第6章 幸せになる世界で
卒業パーティーを前に、どうしても確かめておきたいことがあった。
これ以上、流れに身を任せるだけではだめだ。
怖くても、聞かなければならない。
「クラウド王太子殿下」
人の少ない回廊で声をかけると、彼はすぐに足を止めた。
シンティアが「大事な話があります」と告げると、王太子は一瞬だけ表情を引き締め、静かにうなずく。
「……こちらへ」
導かれるまま、さらに人目の少ない回廊へ進む。
その距離が、近い。
(近い。近すぎる。手、がっつり握られてる……)
逃げ道を塞ぐような立ち位置。
いつもの紳士的な余裕が、今日はどこか危うい。
(あれ? 普段の王太子はどこへ行ったの)
覚悟を決めて、シンティアは口を開いた。
「……私で、本当にいいのですか」
ずっと胸の奥に溜め込んできた言葉だった。
王太子は一瞬、驚いたように目を見開き、次の瞬間、静かにその場にひざまずいた。
「君がいい」
迷いのない声。
「今さら、何を心配している? 幼いころから、私は君だけを見てきた。これからも変わらない」
視線が、真っ直ぐすぎる。
「……不安にさせていたのなら、すまない」
距離が、近い。
囁く声が耳元に落ち、吐息が首筋をかすめる。
びくり、と肩が跳ねた。
(ちょ、近……情報量が多すぎるのだけれど)
心臓が、耳の奥でうるさい。
「……ひとつだけ、お願いがあります」
息を整え、続ける。
「正式な婚約の儀は、卒業後にしてください」
今すべてを確定させるのが、まだ怖かった。
それでも、逃げないための精一杯の選択。
王太子は少し考え、それから穏やかに微笑んだ。
「分かった」
そう言って、シンティアの手を包み込む。
「君の不安ごと、引き受けよう。……ただし」
一瞬、視線が熱を帯びる。
「私の気持ちは、もう分かっているだろう? 決めるのは君だ。
もっとも、君以外の選択肢は、最初から存在しないが」
――待つ、とは言った。
だが、手放すとは言っていない。
その言葉の意味を、シンティアはまだ理解していなかった。
卒業パーティーの夜。
贈られたドレスは、深い青。
王太子の瞳と同じ色だった。
胸元はレースで覆われているのに、首筋とうなじが大胆に露出している。
こんな装いは、初めてだ。
(……どう考えても、危険なのでは)
不意に浮かんだ想像を、首を振って打ち消す。
そして、会場へ。
前室で王太子に気づかれた瞬間、向けられた視線が、甘い。
「……やはり、美しいな。シンティア」
(無になる。今は無になるしかない)
足を踏み入れた瞬間、ざわめきが広がる。
もう、隠しきれない。
ダンスのあと、自然な流れで中庭へエスコートされる。
夜風が、心地よい――はずだった。
次の瞬間、強く抱き寄せられる。
「……ずっと、耐えていた」
耳元で囁かれ、思考が止まる。
「王太子として、君を尊重すると決めていた。
だが……そのドレスを見た瞬間、理性が追いつかなくなった」
声が低い。
「君は……魅力的すぎる。小さいころから、私を試すような目をしていたのに、本当は素直で、愛らしい」
顎に手を添えられる。
「隠しているつもりだったのか?」
――危険。
危険察知が、これ以上ないほど明確に警鐘を鳴らす。
顔が近づく。
キスは一瞬だった。
けれど、熱を残すには十分すぎた。
シンティアは半ば逃げるように、その場を離れた。
その夜、夢に女神が現れた。
告げられたのは、すべての答え。
この世界は、乙女ゲームではないこと。
似ているが、まったく別の世界であること。
シンティアが生き延びたのは、幸せになるためだったこと。
危険察知は、そのための祝福であること。
目が覚めたとき、深く息を吐いた。
(……なるほど)
だから、ここまで逃げても無駄だったのか。
翌日から、能力は妙な方向で本領を発揮し始めた。
主に――王太子に対して。
距離が近い。
視線が熱い。
腕を取られそうになる。
――危険。
――非常に危険。
シンティアは心に決めた。
卒業後、婚約者にはなったものの、王太子妃の教育に忙しいとして全力で逃げる。
だが、その決意はやはり数年間だけで。その抵抗さえ、王太子はどこか楽しんでいるようだった。
気がつけば数年後。
ウェディングドレスに身を包み、静かに涙を流している自分がいた。
(……おかしい)
乙女ゲームに、こんなエンディングはなかったはずだ。
それでも。
これが、シンティアが幸せになるための世界なのだとしたら。
内心で泣きながら、彼女は覚悟を決めた。




