ユスティナ6
神聖暦1968年5月
(メモ:ユスティナたちの日常を思い出すことにする。量が膨大になるのは間違いないが、特殊なイベントだけを思い出そうとしていると、どうしても付随して日常の一コマを思い出したり、あるいは途中で意味が通らなくなったりして混乱する。パズルのピースが足りない。
どうやらこれは、想像よりも大変な仕事になりそうだ)
何の前触れもなく、目が覚める。5秒ほど睡眠の名残りに体を委ねてから、えいやと起床。ベッドサイドに置いた懐中時計(軍時代に女王陛下から下賜された、大事な逸品)を見ると、朝6時。時間通りだ。
3分ほどでこざっぱりした室内着に着替え、外出用の一式をまとめて小脇に抱えると、リビングに向かう。
2階建ての一軒家で、5人が暮らす共同生活……もとい一家だが、どんなに家族と言っても守るべきルールはある。あるはずだ。少なくとも、寝間着姿で共有スペースをフラフラするのは、私の感覚で言うとNG。
2階隅の自室からリビングに降りると、ちょうどアイリスが庭での自主練を終えたところらしく、練習剣の手入れをしていた。
刃を潰した剣だし、手入れをしなくても実用上の問題はない。それでも決してメンテナンスを欠かさないアイリスの姿は、同じ元軍務従事者として、とても心強い。整理整頓、備品の正しい管理は軍務の基本です。
「おはようございます」
無心に剣を磨くアイリスに、朝の挨拶。アイリスもきびきびと「おはよう」と返してくる。やはりこれはこれで、良いものだ。規律と規範、合理性に則った、規則正しい生活。つい、軍で働いていた頃が懐かしくなる。
「昨晩は遅くまで励んでたみたいだが、眠くないのか」
前言撤回。軍隊式のジョークは時折返答に困る。
とはいえ昨晩は私の部屋で〈勇者〉が寝る日だったのも事実で。
まあ、その、はい。あれだ。
「……もう、庭はいいですか? 井戸、使いたいので」
「ああ」
「5分ほどで戻ります」
庭には井戸が掘ってある。室内着を井戸端でそそくさと脱いで、冷たい水を手桶に汲んでは、頭から浴びる。
イリスやロザリンデ的にはこの行水は「あり得ないこと」(否定形)らしいが、アイリスと私的にはこんなにも手軽に身体を清められるというのが「あり得ないこと」(肯定形)だ。
干してあるタオルで濡れた身体を拭いて、朝の行水は完了。外出用の服を手早く身につける。ここまで5分。
「お待たせしました」
「冗談みたいに、きっちり5分だな」
リビングに置かれた時計をちらりと見ながら、アイリスが感心したように言う。
「アイリスだって似たようなものじゃないですか」
彼女も、私に負けず劣らず、時間には厳格だ。
「あたしはそこまで厳密ではないな……さて、行くか」
「はい」
アイリスと2人で、街の中央広場で開かれている朝市に向かう。本気で買い物するなら2時間ほど遅いが、朝食の食材を仕入れるくらいならこの時間で十分だ。むしろこの時間ほうが売れ残りが安く買えたりするので、家計的にありがたい。
「よっ、お嬢ちゃんがた、牛乳が安いよ!」
「ハムはどうだい! 切れっ端をおまけするよ!」
「採れたての果物はどうだい」
市場での買い物は、あまり得意ではない。小さい頃から魔法学院の象牙の塔で学び、その後は軍隊生活が長かったせいで、私は「一般的なものの値段」に疎いのだ。
だがそこは世故長けたアイリスがいる。彼女は私の目にはどれもお買い得にしか見えない提案を「それは安いな、だがそんな量はいらないんだ」「高すぎないか?」などと、右に左に上手く捌いている。
15分ほど朝市をウロウロして、卵とベーコン、パンとラードを買って帰ることになった。私の感覚だと相場の半額程度というイメージなのだが、アイリスは「相変わらず、この街の商人はやり手だな」と微妙に不満気だ。
うーむ。アイリスは護衛戦士としても引く手あまただが、軍の補給部門に就任したらあっという間に将軍級まで駆け上がれるんじゃないだろうか……。
家に帰ったら、手を洗って、キッチンに入る。これから、5人分の朝食を作らねばならない。といっても、アイリスと私が作る料理なので、そんなに手の込んだものではないが。
余談になるが、朝食の当番は2人組で、毎日変わる。5人で2人組を作るので、パターンは10通り。1ヶ月は30日なので実に綺麗に割り切れるし、何日が自分の当番かを覚えるのも簡単だ。
ただこのシステム、問題もある。〈勇者〉は基本的に家事が(も)壊滅的なので、〈勇者〉とペアで朝食当番のときは、パートナー各人が最大の努力をするしかない。
