表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
68/85

10

8月 8日


 うっかり寝込んだらしい。日が暮れている。

 部屋に戻ってきたのは、たしか、まだ昼すぎだったはずだ。


 繰り返し、悪夢にうなされたような気がする。

 でもどんな夢だったのか、判然としない。


 目が覚めたら、エディタにはまた、日記らしきものが書いてあった。

 今度はご丁寧に、日付まで入っている。


 とはいえこの日記、良いヒントでは、ある。


 ユスティナの方程式。

 母が発見した、あらゆる暗号を解読できるという方程式が解明できれば、状況は大きく前進する。

 理論上、ユスティナの方程式が「読み解けないものはない」のだ。


 だが、私にそれが可能なのだろうか?


 いや、悩んでいる場合ではない。

 挑むこともなく、ただ諦める、それだけは、もう、絶対にやってはいけない。


 絶対に、絶対に、絶対に、だ。


 幸い、原本は手元にある。

 あとはこれを、読み解くだけでいい。




 今日の午前中は、院長先生に呼び出されて、病院で事情の説明を受けた。

 客観的な要約はとても無理と思うので、録音したものを、純粋に文字起こしする。




こんにちは。わざわざ来てもらって、すまないね。


――こちらこそ貴重なお時間、ありがとうございます。


栗原君から話は聞いたよ。で、ちょっと誤解というか、うん、まあ誤解、かな。そういうのがあると思うから、説明したほうがいいかな、と思ったんだ。


――誤解、ですか。


うーん、難しい。ただ、たぶん、誤解じゃないかな、と僕は思ってる。そこは君にも話を聞きたいところだね。

それで、今日の話題なんだけど、まずは本庄さんの件を、簡単に説明しとこうかな。あんまり関係ないんだけど、まったく関係ないわけでもないからね。


――はい。


まあ、まずは、よく調べたねえ。ほんと、どうやったのか想像もつかないけど、君のことだから全部自力でやったんでしょう? 最近は探偵さんとかジャーナリストさんとかが「素人のほうが怖いですよ」とか言うそうだけど、納得だね。


いや、方法はいいんだ。それにあの問題は、公的には解決してるし、私的にも解決してるからね。本庄さんも、一度はそれで納得したんだ。ただまあ、現状は、御存知の通り、と。


本庄さんの件はね、僕が本庄さんとできちゃったのは、本当のこと。


当時ね、僕はだいぶ疲れてたっていうか、荒れてたんだよ。病院長になってそんなに間もない頃で、いろいろ敵も多くてさ。それでも、同業者の宴会だとか、市長だの議員だのがパーティを開くとなりゃあ、嫁さん同伴で行かないわけには、ね。


そうすると、言われるのさ。僕じゃなくて、嫁さんが。子供はまだですか、って。もう、年齢的にどうなんですか、って。


そういうの、僕に言うなら、まあなんとか許せる。本当は許すべきじゃないけど、それを許すのが男の度量、みたいなのがまだまだはびこってる社会だからね。


でもね、僕のいないところで、嫁さんに、聞こえがしに言うのさ。真っ向から言ったらセクハラで訴訟だからね。巧妙に、直接的じゃない形で、言うんだよ。嫁さんは強い人だけど、そんなのが続けば、そりゃあ限界だって来る。おかげで夫婦仲もだんだんグダグダになってきてね。


僕は院長になったばかりで忙しい。そこにこの手の精神攻撃。嫁さんだって僕に愚痴を言いたくもなる。でも僕は急患となれば、嫁さんより患者さんが優先だ。今日こそは話をしようってレストランの予約を取っても、前菜が出てきたころにポケベルが鳴ったらそこまで。嫁さんも、我慢できなくなるよ。


そんな調子だったときに、電話越しに嫁さんと大喧嘩してね。あまりのことに腹が立って、そんな自分が情けなくって、勤務時間中なのに近所のファミレスに酒を飲みに行ってさ。そこで会ったのが、夜勤明けの本庄さん。あとはお察しだよ。君ももう高校生だ、保健体育の授業はちゃんと取ってるでしょ?


