き、お前は足止めとばかりに放り出された」
言葉の一滴一滴が、心を鉛色に染め上げようとしていく。
でも思ったより、痛みはなかった。
自分でそれを思ってしまうのに比べれば、アカの他人に言われるほうが、痛みは少ない。
「チャンスをやろう。投降せよ。そして我が下僕となるのだ。
貴様はこれまで、〈勇者〉の猟犬だった。
これからは私、〈魔王〉の猟犬となれ。
さもなくば、ここで、死ね」
ゆっくりと、視線を上げる。
目の前には、〈魔王〉と、その配下たちがずらりと並んでいた。
攻城兵器にも使える大型クロスボウを構えた魔族兵士が、幾重にも私を囲んでいる。
呪文詠唱の準備に入ったら、あのクロスボウの弾体は、私の体を粉微塵にするだろう。
でも私は、小さな違和感を感じていた。
状況は、圧倒的不利。万に一つの逆転もあり得ない、絶望的状況。
なのに〈魔王〉も、その取り巻きも、なぜか腰が引け気味だ。
――つまり、私は、そういう人間なのだろう。
既知世界を侵食する魔族たちが、破壊の権化として恐れる、危険物。
人型をした爆発物を包囲していると思えば、なるほど、この腰の引けっぷりも、少し納得できる。
だが、どうもそれだけではない。
そこまで考えて、私は、自分が笑みを浮かべていることに、思い至った。
鏡で確認などしていないし、したくもないが、私は確かに、笑っていた。
そして同時に、理解した。
私は、選ばれなかった。
だから今度は、私の「政治の時間」だ。
選ばれるのを待つのではなく。
私が、世界を、選ぶ。
私は笑みを浮かべたまま、〈魔王〉の瞳を正面から見据える。
厳しい仮面の裏で、〈魔王〉の瞳が揺れたのを、感じた。
あはは。あの〈魔王〉、ビビってる。
「〈世界の破壊者〉ユスティナは、己が望まぬ限り、誰にも膝を屈しない。
私を欲するというならば、〈魔王〉よ、私と『魔術決闘』だ。
安心しろ、負けても死にはしない。
お前が勝てば、お前は私を手に入れる。私が勝てば、私はただの私として死ぬだろう」
「むしろ問おう、〈魔王〉よ。
この決闘、よもや受けぬなどとは、言うまいな?」
■
夜が明けて、私はなお、生きている。
私は生きることを選択し、その成果を勝ち取った。
でも私には、何もない。
何もないまま、まだ薄暗い山道を、とぼとぼと歩いている。
何が、悪かったのだろう。
何が、足りなかったのだろう。
いっそ何もかも失えば、新しいスタートが切れるかもしれない。
そんなことを考えたことも、あった。
いや、考えるだけでなく、実行した。
魔術理論の深奥は、自分の手に余った。
実のところゲーベル師は、私の目から見て、「凄まじく頭が切れる」というタイプではなかった。筋のいい学院生の中には、師よりも鋭い考察を見せる者も珍しくなかった。
ではゲーベル師が魔術理論家として劣っていたかと言えば、真逆だ。
確かに、師は「天才的なひらめき」から縁遠い人だ。けれど師は、同じ問題に対して、1年でも、5年でも、10年でも、たとえ解けなくても、ひたすら向かい合い続ける根気があった。
これは、偉大な才能だ。
なぜなら、長い年月をかけて問題に取り組むうち、解決には届かなくても、解決の端緒を掴むことはあるからだ。
解決の端緒を掴むというのは、とても恐ろしいことだ。
なにしろ「端緒」でしかないから、ほんとうにそれでゴールに辿り着ける保障はない。何年もかけてあたためてきた「端緒」がただの思い過ごしだった、などということは、決して珍しくない。
その上で、もしその「端緒」がゴールにつながっていた場合、状況はさらに悪化する。
なぜならその道は、前人未到の道だからだ。
何一つ、先行研究がない。自分が歩んでいる道が正しいことを、自分は確信できるが、他の誰もがその正しさを保障してくれない。ヘタすると、自分が何をやっているのか、理解すらしてもらえない。
前人未到の荒野に、たった一人で立つ。
それが、真実に至る道だ。
ゲーベル師は、ただ単に諦めない人というわけではない。
この圧倒的な孤独と、何年であろうと、向き合い続けられる人だった。
私には、それができなかった。
何かの扉を開いた。その手応えは、あった。
けれどその先に広がる荒野の広大さと、絶望的なまでの孤独感に、私の足は竦んだ。
学問を究めるということは、この孤独と向き合い続けることだと悟った私は、自分の限界を知った。
限界を知った私は、すべてを捨てて軍隊に入り、新しいスタートを切ろうとした。
けれど軍隊においても、すぐに限界にぶつかった。
結局この世界もまた、孤独な世界だ。部隊の指揮をとる立場になるなら、どこかで絶対に、指揮される側との間に壁を作らねばならない。
死んでこいと命令する側と、死んできますと命を捨てる側。この構造が壊れると、部隊は最も望ましくないタイミングで崩壊する。
そのことは分かっていたはずなのに、私はカヤという例外を、己に許してしまった。
今なら、はっきり分かる。カヤを求めたのは、魔術攻撃を革命的に前進させたかったからではない。
部下の弔いの席においても「仲間」ではなく「上官」であり続けねばならない、その孤独に、私は耐えられなかったのだ。
〈勇者〉に見出され、彼の手をとってからは、楽しかった。
私は初めて、孤独を忘れることができた。
公私に渡って、甘えることができた。
けれどそれもまた、逃避でしかなかった。
「家族」が大事だったのか、それとも孤独から逃れることが大事だったのか。
胸を張って「家族が大事だった」と、断言できない自分がいる。
「まず、人を好きになり給え。
あるいは同じくらい、人を憎悪し給え」
山の端から姿を表しはじめた朝日に目をやりながら、そう呟く。
私は、ちゃんと、彼が好きだったのだろうか?
私は、ちゃんと、彼を憎んでいるだろうか?
わからない。
わからないことばかりだ。
考えながら歩いているうちに、目的地についた。
白亜の像が置かれた、ちょっとした平地。
この像に会うために、この長い山道を登ってきたのだ。
白亜の像は、ロザリンデの姿をしていた。
朝日を浴びてキラキラと輝くその姿は、ただただ、美しかった。
おずおずと像に触れると、ひんやりとした感触が伝わってくる。
その感触は、私にたったひとつの事実を、思い起こさせてくれた。
「ロージィ。私は、あなたが、好きでした。
わからないことばかりの人生ですが、それだけは、間違いありません」
我ながら、祈りめいた言葉だと思った。
そうであってほしいという、ただの願望の吐露。
でもその祈りの言葉を囁くと、気持ちが少し、楽になった気がした。
だからしばらく、そうやって像に祈りを捧げていた。
けれど、いつまでも祈ってばかりでは、いられない。
朝日が完全に昇った頃、私は踵を返すと、山道を下り始めた。
私の「政治」を、始めるために。




