日記 5日目
8月 3日
最悪の1日だった。
翌日のお出かけの準備をするわけでもなく、それ以外の何か建設的なことをするわけでもなく、ベッドの上で眠れない時間を過ごすこと、数時間。
なんとか眠りに落ちたのは、たぶん午前3時頃だったと思う。
それから、何やらものすごい悪夢を見て、悲鳴を上げながら飛び起きたのが午前4時。
「ごめんなさい」と叫んびながら目を覚ましたのだけれど、どんな夢を見たのか、さっぱり覚えていない。
ただとにかく、最悪の最悪、最低の悪夢だった。
少なくとも1時間は寝たはずなのに、逆に途方もなく疲れた。
到底二度寝する気にもなれず、スマホを片手にネットサーフィンして時間を潰す。
こういうとき、普段なら折角なので勉強の時間にするのだが、今朝ばかりはどうにもそういう気力が起きなかった。
――というか、実は習慣に導かれるまま、何気なく「数学セミナー」を手に取ったのだが、倒れる寸前に感じる気持ちの悪さが急激にこみ上げてきたので、あわてて床に投げ捨てたのだ。
やがて朝7時になったので、着の身着のままの姿でフラフラと食堂に向かった。
いつもどおり、モーニングセットをトースト抜きで注文。
つけあわせのポテトサラダを半分食べたところで早々に撃沈して、代わりと言ってはなんだが、コーヒーのおかわりには牛乳をたっぷり注いでもらった。
ほんの少しでも食べなきゃ、とキャベツの千切りをつつきながら(ラスボス的存在の目玉焼きとの戦いは最初から回避)、少しでも気を紛らわせたくて、スマホで若者向けファッションコーディネートのページを見る。
普段なら絶対に見ないサイト、しかも未知の言葉遣いが多発するせいで、どこを見たら何が書いてあるのか、さっぱりわからない。
そうこうするうち、陸上部の清里さんが向かいの席に座った。
朝練が終わった後なのか、それともこれからなのか、ジャージ姿の清里さんのトレイには、山盛りのサラダ、冷製チキン、クロワッサン2個、Lサイズのオレンジジュースに、牛乳。
私ならこれだけあれば1日大丈夫、という豪快さだ。
こんなに食べてるのに、引き締まった体つきなのだから、日頃からよほどしっかりとトレーニングしているのだろう。
私は情けないながらも、平身低頭して、どうしても食べきれそうにない自分のモーニングセットを清里さんに押し付けた。
食べられないのは辛いが、残してしまうのはもっと辛い。
清里さんからは「ダイエットするなら、朝はしっかり食べたほうがいいですよ」と、ありがたいご忠告。いや、そんなつもりじゃないんで――と思ったが、清里さんの視線の方向を見て、彼女がその理解に落ち着いた理由を把握した。
私のスマホには、まだファッションコーディネイトのサイトが表示されていたのだ。
その後、良い機会なので、私はコーヒーを飲みながら、清里さんはモリモリと野菜を平らげながら、この手のサイトの使い方と、基本的な用語&概念を教えてもらった。
「さすが清里さん、詳しい」と感想を漏らしたら、驚いたような顔をされ、「私はこういうの全然ダメなんで、練習の後で良かったら超詳しい後輩を連れてきますよ」と言われてしまった。
さすがに、そこまでお願いするような案件ではないので、丁寧にお断りする。
そのあたりで私はコーヒーを飲み終わり、清里さんも朝食を食べきったので、私は自室に、清里さんは再び外に(食後の腹ごなしに、軽く1時間ほどジョギング&散歩するらしい。軽く1時間……?)。
しかし別れ際に、清里さんから「がんばってね」と言われたが、あれはいったい何だったのか。一応、「清里さんも頑張ってください」と返しておいたが。
執行部の件、清里さんたちの目から見ても、ヤバそうに見えるってことだろうか。
まあ、そりゃそうだろう。実際、ヤバいんだから。
■
部屋に戻って、着ていく私服を見繕った。
とびきりダサイ格好で行ってやる、と思っていたのだけれど、やはりそれは私自身が恥ずかしい。
それに、冷静に考えてみれば、会長の野郎は絶対に待ち合わせ時間に遅れる。
絶対にだ。
そもそも最初のメールを読み返してみたら、10時ではなく、「10時頃」と書いてある。
メールの段階で、遅刻するつもりマンマンなのだ。
とびきりダサイ格好で、森ビル前、ひとりぽつねんと人を待つ――なんだこの罰ゲームは。
さて、とは言っても、私の手持ちの服は少ない。
学校の制服が十分過ぎるくらいにお洒落で可愛いし、学生はとりあえず制服着ておけばどこに行っても間違いないから、私服を買うという習慣がほぼないのだ。
