第九話『霧の迷宮と、食獣の罠』
北の原生林は、名前のとおり「迷わずの森」などではなかった。
地元の旅人がそう呼ぶのは、街道がしっかりと整備されているからであって、一歩でも踏み外せば即座に迷子になれる、という意味では普通の深い森だ。
両側に迫る太い樹木は日光を遮り、葉の隙間から差し込む光は、地面に落ちる前に霧散してしまう。
巨大な根が道に張り出し、コケが岩石を覆い、どこからともなく水の流れる音がする。
聖地エルディアが近いのか、確かに空気がいつもより清浄な気がした。……「気がした」だけかもしれないが。
(二日、か)
馬車の御者台から、鼻先を冷たい空気にさらしながら、俺は思った。
この森を抜けるには二日かかると聞いている。「風の鳴く洞窟」がこの森のどこかにあるのか、それとも森を抜けたさらに先なのか、まだ分からない。
コクヨウの蹄が落ち葉を踏む音が、静かな森に響いた。
「……誰かに見られていやがる」
隣でガルムが低くつぶやいた。
獣人特有の禍々しい直感だ。俺は表情を変えずに、さりげなく木立の奥を流し見た。
何もない。風が揺らす葉の影だけがある。
「誰だ」
「分からん。……ただ、距離がある。息も音も出していない。……人間の気配じゃない」
ガルムは確かめるように鼻をひくつかせ、それきり黙った。
俺も追及しなかった。
人間の気配じゃない、ということは……この森に棲む獣か、あるいは別の何か、か。
一日目の午後、森の中間地点にある泉にたどり着いた。
丸い泉は、底まで透き通って見えるほど澄んでいた。
俺たちは馬を休ませ、焚き火を囲んで夕食をとった。
「鳥人族って、羽の生え方は人によって違うんですか?」
リンネアが興味深そうにアリルに聞いた。
アリルは自分の背中に手をやりながら、少し考えるように答えた。
「……みんな、肩甲骨のあたりに突起が二つあるだけです。翼っていうか、ほとんど痕跡みたいなもので」
「ではやはり、アリルさんは特別なんですね」
「……先祖返り、って呼ばれてます。昔は鳥人族みんなが飛べたらしいんですけど、今は誰も飛べなくて。翼が生えてるのは、すごく稀なことみたいで」
アリルは火を見ながら、どこかぽつりとした口調で言った。
「稀なこと」。……そう言い切れるようになったのは、ほんの少し前まで「呪い」と呼んでいた翼を、今は引き受けようとしているからだろう。
俺はそれ以上何も言わず、枝で焚き火をつついた。
「ところで翔一さん、『風の鳴く洞窟』って、具体的にどのあたりにあるんですか?」
「……さあな。リンネア」
「地図には載っていません。宿場でも誰も知らなかった。……場所は、まったく分からないのが現状です」
「というわけだ。手がかりがなきゃ探すしかない」
「……探索屋みたいですね」
「……何だそりゃ」
「依頼を受けて、人や物を追跡・調査する職業のことです」
(……探偵みたいなもんか)
「そんなのじゃねえ」
アリルがくすりと笑った。
ガルムは黙ったまま、周囲に耳を澄ませていた。
***
夜半を過ぎたころのことだ。
「――誰だっ!」
怒声と、地を蹴る轟音が重なった。
俺は弾かれたように飛び起きた。焚き火はすっかり熾火になっており、辺りは暗い。
目に映ったのは、ガルムの背中だけだった。剣の柄に手をかけたまま、暗い森の奥へ向かって全力で走り抜けていく、その後ろ姿だけが。
止める間もなかった。声をかける間もなかった。
次の瞬間には、葉の揺れる音だけが残って、ガルムの姿は闇に消えていた。
(……アリルに近づいた、だと?)
