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キミはダレ?  作者: あいあい
その、黒髪の少女の名は
4/9

1-3

今更ですが


北斗→あの男、この男

文目→彼

一人称文→鍔付きキャップ


全員同じ人です。差別化って難しい……。


 3




 足下はふら付き心臓は早鐘を打つ。チリチリとした頭痛に顔をしかめる。

 血が上ってるのか下ってるのか分らないけど、ぐわんぐわんと全身が痺れた様な感覚に襲われ、日頃の運動の大切さを改めて理解した。

 そんな弾む荒い息を静めるように、歩みを緩める五階渡り廊下。

 階段沿いの各踊り場に窓が設置されていて、これまでは外から入る月明かりのお陰でなんとか歩く事が出来たが、建物の中腹となると窓は殆どなく、薄っすらと建物の輪郭が分る程度の照度しかなかった。

 そのぼんやりとした照度はどこから来るのか視線をずらしていくと、そこには開け放たれている扉がぼんやりと見える。

 眼が徐々に慣れてくると、周囲の形が見えてくる。防火扉の前には三部屋並んであるようで、そのどれもが扉を開けられた状態で部屋の中から明りが漏れ出てきていた。

 一番手前の部屋を覗き込むと、向かい側には風に揺らめく薄汚れたカーテンと、割られて風通しの良くなった窓の枠だけがあった。

 外からは浄水場を照らす照明の光がこちらにも差し込んできていた。差し込むと云っても、浄水場は外から見て二階建て程しか高さはないので、その照明もせいぜい三.四階程の高さしかない。なので間接照明程度の明りしか部屋には差し込んでこないようだ。

 ここは一階や二階とは違う雰囲気のする部屋だった。一.二階はどちらかと云うと、どこぞの企業の社内と云った内装だったのだが、この部屋は横に長く両壁には等間隔にプラグ受け、所謂コンセントの差込口が、僕の胸の高さぐらいの、一般的に見てかなり高い位置と、一般的な床に近い位置に設置されていた。

 他にもボタンらしき物が同じ様に等間隔で設置されており、それに若干の見覚えがあった。

「病室」

 部屋を覗き込む僕の横で、文目も同じ様に両壁の差込口を見てそう云う。

 同意見。本来ここにはベットが三つ四つと両脇に並べられ、点滴や医療機器等のコンセントが、あの高い位置にある差込口に差し込まれていたんだろう。 

 僕は検査入院で何度か小児科病棟に泊まったことがあり、手術する患者はベットごと移動させられので、病室の一角がぽっかりと空く光景を何度か見たことがあった。

 それが今見ている三口の差込口とダブって見えたのだ。

「本当にここ、どんな施設なんだか……」

 もしかすると噂されている内容が全部詰まってるんじゃないだろうか。だとすると、まだ見ぬ西棟は学校施設か何かということになる。会社に病院に学校。こんな車も中々入ってこられないような山の頂上に、そんな複合施設を立てたとしてどれだけの利用者がいるんだか。利便性を完全に無視した立地ではそう多くもないだろうな。


「なんにしても、探索をしている暇はもうないようだね」

 いつの間にか部屋の窓際まで移動していた文目は、口元にハンカチを押し当てて云う。途端に焦げ臭さを感じ、すぐさま僕も口元を手袋をはめた手で覆う。暗闇でよく見えないが、既に煙は直ぐ近くまで来ているようだ。意識すると、眼や喉も少し痛みを訴えている事に気がつく。

「煙はもう直東棟を飲み込むだろうね。さっきの爆発のせいで火の回りが速くなんったんだろう」

 そう云いながら戻ってきた文目に、再度繋ぎ直された手を引かれ、少し進んだ先には廊下を完全に塞いでいる無骨な鉄の扉が暗闇から浮き上がってきた。

 この薄暗闇だったら眼を慣らした方が見やすいと思い、携帯のライトを使わないで来たが、人の出入りが出来る扉を探す為、ハイライトを一旦点けて扉にむける。一瞬目の前がホワイトアウトするが直ぐに慣れ、目の前に見慣れた落書きが現れる。

