ユスティナ12
神聖暦1968年 11月
「やっぱりさあ」
どんよりと曇ったカラクフの空を見上げながら、イリスは誰に言うともなく呟いた。
「探られたくないことって、あるよね」
■
イリスが通称「150年パズル」(150年間解けなかったのでそう命名されていた)を一瞬で解いて、魔術学院から結構な報奨金を受け取った私達は、その後も特に何をするというわけもなく、カラクフに滞在し続けていた。
さすがに宿はもったいないということで、学院の恩師に頼んで「裕福な学生用の一軒家」を世話してもらったが、これが存外に快適だというのが大きい。
また、そうやって借家とはいえ一軒家を構えてみたら、私達を名指しでの仕事のご依頼も、ボツボツと増えてきた。
トータルで言えばゆっくりとした赤字生活なのだが、本腰入れれば定住してしまうのも不可能ではないだろう。
そんな感じで、
イリスが学院から特別講義の依頼を受けたり、
アイリスが護衛戦士と魔術師の実戦的なコンビネーションを指南したり、
ロザリンデが知り合い(の、知り合いの、知り合いくらい)の学院生に請われてパーティの準ミストレスを務めたりしながら、
私達は冬が深まりゆくカラクフを満喫していた。
ちなみに私も何件かご依頼は頂いたのだが、私としては学院にはあまり関わり合いたくない個人的な理由がある。
150年パズルくらいに歴史的価値がある問題というならともかく、私が学院にいた頃に書いた論文各種について解説を求められるとかいった仕事は、丁寧にお断りさせてもらった。
とはいえ、働かざるもの食うべからずは、我が家の家訓(〈勇者〉ですらあちこち駆けまわって、細々と仕事を取ってきている!)。
多少の紆余曲折の末、私はいわゆる落ちこぼれ系の生徒に、魔術理論のイロハを教えなおす私塾の、臨時講師に着任した。
が、初めは週1という約束だったのだが、翌週には週5になり、3週目には週12コマ(日曜は休みなので、1日平均2コマ)を受け持つことになってしまった。
さすがにこの規模になると、授業もぶっつけ本番とはいかない。
講義は夕方スタートなので、朝~昼の間に授業の準備をして、夕方までは自分の勉強、授業を2コマ(1コマの長さは生徒の年次に応じて60分~120分までマチマチ)終わらせると、11月のクラクフはもう夜だ。
■
鉛色をした空に向かって、イリスが漠然とした愚痴めいたことを呟いたのは、そんな毎日の、とある昼下がりだった。
私は二次曲線の回転体の体積を求める最も一般的な手順を確認していた。
隣に座って、窓から空を見上げていたイリスの片手には、林檎酒のカップ。
私はちらりとイリスを見て、再び視線を積分方程式に戻す。
イリスは私の手元をちらりと見て、「24π」と言ってから、視線を空に戻した。
ああん。それは分かってるんです!
私は、その過程を教えなきゃいけないんです!
などと思ったものの、イリスもそんなことは先刻承知なわけで、つまりは「問題があったから反射的に解いてみた」ということだろう。
しかしまあ、イリスがこんなに後ろ向きな雰囲気を漂わせているのは、とても珍しい。
なんとなく、このまま放置してしまっては、いけない気がする。
私はイリスのことが好きだし、尊敬もしている。
家族として、親愛の情も抱いている。と、思う(私は「家族の愛情」というのがどうにも苦手分野なので、確たることは言えない)。
だからここは、彼女が何に悩んでいるのか、聞くべき場面だろう。
「イリス、私は『途中の式』を教えなくてはいけませんので……」
……自分で言っておいてなんだが、自分は何を言っているのか。
「――そ、それはともかく、何か悩み事でも?
