ユスティナ8
神聖暦1964年 1月
(メモ:身近な人が死ぬシーンにぶつかってしまう危険を避けるとなると、ユスティナの古い記憶にアクセスすることになる。少なくとも、神聖暦とかいう年号で1968年以前であれば、イリス・アイリス・ロザリンデは、確実に生きている。
それに、ユスティナの人生の全体像を把握するには、1968年以前の記憶も明らかにしておくべきだ。
ただ、そういった「わりと古い記憶」を闇雲に思い出そうとしても、途中で私の知らない人物が出てきて――しかも困ったことに、ユスティナはその人物のことをよく知っているので、それを前提に判断したりお喋りしたりして――話の筋がよくわからなくなる。
実に不思議な感覚で、かなり混乱する。
記録を読み返してみると、朝食を準備する記憶の中で、「副官がいた」と語ったところで、ユスティナが少し口ごもっている。以下、ここを手がかりに、記憶を掘り起こしてみる)
彼女と初めて出会ったのは、新年のパーティでのことだった。
エヴェリナ女王が毎年開催する新年祝賀パーティは、原則として国内の貴族と一定位階以上の武官全員が参加する。国境警備任務は参加を免除される数少ない例外だが、それでも2年に1回は参加しなくてはならない。
この手の社交が極めて苦手な私は昨年すでに不参加権を行使してしまったので、今年はやむなく登城とあいなった。
迂闊だった。軍付きの魔術師になるということは、士官になるということで、イコール、社交の場にも出ざるを得ないということだ。
裕福とは言いかねる家庭で育った私は、ボランティアで初級魔術を教える魔術師に魔術理論関係の才能を見出され、特待生として学費免除待遇で魔術学院に入学した。
学院ではなりふり構わず魔術の研鑽に励み、研究者としての自分の限界を感じてからは軍を就職先と決めて、武術を磨いた。
つまり、ノラド王国に迎えられるまでの過程のどこを切り取っても、社交界を泳ぐための知見は含まれていない。
幸いにして、私はノラド宮廷でも「敬して遠ざけられる」ポジションを素早く獲得できたので、ダンスが壊滅的でも、音痴としか言いようのない歌い手でも、ロマンのかけらもない詩作しかできなくても、重要な問題にはならなかった。
「皆が羨む高い地位と、女王陛下からの厚い信頼を得てなお、宮廷に近寄ろうとせず、厳しい国境警備任務を続けるとは、ユスティナ副隊長は何を目論んでいるのか」と、なにやら私が高度な政治的陰謀を抱いているかのように囁く者もいるらしいが、真相はこんなところだ。魚だって、棲む水は選ぶ。
そんなわけで、質素倹約、質実剛健を国是とするノラド王国エヴェリナ王女の宮廷にしては珍しいほど盛大に祝われる新年祝賀パーティにおいても、私は第一礼装を着て、サーベルを腰に、壁の染みになっているだけだった。
食事はどんどん供されたが、開始15分ほどでギブアップ。
初めて食べるようなご馳走の山だけに、こういうときは自分の体質が恨めしい。
食べられないというのは悲しいことで、こうなると飲むほうもダメになる。食べる方に比べればまだなんとかなるのだが、酔うより先に、気持ち悪くなってしまう。
かといって、食べない、飲まないでは、壁の染みでい続けることすら難しい。なにより、女王陛下が主催されるパーティで、どう見たって「楽しんでいないように見える」のは、非常に望ましくない。
ああ。こんな時こそ、タバコが吸えたらなあ……。
学院時代からずっと、私はヘビースモーカーだ。
軍に入ってからは、補給の都合上、吸う本数はぐっと減ったが、それでもタバコは手放せない。
しかしながら、一応は女性の形をしている私が、新年パーティの席で、壁にもたれて延々とタバコを吹かすというのは、NGだという。
いやそんなことを言ったって、ほらあそこでも、あっちでも、みんな吸ってるじゃないか! と思うのだが、事前に「絶対にダメだ」と隊長からきつく言い含められている。
むむう。
なんだか不公平だ。
仕方ないので、私はほぼ空になったグラスを片手に、なるべく存在感を消す方法を模索する。
そう、こういうときは――類友大作戦だ。
これだけの人数が参加している祝宴なら、私と同じように、出来る限りひっそりとしていたい人達だっているに違いない。この大ホールのどこかに、同志が溜まっている場所が、きっとあるはずだ。
そういう目で人の流れを追うと、案の定、人が入っていくこともなく、出て行くこともない、絶妙に沈滞した空間を見つけた。そもそもだいたいみんな椅子に座ってるってあたり、やる気のなさが爆裂している。
あれだ! あそこが、私のエルドラドに違いない!
