もしかして:恋
藪をつついて蛇の大群を出した、その週明け。私はフワフワした浮遊感に取り憑かれたまま、月曜の午前中一杯を、保健室で過ごすことになった。
登校したとたん、玄関で平衡感覚を失って倒れそうになり、そのまま保健室直行便。
まったく、何をしに登校したのか、さっぱりわからない。
午後には少し体調も回復したのだけど、寮の部屋に強制送還となった。
まる1日、完全に休みというのは、久しぶりだ。
とはいえ、一人で部屋でじっとしていると、またあの蛇の巣に頭を突っ込んでしまいそうになる。
こういうときは、体を動かすに限る。
姿見の位置を調整して、部屋の中央に立った自分の姿がきちんと見えるように角度を整える。
しかるに、部屋の真ん中で蹲踞。天井が低いので竹刀は持てないけれど、気分的には竹刀を持っている気持ち。
立ち上がって、上段から、素振り。
鏡の中の自分を見て、フォームが崩れていないかを確認。
架空の竹刀を振り上げて、振り下ろす。
振り上げて、振り下ろす。
振り上げて、振り下ろす。
振り上げて、振り下ろす。
前に一歩、踏み出しながら振り下ろす。
後ろに一歩、下がりながら、振り上げる。
最近ずっとサボっていたせいで、鏡の中の自分は、なかなか理想のフォームになってくれない。
5分も繰り返すうちに、額に汗が浮かんできた。
すっかり、なまっている。
無心に素振りを繰り返す。
だんだん、理想のフォームに近づいてきた。
久しぶりならこんなものかな、という感じ。
少し色気を出して、左右に打ち分けてみる。
……うん、ダメだこりゃ。
素早く諦め、正面を打つことに専念。
そうやって1時間も体を動かしていると、息が上がってきた。
そういえば準備体操もなしに、いきなりシャドー素振りを始めたんだった。
まあ、こんなところだろう。
私はもう一度蹲踞すると、大きく深呼吸。
それから、今更ながら入念にストレッチ。筋肉痛で明日も休み、というわけにはいかない。
体を動かすと、明らかに気分がスッキリした。
ううん、これからもユスティナの記憶と付き合わなきゃいけないなら、道場通いを再開したほうがいいんじゃないかなあ……でも万が一、道場で倒れると、迷惑どころじゃないからなあ……やはりここは剣道部か。剣道部には(執行部的に)貸しがあるし、多少なら……
などと邪悪なことを考えつつ、お風呂グッズを用意する。さすがに、最低でもシャワーを浴びたいくらいには汗をかいた。
浴場に向かう途中までシャワーでいいかなと思っていたけれど、せっかくなのでお風呂にする。
寮のお風呂は、寮を合宿所に使う部活もあるため、旅館の大浴場くらいの広さがある。利用時間も長めに取られていて、一般学生の中にも部活を終えて寮風呂、それから帰宅というコースを辿る人は少なくない。生徒は無料だしね。
幸い、ラッシュアワーにはまだ早いようで、脱衣所はガラガラだ。ジャージと下着をてきぱき脱いで、タオル片手に浴室にGO。フーハハハ、隠すほどの胸もないから気楽だぜー!
気楽……です……。
いやその、大小で隠す隠さないが決まるわけじゃないですけどねー。
女子寮のお風呂で遠慮してどーすんのって話です。
と、勢い込んで浴場に入ってみたら、なんとそこには珍しい先客が。
梓先輩が、のんびりお寛ぎじゃないですか。
「よっ、遙ちゃん。珍しいとこで会ったねえ」
「梓先輩、どうもです。練習はいいんですか?」
「ん、今日はオフ。オフついでに、ちょっと羽根を伸ばしてるとこかなー」
なるほど。私は軽くお辞儀して、まずはシャワーを浴びることにする。
シャワーを浴びて、洗髪して、体を洗って、さっぱりしたところで、いざ湯船へ。梓先輩はずっとゴキゲンで、鼻歌を歌っている。意外と言っては失礼だけど、なかなか上手い。
普段はこういうとき、ちょっと離れた場所でのんびりするのが私の習慣だけど、今日は梓先輩の側に入らせてもらう。人肌恋しいというか、とにかく今はなるべく一人になりたくない。
「遙ちゃん、今日は執行部は?」
「あー、実はその、今日は事実上学校を病欠になりまして」
「あらら。また倒れちゃった?」
「ニアピンです。倒れる寸前でした」
「良くないね」
「自分でなんともできないのは厄介ですね」
他愛もない話をしながら、湯船でゆったりと両手足を伸ばす。久々にちょっと真面目に体を動かしたこともあって、お湯が体に染み入るくらいに気持ちいい。
そうやって湯船の中で背伸びしていると、梓先輩がずるずると近寄ってきて、ぐぐっと肩を組まれた。むむむっ、これは何やら嫌な予感!