私でも、お話相手くらいにはなれる……と、いいんですが」
言いながら思ったのだが、冷静に考えるまでもなく、私はこの手の話し相手としては、大変に向いていない。
壁に向かって喋ったほうがマシではないかと、自分でも思う。
でもイリスは軽く笑うと、「ありがと」と呟き、林檎酒を一口すすった。
ふと、天使が通りすぎたかのような、小さな沈黙が落ちた。
それは決して、不快な沈黙ではなかった。
私はただイリスの横顔を見つめ、イリスは曇天の先に視線を向けていた。
■
「――ボクにだって、秘密にしておきたいことは、あるよ。
小さい頃、アイリス姉のことをどう思ってたか、とかね」
やがてイリスは、ぽつり、ぽつりと喋り始めた。
「ユスティナも、そういうの、あるでしょ?」
私は素早く頷く。
「あるどころか、そういうのばかりです。
――イリスは、私の学院時代のこと、ご存知ですよね?」
イリスは、一瞬だけためらった後、素直に頷いた。
当たり前だ。私とだいたい同時期に学院にいて、あのことを知らないだなんて、あり得ない。
「噂は、いろいろ聞いたよ。あることないこと、いろいろ。
何があったのか、真実を知りたいとは思わなかったし、なによりその噂のほとんどが、『本当に起きたこと』を、なるべく穏便に覆い隠そうとしていたのは明白だったから。
ユスティナにとっては辛い噂だったろうけれど、ある種の優しさがないと出てこない噂だな、と思った。
だからせめて、あの悲しい事件から生まれた噂が持っていた、小さな小さな優しさに、敬意を示そうと思ったんだ」
淡々と、イリス。
「その優しさに思い至るには、ずいぶんと時間が必要でした。
もっとも、思い至った今でも、辛いものは辛いですね」
その手の機微を私が理解できるようになったのは、軍務に揉まれて数年が経ってからだった。
剣の鞘で殴っても人を殺すことはできるが、それでもなお「剣を鞘に収めた」ということには、重大な意味があるのだ。
「そうだね。その優しさは、どこまで行っても、欺瞞でしかないから。
――でもね、欺瞞だから、ダメなんだろうか。
本当にそこには、利己的な、悪意に満ちた、欺瞞しかないんだろうか」
林檎酒を、一口。華やかな林檎の香りが、イリスの口元から微かに漂った。
「利己心と悪意にまみれた欺瞞なら、暴くことに躊躇いはないよ。
でもその『正義』が、小さな優しさを踏みつぶすなら、それはどこまで正義であり続けられるんだろう?」
再び、沈黙。
難しい問いだ。私にしてみれば、専門外も専門外。
倫理学は、魔術理論のほぼ対局にある。
だから私は、まずはそこから話を始めた。
「イリス。私は、倫理学については、素人以下だという自覚があります。
というか、私ほどの『専門馬鹿』も、滅多にいないと思います」
イリスは、はっきりと苦笑する。
「けれど私は、その問題に何度も直面してきました。
もうだいぶ昔の話になりますが、ノラド王国の辺境、初雪が降ったその日のことです。
子熊2頭を連れた母熊が、森の奥に去っていくのを、見ました。冬眠に入るのでしょう。
それからその2日後、蛮族の略奪部隊が森を抜けて侵入しようとしている、という報告を受けました。冬の蓄えが足りなかったのでしょう。
私は蛮族どもを、森ごと焼くことにしました」
イリスは小さく頷いた。
彼女は私が魔術を行使すれば何が起こるのか、よく知っている。
「魔術を完成させる寸前、ひとつの疑問が心によぎりました。
この魔術は、あの熊の親子も一緒に蒸発させる。
それだけではない。鳥や鹿、ウサギのような動物はもちろん、昆虫に土中の生物、木々に草花、あるいはその種子まで、まとめて焼き払う。
果たしてそこに、正義はあるのか、と」
イリスはもう一度、小さく頷くと、林檎酒で唇を湿した。
「ユスティナは、どうしたの?」
ささやくような、声。答えのわかりきった、問い。
「森ごとすべてを焼きました。
私には、それしかできないので」
イリスがゆっくりと、何度も頷くのを見ながら、私は言葉を続ける。
「正義が何なのか、私にはわかりません。
でも、正義が定義できなくても、私にとって許せない悪はある。
必死になって生きている開拓民の村を襲って、男を殺し、女を犯し、食料から家財道具まで根こそぎ奪っていく。
そんな蛮行は、どんな理屈をつけたところで、悪です。
少なくとも私は、そんなことは、許せません」
イリスは雲の先から、私へと視線を向けた。
どこか不安げな瞳が、私の瞳を見据える。
「だから私は、ひとつだけルールを決めました。
私にとって許せないことを防ぎ、あるいは打ち砕くために、私の力を使う。
なんだかよくわからない概念とか、曖昧なもののためではなく。
私が――この私自身が、許せないと思うもの。
それに対してだけ、私自身の力を行使する。
そうすることでしか、自分のやることに、責任を負えないと思ったんです」
イリスの瞳が、わずかに揺らいだ。
その唇が、何かを言おうとして、微妙に躊躇い、再び閉ざされる。
私は彼女が引っ込めたその言葉を、自分のものとして引き取る。
「もちろん、このルールには、大きな穴がいくつもあります。
それに、このルールを守れば自分の行動に責任を負えるかと言われれば、つまるところは自己満足でしかない、とも思います」
一瞬、イリスが「そんなことは」と言いかけ、また口を閉ざした。
「そんなことは、なくは、ないですよね?
