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僕達がいるのは五階の渡り廊下だ。窓の下を身を乗り出して覗き込むと、そこには三階の渡り廊下の屋根が確認できる。東棟から西棟に行くには三階と一階の渡り廊下しかないのに、何故か東棟から南棟に行くには五階、三階、一階と、一つ多い渡り廊下がある。この特殊な建物の構造を不思議に思ったが、今はこの構造のお陰でなんとか脱出できそうだった。
繋げたカーテンを窓柱に括りつけ、三階の渡り廊下の屋根に下り、そこから更に一階の渡り廊下の屋根に下りられれば、一階分の距離を飛び降りるだけで済む。
ただし、問題は三つある。
一つはカーテンの強度。堅く縛ったとは云え、随分昔から放置されていたカーテンは、穴が開いていたり所々破れている。これがどれだけもつか。最悪の場合破けて宙に放り出されてしまう。
もう一つは、下の階に行けば行く程、煙が濃くなることだ。火元からは少し離れてはいるが、煙は風に煽られ建物にぶつかり、あちらこちらに向きを変えてくる。下りてる途中に煙に巻かれれば、その時点でかなり危険な状態になるだろう。
そして最後に、カーテンの枚数が問題だった。全9枚あるカーテンで二つのロープを作ったが、落下してタダでは済まない五階から三階は、6枚のカーテンを繋ぎ合わせたロープで下りられるが、三階から一階へは3枚のカーテンを繋げたロープで降りなくてはならない。
この枚数では多分……いや、ほぼ確実に下の階まで届かないだろう。そうなると体を揺らしてタイミングよくジャンプして下りなければならない。地面はコンクリート。上手い事下りる事が出来なければ、最悪落下。打ち所が悪ければ……。
一番最悪な光景を想像し、改めて高さに唾を飲む。
反対側の、町並みが見える方角だったらより恐ろしく感じたかもしれない。舗装されたコンクリートを挟んですぐ浄水場があるだけ、感覚としてはマシな方だろうか。
そうこうしていると、鍔付きキャップは括りつけた窓柱を何度も確認し、窓の外へと身を乗り出していた。
「ちょ、ちょっと」
別に順番なんか決めてない。行くと決めたのなら誰かが最初に行かなくてはならない。そんな事は分っているけど、つい止めに入る。
「体重から云って、私が最初に下りられれば、キミ達も安心して降りられるだろう」
煙に咳き込みながらそう云うと、窓の外にある小さなでっぱりに足を置き、薄汚れたカーテンを手に巻きつける。
準備と覚悟が出来たのか、僕と文目を見る。
「本当にすまなかった」
それは遺言に似た言葉。思い残す事を無くす為の言葉。自分のせいで、と云う、僕と文目がお互いを思いやった気持ちと全く同じものだった。
「良いさ。今は助かろう」
文目のかける言葉に鍔付きキャップはまた泣きそうになりながら、顔を引き締め頷く。
「またあとで」
そう云うと、鍔付きキャップはずりずりと外壁を削りながら下りていった。遠ざかる鍔付きキャップを息を呑んで見守る。途中何度か風に煽られ、その都度風が止むのを待ち、再びゆっくりと下りていく。
その動きに何度となく心臓が止まりそうになったが、何とか三階渡り廊下の屋根に降り立つ事が出来たようだ。手を振る鍔付きキャップに、深く息を吐い握りこんだ手を広げる。ドラマや映画の緊迫したシーンで手を握る事はあるが、やっぱり目の前で起こる現実の比ではないようだ。
「次は僕が行くよ」
リセットの利かない人生の、失敗できないたった一度限りのチャンス。
鍔付きキャップがやっていたように、掴める場所に手を置き、ゆっくりと窓の外へとでる。全身が窓の外に出ると一層恐怖が湧き出てくる。たった数センチ位置が違うだけなのに、中と外では全くの別世界だった。
生暖かい風が頬を叩き、薄い煙と火の子が襲ってくる。自分を守ってくれるのはこの細い二の腕だけだ。自慢じゃないが、腕立て伏せは10回前後が限界だ。追い詰められた人間が最後に頼るのは、やっぱり磨き上げた自身の体なんだと改めて理解する。
「深呼吸」
文目の言葉に、自分の息が荒くなっていることに気が付いた。
ゆっくりと吐いて、生暖かく汚れた空気を吸う。咳き込みそうになりながらもう一度吐いたところで、
「行ってらっしゃい」
突き飛ばされた。
遠ざかる文目の顔は相変わらず悪そうな顔をしていた。でっぱりから足を投げ出し、手に巻いたカーテンを握りこむ。一瞬の浮遊感と一緒に全体重が手に集中してカーテンが食い込む。
「にぎゃぁぁぁぁぁッッッ」
