第十話『聖域の番人と、一つの誤解』
地上に這い上がった瞬間、冷たい霧が顔を包んだ。
三人はその場で膝をつき、しばらく荒い息をついた。泥と粘液で、全身がひどい有様だった。
「……すまねえ。俺のせいで」
ガルムが絞り出すように言った。
「あの匂い……昔、俺が戦闘で死なせちまった部下の声が聞こえた気がした。助けを求める声が……気づいたら体が動いてた」
「……気にするな。そういう質の悪い罠だ」
俺は短く返した。
リンネアは、閉じかけた植物の「口」を見下ろし、顔を青ざめさせていた。
「異常です。この植物の内部から、強烈な魔素を感じました」
「魔素? こいつが魔獣だってのか?」
「いえ……魔獣というよりは、魔素そのものを養分にして育った植物のようです。ですが……」
リンネアは言葉を詰まらせた。
「小動物を捕食する程度の食獣植物なら存在しますが、ここまで巨大なものは聞いたこともありません。文献にも記述がない。……これほどの大きさになるには、魔素だけでなく、何か『別の要因』が必要なはずです」
「別の要因、か」
この土地特有の環境か、それとも誰かの作為か。
いずれにせよ、この森は俺たちの常識が通用する場所ではないようだ。
不吉な予感が、背筋を冷たくした。
「……アリルはどこだ?」
ガルムが立ち上がり、周囲を見回した。
名を呼んだが、返事はない。足跡も、声も、何もない。
(……あいつ、俺たちが落ちてる間に一人で先に行きやがったな)
無茶しやがって。
だが、この先に進めば必ず追いつけるはずだ。俺たちは再び歩き出した。
「行くぞ。待ってちゃいられない」
霧はまだ晴れない。三人は互いの気配を確かめながら、アリルが向かったであろう方向へ、手探りで歩き出した。
しばらく歩いた。霧の中の時間感覚など当てにならないが、体感で数十歩ほど進んだころ。
先頭を歩いていたガルムが、ピクリと耳を動かして足を止めた。
「……匂いだ」
「アリルの?」
「ああ。微かだが、確実にこっちだ」
ガルムの嗅覚を信じて進むと、不意に風の流れが変わった。
湿った空気に混じって、どこか冷たく、乾いた風が吹き抜けていく。
「……風が変わった」
ガルムがつぶやく。
「ええ。湿気が減って、少し乾いた匂いがします」
リンネアも同意する。
視界は依然として悪いが、空気の流れに変化が生じたのは確かだ。この霧の発生源か、あるいは風の通り道が近くにあるのかもしれない。
「この風をたどれば、何かあるはずだ。……行くぞ」
一歩を踏み出そうとした、その瞬間。
ズズズンッ……!
地響きと共に、俺たちの目の前の地面が爆発したように盛り上がった。
無数の巨大な茨と樹木の根が、まるで意思を持った大蛇のように編み上がり、一瞬にして天まで届くような「絶対の壁」を形成したのだ。
「なっ……!?」
「これは……『荊棘の城壁』!? 古代エルフの儀式魔法が、なぜこんな場所に!?」
リンネアが悲鳴のような声を上げた。
それは、現代では失われたはずの、古代の魔法だった。
リンネアが信じられないものを見るように息を呑んだ。
「ありえません。これは魔導大戦の以前に失われたはずの、エルフの『古代魔法』です……!」
ざわめく茨の壁が、ゆっくりと左右に割れた。
重い霧の奥から、一人の女が姿を現す。
流れるような黄金の髪。
恐ろしいほどに端正な顔立ちだ。リンネアも大概美人だが、この女の美貌は種類が違う。
人知を超えた、神性すら感じさせる圧倒的な美。
年齢は三十代半ばくらいに見えるが、その深いエメラルドの瞳には、言葉では言い表せない静かな悲哀が宿っていた。
「……ありえない」
隣でリンネアが息を呑んだ。
彼女は震える声で、目の前の同胞を見つめていた。
「この圧倒的な魔素……それに、この風格。……あなた、まさか千年以上の時を生きてきたエルフですか?」
「……は? 千年?」
俺は思わず聞き返した。
三十代に見えるこの女性が、千年生きているだと?
「はい。エルフは長命な種族ですが、八百歳を超えてようやく外見が老い始めます。この方の容姿は……間違いなく千年以上の時を生きておられます」
リンネアの声が震えている。
それは現代のエルフ社会でも極めて稀な、もはや伝説上の存在だという。
どのような能力を秘めているのか、計り知れない。
リンネアの瞳には、畏怖と、そして深い尊敬の念が入り混じっていた。
武器は持っていない。だが、彼女がそこに立っているだけで、森全体が彼女の意思に従う手足のように感じられる。
(……こいつが、「黄金の女神」か)
俺はゆっくりと、敵意がないことを示すために両手を上げた。
女――黄金のエルフは、冷たく透き通るような声で告げた。
「……人間、エルフ、そして狼族。奇妙な一行ですね」
彼女は冷徹な眼差しで俺たちを見下ろした。
「あの子の翼を利用し、また……代弁士の『贄』にするおつもりですか?」
その言葉には、深い絶望と、抑えきれない怒りがにじんでいた。
俺たちが答える間もなく、彼女は冷酷に宣告する。
「――ここから先は、人の子が踏み入る領域ではない。去りなさい」
贄。
その言葉の裏にある重い過去を、俺は地下禁書庫で知っている。
「……贄ってのは、このガキを『巫女』にするつもりかって聞いてるのか?」
俺が逆に問い返すと、女の瞳に宿る殺気が一層強まった。
「やはり、そうなのですね……。そうはさせません」
彼女が手をかざすと、周囲の空気がビリビリと震え始めた。
本気の魔法が来る――そう直感した瞬間だった。
「――こっちだよ!」
不意に、霧の奥からアリルの声が聞こえた。
その瞬間、彼女が展開しようとしていた魔法の波動が、一瞬だけ揺らぎ、弱まった。
俺はその隙を見逃さず、両手を上げたまま一歩踏み出した。
「俺たちには、あんたに聞かなければならない話がある。……できれば、その物騒な茨を下げてから、聞いてほしいんだが」
彼女は答えなかった。
ただ、困惑したように、俺たちと、声のした方向を見比べている。
そのとき、茨の壁の向こう側から、再び声が聞こえた。
「……翔一さん? そこにいるんでしょ?」
アリルの声だった。
その声を聞いた瞬間、彼女の顔から殺気が消え、代わりに驚愕の色が浮かんだ。
「……子供が、お前たちを呼んだ?」
彼女は俺たちを「先祖返りの子供を拉致し、利用しようとする悪党」だと思い込んでいたのだろう。
だが、今の声は明らかに、アリルが俺たちを信頼し、探し求めている声だった。
その事実が、彼女の認識を大きく揺さぶったのだ。
第六章 第十話 完