 色々な絵や文字が重なり合い、一番最後に重ねたそれは、赤い着色スプレーで「Go to Hell」と書かれていた。字体から見て多分屋上の扉に落書きした奴と同一人物だろう。書いた本人は勿論冗談だろうが、今の僕達の状況から云って洒落にならない文字だ。

 ひんやりとする鉄扉をさすりながらハイライトで中戸を探し、程なくして悪戯書きで迷彩された扉を見つけた。

 直ぐにでも扉を開けて向こう側に行きたい。行きたいのだが行きたくない。

 今僕達が立っている場所は、渡り廊下の半分ぐらいだろうか。ここまでに明りは部屋から漏れる極小の光だけ。それは防火扉の向こう側も同じだろう。

 さて、ここで問題になるのは、向こう側で眼を慣らした鍔付きキャップが待ち伏せしているかどうかだ。もし待ち伏せしていたとして、扉を潜った瞬間ブスリ、なんて展開は容易に想像が出来る。


 明りを点けていたらここに居るぞと相手に知らせる様なものだ。ハイライトを消すとまた辺りに暗闇が戻る。もしもの場合を考えて、僕達も眼を慣らしていた方が良いだろう。

「僕が先に行く」

 そう短く呟き扉に手を掛けると、反対の握られた手が僕を止める。

「命を掛ける程のリスクを背負い込むのは善人ではあるが、馬鹿でもある」

 ――違いないけど。

「文目だって大概阿呆だと思うよ」

 お互いがお互いを思い合う関係なんて、そう簡単には築けない。今回の発端は僕が自主的に首を突っ込んだ結果だ。でも本来の発端は文目と鍔付きキャップの間にある何かだ。

 僕達はお互いに責任を感じて、お互いに相手の事を考えている。純粋さはないけど、そこに自分の落ち度があるから助け合う。より危険な事から相手を遠ざけ、自分だけで解決しようとする。それが自己犠牲。相手を思い、自身を生贄に差し出す独善的な考えなのは重々承知しているけど、今の僕に出来るのはそれぐらいしかない。

 普通だったら逃げ出す。逃げ出しても文句は云えない。置いて行かれても仕方がない。でも僕達は普通じゃなかった。少なくとも僕は一般的な中学生とは違う、人と距離を置く人生を歩んできた。

 近づかなければ痛くない。関わらなければ問題ない。だから(、、、)。だから、関わってしまった僕はここに居て、我を通す。


 何も考えずに突っ込む程僕は無謀でもない。

 勝算、と云う程の物ではないけれど、現状使えるものを惜しむ必要はない。僕の瞳、感情色の特性を利用すれば、ある程度の暗視効果が期待できる。この暗闇でも文目の輪郭は分り、そのお陰で感情色も少しだけど見えている。

 相手の輪郭さえ捉える事ができれば、何所にいるか、どこに移動しているのかぐらいは見えるだろう。けれど、これを文目にどう伝えれば良いか分らない。出来る限り感情色については誰にも云いたくない。仮に云ったとしても、信じてもらえるとは思えない怪しい話だ。

 それは神の所業に疑問を抱く僕と同じ。ただ怪しい話。文目を神社から引っ張り出した時とは違う、言い訳しようのない状況。


 考え込む僕の手を、文目は自身の方へ引っ張り引き寄せる。

「ななっ、何!?」

 目と鼻の先。それ程顔を近付けてくる文目の表情は、今までのどれとも違う真剣な眼差しだった。

「あの男は私に用があるみたいだからね。キミ(、、)が気を回す必要はない。キミ(、、)が危険を冒す必要もない」

 優しく諭すように、けれど強い意志を持った言葉。名を名乗ってから初めて名前以外で呼称される違和感を感じる。

「大丈夫。キミが考えている程状況は悪くないさ」

 虚勢を張っているふうでもない。その言葉に嘘や偽りの色はなく、文目は事実をそのまま述べていた。


 僕が考えている程、というのは如何程か。今まである意味勢いだけでここまで来た節はある。では、そこに理由を付けるとすると何を思い浮かべるか。

 鍔付きキャップが文目を、あまり考えたくはない話だが「殺したい」と過程しよう。文目を追って来た訳だから、無差別というのは除外して良いだろう。では文目を狙う理由、動機は何か。それは文目の背景を知らなければならない。