問題の料理の腕前は、イリスがぶっちぎりでトップ。
続いて軍隊仕込みのアイリス(このあたりですでに食事としての格は平均以下になる)。
アイリスの、かなり下のほうに、私(腕前としては「食べられる食材を、食べやすい形に変形させて提供する」レベル)。
〈勇者〉がそのだいぶ下(このラインが「食事として飲食可能」の下限)で、ダントツの最下位はロザリンデ。さすがは名門クルシュマン伯爵家の当主、零落して庶民的な生活をしていたとはいえ、家事は使用人任せだったらしい。さもありなん。
ということで〈勇者〉&ロザリンデが当番の朝は、イリスが手伝うことが多い――が、寝坊魔のイリスが安定の寝過ごしを決めると、10日に1度、なかなかファンタジックな朝食が待っていることになる。
■
ともあれ、アイリスと並んでキッチンで作業を開始。私達の場合、料理と言うより作業と言ったほうが、しっくりする。
アイリスがベーコンを薄切りにしていく横で、私はパンを切り出す。ベーコンの切り口がやけに綺麗なのは、さすが刃物を扱うプロというところか。
「そういえばユスティナは、軍隊にいた頃は、食事は全部作ってもらっていたんだろう?」
ベーコンを数学的な均一さでスライスしながら、ふとアイリスが聞いてきた。
「最高責任者ではありませんでしたが、これでも一応は士官でしたからね。食事は従卒が用意してくれていました。
副官も……いたんですが、彼女は日常雑務が苦手だったもので」
パンくずを散らしつつ、パンを切断。ううん、これ、もっと綺麗に切れるものじゃないのだろうか。実にもったいない。
「いいご身分だな」
「これがそうでもなくて」
即答。アイリスは「荒れていた」頃に用心棒になって、そこからしばらく傭兵稼業に転じたと聞いている。なので軍隊生活は長くても、軍隊の上のほうがどうなっているかは、知らない。
「ほう?」
「食事って、軍隊ではものすごく大事です。士気を高めたかったら、食事の質を上げるのが一番ですからね」
「それはわかる。軍隊生活やってれば、食事くらいしか楽しみがないからな」
遙か南の海軍国では、週に1度振る舞われる「カリー」とかいう料理が、大いに水兵の士気を高めると聞く。傭兵としてあちこちを旅したアイリスも、軍隊における食事の重要性は身に染みているようだ。
「御存知の通り、私って1年の半分は雪が降ってるみたいな辺境の国境警備だったじゃないですか。だからほんと、何もないんですよ。食事以外」
「娼館には期待できなさそうだしな」
「失礼な、いくら質実剛健で有名なノラド王国軍と言えど、娼館くらいありましたよ! 家があるだけで、中身がありませんでしたが!
月に1週間の休暇が規定でしたが、男どもはよく片道1日かけて麓の村まで行ってましたね」
「男ってやつは……」
「馬鹿だなあと思います。ええ」
馬鹿だなあとは思うものの、これもまた、軍隊にはつきものの問題だ。
下半身の事情は、しっかりと管理しておかないと、感染病の蔓延を招きかねない。それどころか、ヘタにここを抑圧すると、上の目が届かないところで性欲を解消させる動きが広まる――具体的に議論したくはないが、最悪の場合、極めて非合法な組織売春を管理する組織犯罪集団につけこまれる。そこから武器の密輸や軍物資の横流しまではあっという間で、軍隊組織にこの「穴」が開くと、機密情報の漏洩を止められなくなる。極めて危険な状態だ。
また、軍隊は人と人をつなげる機能も持っている。ゆえに、軍隊で犯罪行為に手を染めた者は、軍務が終わった後も、その手の組織犯罪との関係を維持しがちだ。「兵隊のやんちゃ」で済ませていると、軍の人脈を中心とした非合法組織が国家を壟断する事態すら招きかねない。
「打つほうはどうだったんだ」
「博打は黙認してましたが、度を超えそうな案件は厳しくチェックしてました。環境が環境だから、冗談抜きで博打で死人が出かねないんですよ」
「それはそうか。博打狂いは、自分の毛布まで賭けるからな」
「それです。暖かい任地ならいんですがね」
「……南の戦争じゃ、下着まで賭けた馬鹿もいたがな」
ベーコンを切り終わったアイリスは、初歩の火炎魔法で炭に火を入れる。
私が同じことをやると、この街ごと消し炭にしてしまうので、ここはアイリスの出番。
「まあ、だからうちの部隊では食事と、特定のタイミングでの振る舞い酒には気を遣っていたんですが、これがなかなか難しくて」
「ふむ?」
「兵卒の食事の質を上げ過ぎると、現状に満足してしまって、『上官殿はあんな美味そうなものを食ってるけど、軍功を挙げれば俺だって』というモチベーションを奪ってしまいます」