ホールの壁をつたい、コソコソと桃源郷に向かって移動する。
案の定、辿り着いた先は、一様に何かを持て余しているような人々の群れだった。
すみません、私もその輪に入れてくださいませんかね。
……と思いながら軽く会釈をすると、おそらくこの場で一番偉いと思しき老貴族様から「これはこれは、魔術親衛隊副隊長の、ユスティナ殿ではありませんか。ご活躍のほど、この老体の耳にも届いておりますぞ」と、実に年季の入ったご挨拶を頂いてしまう。
ぎゃー、こういうのを避けたくてここに来たんです!
が、こうなっては仕方ないので、私も必死で顔と名前を一致させる努力。ええと、確か、この方は……そうだ、思い出した。
「ありがとうございます、シャハト伯爵。
私ごときの名を閣下に覚えて頂けていたとは、身に余る光栄です」
ぐぬぬ、嫌味っぽくなっていないだろうか……どうにもこの手の言い回しには、まだまだ慣れない。現場じゃあ、修羅場になってくると、上官だろうが兵卒だろうが、敬語なんてすっ飛ぶしなあ。
「はは、そう硬くならずとも結構。今日は目出度い新年の祝の席、無礼講とは言えなくとも、せめてこの界隈は、その心意気で行きましょうぞ。
おい、ユスティナ殿に椅子をお持ちしろ」
シャハト伯爵が側付きの小姓に一声かけると、少年はいずこかへすっ飛んでいき、すぐに椅子を一脚、持ち帰ってきた。仕事が早い。
「さあ、遠慮なくお掛けください。
もとよりユスティナ殿は学究の徒、それが今では戦陣にあって歴戦の宿将のごとく落ち着いた振る舞いと聞く。
だがお見受けしたところ、このような場では、普段以上にお疲れではないかな?」
見ぬかれた。もちろん否定する必要もないので、素直に頷く。
でも座っちゃうのはなー。流石になー。とはいえ勧められたのを断るのはもっとマズイか。
ちょっと悩んでから、私は大人しく着座する。思わず、ため息が漏れた。おおっと、自分でもそんなに疲れてるとは思わなかったよ……。
視線を上げると、シャハト伯爵が苦笑いをしている。
うわわ、みっともないところを見せました、すみません。
「……と、ユスティナ殿は、タバコは大丈夫かな?」
ふと思い出したといった様子で、シャハト伯爵。見ると、確かにシャハト伯の横に置かれた小テーブルには、灰皿が乗っている。いいなー。でもこれ、そういう意味じゃないよね。
「お構いなく。どちらかと言えば、紫煙は好きなほうです」
吸っても嫌がったりしませんよー、という主張を、宮廷言葉に翻訳。
「それはよかった。
医者には止められているのだが、こういう場ではどうにも手放せなくてな……ユスティナ殿は吸われるのかな?」
そんな凶悪な誘惑、ほんと勘弁してください。
「吸うか吸わないかで言えば、そうですね、世間的には愛煙家と呼ばれても仕方ないくらいには、吸います。
ただその、隊長から『お前は一応女なんだから、せめてパーティの席では吸うな』と厳命されておりまして」
ははは、と伯爵が大声で笑う。顔全体がくしゃっとして、威厳のベールの奥から愛嬌が突然顔を出した、そんな感じ。
「なるほど。では、老シャハトに勧められて、断れずに吸ったことになさい。
今、手元には紙巻きしかないが、水煙管も用意できますぞ」
こうなると、いよいよ断れない。それに、あの笑顔を前に断るだなんて、ちょっと考えられない。
私は釣られるように笑顔になって、差し出された1本を受け取る。
すかさず、小姓が火の着いたアルコールランプを差し出してきたので、ありがたく着火。シャハト伯爵も、ニコニコしながらタバコに火をつける。
深々と煙を吸い込んで、吐き出す。
あー、これだわ。これ。
ずっと我慢してました。
今、自分、本気で救われました。
今なら神の実在を信じてもいいです。
目の前で、シャハト伯爵がゆるゆると紫煙を吐き出すと、「お口に合いましたかな?」と一言。
「まる1日、砂漠を彷徨ったあとで、オアシスに辿り着いた心地です」
社交辞令抜きに、素直な感想を言ってみる。伯爵はまたしても、大笑い。
いやはや、タバコはもちろん有難いけれど、この笑顔を見れただけでも、ここに来てよかった。タバコの件は、後で隊長に説教されるだろうけど。
そのとき突然、リラックスしまくっていた私の背後から、少女の声がした。
「お祖父様、またタバコを吸っておられますね?