「彼は私を殺そうとしている。けれど、私を殺すのは不本意なんだ。出来れば殺したくない。けれど殺さなければならない。そういった理由(ルール)がある以上、暗闇の中で誤って北斗を殺してしまう可能性があるここでは、襲ってくることはないだろう。ターゲットである私だけを必ず殺せる状況でなければ、ね」


 前提が違った。必殺必中。必ず殺す。必ず当てる。そんな状況でなければ襲わない理由は、殺人を快く思ってない証拠。ターゲットである文目以外を殺したくない、むしろ文目も殺したくない。

「殺したい」ではなく「殺さなければならない」つまり嫌々、強制的に、誰かの命令かそれとも何かの強迫観念か。けれどここにも、動機と背景が分らなければ理由が思い浮かばない。

 出来れば殺したくないという心理で最初に思いつくのはまず、誰か、何かを人質に取られた為の行動。つまり、何かしらの犯罪に巻き込まれた結果、仕方なく文目を殺そうとする動機。背景はなくてもその理屈があれば動機も分る。

 他に思いつくのは、本でかじった程度の知識だが強迫性障害という心の病がある。

 これは普通の人なら無視することができる不快感や不安感を、強く長く感じてしまう病の事で、不快な強迫観念を打ち消す為に強迫行為を行う。この強迫行為は他人には普通理解する事ができない様な事が多く、患者自身にとっての意味付けでしかない。

 例えば汚れに対しての強迫観念。

 潔癖症とも云われるが、一般的に認知されている潔癖症は軽度のもので、重度になるとそれこそ自身が感じる色ですら汚れと感じてしまい、真っ白な部屋に塗り替えてしまう事もある。

 そこまでじゃなくても、手に汚れがついただけで全身汲まなく洗いたくなったりと、日常生活に支障を来す事も多々ある。

 つまり、強迫観念に駆られた鍔付きキャップが、人殺しという強迫行為を行っているのではないかという、If(もしも)だ。

 もちろんどちらも推理推論の域を出ることはなく、証拠も証言もないただの、もしも話だ。


「だからこの先に進んだとしても、突然襲われる様な事は……訊いてるかい北斗?」

「文目が狙われる理由って何?」

 唐突な質問に、ぴくりと体を揺らしてわずかに柳眉を逆立てる。一緒に感情色も暗い色へと変わり、その色は小さな怒りと、何かを隠しているようなそんな色。

「随分と余裕があるようだけど、今考える事じゃない」

 確かにその通りだ。今は何より無事に脱出する事を考えなくてはならない。だからこそ――。

「事と次第によれば、あの男を説得できるかもしれないじゃない」

 説得。可能性としては低い賭け事だが、成功すれば考えうる打開策の中で一番の近道となる。命の駆け引きなんかせずに、一緒にこの建物から逃げる事だって出来る。

 文目は眉をハチの字にし、困り顔、と云うよりも哀れみの色を浮かべている。

「こればかりはどうしようもない話さ。彼は火を放ってまで私を殺そうとしている。自分の命を掛けて私を殺そうとする。そこにあるのはシンプルな生存本能さ。食うか食われるか。生か死か」

 不意に視線を宙に投げ、考えるような素振りを見せる。

「そうだな…………私は的なんだよ。私のこの左胸にナイフを突き刺すことが出来れば賞品が貰える的。的には同情しない。欲望のままナイフを突き刺す。自分の命を守る為に突き刺す。人の欲は尽きる事はなく、その最も原始的な欲とは自身の命。生きたいと云う欲なんだよ。他人がどうこう云って諦められる事じゃないよ」

