プロローグ 逃走
――どこで選択肢を間違えたのだろうか?
一月の夜はまだまだ寒さが激しい。けれど、手袋やらマフラーやら、厚着をした上からダッフルコートを羽織って階段を駆け上ると、流石に背中からはじわりと汗が吹き出る。受験生としては寒空の下、汗をそのままにしたくはないけど、今は緊急事態という事もあり無視せざるを得ない。
息は乱れ心臓が痛い。九月にあった体育祭以降、運動らしい運動をしない生活を送ってきたツケが今更回ってきたのだろう。足は縺れ、数センチの階段も上がるのが億劫になる。
けれど歩みを止めてはならない。止められない。僕の前で髪を振り回しながら階段を駆け上がる少女。最初に手を引いたのは僕なのに、いつの間にか彼女は僕の手を引いていた。
貸したニット帽をかぶって髪を纏めてはいるが、靴に掛かる程の長い黒髪は、後を追う僕の鼻先を何度もかすめては、女子特有の良い香りを漂わせてくる。繋がれた手にも何度となく髪の毛が絡まってくるが、髪質がとても柔らかく、解けては絡まるの繰り返しだった。
夜の廃屋を照らしてくれるのは月光のみ。暗闇に目が慣れてきたとはいえ、崩れかけているコンクリートに足を取られそうになる。
「うおっとと」
瓦礫を踏みつけて体が横に倒れかけるも、その気配を感じてか彼女は速度を落として腕を引っ張り上げてくれる。
最短の道を最小の動きで最低限の気遣いをしながら、僕を引っ張り続けてくれる。上へ上へと上り続ける。上へ行ったところで、逃げ道がなくなるのは分っているけど、下に行けば確実な死が待っているのなら、不確実でも上へと避難する。火事に遭遇すれば大抵の人は同じ行動を取るだろう。
割れた窓からは熱風がうねりを上げて頬を焼く。むき出しのコンクリートのお陰で、火の手は直にはやってこないだろうけど、もたもたぐずぐずしていれば、火が来る前に煙に巻かれてしまう。
パキパキと散乱する窓ガラスを踏みながら、最後の階段を上りきる。
彼女は僕から手を放す。また少しだけ名残惜しさを感じながらも、今は目の前の扉を注目すべきだ。スチール製の青い扉には、白い着色スプレーで「Go to Heaven」と書かれていた。
彼女は一呼吸おいて屋上に続く扉に手を掛ける。ドアノブを回すとギギッと錆び付いた甲高い悲鳴をあげ、続いてガンッと鉄と鉄のぶつかる鈍い音が訊こえてきた。
その音が何を意味するのか瞬時に理解した僕は、絶望を隠すことが出来なかった。
「鍵が……」
整わない息の中、我ながら情けないと思う程か細い声で悲痛の叫びを上げる。
二階から六階へ全速力で駆け上がった代償。心臓の痛み、太ももはパンパンで歩くのも嫌になる。吐き出し続ける息のせいか、情けない悲鳴には絶望感が二割り増し程上乗せされていた。
どこに向けていいのか分らない不安と、命の危機への焦り。どうして鍵が開いてないんだという理不尽な怒りがこみ上げてくる。
屋上に出れたところで助かるか分らないけど、ここが開けば助かるのではないか。いいや助かる。そんな蜃気楼のような思いが思考を麻痺させる。
苛立ちに駆られて扉を乱暴に叩く。とその時、
「これはどうにも無理なようだ。ほら、次へ行くよ」
一緒に階段を駆け上って来たはずなのに既に息を整え終えた彼女は、呑気なのか、この状況を楽観視しているのか、焦りも不安も一切感じさせないあっさりとした判断を下す。
月明かりに照らされる彼女は、もうじき日本の義務教育を終えようとしている少女には見えない程、凛々しく、鋭く、そして何が楽しいのか、少し偉そうな笑みを携えている。眼光炯々。そんな四字熟語がぴったりの少女だ。
弾む息を抑えながら、彼女の言葉に異議を唱える。
「そんな簡単に諦めないでもっと頑張ろうよ! 最近の流行なんかぶっちぎって、努力根性勝利の法則で苦難を乗り越えようよ!!」
混乱というのは、等しく判断力を低下させてしまう。普段では絶対にありえない嘘にも簡単に騙される。普通では絶対にありえない行動も取ってしまう。本日二度目の混乱状態。
「世の中、全ての努力が必ず報われるのであれば、世界は犯罪者で埋め尽くされて、神が神を名乗れない世の中になるだろうね」
「努力する人が皆悪者みたいに云わないの。努力根性勝利は少年達の憧れであり希望なんだよ。夢は壊さず、そっと飾るのが大人への一歩なんです」
「人は欲深な生き物だよ。夢然り、現実然り。夢を飾るだけならまだしも、幻想ばかり追いかけて命を落すような馬鹿には私はなりたくない。この扉は開かないし、開ける道具も技術もない」
彼女の瞳は一層細く鋭く輝く。鋭い眼差しに僕はたじろぎうな垂れる。
「うぅ……利ばかり求めて愚か者になるなと兼好法師も云ってたね……」
「immortalityなんてのは権力者の言葉だろうさ」
鼻を鳴らし、意地の悪そうな笑みを浮かべて皮肉を言う彼女は、窓の縁に若干残っている窓ガラスをコンクリートの破片で叩き落とし、窓から顔を出して下の様子を伺う。下の確認に続いて左右の確認。左見て右見て、また左見て直に顔を引っ込める。