「なるほど」
「かといって普段から差がありすぎると不満が溜まし、部隊の連帯感も醸成しにくい」
「難しいものだな」
そう、このあたりはとても難しい。魔法学院はこういう人間関係に関して非常に雑な環境だったので、「部下のモチベーションをどうコントロールするか」は、私にとって長らく頭の痛い問題だった。
「うちでは軍曹レベル以下の下級指揮官と、ヒラの兵卒は、普段の食事は同じ等級にしてました。同じ釜の飯を食うってのは、基本ですしね。
で、週に1度の『報告会議』には上から下まで指揮官クラスを集めるんですが、そこで美味いものを振る舞うわけです。こっちはこっちで、大なり小なり指揮権を持つ責任者は同じものを食べる、そんな連帯感を作るという目論見もあります」
「考えたな」
炭火でフライパンを温めたアイリスは、その上にラードを落とした。いい音を立てて、豚の脂肪が溶けていく。
私は切り終わったパンをまとめて、耳をやや厚めに残す感じで、実を丸くくり抜いていく。
「実はこれ、私的な事情もありまして」
「私的?」
「私、食が細いじゃないですか。軍務時代は今より気持ち多めに食べるようにはしてましたけど、そのせいで食事の度に拷問で」
いまも、イリスに「もっと食べなきゃダメだよ!」とよく叱られる。
とはいえ彼女は無理強いをしないので、私としては気が楽だ。
「よくその程度しか食わずに持ったな」
「燃費がいいんです。でもほら、軍隊生活だと、飲み食いする量って、威厳に関わるじゃないですか。あの新任士官はほとんど食わないぞ、前線に来て緊張で食事が喉を通らないだろう、そんな根性で大丈夫なのか、って。
逆に、鯨飲馬食する士官は、豪胆で豪快、さすが我らが指揮官様だって受け取られ方をされがちです。無論、補給が十分なときに限りますが」
「そうだな。軍隊は、そういう場所だ」
実に馬鹿馬鹿しいマッチョイズムだが、軍隊とはマッチョイズムが結晶になったような組織なのだから、どうしようもない。
それに、軍における指揮官とは、生きるか死ぬかの土壇場で、「他の人間のためにお前(または「お前たち」)が死んでこい」という命令を下す人間だ。
嫌な話だが、「死んでこい」という命令は、「死んでこい」以上に言葉を飾ると、途端に腐臭を放つ。その腐臭は、組織全体を腐らせる。それを避けたければ、「死んでこい」と胸を張って言う、その姿に説得力がなくてはならない。
なんとも、実に馬鹿馬鹿しい、マッチョイズム。
「下級指揮官を集めた宴会は、その心配がないんですよ」
「なぜだ? 逆じゃないか?」
「『あの士官様は、我々下々の者が飲み食いするようなものには、手をつけないのだ』みたいな、勝手な誤解をしてくれます」
「なるほど。良いことではないが、侮られるよりマシ、か」
「おかげで週1の報告会議は、私にとっても最高に楽しみでしたね。
美味しいものを、ちょっとずつ。理想です」
すっかりラードが溶けたフライパンの上に、アイリスはベーコンを並べる。
ジュッと音をたてて、ベーコンがほどよく炒まっていく。
「普段はもっと良い物を食っていたんじゃないのか?」
「まさか。我々士官は普段、兵卒とは別の場所で食べてましたから。
たぶん兵卒より粗食でしたよ。いい給料貰ってるんです、節約できるところは節約しないと」
「……傭兵の間では、『ノラド王国は出稼ぎには最高だが、正規兵に引きぬかれそうになったら全力で拒め』と言われていたが。そういうことか」
おっと、元職場に対する不当な批判には、抗議しなくては。
「ノラド王国軍の正規兵は、よその国より給料高めですよ。任務原因の病気や怪我に対する保証も厚いし、軍務が続けられなくなるような怪我をした場合も年金がしっかり出ます。
万が一、爵位までもらっちゃうとなると、手当が露骨に目減りするのでお薦めできませんが」
「さすが元プロ、リクルートの言葉も滑らかだな」
軽くかわされた。まあ、こんなところで意地になっても仕方ないが。
ベーコンに半分ほど火が通ったところで、中身が繰り抜かれたパンの耳が、フライパンの上に並べられていく。
「上に行けば行くほど質素になるシステムは、ちょっと疑問でしたけどね。
偉い人は、もうちょっと贅沢したほうがいいんじゃないかなとは、かねがね」
食卓の上に皿を並べていると、フライパンの前に陣取ったアイリスが低く笑うのが聞こえた。
「……あれ、何か可笑しかったです?」
「いや――お前はほんとうに、自分の足下になればなるほど、見えてないんだな、と思ってな」