ただね、そこまで事態が進んで逆に、僕は嫁さんとちゃんと話しをする時間が取れた。週刊誌が書き立てるようなスキャンダルだからね、半分、謹慎みたいなもんだ。ほとぼりが冷めるまで、院長は家にいてください、ってなもんですよ。でも家には当然、怒髪天を突いてる嫁さんが待ち受けてるわけじゃない。


当然だけど、喧嘩したよ。大喧嘩。それこそ物の投げつけあい、掴みあいの、子供みたいな喧嘩になったんだけど、30分ほどでお互いに息があがってね。


いやねえ、嫁さんとは学生時代からのつきあいでしょ? 昔はね、喧嘩となったら、半日でもやれたもんさ。その後で仲直りしたら、そこから先は別の延長戦ね。


でもほんと、これくらいのトシになるとさ、気力も、体力も、続かないわけ。ああ、お互い、なんだかんだで、こんなオッサンオバサンになるまで、一緒にやってきたんだなあ、って。まあ、それをきっかけに、和解しましょう、と。そんな感じ。


ただ和解の条件が一つだけあってね。彼女も、もう子供は無理だから、僕も諦めましょう、と。それで僕は、不妊手術を受けたわけ。いわゆるパイプカットってやつね。


あー、いやいや、そんな恐縮そうな顔しないで。これ、今じゃ僕の定番の宴会ネタなんでね。おかげですぐに浮気騒動が持ち上がるんだけど。


だから、もう分かると思うけど、星野君のお腹の子供の父親が僕っていうことは、あり得ない。なんだったら診断書を見せてもいいよ。


――そう、なんですね。


うん。で、ここまでが、本庄さんの件のお話。


さて、ここからが本題だ。星野君の話だね。


まず聞きたいんだけど、君はなぜ、星野君のことをこんなに調べてまわったの? 本庄さんの件に行き着いたのも、結局はそれだよね?


――星野先輩は、このままでは退学です。正直にお話すれば、もし星野先輩が先生の子供を妊娠しているなら、それを突き止めれば、先生を味方につけられる、と思いました。


怖いね。でも、いい作戦だ。


――ですが、たとえそうでないとしても、宮森学長を相手に、星野先輩のことや、あるいは執行部の存続問題で交渉するなら、星野先輩に何が起こったのか、正確に把握しておく必要があると思いました。もちろん宮森学長は、歴戦の、しかも凄腕の、ビジネスパーソンです。交渉して、勝てるとは思っていません。だからある意味でこれは、私にとって「最善を尽くしたい」だけ、でもあります。


なるほど。よくわかった。青春の熱さ、とも言えるけれど、実に君らしい、とも言える。


うーむ。困ったねえ。君の熱意を前にすると、星野君や、あるいは有原君に何があったのか、全部話してしまいたくなる。だが医者には守秘義務があってね。


だからというわけじゃないが、もう1つ質問させてくれないかな。どうして君は、僕が星野君とデキてると思ったの?


――そこはむしろ私が伺いたい部分ですし、実のところ、先生のお話に私がやや不信感を抱いている部分でもあります。正直、この不信感がなければ、私は最初から先生を「容疑者」扱いするような調査はしていないと思います。


ほほう。じゃあ、まずは君の疑問を解消しよう。僕に答えられる範囲なら、解答するよ。


――先生は、星野先輩と、男女交際をされていたのではないのですか? 仮に、行き着くところまでは行っていなかったとしても、その前段階としては、何かしらあったのでは?


うーん、そりゃあまあ、あんな美人とはお茶できるだけで、野郎としては幸せだしね。それに、随分と思いつめていたから、有原君を見舞いに来た彼女を院内の喫茶店に誘って、話を聞いたこともある。そういうことじゃなくて?


――ICU前の廊下で、キスされていたのでは?


んー……あ、ああ! あれか! もしかして君は、あれを見ていた、のかな? そういえばあの日、君はうちに入院してたね。


――はい。入院2日目の夜だったと思いますが、目撃しました。


なるほどなあ。実はね、あのとき星野君、相当酔っ払っていたんだ。


――え?