 繋がれた手が震えている事に気が付く。

「的だなんてそんな……」

 そこまで云うと、文目は人差し指を立てて僕を制止させた。

「人にはそれぞれ事情がある。私にもあるし、北斗にもある」

 その人差し指は僕の瞳の前まで持ってくる。途端、ぞくり(、、、)と背筋に寒気を感じ一歩下がった。

「もし人の事情に深入りするのであれば、深入りされる覚悟をした方が良い。それが人との係わり合いというものだよ」

 そこが境界線。これ以上踏み込むのであれば、お互いの傷を見せ合わなければならない。


 僕はそもそも人との関わりをなるべく断って生きてきた。子供心に僕が見る世界が異常だと知り、ひた隠しにしてきた。人の流れをただ傍観し、流れを止めないよう、自分自身流されるまま生きてきた。そんな僕が人との深い関係を築けるかと訊かれれば、土台無理な話だ。

 僕の瞳がどれだけ異常なものか分ってるからこそ、興味本位で近づく事が出来ない。境界線は越えられない。

 深くため息を付き、緊張を解きほぐす。

「オーケー分った。分りました」

 僕は繋いでない手を挙げ降参を告げた。

 文目の後ろにある背景がどんなモノか僕は知らないけれど、逆に僕の瞳について文目は知らない。お互い解決策を考えるが、そこには自分の事情と相手の事情を話合わなければ、譲歩すらできない。結局どちらかが折れない限りは平行線。折れる条件は――。

「信じるよ」

 結局はそこ。文目の云う事情が本当であるなら、説得は難しいし、暗闇の中で襲われることはないだろう。そして嘘か真かは感情色が示してくれていた。

 緊張と共に肩の力も抜くと、無意識に繋いでた手にも力が入っていた事に気が付く。それを文目は、答えるように、自分の弱さを押さえつけるかのように、強く握り返していた。

「お互い詮索はなし。今ある現状の打破に勤しむ事」

「私はそもそも最初からそう云っていたんだがね」

「スミマセンデシタ」

「誠意のない謝罪はただの言葉の羅列でしかないよまったく」

 やれやれと云った感じに肩をすくめ、見せる表情は柔らかかった。


「行こうか」

 中戸のドアノブに手をかけこちらを振り返る。

 何を云っても僕は招かれざる客(ゲスト)でしかない。ここにあるのは文目と鍔付きキャップの事情だけ。自分から巻き込まれに来て引っ掻き回して、大事な所には足を踏み入れる事はできない。そんなのはもう、ただの邪魔者でしかない。邪魔者は邪魔者らしく、邪魔にならないよう邪魔をしない。

 ゆっくりと音を立てないように扉を押して開けるが、それでも不快な錆びた音を立ててしまう。

 ノブを握る手に力が入ってるのか、反対の繋いだ手も一緒に強くなぎられる。我を通した割には緊張しているようだ。

 開かれた扉の先は予想通りの暗闇だった。今来た廊下よりも更に濃厚な暗闇。多分こちら側にも病室らしき部屋が並んでいるんだろうけど、その扉が閉まっているせいだろう。

 そんな何も見えない暗闇の中、数十メートル先にぽっかりと一箇所だけ明りが差し込んでいた。廊下の壁には二つ並んだ長方形の窓があり、そこから差し込む月明かりは、階段の窓から差し込む光よりも明るく感じられた。

 若干の安堵とともに、周囲の暗闇に警戒する。

 周りから聞こえる音は、外のサイレンであまり聞き取る事ができない。既に緊急車両達は到着しているのか、それともまだ浄水場内を走っているのか。それでも音の近さから、もう間もなく消化活動が始まるだろう。

 音は掻き消え、鼻は焦げ臭さ以外何も感じない。感情色は見えず、ただ一点を覗いて暗闇が広がっている。目と耳と鼻が死に、残る感知能力では周囲の状況を確認する事は難しい。

