学長、かく語りき(2)
前回から直接続いています
緑から久しぶりの連絡が入ったのは、それから7年後のことでした。メールには、「今すぐ、2人だけで会いたい」と書かれていました。
事業を多角化させ始めていた私は、一瞬悩みましたが、本能のようなものが「絶対に今すぐ会わなきゃいけない」と、全力で警告を発していました。あの緑が、私に、「これからしたいこと」を連絡をしてきたのです。「何かやってしまったこと」の報告ではなく。
待ち合わせは、昔よく2人で馬鹿話をした、大学近くのイタリアン・レストランにしました。7年ぶりに会った緑は、昔のように、たらこのスパゲティを頼みました。
ひと通り食事をしてから、緑が話を切り出しました。「気づいちゃったの」と。
それから「やっぱりここじゃ話せないから、もっと人のいない、絶対に誰にも話を盗み聞きされない場所、ない?」と言いました。
その頃には、私の頭のなかでは、赤ランプが激しく点灯していました。理由は、ご想像の通りです。失礼ですけど、あなたのお母さんが、こんなことに気を使うだなんて!
だから私はタクシーを拾って、そういうクライアントと打ち合わせをするときに使う赤坂の喫茶店に、2人で向かいました。
喫茶店に入ると、緑はまずコーヒー1杯の値段に目を丸くしていました。1杯2000円は、驚くに充分の価格設定ですから。でもそれで、ここが「安心して何でも話せる場所」だというのを、信じる気になったようです。
緑の話は、衝撃的でした。簡単に言えば、学生時代に基礎的な理論を構築した彼女の暗号化技術には、重大な脆弱性が残っていた、というのです。
恐ろしい知らせでした。もしこれが公になれば、会社はおしまいです。おしまいどころか、超高額の訴訟へと発展することすらあり得ます。
緑は、淡々と話し続けました。
「すごく迷ったの。ずっと黙ってれば、いつかきっと、誰かが気づくと思って。そうしたら、一番責任を問われるのは、最終的な確認をした教授でしょ? これって、ちょっとした意趣返しになるかなって」
恐ろしい話です。でも緑は、復讐を選びませんでした。
「でもそんなことをしたら、宮森ちゃんにまで迷惑をかけてしまう。それだけは、絶対にダメって思った。
それにね、意趣返しって言ったけど――宮森ちゃんにはまた叱られそうだけど、私、やっぱりあの人が好きなんだ」
呆れました。呆れましたが、とても緑らしいとも、思いました。
あなたのお母さんは、本当に一途で、純粋な人でした。私はそれを、とても羨ましく思います。そして、そんな人に親友と認められていたことを、一生、誇りに思います。
緑は、自分の暗号化理論の脆弱性を、詳細なレポートにしていました。レポートには、その対策も書かれていましたが、緑は少し不安そうに、「少なくとも3人以上のプロに検証させてね」と言っていました。
レポートをざっと読んだところで、私はダメージは最小限に抑えられるということを理解しました。緑は脆弱性と言いましたが、あの頃の最高のコンピューターを使って、解析に1年はかかる、そういうレベルの問題だったのです。
緑は私が露骨に安堵したのが分かったのでしょう。厳しい口調で「今すぐ対応をはじめなきゃダメ。いま1年かかるってことは、1年半後には半年で解析できてしまうってこと。3年後には3ヶ月。5年後には90日。こんなの、裸と変わらないよ」と、私を諌めました。
ですがこれは逆に言うと、1年半前には解析に2年、3年前には解析に4年、5年前は解析に8年かかっていた、ということです。つまり、まさにギリギリ、対策が間に合うタイミングだったのです。
私は緑にお礼を言って、コーヒーもそこそこに会社に急行しました。それから数学スタッフを全員叩き起こし、緑のレポートの検証に入りました。数学スタッフはみな半信半疑でしたが、教授はレポートを見るなり、青ざめました。天才は、天才によってのみ、測られるのですね。
彼は何もかもを悟ったかのような顔で、「緑、すまない」と言って、しばらく泣いていました。無論、それで許されることではありませんし、私は今でも彼のことを許してはいません。
でも公平に言えば、あなたのお父さんもまた、彼に手が届く範囲で、できるかぎり誠実であろうとしていたのだと思います。私の目には、まったくの自己満足にしか見えませんが。
脆弱性の克服に、だいたい1年かかりました。会社は大損害を受け、いくつかの有力なクライアントを失いました。経済誌には、「多角経営に手を出したツケ」だのなんだの、さんざん叩かれましたよ。
でも、会社は倒れませんでした。緑以外の役員報酬は大幅にカットしましたし、私も教授も個人の貯蓄をだいぶ溶かしましたが、私達は誰一人リストラすることなく、この難局を乗り切れました。すべては、緑のおかげです。
さて。ここまでが、長い、長い、話の枕です。