そういうのはね、珍しいことじゃあないよ。ああいや、星野君がお酒を飲むのが珍しくない、ってことじゃなくてね。もちろん、僕が患者さんと夜更けのICUでキスしてる、とかいう話でもないよ。もうちょっと、シリアスで、残酷な話だ。


重病や難病と付き合うのは、患者本人も大変だけど、その周囲も、そりゃあもう大変なことなんだよ。辛い話だけど、テレビドラマになるような難病を抱えた子供を持った夫婦は、ドラマとは違って、高確率で離婚してしまう。それくらい、大変なことなんだよ。精神的にも、肉体的にも、経済的にも。


有原君が入院した直後、星野君は毎日のように病院に来てた。しばらくは面会謝絶だったから、ずっとロビーで座っててね。本を読むわけでも、スマホを触るわけでも、テレビを見るわけでもなく、ずっと、座ってるんだ。それで、病院のロビーが閉まる時間になると、後ろ髪を引かれるようにして帰っていく。


そういうご家族は、たくさん見てきたよ。もし次の瞬間に、意識が回復したら、飛んでいきたい。逆に、もし次の瞬間に、心肺停止なんてことになったら、なんとしてもその場に駆けつけたい。でもね、そういう気持ちはだんだん、その人達の体と心の健康を蝕んでいく。


君のことだ、有原君と星野君の関係は、おぼろげには掴んでいるんだろう。僕からはその点については何とも言えないが、星野君は典型的な「看護疲れ」だったよ。


――そうだったんですか……


君がそのことに気が付かなかったことで、自分を責めちゃいけない。星野君は、見栄っ張りなわりに、引っ込み思案だからね。しかも自己評価が異常なくらいに低い。自分が抱えているストレスを、他人に悟らせないのは、彼女にとっては人生そのものだ。


話を戻そう。どこで飲んだのか想像もつかないけれど、あの夜の星野君はひどく酔っていて、足元もおぼつかないくらいだった。僕としても対処に困ったけれど、このまま帰すのは明らかにマズイ。制服姿で泥酔した女子高生ってのは、補導間違いなしだからね。


だから、とりあえず今日は病院に泊まっていくように提案した。タクシーを呼ばなかったのは、昔それで勝手に浮気疑惑を持ち上げられたことがあったから、その教訓だ。


そんな感じで、いろいろ説得してるうちに、彼女の泣き上戸スイッチが入ったみたいで、しばらく胸を貸したんだ。


そのうち、泣き疲れと酔いで錯乱したんだろう。星野君は、僕じゃない人の名前を呼びながら、泣きじゃくっては、抱きついてきてね。あやしてるうちに、奇襲されるみたいにキスされた。あれはさすがに驚いたし、それに正直、非常に……そうだね、いたたまれなかった。


――いたたまれなかった……?


いやね。星野君が何度も名前を呼んでいた、その相手をさ、僕がまったく知らなきゃ、ね。長い人生、そんなこともある、程度で済ませたんだけどね。ある意味でそれって、医者の仕事を、戯画化したような状況だし。


でもね、星野君は、ずっと、有原君の旦那さんの名前を呼んでいたんだよ。クリスマスもまもなくの夜、有原君と一緒に暴漢に襲われて、有原君を庇って死んだ、旦那さんだ。


彼ら3人の間で何があったのか、そこは守秘義務とは関係なく、僕も知らない。でも相当、いろいろあったんだろう。


――その、じゃあ、まさか、その


いや、星野君の相手が有原君の旦那さんだという可能性は、捨てていいと思うよ。有原君の旦那さんが亡くなったのは、昨年12月21日。精子バンクでも使わない限り、星野君が彼の子を妊娠する最後のチャンスはその日だ。でもそうなると、彼女は妊娠8ヶ月ということになる。そうは見えないだろう?


