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学長、かく語りき(1)

 話は、緑が――あなたのお母さんが、まだ学生だった頃に遡ります。


 緑と私は、数学科では数少ない女子学生でした。だから、すぐ仲良くなったし、お互いにお互いの才能を認めていました。

 いえ、違いますね。私は、緑の才能に嫉妬していました。彼女は、明らかに、私よりも数学に愛されていた。私には、彼女のような閃きも、頑固なまでの粘り強さも、ありませんでした。


 それでも私達は、親友でした。私は数学に愛されていませんでしたが、緑は「生きること」に愛されていませんでした。

 あなたには言うまでもないと思いますが、緑はとっても不器用で、要領の悪い人でした。自分が正しいと思ったら絶対に引かないし、間違っていることに対しては間違いが糺されるまで追求を続ける、そんなタイプです。

 私は、そんな緑がほうっておけなくて、彼女が起こすトラブルの、尻拭いみたいなことを受け持っていました。緑は私がトラブルの後始末をすると、決まってものすごい勢いで私に謝るんですけど、それでも次の週には新しいトラブルに首を突っ込む、そんな感じでしたね。


 緑が最初にこの件に関わることになったのも、そんなよくあるトラブルのひとつが原因でした。


 ある日、緑は私に「これ見てよ!」と、いつもみたいにプリプリ怒って、雑誌の記事を突きつけてきました。ああ、またか、と思ったのを、覚えています。

 でも読まないわけにもいかないので、ざっと目を通しました。当時はまだ珍しかった、インターネット上のセキュリティに関するレポートでした。私の目にもわかるくらいのザルな記事で、こんな記事を参考にしてセキュリティを構築したら、半日も持たずに突破されるな、という内容でした。

 緑は特に、暗号化に関する記述に怒っていました。「暗号化のプロ」とされた人が語る暗号化手法が、まるでなってない、と。数学者の卵らしい着眼点だなあと思いましたね。


「それでね」と、緑は切り出しました。「連絡先が書いてあったから、この暗号化のプロっていう人に、こんなのじゃ話にならないってメール、送ったの」。

 思わず、目眩がしました。何度「そういう喧嘩腰のメールを送る前に、私に一言、言ってくれないか」とお願いしてきたことか。とはいえ、送った後で報告してくれるだけでも、随分な前進だったんですが。


「まだ返事が来ないんだけど、怒らせちゃったのかな? それとも、やっぱりただの素人なのかな?」。これまた随分な物言いです。緑の不躾なメールを貰って怒らない人はいないでしょう。

 頭痛を感じながら、私は彼女がメールを出した相手の名前を、ネットで検索してみました。まだGoogle検索がないどころか、ネット検索の黎明期のことです。ヒットする確率のほうが低いな、と思っていました。

 ところが、その名前がちゃんとヒットしました。記事のプロフィールでは伏せられていましたが、よりによって某国立大学の数学教授です。私は緑がとんでもない相手に喧嘩を売ったと知って、呆然としました。


「緑、この人、素人なんかじゃないよ。数学のプロだよ。大学教授だよ」と彼女に教える私の声は、震えていたと思います。もしかすると、緑の数学者としてのキャリアは始まる前に終わってしまったかもしれない。そんな不安でいっぱいでした。

 でも緑はきょとんとして、「そうなんだ」と言って、それでその話はおしまいになりました。


 それから数日して研究室に行くと、緑がやたら嬉しそうに、私に飛びついてきました。どうしたのかなと思ったら、件の喧嘩メールに、返事が来たと。それで、今度直接会って討論しましょう、とお誘いを受けたというのです。

 私は本能的に、これは危ないかもしれない、と思いました。考えすぎかもしれませんが、アカハラ、セクハラなどという概念が薄かった時代です。思わぬことで「釣れた」女子大生を、教授が権威を傘に来て、食べてしまう。その可能性は、高いとまでは言わないまでも、警戒すべきレベルにありました。

 ですがそんなことを説明しても、緑は聞かないでしょう。そこで私は、まず私達の研究室の教授に許可を取ること、それから私も一緒に連れて行くこと、この2つを要求しました。

 緑は許可を取る件については面倒くさそうでしたが、私と一緒に行くという提案には喜んでくれました。彼女も彼女なりに、不安はあったのでしょう。


 でも結論から言うと、この選択は、間違いだったのです。


 最初の出会いは、とても幸福なものでした。その教授は、緑のように才気煥発な学生が、インターネット・セキュリティという当時ではまだまだマイナーな分野に興味を持ってくれたことを、大いに喜びました。そして雑誌記事の取材がとてもいい加減だったことを語り、しかしながらそうして作られた記事にOKを出してしまったのは自分の責任だとも認めました。