お医者様から止められているでしょうに」
――そう。
それが、カヤと会った、最初だった。
■
私はタバコを灰皿に置き、あわてて立ち上がり、背後に向き直りながら深々と一礼。
「すみません、シャハト伯爵閣下に、結果的にお煙草を勧めることになってしまいました。お医者様の指導があると伺っておきながら、大変失礼を」
それから、そっと頭を上げる。
目の前には、綺麗なドレスを着た、若い――むしろ幼さすら残った、可愛い少女が立っていた。
が、私はすぐに、彼女が祝賀会に参加している普通の貴族令嬢方とは違うということに気づく。
1つめ。まず彼女は、両目を覆い隠すように、リボンを巻いている。ほぼ間違いなく、全盲なのだろう。
そしてもう1つ。彼女は右胸に、魔術学院が発行する、導師記章を付けている。彼女は目が見えないにも関わらず、導師号を得るくらいまで、魔術を極めたのだ。
だが、この導師記章は――。
私は反射的に、シャハト伯爵を見る。伯爵は少し悲しそうに笑いながら、手に持ったタバコを灰皿で揉み消していた。
「カヤ、ユスティナ殿は儂を庇おうとしているだけだ。実際には、彼女に儂がタバコを勧めたのだよ。
ユスティナ殿、ご紹介しましょう。彼女はカヤ。儂の孫娘だ。
カヤ、こちらが魔術親衛隊副隊長、ユスティナ殿だ。お前からもご挨拶なさい」
カヤと呼ばれた少女は、最初驚いたような顔になって、それから一気に顔が真っ赤になった。あれ、怒らせたかな?
「あ、そ、そ、その、カ、カヤ、カヤ・シャハトと申します!
シャ、シャハト家の、2女、で、ご、ございます!!
あ、ああ、あなた様が、あの、ユスティナ様なんですね!?
ど、どうしましょう、あああ、どうしましょう……」
……えーと?
助け舟を出してくれたのは老シャハトだ。
「カヤ、少し落ち着きなさい。
ユスティナ殿、カヤはあなたに、それはもう憧れておるのですよ」
ははあ。左様で。でも私、憧れられるような人間ではないと思いますが。
「そ、その、あの……学院でも、ユスティナ様の伝説を、いっぱい聞きました!
ユスティナ様みたいな、すごい魔術師になれたらなあ――なんて、でもそんな、私なんかじゃとても無理だなって思って、でも、少しでも近づきたいって、それで、頑張れました!」
カヤはそう言いながら、ぴょこりと小さくジャンプ。
ははあ、伝説。伝説と来ましたか。あなたが、学院での私の所業について何を聞いたのか、そっちのほうが気になりますね。
つうか、その手の風説を流布させてんのは、アイツとか、アイツとか、あのあたりだろ! 今度会ったら蒸発させっぞ!
……などと私が元同級生の顔と名前を想像する間も、カヤは感動を抑えきれないようで、文字通り踊りださんばかり。ああ、ほらまた、ぴょこん。
「ユスティナ様がご卒業になられて、すごく残念だったんです、きっと学院で教鞭を執られるとばかり――でもそうしたら、私の故郷で軍隊に入るって聞いて、もう私、興奮してしまって……でもこちらにいらしてから、ユスティナ様はずっと軍務でお忙しくて。
本当に嬉しいです、お逢いできる日が来るだなんて……」
このあたりになって、私もようやくいろいろなことに気がつき始めた。
導師記章のせいで勝手に上方修正しそうになったが、カヤは相当若い――いや、若いどころではない。着ているドレスから見て、おそらく彼女は16歳。今日が社交界デビューの日なのだ。
ということは、彼女は導師記章を15歳以下で取ったわけで。
間違いなく、天才の類だ。
……けれど。
堰を切ったようにように私に対する賞賛を連ねるカヤの言葉を聞きながら、私はシャハト伯爵の悲しげな笑みの理由を悟り始めた。
社交界デビューの日、名門シャハト家の令嬢たる彼女が、祖父の相手をしている暇なぞ、本来ならば、ない。
シャハト家は子弟の教育にとても熱心な家で、ノラド王国における著名な文官は、だいたいがシャハト家出身か、シャハト家の親類縁者だ。それだけに、「お近づきになりたい」貴族だって、引きも切らない、はず。
でも、カヤは小姓を一人連れているだけで、シャハト伯爵を中心とした「パーティにあぶれた人間」の輪に、あまりに見事に馴染んでいる。
理由は、2つ。
1つは、彼女の導師記章。導師記章はその色と形の組み合わせで、導師格であると認めらた魔術領域がどこかを示す。彼女が右胸に下げているのは、銀の五芒星――つまり、「精神を」「知る」魔術だ。