俺は眠り続けるアリルを見た。
リンネアも気配で目を覚まし、緊張した顔で隣に並んだ。
「翔一さん……」
「分かってる。朝まで待つ」
***
夜が明けても、ガルムは戻らなかった。
「……行くか」
俺はリンネアとアリルを連れ、ガルムが残した折れた枝の目印を頼りに森の奥へ入った。
当初はそれなりに見えていた目印が、百歩も歩かないうちに役に立たなくなった。
霧が出たのだ。
最初は足元を覆うだけだったそれが、瞬く間に腰まで、肩まで、そして顔まで包んだ。
白く重い霧だった。自分の指先が白くぼやける。前後左右、何も見えない。
呼びかけた声さえ、霧に吸われて消えていく気がした。
「……ガルム! ガルム!」
リンネアの声も、すぐに湿った空気に溶けた。返事はない。
(まずいな)
俺がそう思ったとき、アリルがよろけた。
転んだ先の地面に、手を伸ばした。
そこに、倒れている人間がいた。正確に言うと、狼人族のガルムだった。
「ガルムさんっ!」
アリルが叫んだ。
横たわっていたのは、紛れもなくガルムだった。倒れているが、息はある。気絶しているだけのようだ。
揺すると、ゆっくりと目が開いた。
「……う、ぐ……」
「大丈夫ですか? 何があったんですか?」
「……追ったが……二本足で、森に慣れた動きだった。速くて……音も消せる……」
ガルムはゆっくりと身を起こしながら、かすれた声で続けた。
「突然、足元の植物が動いて足を絡め取られやがった。……その直後、霧が濃くなって意識が飛んだ。ただの睡眠薬じゃねえ、あれは……」
「……魔法、ですか?」
リンネアが信じられないというようにつぶやく。
(何者だ。この森のことを知り尽くした上で、アリルを狙い、おまけに魔法まで使う……)
「とにかく、まず出ないと話にならない。方角が分かるか、ガルム」
「……分からん。霧が魔素を乱してる。鼻も、耳も……役に立たねえ」
俺はリンネアを見た。彼女は目を閉じ、かすかに眉根を寄せた。
「……私も、わずかに魔素を感じることはできますが……この霧に阻まれては、まるで役に立ちません」
(手詰まりか)
焦りが来る前に、俺は意図的に思考を整理した。
パニックになって動いても、霧の中では確実に遭難する。
しかし、ここにいても何も変わらない。
「……多分、こっち」
静かな声がした。
アリルだった。
少年は霧の中を、どこか虚ろな目で、真っすぐに見つめていた。
「アリル?」
「……分かんないけど、こっち、な気がする。すごく懐かしい力が……呼んでる。ついてきて」
そう言って、霧の中を歩き始めた。
迷いのない足取りだった。先祖返りの魔力感知が、無意識にこの聖地の中心――あるいは『何か』に共鳴しているのだろう。
俺とリンネアは顔を見合わせ、ガルムが立ち上がるのを確認してから、急いで後を追った。
***
アリルは振り返らずに進んだ。
俺には何も見えない。リンネアも、ガルムも、同じだろう。この先に何があるかも、まるで分からない。
それでも、別に選択肢などなかった。
ふと、最後尾を歩いていたガルムの足が止まった。
「……あっちだ」
虚ろな声だった。
ガルムの視線は、アリルとは正反対の方向を向いていた。
「呼んでる。……泣いてる。助けなきゃなんねえ」
「ガルム?」
リンネアが鋭く言った。
ガルムの瞳が、完全に焦点を失っていた。
彼はフラフラと、苔むした小高い丘のような場所へ足を踏み入れた。
「おい待て! そっちは道がないぞ!」
「正気に戻ってください!」
俺とリンネアは同時に体にすがりついた。しかし、ガルムの体はびくともしない。