 強く握られた手だけが、唯一お互いを感じる事ができる。

 感覚を研ぎ澄まし、ヨタヨタ歩きではあるが一歩一歩確実に前に進み、進む毎に緊張が増していく。

 殴り合いの喧嘩なんか一度としてやった事はないが、握りこぶしを作って、少年漫画に出てくるボクサーの構えを真似てみる。


 胸ポケットに小さな冷たさを感じる。

 ――一人だったら(、、、、、、)何とかなるだろう(、、、、、、、)けど、文目の前では……他人(、、)の前ではどうしようもない。


 ジリジリと進み、あと数歩で光の範囲内に入ると云うところで文目は足を止めた。

 この状況で足を止める理由は一つしかないだろう。僕は文目の横に並び、明りの先をじっと凝視する。手前の光のせいで眼は慣れる事はなく、先の暗闇は一層濃くなり見ることが出来ない。だが、そこに佇む男は(、、、、)一歩、光の範囲内に踏み出してきた。

 途端、感情色が表れ始める。

 シアン色。それは神社で見た鍔付きキャップと同じ色。そして神社で見た時よりも彩度が上がった色。興奮と焦りにより感情が昂った状態だと分る。

 帽子を脱ぎ捨てた男はまた一歩、光の範囲内へと出ると、ぼんやりとした輪郭が確かな輪郭へと変わる。もう一歩前に出ると表情も薄っすらと見えてくる。

 瞳は限界まで開かれ、頬のシワを寄せ、口元は歯を食いしばる様に見せている。白い手袋に握られ突き出すように構えるそれは、果物ナイフではなくバタフライナイフ。

 一見笑っている様にも見えるその顔は、狂気と殺意に支配された男の顔。それはまるで鬼の様だった。

「……まえ……」

 直ぐ近くまでやってきているサイレンでかき消される。

「……せば」

 文目は手を放し、尚も握る僕の手を振り解く。

「お前を殺せばぁぁぁぁぁぁぁぁ」

 鬼は涙を流しながら走り始める。悲しみ、悔しさ、怒り、混ざり合う感情を振り払いながら、鬼はナイフを突き出し突進してくる。

 ――素人だ(、、、)

 目の前の危機に対して今度はとても冷静だった。神社の時の咄嗟の行動は、云わば自己防衛本能が働いたせいだ。逃げればなんとかなる。隠れれば通り過ぎる。そう感じたからこそ、理性と本能の不一致(、、、)による混乱が起きた。けれど目の前にある状況からは逃げ出せない。ただ進むしか道はない。防衛本能は押さえつけられ、僕の理性(、、)が冷静さを求めてくる。

 走り出す鬼は、両手で握ったナイフを前方に突き出し、顔はその両手の間に埋める。殺す相手の顔を見ないように、自分の心が傷つかないよう防衛本能が働いたのだろう。けれど、前を見ないで突進する相手なら、僕でも避けられる。

 そう構えに対して判断した瞬間、いつの間にかニット帽を脱いだ文目は、流れる髪を振りながら、答えるように走り出した。僕は引き止めるよう手を伸ばすが数センチ届かない。

「なっ!?」

 その時気が付く。文目の周りを漂う感情色は、赤から青へ(、、、、)反転(、、)している事に。

 文目を覆う青、立ち上る赤。風になびくことなく一緒に寄り添う赤と青。反転が意味する事を僕は知らない。その現象を見たことがない。


 一歩進む毎に加速を増し、二歩進む毎に姿勢を低く取り、三歩進む毎に相手とのタイミングを計る。月明かりの額縁の中、ぶつかり合う男と少女。

 小女は若干前のめりの姿勢のまま軸足を横に取り、自分の腰よりも高く、折り曲げた足を上げ、バネのように膝を伸ばす。突き出されたナイフの先っぽを蹴り飛ばし、振り切った蹴り足を地に付け、遠心力を残したまま相手に背を向ける。

 男はナイフを蹴り飛ばされた衝撃で、突き出していた腕を下げて、ほんの少し顔を上げてしまう。少女は遠心力に身を任せ、流れるように反対の足のかかとを、自分の身長よりも高い男の顎先にかすめる様に叩き込む。