要は、私は、自分が満足したかったんです。
そうでなければ、続けられなかった。
自分でも、矛盾は感じていました。それに苦しみもした。
でも、私は、続けたかった。
私の正義を、守り続けたかった」
イリスは林檎酒のカップを机の上に置くと、目を閉じ、天を仰いだ。
「――そうだね。人間ができることには、限界がある。
普遍的な正義の実行なんてことは、人間にはできないんだろう。
でも――」
ゆるゆると、彼女は視線を戻した。もうその瞳に、不安の影はない。
いつもの、自信と活力に溢れた、イリスの瞳だ。
「万人のための、万人による、万人の正義が実行できないからって、それは正義を求めることを諦めても良いという理由には、ならないよね。
ユスティナの言うとおりだよ。
どんなに言い繕っても、許されざる悪は、ある。
賢しらに相対化して許容していたら、人間という種そのものを損なってしまう――そんな悪は、確かにあるし、だから許しちゃいけない。
ましてやその悪の重荷を、何の責任も過失もない人が背負うだなんて、もっと許せない」
イリスは決然と言い放つと、林檎酒をぐっと飲み干した。
「ありがとう、ユスティナ。
嫌なことまでいろいろ思い出させちゃって、ほんとにごめん。
でも、気持ちが決まったよ。もう一息、調べてみる」
そう言うや否や、部屋を出ていこうとするイリスの背中に、私は慌てて声をかける。
「イリス。ひとつだけ教えてください。
あなたは、何に鼻を突っ込もうとしてるんです?」
いやほんと、勘弁してほしい。「今からヤバイことに本気で突っ込みます」宣言をするだけして、何に突っ込むかを言わずに去るとか、ほんと、本気で、勘弁して。こっちにも心の準備とか、いろいろあるんだから。
案の定、イリスは「それを説明してなかった」と言わんばかりに、ぽん、と手を打った。
もしこれが喜劇なら、観客は大笑いする場面だ。
でもイリスの言葉を聞いた私は、到底、笑えなかった。
「それを言い忘れてたよ。
ロザリンデは、クルシュマン家最後の当主だよね。
クルシュマン家は代々、大きな権勢を振るってきた家だけれど、とてつもなく後ろ暗いところがある。
まさに『いかなる状況においても許されざる悪』を、ずっとやってきた可能性が高い」
「もちろんロザリンデは、そういう悪行からはきっぱりと手を切ってる。
だから彼女が最後の当主なのか、それとも最後の当主だから手を切ったのかまでは、まだわからないけど。
とはいえ先祖がずっと、何かそういう言語道断なことを続けてきたことは、彼女にとって大きな心の負担になってるみたいなんだ。
ボクとしては、そういうのは、良くないと思う。絶対に、良くない。
だってロザリンデ本人に、非はないじゃない」
なるほど……
それが良くないのは、分かる。そこは大いに同意できる。
だが、数百年に渡って続いてきた名門中の名門、クルシュマン家の抱える闇。
その闇は、高確率で、現代の社会を動かす権力者たちとも絡みついているだろう。
探るには、あまりにリスクが高い。
「それにさ。ユスティナも、ロザリンデのこと、好きでしょ?
実際、ユスティナとロザリンデ、すごく仲がいいじゃない。
だったら、思わない?
あのロザリンデが、ほんの少しの憂いもなく、心の底からの笑顔を見せるようになったら、どんなに素敵だろう、って」
――なるほど!
それは、大きなリターンだ。多少のリスクは、犯す価値がある。
だから私は、ひとつ頷くと、イリスに声をかけた。
「わかりました。でも、気をつけて」
「無理はしないよ。行ってきます!」
「日記2日目」は別立てにしました