洒落にならない。
浮遊は一瞬で、手につながれたカーテンを引っ張り上げて壁に足を付ける。涙目になりながら上を見上げると遠のいた窓辺があり、かなり下まで落ちた事を理解した瞬間、血の気が引く。
「あ、あと、あ、あ」
言葉にならない言葉を声にだす。
「いいから下りてくれるかい。もたもたしてる時間はないよ」
はやし立てる厳しい言葉が降ってきた。
「後で覚えてろよー!!」
三流悪党も最近じゃもう少しまともな台詞を云うだろう。
だが、一度下り始めたら後は勢いだった。最初の飛び出しのせいで度胸が付いたか、それとも恐怖が麻痺したか、残りの距離は簡単に詰めて下りる事が出来た。
屋根の上に降りると、一気に息苦しさを感じる。火元が近いせいだろう。慌てて口と鼻を押さえ、姿勢を低くするが、この場でどれだけ意味があるのか。
続く文目も難なく下り、それを確認した鍔付きキャップはもう一度カーテンを手に取り、三階渡り廊下の中へと下りていった。予想通り窓は割られており、中に入るのは簡単だったようだ。
続いて僕、文目の順に3階渡り廊下内に入ると、浄水場を照らす明りのお陰で黒い煙を目で確かめる事が出来た。
煙は直ぐそこまでやってきており、目も鼻も喉も痛み、吸った二酸化炭素に頭痛が始まる。一刻の猶予もない状況。
すぐさま窓柱にカーテンを括りつけ、鍔付きキャップから降りていく。
「いいかい? 焦る必要はない。確実かつ冷静に下りればなんてことはない。1階渡り廊下からは煙も出ているけれど、幸い風のお陰か煙は建物から離れるように立ち上ってる。ただゆっくりもしてられない。風はいつ向きを変えるか分らないからね」
東棟の煙は建物に沿うように立ち上っているのに対して、こちら側の煙は離れるように煙が立ち昇っていた。
煙の動きを見ていると、窓柱からギリギリと悲鳴を上げている事に気が付く。見下ろすとやっぱりカーテンの長さは足りておらず、鍔付きキャップは体を揺らして勢いを付けていた。その振動で括りつけた窓柱が悲鳴をあげていたのだ。
窓柱から訊こえる軋みに、僕の下っ腹辺りが痛みだす。緊張で気分は悪くなり一気に吐き気を催す。
人間誰しも虚勢を張る。大人になりたい子供と云うのは特に、自分の考えを持とうとする。けれどそれは結局上っ面だけ。命に関わる瞬間ともなるとメッキは剥れ、自分でも気が付かなかった本質がむき出しになる。
あぁどうかと、最後に祈る相手はやっぱり神様だった。
何度目かの振り子でやっと足が付き、鍔付きキャップの姿が一瞬見えなくなる。緊張の瞬間――――――手だけ振って合図が来る。
僕と文目は顔を見合わせ安堵する。それは一瞬の気の緩みだった。
瞬間また爆発音。今度の音は直ぐ近くからで、途端に廊下の先にオレンジ色の光が見え黒い煙が押し上げこちらに向かってくる。
「文目!」
カーテンにしがみ付き、手を伸ばす。
自分一人で逃げ出せる状況。見て見ぬフリができる状況。そんな状況でも手を差し伸べる。その行為を両親は自分の為だと云っていた。けれど、今僕が考えてるのは、自分の事など二の次で、ただ目の前にいる少女を助けたいという思いだけ。目の前の少女に手を差し伸ばすのは彼女の為。本能なのか理性なのかは分らない。そんなものはどうでも良い。ただ助けたいという思いが僕を支配する。
煙の波が押し寄せ僕達を飲み込む。一瞬の浮遊感と熱を感じ、意識が飛ぶ。
どれぐらいの時間意識が飛んでいたのか分らないが、息苦しさに目を覚ます。目を開けた先には、そろそろ見飽きてきた黒い煙が、建物から立ち昇る光景だった。
意識がハッキリしてくる。上を見上げると、もくもくと窓から煙が立ち昇っており、そこが自分達がさっきまでいた場所だと気が付き、緊張が走り握る手に力が入る。手の平に巻いたカーテンをしっかりと掴み、二つ目の結び目の所で落下を止めてくれていた。
「……………………っっ」
いくらか吸い込んだのかしばらく咳き込むと、正常な思考が戻って来てやっと思い出す。
片手は頭より高い位置でカーテンを掴み、もう片方の手は何かを掴んでいる。反対の手の先を見ると、そこには文目が着ていたクリーム色をしたコートだけが、そこにあった。
現実を理解するのに数秒と掛かり、さっと血の気が失せ下っ腹に力が入らなくなる。気分が悪くなり吐き気が再び襲ってくる。あの煙の中で人間は生きられない。目の前にいた文目を助けられなかった。そんな死の絶望に頭がクラクラする。繋ぎとめていた意識が再び飛びかけた時、下から声が掛かる。