――そ、そうでした


そんなわけで、僕も星野君が誰と付き合っていたのかは、分からない。ただ、君に目撃されたあの日、いろいろ聞いたっていうか、一方的に聞かされたんだけど、あの段階では「今は特につきあっている人はいない」と言ってたね。


――え……


彼女の妊娠週とあわせて考えても、あの頃にはまだ妊娠していない。もちろん、いろんな想像は可能だけれども、あの段階では「特につきあっている人はいなかった」と考えていいんじゃないかな。だから君が父親探しをしたいなら、ある程度まで時期は絞れるだろうね。


――は、はい……あ、あの、その、ええっと、父親探しは、いえ、その(随分と声が狼狽していて、記述不能)


とりあえず、僕が話せるのはこの程度だ。なんというか、あんまり期待に応じられなくて申し訳ない。


星野君の容態は、現状、母子ともに健康。これはただの僕の自慢だけど、たぶん学校に通っている頃より、健康じゃないかな。


精神的には難しい状態だね。看護婦ともほとんど口をきかないそうだし、医者相手はほぼ完全にダンマリだ。僕も何度か面談したけど、石みたいに押し黙られちゃったよ。


ただね、僕は彼女の持つ才能は、とても素晴らしいと思う。退学云々を言うなら、彼女くらいの能力があれば、高校時代をどう過ごしたかなんて、その後のキャリアには関係ないんじゃないかな。


その上で医者として言えば、できるなら子供は産んだほうがいいと思う。彼女は中学生の頃に一度中絶してるし、見ての通り、決して体が頑丈なほうじゃあない。若い頃の、比較的連続した2度の中絶がどんなダメージを残すか、ちょっと計算しきれない部分がある。


もし経済的な問題が発生するというなら、子供を僕の家の養子に迎えることも考えていいと思ってる。ただ、うん、こういう問題は、外野がどうこう言って、どうにかなるものじゃないからね。医者としては、そこはつらいところだよ。


長くなっちゃったね。悪いんだけど、そろそろ次の打ち合わせがあるんだ。また聞きたいことがあったら、いつでも連絡して。星野君と僕との間でそんな噂があるってのを、早めに知れたのは、ありがたかったよ。僕としては完全に予想外だったから、特にね。


――あ、は、はい。本日はどうもありがとうございました


うん、じゃあ、また。体に気を付けてね。何でも自分だけで解決しようとしないように。君はすごく優秀だけど、まだ高校1年生なんだから。大人だって、みんな誰もが、誰かに頼ってるんだからね。じゃ、またね。




          ■



 なんとなく、目が覚めた。深夜3時すぎ。

 最近どうも、眠りが浅い。


 一応明日の朝の自分のためにメモを残す。

 これは今まであったような、夢遊病的な何かではない。



 ただ、もしかしたら、書いて吐き出してしまえば、少しは楽になるかもしれない、そう思った。だから、書いている。

 私の、惨めな初恋の、「たられば」を、書いてしまえば。




 つまり、もし私があのとき、自分の初恋を、勝手に自分で終わらせていなかったら。

 相手が誰だろうが奪い取りに行く、私は絶対に負けない、そんな覚悟と自信があったなら。


 そうしたら私は、星野先輩を、もっと、ちゃんと、支えてあげられた。


 いや、違う。

 そうじゃない。


 そうしたら、星野先輩の隣に、私の席もできた。

 もしかしたら、私だけのものになったかもしれない席が、手に入った。


 戦う前から逃げ出した、その結果が、これだ。

 だから私は、今度こそ、最後まで戦わなくてはいけない。


 ユスティナの方程式があれば、凍えてしまった星野先輩の心をこじ開けることも可能なはずだ。

 御木本会長と〈勇者〉の関係性を明らかにし、ロージィと星野先輩の、ロージィとイリスの、そして〈勇者〉と星野先輩の、それぞれの関わりを明らかにし、星野先輩を、ロージィを、救うことができるはずだ。


 今度こそ。今度こそは、救うことが、できるはずだ。




 そうすれば私はきっと




 きっと




【第5部:ユスティナの黙示録・完】

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