 それからしばらく、暗号化技術に関する議論で、2人は盛り上がりました。私は途中からついていけなくなりましたが、お昼すぎに始まった討論が終わったのは、夜中の11時頃だったと思います。私が途中でお菓子を買いに行かなかったら、2人とも何も食べずに話し続けたでしょう。

 さすがに終電がなくなるので、私が緑に「そろそろお暇しよう」と声をかけたら、教授はようやく時間に気づいたようで、大慌てで謝り始めました。そのあたり、緑そっくりでしたね。

 それから食事の誘いを受けましたが、こんな時間に女子大生と教授が一緒に食事しているとなれば、確実に噂になります。それを指摘したら、教授は大笑いして、「じゃあ今度、是非埋め合わせさせてくれ」と言いました。


 それからも、緑とその教授の私的な討論会は、何度も行われました。私は途中から参加しなくなりましたが、緑はいつもいたく満足しているようでした。

 私としては、その教授が左手の薬指に指輪をしていることを指摘した上で、万が一にも間違いを起こさないこと、間違った場合はちゃんと避妊することを、緑に何度も説教しました。余計なお節介だと思いつつ、コンドームも持たせましたよ。


 私のような凡俗な人間には未だに信じられないことですが、「間違い」は起こりませんでした。一度だけ、緑が朝帰りしたときは、「いよいよやったか」と思いましたが、本当に「議論が白熱して、気がついたら朝だった」のです。まったく、天才というのは、そういうものなのですね。

 でも、よくよく話を聞いてみると、なるほど話が尽きないはずだ、とも思いました。彼らは数学を論じるだけではなく、暗号化技術そのものを商品にした事業を立上げられるのではないか、という可能性も論じていたのです。

 私はその頃、自分の数学への才能に限界を感じていたので、経済学や経営学を同時に学んで、ゆくゆくは国一を受けて官僚になるか、コンサルタント会社に勤めようと思っていました。

 ですから緑が「こういう商売って、できると思う?」と聞いてきたとき、私が手伝えばいけると踏んだのです。若いというのは、勇敢というか、無謀なものです。今なら「素人が馬鹿なことを」と説教するところです。


 でも私達は、若かった。私は緑の話すプランをもとに事業計画書を引き、それを持って、久しぶりに教授に会いに行きました。教授は私が作った計画書を読んで、「資本金は僕が出そう」と言いました。

 有限会社を立ち上げるために、当時は300万円の資本金が必要でした。形式的に言うと、私と緑はそれぞれ教授に100万の借金をして、3人で資本金を100万ずつ出しあう形で、会社を立ち上げたのです。


 最初の1ヶ月は、見事なまでに赤字でした。赤字といっても、狭いレンタルオフィスに、電話回線が1本、その固定費がまるまる赤字になる形で、今にしてみれば大した金額ではなかったのですが、正直、とても堪えました。私達は、すぐに大成功すると思っていたので。緑なんかは、世界が終わったみたいな顔をしていましたね。

 でも教授はさすがにそのあたり大人で、「最低でも1年は続けよう」と言ってくれました。国立大学の教授の給料を考えてみれば、この程度の出費、遊びの範囲だったと、今でこそ思います。ですがあの頃は、ひたすら恐縮して、私は講義を全部サボって営業に回りました。

 そのかいあってか、2ヶ月めに、最初の顧客を確保しました。防衛庁に入庁していた大学の先輩です。彼は「セキュアな情報システム」に興味を持ってくれて、ポケットマネーで私達にシステムの青写真を発注してくれたのです。

 緑は大喜びして、1週間でシステムの基本を作り上げました。教授がそれをチェックして、隙がないと認めるまで2週間。月末には、防衛庁の先輩にプレゼンを行い、先輩は満足して費用を払ってくれました。その月の固定費を辛うじて払える程度の金額でしたけれど、とても感激したのを今でも覚えています。

 そこから先は、徐々に事業は安定していきました。防衛庁の先輩の紹介で、いろいろな官公庁の部局にプレゼンをし、そこから民間企業に出向している人を伝って、大きな発注も舞い込むようになりました。

 1年後、私達は当初の計画より、ずっと大きな成功を手にしていました。



          ■



 もしかしたら、それが原因だったのかもしれません。


 純粋な数学上の議論と異なり、現実のお金が動くようになれば、そこに「未来」が見えてきます。貨幣というものは、人間の時間感覚に、密接に影響しているのです。

 150年も前に提示された問題を論じたかと思えば、紀元前ギリシアの数学者について語り、次の瞬間には半年後の国際学会での発表を論じる、それが数学の時間です。才能ある数学者にとって、絶対軸における時間は、しばしばあまり重要なパラメータではないのです。

