もしかして:二択
病院での診察結果は、今までと変わらなかった。
私は、この病院の先生が苦手だ。
待合室に「病は気から」「健全な精神は健全な肉体に宿る」と書かれた掛け軸が飾られている病院が、この時代になぜまだ生き残っているのか、理解に苦しむところではあるが、院長先生のモットーがコレなのだから、たちが悪い。
今回も「少し貧血気味ですが、身体的には十分健康です」の御託宣。
わざわざ「身体的」を強調するあたり、意地が悪い。
うーん、でも私がたびたび倒れてた理由が、まさか「本当の私は異世界から転生してきた魔法使いだったから」というのが診断できる医者がいたら、それはそれで驚異的だから、仕方ない。
「心霊的に、転生の影響が見られます」とか言い出す医者。
うん。
とても、嫌だ。
診察が終わって、「一応」と言われながら点滴を受けて、学校に戻った頃には、6時間目が始まっていた。
うう、皆勤賞はとうの昔に諦めていたけど、授業の欠席は内申点に響くからなあ……なるべく早く戻りたかったんだけど。
私が成績にこだわるのには、理由がある。
私は、いわゆる特待生として、この私立宮森学園高等部に在籍しているからだ。
特待生といっても、スポーツ特待ではない。
スポーツに自信がないわけではないし、小学生の頃から断続的に続けている剣道は「得意」と言ってもいいけれど、いつ倒れるかわからない生徒を強化選手に迎え入れるほど、宮森は酔狂な学校ではない。
私が「腕を買われた」のは、学業のほうだ。
これにもまた、やや込み入った理由がある。
まず、物心ついた頃から、私の家には父親がいなかった。
お金には、さして困っていなかった。今でもよくわかっていないが、母はなにやら自由な仕事をしていて、稼ぎも良かったから。
まだ幼稚園に通っていた頃、私が熱を出して、お迎えに来なくてはならなかったときも。
小学校に上がった私が、初めて発作を起こして倒れたときも。
母は大慌てで、すぐに駆けつけてくれた。
授業参観にも、PTAの行事にも、母は必ず参加した。
それどころか、小学校では「朝の読み聞かせボランティア」にまで協力していた。
いったい、いつ働いているんだろう?
そんなことを思わないではなかったけれど、私が困った時には、いつでも母が駆けつけてくれた。
……でも、それが原因で、母は死んだ。
小学校六年生の頃、修学旅行の成果発表会で発作を起こして倒れた私を、いつものように母は迎えに来ようとして。
居眠り運転していたトラックに、車ごと押しつぶされた。
保健室のベッドで意識を取り戻した私を待っていたのは、とても、とても話しにくそうな顔をした、校長先生だった。
■
しばらく、バタバタと、時間だけが過ぎ去っていった。
母が死んだという知らせは、小学校の先生方が、母方の親族たちに伝えてくれたらしい。
でも、誰も来なかった。
私達の暮らしは中の上くらいだったけれど、遺産を相続したいと猫なで声で近づいてくる親族も来なければ、借金を体で返してもらおうかと凄む怖い人たちも来なかった。
ただ一人、顔を出したのが、宮森おばさんだった。
「母の、学生時代の友人」と名乗った彼女は、完全に腑抜けになっていた私を、ぎゅっと抱きしめてくれた。
私がおずおずと彼女の背に手を回し、彼女を抱きしめ返して、母が死んで初めての涙を流すまで。
宮森おばさんはずっと、私を抱きしめてくれた。
それから、彼女に連れられて、近所のファミレスに行った。
なんでも食べなさい、と言われたけれど、私は食が細い。なので、このような「他人にごちそうになる」というのは、とてもハードルが高いイベントだ。
なにしろ、たいていの人は、私が沢山食べることを期待しているから。
だけど宮森おばさんは、メニューを前に逡巡する私を見て苦笑すると、「この『たらこスパゲティ シチリア風』がお薦めよ」と言ってくれた。
びっくりした。ズバリ、それはこの店で一番好きなメニューだ。
勢いに押されるように、「じゃあそれでお願いします」と言ってしまう。
おばさんは、ドリアに半熟卵をトッピングしたものを頼んだ。
注文した料理はすぐに届いて、私達は黙って食事を始めた。
その沈黙は、嫌いじゃなかった。
食事が終わってから、デザートにティラミスを頼む。
全部は食べきれないので、おばさんとはんぶんこだ。
コーヒーを片手にティラミスをつつきながら、おばさんはぽつり、ぽつりと、大学生時代の母との思い出を、話してくれた。
曰く、何かあると、2人でよくこの系列のレストランに来たこと。
母は「たらこのスパゲティ シチリア風」が大好きだったこと。
口癖のように「シチリア風って、何がシチリアなのかねぇ?」と言っていたこと。
宮森おばさんが「シチリアってイタリアマフィアの本拠地でしょ? だからきっと、そういうことじゃない?」とか冗談を言ったら、母が涙目で怒ったこと。
そこには、私の知らない、でもよく知っている母がいた。
思い出話を続ける宮森おばさんは、目尻にうっすらと涙を浮かべていたけれど、私はそれを見ない振りをして。
そこから先は、簡単な話だ。
宮森おばさんは――いや、いま私は学校にいるのだから、宮森学長と言うべきか――私立宮森学園の、学長だ。
正確にはもうちょっと難しい役職名らしいのだが、とりあえず「学長」と呼ばれている。
宮森おばさんの本業は、投資家らしい。
母と組んで学生時代に立ち上げた事業で大儲けして、今では教育産業にも参入している。
そんな宮森学長は、私の未成年後見人になると申し出た。
当時の私は、何を言われているのかよくわからなかったけれど、母の友達を信じる他なかった。
なにより、たらこスパゲティの件が大きかった。餌付け重要。
とんとん拍子で話が進んだのだが、最後の最後に、宮森学長は私に選択肢をつきつけた。
ひとつは、「宮森」の苗字を受けて、私が「宮森遙」になること。
もうひとつは、あくまで「高梨遙」であり続けること。
前者を選ぶなら、宮森学長は、私の新しい母親となる。
後者を選ぶなら、宮森学長は、私の「友人」だ。
私は、後者を選んだ。
彼女はすこし笑うと、「私がお母さんになるのはイヤ?」と聞いてきた。
私は「お母さん、もう、名前しか残ってないから」と答えた。なんとも舌足らずな説明だが、小学生の言葉だと思ってお許し頂きたい。
宮森おばさんは強く頷くと、私の頭をなでた。
私は進学先として、宮森学園中等部を選んだ。中高一貫校というのも魅力だが、特待生制度と、寮があるのが大きい。成績さえ維持できれば、大学の奨学金もある。
宮森おばさんにしてみれば、私一人の学費を出すなんて「こづかい程度」だろう。
ならばその「こづかい」を、温情ではなく、正規のルートで、もぎ取ろうと思った。
もともと私は、勉強はそれほど苦手ではなかった。
宮森学園の特待生になるという目標を得た私は、以前より熱心に勉学に励み、なんとか特待生の椅子に滑り込んで……かくして、今に至る。
深夜にでも続きを
なおジャンルは「恋愛」で「現代」で「学園」ですので!
ですので!
※2014/4/14 15:15 ■以降を大幅改稿しています。