第十一話『落日の庭、巫女たちの祈り』
沈黙が、霧の中に満ちていた。
タキタは動かなかった。ただ、俺たちと、声の聞こえた方向を、交互に見比べている。
その深いエメラルドの瞳に、確かな動揺が宿っているのは明らかだった。
そこへ、茨の壁がわずかに割れた。
隙間から、小さな影が飛び出してくる。
「翔一さん!」
アリルだった。
泥だらけの俺たちを見て、一瞬だけ安堵の表情を浮かべ、すぐにタキタのほうへ向き直った。
その小さな背中には、包帯に巻かれた翼が折り畳まれている。
アリルはタキタを正面から、真っ直ぐに見据えた。
「女神さま。この人たちは、贄を探してなんかいません」
「……アリル」
「頼んでもいないのに、僕の翼を治してくれた。誰かを殴ったり脅したりしないで、言葉だけで悪い奴を全部やっつけるのを、僕は自分の目で見てた。だから……だから、僕が自分で、ついていきたいってお願いしたんです」
アリルの声は震えていたが、最後だけは静かに、はっきりと言い切った。
「勘違いしているのは、女神さまのほうです」
タキタは、長い間、何も言わなかった。
その顔から、何かが――確かに――抜け落ちていくのが見えた。
俺は静かに一歩を踏み出した。
「……俺たちは、この子に頼まれたわけじゃない。翼を治したのも、ついてきていいと言ったのも、俺が勝手に決めた。それだけだ」
タキタはまだ動かなかった。
だが、ゆっくりと、かざした手が下りていった。
地響きもなく、音もなく。茨の壁が、静かに地面へと沈んでいく。
「……中へ。話を聞きましょう」
***
タキタに先導され、一行は洞窟の深部へと進んだ。
足元は乾いた岩盤に変わり、頭上の天井は低くなっていく。松明の光が届く範囲で、左右の壁面には苔と水の跡だけがある。生活の気配はない。どこにでもある、ただの洞窟だ。
百メートル(百メイル)ほど進んだところで、通路が途切れた。
行き止まりだった。
岩壁の手前に、縦に口を開けた穴がある。
のぞき込んだ瞬間、俺は思わず後ずさった。
(……深い)
タキタから渡された『常夜灯の杖』をかざしても、底が見えない。先端の結晶から放たれる白い光ですら飲み込むような、完全な暗闇の穴だ。吸い込まれるような黒さに、本能が警告を鳴らす。
「……これ以上は無理だろ」
ガルムが眉をひそめた。
アリルが穴の縁から顔をそらし、俺の袖をつかんだ。
タキタは何も言わず、ただ穴の前へ進み出た。
そして、そのまま、踏み出した。
「っ……!」
リンネアが悲鳴を上げかけた次の瞬間。
タキタの足は、虚空の上に乗っていた。
いや、違う。
穴が、消えていた。
目の前には、洞窟の通路がそのまま続いている。何もなかったかのように、岩盤の床が先へ先へと伸びている。竪穴は、端から存在しなかった。
(幻影術か)
「五百年間、ここに踏み込もうとした者はいませんでした」
タキタは振り返りもせず、先を歩き続ける。
「最後まで進もうとした者が一人だけいましたが……竪穴の縁で腰を抜かして、這って戻っていきました」
それ以上の説明はなかった。
俺たちは黙って続いた。
通路はさらに奥へ続く。空気が少しずつ変わっていく。湿った岩の匂いが薄れ、代わりにどこか草のような、外の風に似た気配が混じり始めた。
そして。
光が見えた。
最初は針の穴ほどだった。それが少しずつ大きくなっていき、やがて出口の形をとった。俺たちは光の中へと踏み出した。
最初に感じたのは、「風」だった。
温かい。
空の広い、本物の風だ。
目が慣れるまで少し時間がかかった。それから俺は、自分が立っている場所の全体を見渡した。
(……なんだ、ここは)
四方を、切り立った崖が囲んでいた。崖の高さは途方もない。上の縁を見上げると、空が細い帯のように見えるほどだ。まるでこの一帯だけが地面ごと沈み込んだような、奇妙な窪地だった。
だが、閉塞感はなかった。
窪地の底は意外なほど広く、なだらかな丘が幾つも連なっている。日が高く差し込み、草が青く茂り、遠くに畑の区画が見える。水音がした。崖の割れ目から湧き出た細い流れが、丘のあいだを縫って走っていた。