 それが後ろ回し蹴りだと分った時には既に、男は前のめりに崩れ落ちていた。

 一秒と掛からない一瞬の攻防。たった二度の正確な蹴り。ナイフを蹴り飛ばし、相手の顎に後ろ回し蹴りを入れるまでの速さは、常人のレベルではなかった。

「……す、凄い」

 回転する体に合わせ、サラサラと流れ落ちる黒髪。月明かりを浴びる少女は青色に包まれ、それは神秘的な輝きを放っているように見えた。

 喉を鳴らすと、視線をゆっくりとこちらに向けてくる。そこに居る少女は、今まで一緒に逃げ回っていた少女とは違う、何か別の、得体の知れない存在のような気がした。


「北斗?」

 その言葉にはっとし、瞬きをすると、そこには文目がこちらに視線を投げていた。

 感情色は、また赤が文目の周りを取り巻き、青が湯気のように立ち上る。

 ――元に戻った? そもそも「元」って……。

 思考の限界は早かった。何もかもが始めての現象であるのだから、分る事など何一つない。証拠どころかヒントもなければ謎解きは難しい。僕にしか見えないそれは実際に起きた現象と怪異。正解なんてものはないが、一つだけ云える事がある。彼女、文目は普通の少女ではない。それだけは理解できた。

「北斗」

 もう一度僕を呼ぶ文目は、しゃがみ込んで男を仰向けにしようとしていた。何してるんだと近づいて手伝う。近くで見る文目は特に変わった様子は、やっぱりなかった。


 ごろりとひっくり返された男は、一見して50代前半のおじいさんとも取れる男性だった。頬は削げ落ち眼は窪み、眼の下に濃いくまができている。脱げた帽子が隠していたのは殆どが白髪となった薄い髪で、分り易く云えば酷い顔だ。

 文目は何かに気が付いたのか、鼻を引く付かせて男の匂いを嗅ぎ始める。

「な、なにしてるの?」

「別に体臭フェチというわけじゃないさ。北斗も嗅いでごらんよ」

 ――中年男性の匂いを嗅げと仰いますかこの人。

 何が悲しくて男が男の匂いを嗅がなければならないと云うのだ。ハードプレイにも程がある。そう思う僕をよそに、文目は男の手の匂いまで嗅ぎ始めていた。

 ため息の一つも出るという話だ。仕方なく文目に習って、なるべく顔を近付けないように男の匂いを嗅いで見る。そしてすぐさま顔を背ける。男から漂う匂いは二種類。両方共匂いに覚えがあるが、片方の匂いが何なのか、何所で嗅いだのか、数秒掛けて思い出す。

「ガソリン……かな?」

 少々酸っぱい汗の匂いと、薄っすらと漂うガソリンの匂いだった。酸っぱい方は男の体臭だろうが、人間の体臭でガソリン臭いと云うのは流石にないだろう。

「もしかして、さっきの爆発ってガソリン?」

 文目が嗅いでいた手の方も嗅いでみるが、体全体と同じ様に薄っすらと漂うガソリンの匂いがした。寧ろ汗臭さがない分、純粋にガソリンの匂いだけがする。


「推理小説なんかで灯油を撒いて直ぐに火を点けるシーンがあるけど、あれはフィクションだよ。灯油自体に火が点くわけではなく、灯油がゆっくりと気化していき、その気化した蒸気が燃えるんだよ」

「……そういえば、灯油を撒いて擦ったマッチ放ってもマッチの火が消えるだけって、どこかで訊いた事ある」

「そう。液体に触れた火は自然現象に則って消えてしまう。ではガソリンの場合どうなると思う?」

 そう云い残し、文目は携帯のハイライトを付け、目に留まった部屋に入っていった。

 追いかけようかと中腰になるが、文目は手に何かを持って直ぐに戻ってきた。

「カーテン?」

 元はクリーム色だったろうカーテンは、月日の経過に茶色に変色し穴もいくつか開いていた。その数枚のカーテンを文目は縛り始めた。

「続き。ガソリンは外気に触れると、気化が物凄い速さで始まってしまうんだ。そこでマッチの一本でも擦ったらその場でドカン。一瞬で火は連鎖し気化したガソリンと空気を燃やし尽くす。窓のない部屋にガソリンを撒いて長時間放っておき、後は火花を起こせば部屋は木っ端微塵にできるよ」