■
……そう言って、宮森おばさんはコーヒー(だと思う)を一口飲んだ。
私は自分の出生にまつわるドラマを知って、もうちょっと自分が動揺するかと思ったけれど、意外と「そんなものか」程度にしか思わなかった。
正直、自分が謎の魔術師の転生だと知るのに比べると、衝撃は小さい。
ただ、あの母が、そんなに情熱的な人だったという話は、聞けてよかった。お母さんはまったくもって都合のいい女、それそのものだよねと思ったけれど、その生き方を笑うことは、私にはできない。
だって私が知る母は、いつも一生懸命で、いつも幸せそうだったから。
宮森おばさん――高確率で、私の命の恩人――は、コーヒーを飲み終えると、また口を開いた。いまのところ、「ユスティナ」は出てこない。出るとしたら、ここからだ。
私は、どんな話が来ても動揺しないよう、身構える。
「私達の最初の会社が持ち直した頃、緑からまたメールが来ました。
今度は、そんなに差し迫った文面ではなく、私の都合のいい折に、いつものイタリアン・レストランで、話がしたい、と。
私は、どうにも、きな臭さを感じました。緑がこんなことを言い出すときは、経験上、碌でもない思いつきをしたとき――しかもたいていは、その思いつきを、実行し終えたときです」
わかる。それはむっちゃわかる。
母が料理で大失敗したときは、いつも食卓に料理を並べ終わってから「ところで遙ちゃん、お料理、ちょっとアレンジしたら、失敗しちゃった」と切り出すのだ。何度も「なぜその『アレンジ』を思いついた、そのときに相談してくれなかったのか」と思ったものだ。
「自明に同相だったから、大丈夫だと思ったの」という定番の言い訳の、真の意味が理解できた今では、母に料理を学ばなくて良かったと思っている。
「その週の週末、土曜日の夜、私は緑とレストランで会うことにしました。予定をいくつかキャンセルすることになりましたが、その必要があると判断しました。
緑は、やっぱり、たらこのスパゲティを頼みました。私も学生時代のようにドリアを頼んで、2人でお喋りをしながら、食べました。
緑は何度も『子供はいいよ、面白いよ、楽しいよ、可愛いよ』と繰り返していました。『宮森ちゃんも、子供作るといいよ』と。
私にとっては、会社が子供みたいなものだと言うと、緑は『そうかもしれないね』と言っていました」
宮森おばさんはそう言って、少しだけ寂しそうに笑った。
「食事を終えて、ドリンクバーのコーヒーを飲みました。緑は『あの喫茶店でコーヒー飲んでから、ここのコーヒーが不味く思えるようになっちゃってね』とこぼし、私は『それは贅沢病』と返した気がします。
コーヒーを一口飲んだ緑は、『気づいちゃったんだ』と言いながら、私に一枚のルーズリーフを差し出しました。
それは、いくつかの数式を書き留めた、メモのようなものでした。
私は――いえ、我が社の数学スタッフは、教授も含めて全員――それが何を意味するのか、未だに分かっていません。
理解するには、必要なピースが足りないのです」
どきり、とした。ピースの足りないパズル。
それは私が抱える「ユスティナ」の記憶と、同じだ。
「緑は、『まだアイデア程度で、確証ではないんだけど』と言いながら、そのメモが何を意味しているのか、私に語ってくれました。
曰く、『現在地上に存在する、どんな複雑な暗号でも、このメソッドを使えば、復号できる』と言うのです。
衝撃的でした。またしても、私達の会社の根底をゆるがす発見です。
いえ、それどころではありません。もしそれが本当なら、世界はひっくり返ってしまうでしょう。このインターネット時代、あらゆる暗号を解読できる魔法の鍵が発見されたが最後、その鍵は既存の秩序をことごとく破壊します。その気になれば、世界を作り替えてしまうことすら可能でしょう。
緑はその悪夢のメソッドを、『ユスティナの方程式』と呼びました。そして『私は真に驚くべき方程式を見つけたが、この余白はそれを書くには狭すぎる、ってとこかなあ』と言って、笑いました」
喉が、カラカラに、乾く。
「現状、我が社の数学スタッフは、『ユスティナの方程式』は架空のもの、妄想の一種に過ぎないと判断しています。
教授は判断を留保していますが、『いくら緑でも、それは理論上不可能ではないか』というのが、目下の判断と言えます。
私自身、理性の声に従えば、あり得ないと思います。だってそれが真実なら、未だ解読に至っていない古代文字も、そのメソッドで解読可能ということですから。
ですが私の直感は、緑を信じています。緑が、できると言うからには、できるのです。
ユスティナの方程式は、絶対に、実在します」
体の芯まで凍えるような、寒気がした。
魔法瓶からコーヒーを啜ったけれど、喉の渇きも、氷点下の寒気も、止まらない。
これは偶然なのだろうか?