悩んだ挙句、昨年の夏に宮森おばさんに連れられて参加した、おばさんの会社の創立記念パーティの席に着ていった服を着ることにした。
実はそのパーティにも制服で行ったのだが、高級そうなスーツでバッチリ決めたおばさんは、制服姿で到着した私を見るや否や、近所のカジュアルな服屋に連れ込み、一式をあつらえてくれた。
無地の赤いマキシワンピ(覚えたばかりの言葉を使ってみる)に、黒いボレロ(覚えたばかりの言葉を使ってみる、その2)。色合いがちょっと暑苦しい気もするが、やむを得なかった。だってこれしかないわけだし。
暑い日になりそうなので、あとはこれに小さな麦わら帽子と、念のため折りたたみの日傘。日焼けを恐れるわけではないけれど、日傘の遮光効果は思うより高く、涼しさすら感じるというのを体験して以来、夏場のお出かけには手放せなくなった。
ベッドの上に一式を並べ終わったところで、8時。浴場が開いたので、シャワーを浴びに行った。
ひどい寝汗を洗い流すと、少し気分がスッキリした。
ドライヤーで髪を乾かしていると、朝練が終わった直後っぽい顔見知りがお風呂に入りにきたりしたので、挨拶して、軽く世間話。「エマちゃんの試験対策講座」はまたやるの? と聞かれたので、それはもうエマちゃん次第っすねえ、などと受け流しておいた。
やりたいと言われればやるけれど、現状の執行部との兼ね合いを考えると、前回みたいな積極的な関与は難しいかもしれない。不用意な安請け合いは、誠実さを欠いた結果を招きがちだ。
部屋に戻ったところで、8時半。
会長の律儀さを考えると、気が早過ぎるような予感もするが、万が一があるので、身支度を始めた。
着替え終わって、いつものナップサックを持ったところで、これではマズイと思い直してお洒落バッグを発掘。荷物を移し替えたら、案の定、小さなバッグには収まりきらなかったので、スマホはストラップで首から下げることにした。
改めて、鏡で確認。まあ、こんなもんだろう、という仕上がり。
……しかし何だか、あのときの鏡の中の自分に、見覚えというか、なにかそういうものがあったのだが、あれはなんだったのか。
最近、ユスティナの記憶が妙な漏れ方をすることがあって、「そういう覚えがある」ことを、迂闊に辿れなくなっている。
■
9時に寮を出て、9時45分には六本木駅に到着。駅から森ビルまで10分はかかるので、私的に言えば「遅刻気味」だが、相手が相手だからこれで良い。
そして実際、それで良かった。Tシャツにジーンズ姿の会長が慌ただしく走ってきたのが、10時10分。遅れるなら遅れるで、LINEなりメールなり電話なり、1本入れてくれればいいものを。
遅刻を謝られてから、移動を開始。
と言っても、目的地はすぐそこ、大屋根プラザだった。
大屋根プラザでは、ポーランド・フェスティバルが開催されていた。
規模としては、例えばタイフェスなどに比べると、とてもこじんまりとしている。物販ブースが10くらいに、屋台が2つ。
正面の仮設ステージにピアノが鎮座しているのが、ポーランド・フェスティバルならではというところか。
既にそれなりに人は集まっていて、ところ狭しと並べられたテーブル席のほとんどは、カップルに占領されている。
ステージ前の客席は、ピアノのコンサートを待っているのか、満席だ。
会長が「遅刻のお詫び」と称して屋台で何か軽く食べるものを買ってくると言うので、私は席を確保することにした。
思えば、何もかも、彼は仕組んでいたのだ。
遅刻することも、「遅刻のお詫び」をするための、方便だったに違いない。
屋台から戻ってきた彼は、小さなケーキを3つ乗せた紙皿を片手に戻ってきた。
皿の上には、アップルパイ、ベリー系のソースがかかった白いチーズケーキ、レモンタルト。
強烈な既視感が襲い掛かってきた。
彼は無言で席に座ると、自分の前にケーキの皿を置き、私の前にもう1枚、取り分け用の紙皿を置いた。
ご丁寧に、プラスチックの安っぽいフォークも、一緒に。
心の中で、何度も深呼吸を繰り返した。
彼は、何を意図しているのか。なんのために、こんなことをしたのか。
必死で、その意図を探ろうとした。
そして私は、軍務で鍛えられたユスティナの経験に従った――殴られたら、殴り返せ。
私は、チーズケーキを一切れ、自分の皿に移した。
「食えよ。なかなか旨いぞ」
そう促されて、一口食べてみる。
うーん。まあ、美味しいことは、美味しい。
でも私は、これと同じもので、これよりもっと美味しいものがあることを、知っていた。
「――今日は、何かの記念日なんですか?」
フルスイングで殴りに行く。