 でも、お金は違います。お金は、「すぐ先の未来」と一体化しています。

 だから緑が、ある日ついに、モジモジとしながら「教授と、間違っちゃった」と告白したのは、必然的な流れだったのかもしれません。彼らは、2人の架空の未来を、現実のレイヤーに重ねて、見てしまったのです。


 真っ青になったのを、覚えています。頭の中が真っ白になるとは、このことでした。不倫は、それだけで裁判の材料になります。ましてや緑は、いまや結構なお金と、発展中の事業という「金のなる木」を持っています。教授の奥さんの弁護士がそこに目をつけたら、何が起こるか、あまりにも明白です。


 でも私は内心、ああやっぱり緑も教授も人の子だったんだなあ、と思って、少し安心もしました。彼らは、数学のために生まれた機械ではなかった。当たり前ですが。


 ともあれ、やってしまったことは、仕方ありません。避妊もしなかったと聞いて、本気で青ざめましたが、これももう、今更どうにもならない。

 私は教授と一対一で話し合って、彼が本気なのかどうかを問いただしました。奥さんとは長く別居していて、互いに社会的な立場上、結婚状態を維持しているだけだ、という話。緑とは「本気」だという話。なんとも、これは絶望的な状況だと思いましたが、これもまた、どうにもならない。


 いいですか、高梨さん。これは絶対に覚えておきなさい。男がこういうことを言い出すときは、100%、奥さんと別れることをリアルに考えてはいないし、彼らの言う「本気」が不倫相手を最後まで守ることもありません。


 案の定、破綻まではあっという間でした。緑の妊娠が明らかになって――つまり、あなたを身籠ったことが分かって、教授と緑は長時間、会社の「社長室」で話し合いました。でも最後には、緑は泣きながら社長室から出てきて、外へと駆け去って行きました。

 私は必死で後を追って、緑が教授に堕胎を望まれたこと、結婚はできないと告げられたことを、聞き出しました。


 それからは、私が緑を守りました。緑のために新しいアパートを用意して、絶対に、誰にも、居場所を教えないようにと厳命しました。学校に行ってもいけない、と言いました。1年休学しても卒業はできるけれど、授かった子供を無事産むのは、今しかできないのだから、と。

 教授には、緑は子供を産むけれど、慰謝料や養育費を請求するつもりはないと、ハッキリと告げました。弁護士を呼んで、宣誓書も作りました。だからこれ以上、仕事以外のことで、緑と関わらないでほしい、と。緑の能力が必要なときは、私がエージェントとして間に入ることも、約束させました。


 私達3人の取締役の関係は、最悪のものになりました。私は、緑が「教授に会いたい」と何度もせがむのを、その度に強く叱りつけました。それで、しまいには緑は私と口を聞いてくれなくなったのです。

 ですが皮肉なことに、会社は急成長していきました。私が案件を取ってきて、緑がプランを作り、教授が検証する。お互いに仕事の話以外は一切しない関係でしたが、それでも会社は業績を伸ばし続け、私達以外のスタッフも雇えるようになりました。

 やがて緑と教授だけでは案件を回しきれなくなって、教授の紹介で数学者を雇うようになる頃には、狭苦しいレンタルオフィスから始まった会社は、ビルの1フロアを占めるまでに育っていました。


 だから、あなたが産まれて、それからしばらくして、忽然と緑がいなくなってしまったときは、最悪の事態を想像して心の底からゾッとしました。

 それでも私は、「会社を潰してしまうことにはならない」という計算も、同時にしていました。緑がいなくても、この会社は回る、と。20名以上の社員を抱える取締役として、私はもう、夢見る学生ではいられなかったのです。

 しばらくして、緑からメールが来ました。

 メールには、私に対する謝罪と、お礼が書いてありました。

 それから、学校を辞めてきたこと。しばらくどこかで子供と2人、静かに暮らしたいと思っていること。今は数学よりも、ずっとずっと、子供のほうが面白いこと。そんなことが、とりとめもなく、書いてありました。

 私は彼女に、取締役としての席は残っていること、また役員報酬は支払われ続けることをメールしました。子供を育てるには、どうしたってお金が必要です。緑は「ありがとう」とだけ書いたメールを戻してきて、それっきり、私達の連絡は途絶えました。


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