「でさ、遙ちゃん。率直なところ、ひとつ聞きたいんだけど」
「は、はあ。お答えできることなら、何でも」
「お、いま何でもするって言ったね?」
言うやいなや、梓先輩の手が私の貧相な胸をぎゅっと掴む。痛みはなく、絶妙な揉み具合。って、そんなところに感心してる場合じゃあなかった。
私は慌てて梓先輩の抱きつき攻撃から逃れようとする。
「あ、あの、そういうフィジカルなセクハラは……それに『答えられる質問にはなんでも答える』って言いましたけど、何でもするとは言ってません!」
「おー、そうかそうか。しかしなかなか育たんねえ」
梓先輩の手がワシワシと動く。
「知ってます」
たいへんよく知ってます。
「でさ。ちょい真面目なところ、遙ちゃん的に、御木本会長ってどうなのよ?」
おっと、なんだかすごいビーンボールが飛んできた。
「宮森学園生徒会史上に残る、ザ・ワースト・ダメ生徒会長、ですかね」
即答。これ以外に何を答えろと。
「いやそっちじゃなくて」
「そっちじゃない方?」
しばし混乱。
「まったー。遙ちゃん的に、御木本会長が好きだったりしない?」
「しません」
再び即答。
「しないの?」
梓先輩がふたたびワシワシ。
「しません」
そりゃそうです。
「そっかー」
……梓先輩、どんな答えを期待してたんです?
こちらの当惑をよそに、梓先輩はようやく私を抱きつき攻撃から解放すると、頭の後ろで両手を組んだ。
「いやま、それならいいんだ。
あたしも、いろいろ手一杯でねえ。可愛い後輩のために尽力してあげたいところだけど、難しいんだわ」
手一杯? 梓先輩が?
水泳の強化合宿がそんなに厳しいのだろうか? それとも学業の単位的な問題? いや、スポーツ特待で、これだけ凄い成績を出し続けているのだから、そこで悩む必要はないはず。
頭の中が疑問符で一杯になったけれど、梓先輩が再び鼻歌モードに戻ったので、私も梓先輩の肩に頭を載せてさせてもらい、くつろぐことにする。梓先輩は少し驚いたようだけど(私のほうからこういう身体的接触をするのは、滅多にないことだ)、すぐに鼻歌に戻った。
ああまったく、お風呂は素晴らしい。
■
あー、でもほんと、お風呂は素晴らしい。大事なことなので二度言いました。
夢だかなんだか分からないグダグダでグズグズしていた数日ぶんのストレスが、嘘のように溶けていく。
気分が緩んだせいか、私は改めて、先週の土曜のことが気になり始めた。ユスティナがどうこうではなく、もっと現実的な方向で。
気になってしまったので、今のうちに梓先輩に相談してみよう。
「……あの、梓先輩。実はちょっとご相談というか、そういうのがありまして」
「お、遙ちゃんからのお申し出とは珍しいね。何?」
私は土曜日のことを(ユスティナの記憶だとかそういうことは大幅にカットして)、ざっくりと梓先輩に説明する。特に、星野先輩に電波がかったことを言ってしまって、だいぶ困らせてしまったっぽいあたりを、重点的に。
「……というわけで、星野先輩にはずいぶん迷惑をかけてしまいまして。
何かこう、上手くお詫びするコツといいますか、さすがにこれは頭を下げるだけじゃマズいかなあと」
「そっかー。静香がねえ……」
あれ。梓先輩が、妙に真剣に考え事を始めてしまった。何か琴線に触れることがあったのかしら?