クラクラとした意識のなか見下ろすと、そこには長い髪をなびかせる文目がいた。
「起きたか。……まったく私のコートだけ助けるなんて薄情にも程があるんじゃないかい? そのコートに私のアイデンティティーがあると思われると悲しくなるね。保険医じゃあるまいし」
「文目!」
目を見開き彼女の姿を捉える。僕よりも下にぶら下がる文目は普段どおりの軽口で無事を告げる。
「……うぐっ…………保険医のアイデンティティーが白衣だけって全国の保険医が怒り出すよ!」
僕は涙を浮かべ鼻をすすり、嗚咽しながらツッコミを入れる。変わらないやり取りに安堵し、全身に力が戻ってくる。
「それはそれとして、あまり長く持たないから急ごう」
文目のコートで涙を拭いて、全身に力を入れる。
「アイアイサー」
感動してる暇はない。カーテンの強度が人二人分を支えられる分けがないからだ。急ぎカーテンを降りていくと、鍔付きキャップの姿が見える。
「揺らすよ」
僕の言葉を訊く前に、文目は体を揺らし始めていた。
「協っ調っ性ってっしらっないっの!」
息は荒く気分が悪い。下っ腹に沈殿する吐き気は変わらず残り、頭の痛みも最高潮だった。
「今は割りとどうでも良い事だよっ!」
揺れに合わせて共に飛び降りる。高さは大体二階の少し下辺りから、一階の渡り廊下までの2.3メートル。たいした距離でもないのに一世一代の大ジャンプ。そんな気分で地面に背中から落ちる。続く文目は鍔付きキャップが上手くキャッチする事ができたようだ。
「急げっ」
痛み喘いだり、安堵している暇はなかった。ここは一階渡り廊下の屋根。妙な暑さを感じるのは炎が足元をもやしているせいだった。炎は窓から噴出し僕達をも燃やそうと赤い手を伸ばしてくる。
文目の声に立ち上る黒い煙のカーテンを突き抜ける。煙のせいで地面までの距離感が分らなかった僕は、足から着地する事が出来たが勢いが付きすぎたせいか、そのまま前転してごろごろと転がりながら建物から離れた。
やっと地面。恋焦がれたコンクリートで舗装された地面。転がり終えた僕はそのまま冷たい地面に突っ伏し息を整える。
頭の痛みは耐えられる限界ギリギリの痛みで、叫べば多少は痛みが引くかもしれないと、根拠の無い方法を試してみる。
「あぁぁぁぁああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁああ!!!」
「頭を打って可笑しくなったか、それとも酸欠で幻覚が見えているか」
「元気ですから!! 全然大丈夫ですから哀れんだ目で哀れみの言葉を掛けるのはやめて!!」
文目は浄水場を囲う鉄柵にもたれかかり、そのまま転がり込むようにへたり込んでいた。
「私は流石に心身ともに疲れたよ」
すすだらけの文目は、燃え盛る廃墟を見上げ、生暖かい風に髪を揺らしながら瞳を閉じた。その横では鍔付きキャップが四つんばいになってぜーぜーと息を荒くしている。
「た、助かった……」
搾り出すような声を上げ、生還に喜び震えているようだ。
絶望的な状況から全員無事脱出。ミッションクリア。万々歳。諸手を上げて喜ぶ気力は一滴たりとも残っては居なかった。全員疲れ黙り込み、ぼんやりと燃え盛る廃墟を見上げる。サイレンの音はすぐ近くで鳴っており、消防隊員がホースを構えて燃え盛る廃墟に水を撒く。
数人の隊員がこちらに気が付いたらしく、声と共にこちらにやってくる。
僕の意識はその足音で途絶えた。
僕は酸素が足りず、酸欠状態になって意識が途絶えたそうだ。目が覚めたのは見覚えのある病院の一室で、迎えに来た叔母夫婦には申し訳ない気持ちで何度も謝り、無事でなによりだと抱擁してもらった。
その後警察に事情調書された際、鍔付きキャップの事を話すか迷い、焦った僕は「この街が好きで、街全体が見渡せるあの廃墟には頻繁に通っていた」と、云う事になりこっぴどく叱られる破目となった。
放火は文目と僕の推理通りガソリンのタンクがいくつも見つかり、更に機械仕掛けの発火装置まで見つかった事で放火魔の存在が浮上し、警察は調査に乗り出すそうだ。
念の為一泊する事になり、一緒に運び込まれたはずの文目と鍔付きキャップが居ない事に気が付いたのは翌日退院する時だった。
結局別れの挨拶も出来ぬままだったが、鳳を受験すると話していたのを思い出し、早く一ヶ月が経たないか、そんなふうに受験日を心待ちにするようになった。
だが数週間後、あるものを見つけ愕然とする事となる。それはある人物についての新聞記事だった。