木造と石造りを組み合わせた小さな家々が、丘の斜面に点在している。路地があり、物干し竿があり、鶏のような鳴き声が聞こえた。
(……これは、街だ。生きた、本物の街だ)
俺は立ち尽くした。
ガルムも、アリルも、声を失っている。三人とも、ただこの光景を前にして、次の言葉が出てこなかった。
リンネアだけが、違う意味で固まっていた。
人がいた。
縁台に腰かけて糸を紡ぐ老婆の背中には、蝉のような透明な翅が畳まれていた。子供を背負いながら洗濯物を干す女の腕は、肘から先が鳥のそれだ。
路地を走り回っている子供たちは、角があったり、尻尾があったりと様々だ。その中には、一見すると何の特徴もない子供も混じっている。ここで生まれた普通の弟妹か、あるいは服の下に何かを隠しているのか。だが、そんなことは関係ないと言わんばかりに、彼らは肩を並べて一緒に駆けていた。
魚のような鱗を顎に持つ大人が通り過ぎる。この街の誰もが、怯えた顔をしていない。追われる様子もない。誰かに監視されている気配もない。
ただ、生活していた。
(……こいつらが、先祖返りか)
俺には、それ以上のことはわからなかった。
だがリンネアには、見えているものがあったのだろう。
「……こんな場所があったんですか」
リンネアの声は、泣きそうなほど平静だった。
「迫害も、隠れることも、なく……普通に」
「私が間に合った者たちは、全員」
タキタは静かに頷いた。ただ、目だけが少し遠くを見ていた。
「……間に合わなかった巫女たちは、里の外れに眠っています。あの洞窟で息を引き取った者たちも、私が連れ帰り、埋葬しました」
誰も言葉を返せなかった。
***
里の中心に、古い東屋があった。
四本の柱が支える簡素な屋根の下に、石造りの卓と長椅子が置かれている。落日の光が霧の狭間を縫って差し込み、石畳を橙色に染めていた。
タキタが茶に似た温かい飲み物を四つ並べた。
俺とリンネアが向かい側に座る。ガルムはアリルを連れて里の外縁の見回りに出た。タキタがそれを望んでいるように、俺には見えた。
「……どこから話しましょうか」
タキタはゆっくりと湯呑みを持ち上げ、目を伏せた。
「昔、私も代弁士でした。八百年ほど前のことです」
俺は黙って続きを待った。
「当時の代弁士は今と違いました。竜人と各種族の『橋渡し』として、巫女を守りながら対話を繋ぐ。それが我々の誇りでした。巫女は命を削られるのではなく、竜人の言葉を受け止め、翻訳する。儀式ではなく、対話だったのです」
「……それが変わったのはいつですか」
リンネアが静かに問う。
「およそ五百年前から、徐々に。竜人への謁見が形骸化し始め、代弁士という職が、巫女を『消費して報酬を得る業者』へと成り下がっていった。それでも私はしばらく信じていました。また元に戻ると」
タキタは一度、言葉を止めた。
「私には相棒がいました。代弁士として未熟だった私を支えてくれた、先祖返りの巫女です。ある日、彼女は私から引き離され、上位の代弁士たちの儀式に連行されました。……竜人の強大な意思を受信する際の魔素負荷を、全てその身に押し付けさせるために。私が駆けつけたとき、彼女はもう、用済みとして洞窟の底に捨てられていました。……精神と肉体を焼かれながら私を呼ぶ声を、今でも覚えています。……間に合いませんでした」
「……竜人は何も言わなかったのか」
俺は静かに湯呑みを置いた。「巫女が使い潰されていることに、気づいていたはずだ」
「気づいていません」
タキタは短く首を振った。
「代弁士たちは、巫女が受信した『声』を自分たちに都合よく解釈して報告していました。『巫女は名誉ある昇華を遂げ、光となって天に還った』と。……儀式の間、巫女に自我はなく、ただの通信機として扱われます。自ら助けを求めることすらできないのです。竜人は神に近い存在ですが、全知全能ではありません。地上の詳細な出来事は、代弁士を通さねば知る由もないのです」
「……それで、正典管理局には訴えたか」