梓先輩はちょっと黙ると、梓先輩にしてはとても慎重に、言葉を選ぶような感じで、話し始めた。
「最初に大事な部分を言うとね、静香はたぶん、迷惑かけられたなんて全然思ってないんじゃないかな」
「――そうですか?」
あれはさすがに、普通はドン引きでしょう……。
でも梓先輩は、なおも慎重に話を続ける。
「あのね。遙ちゃんには、いつか全部話そうとは思ってるんだ。
このままだと、静香が遙ちゃんに迷惑かけることにもなりかねないしね」
「……迷惑、ですか?」
いやいや、それはあり得ないでしょう。逆はあっても。
「うん。静香ね、ああ見えて、すごく繊細な子なんだよ。
昔さ、まだあたしらが中等部だった頃、あの子がこの学校で初めて好きになった男ができてね。
そこそこ続いたんだけど、結局フラれちゃって。
学校では健気に振る舞ってたんだけど、先輩とあたしでハンバーガー屋に連れてってフリー復帰おめでとうパーティやったら、その場で大泣きされちゃってさあ」
は、はあ。あの星野先輩に、そんな少女っぽい過去が。
なんだかにわかに信じがたい話だけど、梓先輩が言うことだから、嘘ってことはあるまい。
「あの頃の静香、今の遙ちゃんより痩せててね。本当に、何も食べられなかったんだ。そこから立ち直るのに、ずいぶん時間がかかった。見かけはあのすまし顔だから、余計厄介でさ。
おまけにどんどん美人に磨きがかかって、アタックしてくる男も増えてね……まあ、ほんと、大変だった。この手の話にありがちなことは、ひと通り全部あったと思ってもらっていいよ」
ここまで聞いて、梓先輩の話がどこに行こうとしているのか、回転の遅い私の頭にも、ようやく焦点を結び始めた。
「死なないでください」という私の唐突すぎる言葉に、星野先輩は「大丈夫ですよ」としか答えなかった。普通だったら「何を言ってるの?」「そんなに悪い夢を見たの?」とでも聞くところだろう。あるいは、当惑して何も言えないか。
でも星野先輩は、「死なないでください」という言葉を、恐ろしく真面目に受け止めた。そしてその解答が「大丈夫」ということは、全然大丈夫なんかじゃないってことだ。
――不意に、脳裏にロザリンデの姿がよぎる。
私は慌てて頭を振って、あの光景を頭から追い出した。
「繰り返しになっちゃうけど、遙ちゃんにも、どこかのタイミングで事情は全部、教えたいと思ってる。てか正直、遙ちゃんにも手伝ってもらわないといけないかもしれない。みっともない話だけどね……」
そう言って、梓先輩は下唇を噛む。
「わ、私にできることなら、何でも」
咄嗟に、そんなことを言ってしまう。
多分、私にできることなんて、何もない。
それに私自身、自分のことでわりと手一杯だ。
けれど、星野先輩が苦しんでいるなら、なんとか……その、なんとか、手伝いたい。
梓先輩は、私のあからさまな空手形を笑わなかった。
「ありがと。本当にヤバイときは、いきなり呼びだしちゃうかもしれないけど、そうはならないように頑張るよ」
そこまで言って、梓先輩はいつものようにニヒヒといたずらっぽく笑う。
「それに、静香が弱ってるいま攻め込めば、遙ちゃんにも静香をゲットするワンチャンあるぞ! そっちの方向で頑張るなら、お姉さん、全力で応援するよ! いま、静香はフリーだし!」
一瞬、梓先輩が何を言っているのか、まるで理解できなかった。
数秒後、言葉の意味が脳に染みわたる。
……な、なな、ななな、何を言ってるんですか梓先輩!
ワ、ワンチャンって、ゲットって、フリーって、なにが、その、どう!
「あーもう、分かりやすいなあ。真っ赤になっちゃってさあ。
まあいいや。湯あたりってことにしといてあげるよ。
でも冗談抜きでさ、今が超ビッグチャンスだよ。ぼっち道もいいけどさ、命短し恋せよ乙女、ってね。あれは本当に、本当の、いい言葉だと思うな。
大事なものは、手に届くところにあるうちに、むしり取る勢いで掴み取らなきゃ、手に入らない。手遅れになってから『好きでした』って言ったところで、何にもならないからね?
言うなら『好きです』だよ。それなら、負けても諦めがつくから」
しどろもどろになっている私に向かって立て板に水でまくしたてると、梓先輩は「さて!」と気合一声、湯船から立ち上がった。見事に鍛えあげられた体があらわになる。
「じゃあ、あたしはそろそろ出るね。
遙ちゃん、まあ、いろいろ、頑張れ! あたしも頑張るよ!
近いうちメールするから。LINEとかのほうがいい?」
メールで大丈夫です、と辛うじて返事。梓先輩はうんうんと頷くと、浴場を出て行った。私はひとり、浴槽の中で大混乱。
ワンチャン。ゲットだぜ?
いやいや……いや、だって、それ? ねえ……?
ざぶんと、湯船に頭まで沈める。
水の中。梓先輩のホーム・グラウンド。
息が苦しくなるまで潜ってみたけれど、梓先輩のようにキッパリとした結論は、ついぞ見つからなかった。当たり前か。
水面上に頭を出すと、脱衣所のほうからキャアキャアとはしゃぐ黄色い声が聞こえてきた。そろそろ、部活組が団体で入ってくる頃か。
私は深くため息をついて、浴場を出ることにする。