「何その犯罪知識!?」

「つまりね」

 ニット帽を脱いだ文目は、髪の毛のカーテンで表情が見えない。

「彼じゃないんだよ」


「んん? 彼じゃないって……神社から追ってきた人はこの人だよ?」

 感情色は指紋のように全く同じ色と云うのはない。人それぞれ大なり小なりの違いがある。ただ僕には、その小なりの違いに気が付かない事は間々ある。それこそ純粋な赤色に0.1ミリの白色絵の具を混ぜた程度の変化は見分けが付かないし、そこまで似た色の人が同じ場所にいる方が稀だ。

 つまり、鍔付きキャップのシアン色と似た色の人が、偶然僕達を追いかけてきたとは考え難い。

「背格好から見て、確かに彼が追ってきた男だろうね。でも、彼はガソリンを持って私達を追ってきていたかい?」

 髪を掻き揚げる文目は、眼を見開き口元に笑みを携え、赤い感情色に輝きが灯る。

「ここは車が入ってこれない場所だ。そしてここを選んだのは私。偶然入った廃墟に偶然ガソリンを隠していた、何て事はまずないだろう。だが彼はこうしてこの場にいる。屋上の鍵が開いていようが開いていまいが、私達が結局ここに来る事が分っていた」

「見られていた?」

 坂の上から街を一望している時、確かに坂の下に人影を確認している。

「問題なのは彼がこの場に居て、ガソリンの匂いを漂わせている事だよ」

「……おかしい点はないと思うけど? ガソリンの入手経路は保留するとして、僕達が入ってきた入り口にこの男がガソリンを撒いて放火、その後別の入り口から入って待ち伏せ。これなら道理が通るよ?」

 匂いがすると云う事は、つまり東棟の入り口にガソリンを撒いたのは、この鍔付きキャップだと考えるのが道理だろう。

「ここで待ち伏せしていたと云う事は、この廃墟に詳しいと仮定できる。屋上の鍵も確認していたと仮定して、ガソリンもこの建物に隠していたと仮定して、そこまで準備されたこの場で、何故彼は手袋をしているんだい?」

 ――手袋? この寒い中手袋ぐらいしていてもおかしくはない。

 自分の手袋に視線を落とす。

 逆に手袋をしていてはおかしい状況……精密な、手先の感覚が必要な時は手袋を外す。携帯電話を使う時なんかも手袋を外すし、あと外す必要があるのは……汚れたり水に触れる時…………!

「ガソリンか!」

「仮定の中での狡猾な彼は、ガソリンに火を付けるのに何故手袋をしているのか。さっきも云った通りガソリンは引火しやすい。フロア内にガソリンを撒いたのなら、手袋や靴などに飛まつする可能性が高い。そんな状況で火を放てば手袋に引火してしまう。それに手袋を外していたとしても、体から漂う匂いはもっと濃くなければおかしいんだよ」

 確かに、この男から漂う匂いは、ガソリンが撒かれ気化した部屋を通り抜けた程度の、微かな匂いしかついていない。

 この薄暗い廃墟の中を歩いてきたんだ、ガソリンの水溜りに気が付かずに通ってきた可能性もある。靴に付着したガソリンは気化して、蒸気は上へと上る。この場で待ち伏せていたとしても、靴から蒸気しているのであれば、体に匂いが付くのも頷ける。

「……つまり」

「放火は別人の可能性がある」

 喉を鳴らす。

「…………別の、誰か」

 自分の言葉にしてやっと、文目の言葉を理解した。

[意味]


GOt o Hell :地獄へ


ボクサー :はじめの一歩


光の範囲 :光の直接当たっている場所ではなく、光が当たっている場所の先にあるボンヤリとした部分の事。力量不足でスミマセン。


文目の動き :空手の動きとダンサーの動きを参考にしました。着地の動き以外はダンサーの動きと空手の動きは、動きから体重移動までほぼ一緒だったので。


灯油とガソリン :灯油が燃える為には芯か燃焼促進剤がなければ簡単には着火しません。文章内でも語られてますが、灯油もガソリンも液体自体は燃えることはなく、気化した蒸気が燃えます。


色の違いについて :マンセル表色系やPCCS参照

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