ちなみに私も一応、真紅の半球、つまり「炎を」「作る」魔術の導師記章を持っている。が、私は滅多にこの記章をつけないし、実際のところ、わざわざ紀章を着用する導師は稀だ。記章をぶら下げるというのは、自分の手のうちを明かすわけだから、魔術決闘を申し込まれたとき不利になるからだ。
が、これには例外がある。銀色の記章、つまり「精神」分野の導師記章は、ほとんどの国において、それを持つ者が公の場に出る場合、着用を義務付けられる。
理由は簡単だ。普通の人々は、例えば私のように大量の人間を一瞬で蒸発させる魔法より、勝手に自分の心を読まれてしまう魔法を、より恐れるからだ。銀記章は、口さがない人々からは、「覗き記章」とすら呼ばれる。
カヤの前に立てば、当然、自分の心を読まれるリスクを犯すことになる(一般的には「手をつないだら心を読まれる」と思われているが、実際には接触する必要などない)。低レベルな術師ならともかく、導師級ともなれば、詠唱なしに心を読む程度、簡単なことだ。
そして、さらにもう1つ。
彼女は、盲目だ。非常に悪い言葉を使えば、「傷物」なのだ。
しかも、これはあくまで情況証拠からの推測でしかないが、彼女はおそらく、先天的に目が見えない。彼女を婚姻相手に選ぶということは、目が見えない子供が生まれるリスクとセットになる――と考える無教養な人間は、悲しいかな、比較的開明的なノラド宮廷においてすら、マジョリティだ。
なんとも言葉にしがたい怒りが、私の心を支配した。
馬鹿げている。
魔術師は、無意識に魔法を使ったりしない(できなくはないが、導師級ともなればむしろ逆に「無意識に使ってしまわないようにする」ほうに心を砕く)。そもそも、このパーティで将来の伴侶を選り好みしているガキどもが何を考えているかなど、魔術を使わなくても丸わかりだ。
ましてや、盲目が遺伝するなど、迷信にもほどがある。
だが、これが現実なのだ。
この世界は非合理と迷信が支配していて、何らかの不幸でたまたまその巨大で不格好な歯車に巻き込まれた人間は、最悪、死ぬ。良くても、無限の苦痛を耐えるハメになる。
――だから。
私はなおも私を褒め続けるカヤの言葉を遮り、彼女の手を握った。
カヤは、反射的に、手を引っ込めようとする。
甘い。こっちは武術も学んできたし、これでも今ではいっぱしの軍人だ。深窓のお嬢様ごときの力では、私の握力にはかなわない。
「……あ、あ、あの……そ、その……」
カヤは言葉を失う。
公衆の面前で、銀記章持ちの手を握る。それがどう見られるか、彼女は痛いほど知っている。
「何も不思議なことはないでしょう?
同じ学院出身の魔術師、握手のひとつもしないほうがおかしいです。
カヤ導師、私こそ、お逢いできて光栄です」
カヤは今にも泣き出しそうな顔。
うひ。ちょっと可愛い。
「カヤさんは、ダンスはできますか?
そのドレス、今日がお披露目なんでしょう?」
またしても言葉に詰まるカヤ。少しキョドってから、素直に頷く。
「ではお嬢様。私でよければ、1曲、お相手頂けますか?」
うん、マジで「私で良ければ」だけどな!
だがこっちには勝算があるんだよ!
カヤは赤くなったり青くなったりして、それから勢いに負けたかのように、また頷いた。
私は彼女の小さな頭を抱き寄せ、そっと囁く。
「ところで私、壊滅的にダンスがヘタなんです。
ましてや男性パートなんて踊れません。
なので、私の視界に、ステップを投影してもらえます?
それを真似すれば、なんとか形にはなるはずです。
ここの連中に、学院の魔術師の優越性を、教育してやりましょう」
カヤはまたしても盛大に驚き、戸惑って、慌ててから――覚悟を決めたように、大きく頷いた。よろしい。このあたりの度胸は、学院で学んだ術師ならでは。
隣でカヤが、精神を集中させるのが感じられる。
つないだ手が、少し、熱を帯びた。
と、視界の中に、理想の男性パートの挙動が投影される。「精神を」「作る」系統の術だ。ご丁寧に、足下には次に動くべき場所が、銀色の足あとで表示される。
これならいける。多分。いけるといいな。
一曲が終わって、次の曲を待つところで、私達は堂々とセンターに足を踏み出した。ポジション確保に汲々としていたガキどもが、こちらに敵意が篭った視線を向けようとして、私の視線とぶつかり、すばやく目をそらす。
さあ、刮目せよ、無知蒙昧の輩どもよ!
これがカヤ導師の、社交界デビューだ!
音楽が始まり、私たちは踊り始めた。