「三度、やりました。四百年前のことです」
タキタは静かに首を振った。
「そのたびに、私が『精神に異常をきたした代弁士』として記録されました。調査は握り潰され、告発は証拠不十分として棄却された。三度目の後、私の代弁士資格は剥奪されました」
リンネアが息を呑む音がした。
俺は感情を顔に出さなかった。ただ、静かに、はっきりと訊いた。
「……証拠はあるか」
タキタが初めて、わずかに目を見開いた。
「……大半は焼かれました。ですが、私が長年集めてきた記録が、この里の書庫にあります。巫女たちの証言を書き記したもの、洞窟に捨てられた者の名簿、正典管理局が発行した『異常エルフとしての記録書』も含めて」
「それは使える」
俺の言葉に、リンネアが横から目を向けてくる。
タキタはじっと俺を見つめていた。何を考えているのか、その深い瞳の奥は読めない。
***
話が一段落したころ、タキタが立ち上がった。
「……あなたたちが旅をしている理由。獣人の子供のことを、アリルから少し聞きました」
俺は答えなかった。
タキタは答えを待たず、東屋の外へ歩き出した。
「来てください」
案内された先は、里の一角にある薬草園だった。
丹精込めて整えられた畝が並び、見たこともない植物が育てられている。
その中に、ひときわ目を引くものがあった。
銀色の葉を持つ草だ。月光を溶かし込んだような、静かな光沢がある。
「先祖返りの子供たちは、生まれつき魔素を取り込みすぎる体質を持っています。その過剰な魔素が体内の細胞を焼き、寿命を縮めるのです。この薬草は、取り込みすぎた魔素を中和し、体外へ穏やかに排出する作用があります。里にいる子たちのために、長年かけて研究しました。完璧ではありません。ですが……」
タキタは銀の葉にそっと触れた。
「寿命を数倍に引き伸ばすことは、できます」
(……ドクター・キースの見立てどおりか)
俺の中で何かがつながった。
過剰な魔素が、幼い体を蝕む。そのプロセスを逆転させる術が、ここにあった。
それを必死に顔の外に出さないようにしながら、ただ、銀の葉を見つめた。
リンネアが俺の隣で深く息を吸い、タキタに向かって頭を下げた。静かだが、それは深く、長い礼だった。
「……ありがとうございます」
「礼には及びません」
タキタは静かにリンネアを見た。
「ただし、これは。竜人たちが本来あるべき姿で各種族と向き合っていれば、とっくに授けられていたものです。……怒りを持つべき相手に、正しく怒ってください」
***
夕暮れ時、里の外れに小さな丘があった。
アリルが一人でそこに座り、頭上遥か高くに切り取られた、細い帯のような空を眺めていた。
タキタがいつの間にか隣に立っていた。
「……怖くないの?」
タキタはアリルの包帯に巻かれた翼を静かに見た。
「自分が先祖返りであることが」
アリルは少し考えた。それから答えた。
「最初は怖かった。みんなと違うから」
「そうでしょうね」
「でも翔一さんが言った。お前の翼は武器になるって」
タキタは何も言わなかった。
ただ、目を細めた。数百年、誰にも見せたことのない、柔らかな顔だった。
「……そう」
短い沈黙の後、タキタはゆっくりと空を見上げた。
「あなたが、あの洞窟から来た新しい風なのかもしれないわね」
***
夜になった。
里の外れに用意された小さな小屋で、俺は荷物を枕代わりに横になり、石の天井を見上げていた。
発光する植物の光が、天井に青緑の影を作っている。
(タキタが数百年かけて守ってきたものに、俺たちは数週間の旅で勝手に踏み込んだ)
それが正しかったのかどうか、今の俺にはわからない。
わからないが。
(ポポロを救う薬がある。証拠もある)
あとは、俺のやり方でやるだけだ。
目を閉じた。
眠りに落ちる直前、扉の外からガルムの声が聞こえた。
「……翔一。起きてるか」
俺は目を開けた。
「洞窟から流れてくる風の匂いが変わった。人の匂いがする」
ガルムが低く、静かに続ける。
「しかも一人や二人じゃない」
俺は静かに身を起こした。
第六章 第十一話 完