「――にぎゃっ!」
悲鳴なんてそうそう上げないので知らなかったが、僕の上げる悲鳴は何とも情けない。
彼女が顔を引っ込めると同時に足元を揺らす衝撃と、ほんの少し遅れてやってくる爆発音。音と振動に驚き階段からすべり落ちそうになったが、とっさに彼女が腕を取ってくれたお陰で助かった。
「あ、ありがと――って今の爆発? 爆弾? ほんっっっとにあの男に何もしてないの!? 人は知らないところで怨みを買うって云うよ?」
「知らない所で怨みを買ったのなら私の知る由もないさ。それに私は何もしてないし何もしてないからこそ、命を狙われることもある」
「あってたまるか!」
「世の中、白と黒だけじゃやっていけない。それぐらいは知ってるだろ?」
――世の中はもっと輝かしい色で表現かる方が、良いと思うよ僕は。
「まぁ、これで正当防衛は成立するけどね」
「おぉ! 呼びますか国家権力! 長いものには巻かれて、太きには飲まれよ!」
「私は警察が嫌いだ」
「……吐いた唾は飲まないように。さっきだって警察呼ぶか相談したじゃん」
「そんな恥知らずになった覚えはないさ。それに、さっきのは北斗の意見に提案しただけ。警察は個人的には面倒なんだよ」
視線は窓の外へと向かう。
「呼ばなくても勝手に来るしね」
街中に響くサイレンの音は、反響しすぎて何台こっちに向かってきているのか分らない。
「北斗も困るだろう?」
確かに受験間近に警察沙汰、それも不法侵入しているのはこっち。放火だってあの男が捕まらなければ僕等のせいにされそうだ。
「どちらにしてもだ。このままここで救助を待っていても必ず無事とは限らない。他に選択肢がないのならいざ知らず、私達にはまだ進める道が残ってる」
「結局僕等は追われて逃げ回る子ネズミか……」
その言葉に彼女は鼻をならしてあざ笑う。
「可愛らしいじゃないか。逃げる以外の選択はなく、その先に待つのはネズミ捕りだけ」
「えーっと……その心は?」
「この建物は、西、東、南の三つの建物に分かれて建てられてる。ここは東棟で、隣の建物に続く渡り廊下で西棟に行くには、三階から下の階にしかないようなんだ」
「なんで知ってるの!?」
「逃げるにも状況把握優先で」
――よく周りを見て歩きましょう。そういえば掲示板見ていたっけか。
「西棟にはもう行けない。ともすれば残る西棟だが、南棟へ続く渡り廊下は五階にあるだ。確か南棟への渡り廊下には防火扉で塞がっていたけれど、あれは緊急避難用に人が通れる作りになっている。屋上が閉まってるこの状況で逃げ道はあそこだけだ。この建物を選んだのは私達だが、もし下の彼がこの建物に詳しいとしたら、さて」
一拍おいて、僕に視線を投げてくる。
「北斗が彼だったらどうする?」
考えたくない話を振ってくる。
「僕だったら、お参りしてさっさと帰って夕食作ってるよ」
「意外に家庭的なんだね」
鼻を鳴らして笑う彼女の真意は容易に想像が付く。全てが仕組まれているとしたら、僕達がどのルートで脱出するかも予想されているだろう。だったらあとはそこで待ち伏せすれば良い話だ。それを分った上で、尚進まなければならない状況。腹を括って歩まなければならない道。
「……ああああっもー! どっちみち進まなきゃ煙に巻かれて北斗くん終了のお知らせになる訳だし、行くしかないのか」
――いつの日も、自分を守れるのは自分だけ。
「気分は最低最悪」
首を突っ込んで余計な事をした自分に自己嫌悪。何も出来ない力不足に罪悪感。
「私は愉しいけどな」
そう云う彼女は、赤い鈍色だったのが、ルビーよりも濃く、丹色よりも鮮やかに、それは炎のような色へと変わっていた。
それを見てため息一つ付く。彼女の言葉は真実だろう。彼女はこんな状況を楽しんでいる。
「楽しそうで何よりです」
「世の中娯楽が多くて困る」
「何事もエンターテイメントですか」
「それが私の人生方針」
――何事も楽しみましょう?
多分選択肢を間違えたんだと思う。どこからかと訊かれれば、最初から。彼女、文目との出会いがそもそもの間違いだったんだと思う。
けれど人は出会わずには居られない。人が人である限り、常に何かと出会い続け、それに意味がある。意味を作り出す。
僕と文目の出会いにどんな意味があるのかは、これからの話。
「それじゃあ行きますか」
そう云って階段を一段下りて手を差し伸べる。
「北斗は中々懲りない男だね」
肩をすくめ、仕方なくといった仕草で差し出した手を取る文目。
「今度はがんばるよ」
その言葉に文目は小さく笑い、僕と肩を並べた。
[意味]
Go to Heaven :天国へ
眼光炯々 :鋭い目付きで物を見る様子。文章内では文目の鋭さを表す。
努力根性勝利 :少年の心得
利ばかり~immortality :兼好法師は徒然草の中で「名利につかはれて、しずかなるいとまなく、一生をくるしむるこそおろかなれ」と云う言葉を記した。これは不死を批判した考えで、文目のimmortalityのくだりは権力者=欲深い者として、欲深な者への皮肉。