「いや、残念ながら、特に何も。
俺さ、ポーランドフェス、一度は来てみたかったんだよ。
ケーキが特に旨いって聞いててさ。
ただほら、こういうの、野郎が一人で食うの、きついでしょ?」
軽くいなされた。
しばらく、当り障りのない話をしながら、ケーキを食べた。
ケーキの味のことは、ふたりとも、一言も言わなかった。
■
「――相談があると聞きましたけど、いったいどんな……」
ケーキをあらかた食べ終えたところで、そう切り出した。
と、彼は口に指をあてて、「静かに」のサイン。
気がついたら、仮設ステージに、ピアニストが登壇していた。
優雅な一礼と、これから演奏する曲の説明。
曲名は、ポロネーズの5番。作曲者は、言うまでもなく、ショパン。
あいにく、私はこの曲を聞いたことがなかった。
説明を終えたピアニストは椅子に座ってピアノと向かい合うと、大きく息を吸ってから、演奏を始めた。
雷雲の接近を思わせる、不穏で、静かなイントロ。
のたうつようなイントロは、即座に激しい嵐に発展する。
怒り、絶望、苦しみ。そのすべてが、波濤のように押し寄せてくる。
軍馬の蹄が戦場を駆ける音。歩兵が行軍する、ドロドロという足音。
何度も何度も繰り返される、悲痛な叫びと、悲しみ。
打ち鳴らされる、教会の鐘。
「――この曲は、特にニックネームがあるわけじゃあ、ない」
彼は呟くように言った。
「例えばポロネーズの6番は、『英雄』というニックネームがある。
実際、6番はそれにふさわしい曲だよ。
でもね、俺はあの曲って、『英雄』ってよりは、『勇者』と訳したほうがいいんじゃないか、って思ってる。
『英雄』って名前を与えるべきは、この曲じゃないかな」
そのとき、私はようやく、思い当たった。
ユスティナが通った魔術学院のある都市国家の名前は、カラクフ。
こちらの世界において、長らくポーランド王国の首都であり、コペルニクスも通った名門大学を有する都市の名前は、クラクフ。
だがクラクフは、1795年、第三次ポーランド分割によって自治権を失い、オーストリアに併合された(帰ってから歴史資料集で確認済み)。
もしあちらの世界と、こちらの世界に一定の対称性があるなら、これはおかしい――とその時は思ったが、これも今、冷静に考えてみれば、あちら側の世界はイリス曰く「300年ほど停滞している」のだった。
もし、あちら側の世界が、こちら側で言う1700年代のままだとしたら、辻褄はあう。
そしてこの仮説が正しいなら、カラクフは、魔術学院は、遠からず……。
「高梨はさ、何でも一人で解決しようと、頑張りすぎだ。
星野の件は、絶対に、お前のせいじゃない。お前が悪いんじゃない。
悪いとしたら、俺だ。俺の問題だ。お前は、悪くない」
「俺が頼りない人間なのは、わかってる。よく、わかってる。
だが俺は、約束は守る。絶対にだ」
「だから高梨も、もう少し、みんなを頼ってくれ。
一人で何もかも、抱え込まないでくれ。
自分のことを、そんなにも追い込まないでくれ」
ポロネーズの5番を聴き終わった彼は、そう言い残して、席を立った。
私は彼の後を追おうとして、追って何になると思い直し、少しだけ残ったチーズケーキを食べた。
続いて演奏されたポロネーズの6番は、なるほど、確かにこれは〈勇者〉、という感じの曲だった。
無性に、タバコが吸いたくなった。
私はタバコなんて吸ったこともないのに。
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部屋に戻って、部屋着に着替えたら、だいぶ落ち着いた。
日記も書き終えたので、これを保存したら、少し勉強して、寝よう。
さっき、恐る恐る数学セミナーを拾って読みなおしてみたら、早朝に感じたような不快感はまるで感じなかった。
あれはいったい、なんだったのか。
まったくもって、最悪の1日だった。
何が悪いのか、日記にまとめてみてもうまく説明できない。
だが間違いなく、最悪の1日だった。
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8月 4日
深夜1時。目が覚めた。
特に悪夢を見た感覚はないので、目が覚めた理由は不明。
「お前は悪くない」
そんなことをあなたに言われても、困る。
とりあえず、寝る努力をしよう。
・Chopin Polonaise op. 44 F sharp minor
https://www.youtube.com/watch?v=Pdc5xkGj5E8
ホロヴィッツの名演です