足下が見えていない? いきなり話が抽象的になった。
「考えてもみろ、お前がノラドの貴族や女王陛下に対して思うことを、お前の部下がお前に対して思っていなかった筈がなかろう」
アイリスはそう言いながら、卵を割って、パンの耳でできた「枠」の内側に落としていく。このあたりはもうずっとアイリスのお仕事。私は皿とシルバーの準備だ。
「い、いやそれは。
さすがに陛下と私では、格が違いすぎますよ」
「馬鹿なことを。軍隊生活は、共同生活だ。どんなに取り繕っても、兵隊は自分の上がどんな人間なのか、否応なく理解する。
お前はきっと、お前の部下から、『うちのボスは少食なんだから、せめて普段からもっと良いものを食べればいいのに』程度のことを思われていたはずだ。
思い当たるフシは、あるだろう?」
反論しようとして、そういえばあの頃は、偵察を出すたびに、彼らが鹿を狩って帰ってきたことを思い出した。
鹿肉は、私が比較的好んで食べていた食材だ。もしかしてあれは、私が好きなものを狩ってきてくれていたのか。
自分の鈍感さに呆れて、思わず黙りこんでしまう。気付かされるにしては、あまりにも手遅れだ。
アイリスはパンの耳の「枠」に、パンで「蓋」をしながら、もう一度、低く笑った。
「みたことか。
実はな、お前のことは、前々から噂に聞いていた。
ノラド王国の国境守備といえば、世界でも指折りの過酷な戦場だ。敵対者も多ければ、天然ものの危険にも事欠かないし、なにより酷く寒い。そこに、魔術親衛隊副隊長なんていう高官が務めてるってな。
正直に言えば、最初にその話を聞いたときには、きっと立派な砦の、暖かい部屋から一歩も出ずに、ただ威張り散らすしか能がない『指揮官様』に違いないと思った。宮廷で問題を起こした貴族子弟のボンボンが飛ばされたんだろう、ってな」
フライパンに蓋をしてコンロから下ろしたアイリスは、淡々と語る。
「だが、どうもそうじゃないらしいというのも、すぐにわかった。なかなかのキレ者で、慎ましやか、馬鹿みたいに任務に忠実で、とんでもなく凄腕の魔術師だ、と。
傭兵を生業にしていれば、こういう情報はすぐに巡ってくる。自分の命に関わるからな。実際、お前が就任してから、国境警備隊の戦死・戦傷者は激減したそうじゃないか」
数字で言えば、それは事実だ。
が、そこにはたいして褒められない理由がある。
「ノラド王国の軍システムだと、戦死・戦傷に対する保障金は、軍予算全体に対してなかなかの負担になってますからね」
つまりは、カネの問題だ。私だって、兵士の命の値段がもっと安ければ、別の対処をしただろう。
でもアイリスは、ゆっくりと首を横に振った。
「理由はどうでもいいさ。
あたしらみたいなのにしてみりゃ、仕事はきついが、待遇は良いし、危険も少ないってのは、ありがたい話だ。
実際、一時期は募集上限よりたくさん人が集まったりしてただろ?」
確かに数回、募集定員を大幅にオーバーして、くじ引きになったことはある。
「あんな厳しい辺境勤務、普通はそんなに人気が出たりしないさ。
お前が、成し遂げたことだよ。
お前だから、みんながついていったんだ。
お前はもっと、自分がやったことを、誇っていい」
沈黙が落ちた。私は冗談として受け流そうとしたけれど、アイリスの顔は真剣そのもので、少し、いたたまれない。
「そろそろいい塩梅だ。
盛り付けは任せる。あたしはみんなを起こしてくる」
戸惑う私を置いて、アイリスはきびきびとキッチンを出て行った。
フライパンの蓋を開けると、ふわっと湯気が立ち上り、ベーコンと卵が焼けたよい香りが立ちのぼった。ナイフを取って、フライパンの上で簡単に切り分け、ターナーで上下裏返す。
5枚のパンで作った簡単クロックムッシュを、10切れに分割して、それぞれの皿に2切れずつ。最後に上からドライパセリと塩をひとつまみ。無事、完成。
……しかしまあ。私の、成し遂げたこと、か。
アイリスは、私を買いかぶっている。ノラド王国での国境警備任務が上手く行っていたのは、多くの人々の働きがあってのことだ。私が果たした役割など、ほんの一部に過ぎない。
この朝食のようなものだ。私がやったのは、パンを切って、実をくりぬいただけ。美味しそうに仕上げたのは、アイリスの仕事だ。
そんなことを考えながら、私は自分の皿からクロックムッシュを1切れ取って、〈勇者〉の皿に移住させる。
さて。
皆が集まってくる前に、お茶用のお湯を沸かしておくとしよう。
本日は2編投下しています