異世界では「世界の破壊者」と呼ばれ、魔術理論を根底から覆す力を持っていた魔術師、ユスティナ。
現代社会の秩序を完膚なきまでに叩き壊す方程式、ユスティナ。
「私があるべきマナーを無視して、あなたのノートを勝手に読ませてもらった理由は、これです。ユスティナという言葉が出てきた以上、私はどうしても、読まねばなりませんでした。
現状では、50枚全部読んで、分からないことが増えただけですが」
宮森おばさんが、ユスティナ・ノートを勝手に読んでしまったのは、よく分かる。世界を粉々に粉砕する鍵がそこにあるかもしれないとなれば、上品な手続きなど、構ってはいられまい。
私は魔法瓶からコーヒーをもう一口啜って、考えをまとめ直す。
「母が私の作った『お話』を盗み読んで、そこから最もふさわしい名前を、自分が発見したメソッドに当てはめた、それが一番、妥当な仮説だと思います。
月並みですけど、原本にあぶり出しみたいな、そういう仕掛けがないかは、調べているんですよね?」
「ええ。これも事後承諾で悪いんですが、目下調査中です。
とりあえず、あなたの小説に、緑が蜜柑の汁で何かを書き足した、そんな類の形跡はありませんでした。科学鑑定に出しているから、原本が届くのは2週間後になってしまうと思います。
人として守るべき最低限のルールも守らなくて、ごめんなさい」
「構いません。正直、ここまで大きな話だとは思いませんでしたし、むしろ私が原本持ってていいのかなって気がします」
「いえ、原本はあなたが持つべきです。
それに、緑は不世出の天才数学者ですよ。科学鑑定に出しておいて何ですけど、彼女が仕掛けをするなら、化学に頼るとは思えない。何かが仕掛けられているとしたら、絶対にロジックで仕掛けているはずです」
なるほど、理にかなっている。
料理すら位相幾何学からアプローチする母のことだ。
ここにきて、化学的トリックはあるまい。
「緑は、魔法使いみたいな人でした。彼女の手にかかれば、あなたが自分の意志で書いた物語に、数文字書き加えるだけで、それを何らかの暗号に変えてしまうことすら可能なのです。
あなたが何か隠し事をしているとは、疑ってません。失礼だけど、今のあなたでは、緑が遺した秘密を、秘密として認識できるとは思えないのです。
無論、いわゆる素質といわれるものは、あなたは充分に備えている。その点については確信しています。でも、あなたがあなたのお母さんの領域に達するには、最低でもあと数年の研鑽が必要です。
ですから、あなたに原本を託すのは、そういう期待もあります。あなたなら、緑の残した遺題を、解けるかもしれません。
……でも、それは今ではない、とも感じています」
宮森おばさんは、ちらりと腕時計を見た。時間ならディスプレイに表示されているだろうに、このあたりはおばさんも、微妙に抜けている。
「一方的に喋ってしまって、ごめんなさい。
そろそろ次の予定に向かわなくてはならない時間です。
何か知りたいこと、してほしいことがあったら、遠慮なくメールしてください。
それから、体にはくれぐれも気をつけて。
あなたが優秀な成績を取ってくれているのは嬉しいけれど、人間の幸せは、それで決まるものではありません。
それは、お母さんの生き方を側で見ていたなら、分かるはず。
では、また」
「貴重なお話、ありがとうございました。何かあったらメールします」
宮森おばさんは頷くと、通話を終えた。私は、おおきく、ため息。
どうにも、気になることばかりだ。
何もかもが、どこまでも広がる、濃い霧の中にあるように思える。
けれど、宮森おばさんは、正しい。その霧の彼方を探るのは、今ではない。
私はもう一口コーヒーを啜ると、ノートPCを閉じ、中間テストの勉強に戻る。
【第3部:ユスティナの冒険・完】
「自明に同相だったから、大丈夫だと思った」を一般的な日本語にすると「どう見ても同じ形だから、大丈夫だと思った」とでもなるでしょうか。つまり「レシピにはトマトと書いてあるけれど、同じ丸い形をしているから、蜜柑でも当然大丈夫なはず」という冒険主義的調理法です。お勧めしません。