仕事で鍛えた弁護士の腕っぷしなど、この大男の怪力の前では紙きれも同然だ。ズルズルと引きずられた。
「うわっ、離せ! ……いや離すな!」
その瞬間。
ズルッ。
地面だと思っていた苔の絨毯が、まるで濡れた紙のように音もなく裂けた。
「なっ……!?」
支えようとしていた俺とリンネアもろとも、足場が消失する。
そこは地面ではなかった。
唐突に足元が崩れ、俺たちは闇の中へ真っ逆さまに落下した。
「うわあああっ!?」
「うわっ……!?」
「きゃああっ!」
悲鳴を上げる間もなく、俺たちは暗闇へと飲み込まれた。
固い地面に叩きつけられる衝撃を覚悟したが、落ちた先は妙に柔らかく、ぬるりとした感触があった。
***
落下は一瞬だった。
ぬちゃり、という感触と共に、俺は濡れた地面に叩きつけられた。
(……生きてる)
体の各部を確認する。骨は折れていない。リンネアがうめいている。ガルムも、とりあえず動いている。
立ち上がって周囲を見た。
暗い穴の底だ。
直径は三歩ほど。壁面は植物のぬるぬるとした粘液で覆われており、わずかな光が上から差し込んでいる。
そして、足元から、透明な液体がじわじわと染み出してきていた。
甘ったるい、花のような、しかし奥に強烈な刺激臭がある。
(消化液か)
ここは巨大な生物の体内か? 壁はぬらぬらとした粘液で覆われ、苔と落ち葉の匂い、そして強烈な腐敗臭が充満している。
(最悪だ)
壁に手をかけた。滑る。指が立たない。粘液が層になっており、爪も食い込まない。
登れない。
「ガルム、立てるか」
ガルムはうずくまったままだった。
目が合わない。虚ろな顔で、口をわずかに開いている。
「……すまねえ。助けられなくて……」
くぐもった声でつぶやいた。
まだ幻覚の中にいる。植物が放つフェロモンが、彼の中の後悔や「守護本能」を刺激して蝕んでいるのだろう。
(時間がない。消化液の水位が上がる。ガルムを起こさないと詰む)
俺は道具袋を探った。
あった。旅の荷物に入れていた『火種棒』だ。
端を擦って火を点け、燃えた先端をガルムの鼻先に押しつけた。
「ガアッ!?」
ガルムが跳ね起きた。
「……熱っ! 臭え! なんだここは!」
「起きたか、眠り姫」
「俺は……何を……」
「後で聞く。今は出ることだけ考えろ」
俺はガルムの目を見た。焦点が戻っている。
「この壁、植物の組織の向こうに土の層がある。お前の力なら貫通できるはずだ。ピックを食い込ませて足場を作れ」
俺は腰に携えていた『万能工兵斧』をガルムへ放り投げた。
ガルムが受け取り、ほとんど躊躇いなく壁に叩きつけた。
ぼすん、という鈍い音と共に、ピックが植物の肉を貫通した。
もう一撃。ぞりぞりと、背後の土層に食い込んでいく。
「行けるな?」
「……ああ」
ガルムが腕一本で体を引き上げた。天井近くまで登り、穴の縁に指をかけた。
「行くぞ。リンネア、先に」
「はい」
ガルムがリンネアの手首をつかみ、引き上げた。驚くほどの力だ。
俺は最後に残った。消化液が脛まで来ていた。ブーツの底がシュワシュワと音を立てている。
その前に、やるべきことが一つある。
俺は腰からもう一つの道具を取り出した。
『封火罐』。着火の手間なく高熱を生み出す鉄の筒だ。
ダイヤルを最大まで回し、赤熱したそれを消化液の中へ投げ込んだ。
「食後のデザートだ、食ってろ」
数秒後、内部からの高熱に反応した植物が、苦悶するように身をよじらせ、消化液を中心へ引き寄せ始めた。
その反動で、上の蓋が大きく隙間を開けた。
「今だ!」
ガルムの手が降りてきた。俺はそれをつかみ、勢いよく地上へと引き上げられた。
第六章 第九話 完




