表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
81/96

第九話『霧の迷宮と、食獣の罠』

 北の原生林は、名前のとおり「迷わずの森」などではなかった。

 地元の旅人がそう呼ぶのは、街道がしっかりと整備されているからであって、一歩でも踏み外せば即座に迷子になれる、という意味では普通の深い森だ。

 両側に迫る太い樹木は日光を遮り、葉の隙間から差し込む光は、地面に落ちる前に霧散してしまう。

 巨大な根が道に張り出し、コケが岩石を覆い、どこからともなく水の流れる音がする。

 聖地エルディアが近いのか、確かに空気がいつもより清浄な気がした。……「気がした」だけかもしれないが。


 (二日、か)


 馬車の御者台から、鼻先を冷たい空気にさらしながら、俺は思った。

 この森を抜けるには二日かかると聞いている。「風の鳴く洞窟」がこの森のどこかにあるのか、それとも森を抜けたさらに先なのか、まだ分からない。

 コクヨウの蹄が落ち葉を踏む音が、静かな森に響いた。


「……誰かに見られていやがる」

 隣でガルムが低くつぶやいた。

 獣人特有の禍々しい直感だ。俺は表情を変えずに、さりげなく木立の奥を流し見た。

 何もない。風が揺らす葉の影だけがある。

「誰だ」

「分からん。……ただ、距離がある。息も音も出していない。……人間の気配じゃない」

 ガルムは確かめるように鼻をひくつかせ、それきり黙った。

 俺も追及しなかった。

 人間の気配じゃない、ということは……この森に棲む獣か、あるいは別の何か、か。


 一日目の午後、森の中間地点にある泉にたどり着いた。

 丸い泉は、底まで透き通って見えるほど澄んでいた。

 俺たちは馬を休ませ、焚き火を囲んで夕食をとった。

「鳥人族って、羽の生え方は人によって違うんですか?」

 リンネアが興味深そうにアリルに聞いた。

 アリルは自分の背中に手をやりながら、少し考えるように答えた。

「……みんな、肩甲骨のあたりに突起が二つあるだけです。翼っていうか、ほとんど痕跡みたいなもので」

「ではやはり、アリルさんは特別なんですね」

「……先祖返り、って呼ばれてます。昔は鳥人族みんなが飛べたらしいんですけど、今は誰も飛べなくて。翼が生えてるのは、すごく稀なことみたいで」

 アリルは火を見ながら、どこかぽつりとした口調で言った。

 「稀なこと」。……そう言い切れるようになったのは、ほんの少し前まで「呪い」と呼んでいた翼を、今は引き受けようとしているからだろう。

 俺はそれ以上何も言わず、枝で焚き火をつついた。


「ところで翔一さん、『風の鳴く洞窟』って、具体的にどのあたりにあるんですか?」

「……さあな。リンネア」

「地図には載っていません。宿場でも誰も知らなかった。……場所は、まったく分からないのが現状です」

「というわけだ。手がかりがなきゃ探すしかない」

「……探索屋ヴェスティガトールみたいですね」

「……何だそりゃ」

「依頼を受けて、人や物を追跡・調査する職業のことです」

 (……探偵みたいなもんか)

「そんなのじゃねえ」

 アリルがくすりと笑った。

 ガルムは黙ったまま、周囲に耳を澄ませていた。


          ***


 夜半を過ぎたころのことだ。

「――誰だっ!」

 怒声と、地を蹴る轟音が重なった。

 俺は弾かれたように飛び起きた。焚き火はすっかり熾火になっており、辺りは暗い。

 目に映ったのは、ガルムの背中だけだった。剣の柄に手をかけたまま、暗い森の奥へ向かって全力で走り抜けていく、その後ろ姿だけが。

 止める間もなかった。声をかける間もなかった。

 次の瞬間には、葉の揺れる音だけが残って、ガルムの姿は闇に消えていた。


 (……アリルに近づいた、だと?)


 俺は眠り続けるアリルを見た。

 リンネアも気配で目を覚まし、緊張した顔で隣に並んだ。

「翔一さん……」

「分かってる。朝まで待つ」


          ***


 夜が明けても、ガルムは戻らなかった。

「……行くか」

 俺はリンネアとアリルを連れ、ガルムが残した折れた枝の目印を頼りに森の奥へ入った。

 当初はそれなりに見えていた目印が、百歩も歩かないうちに役に立たなくなった。

 霧が出たのだ。

 最初は足元を覆うだけだったそれが、瞬く間に腰まで、肩まで、そして顔まで包んだ。

 白く重い霧だった。自分の指先が白くぼやける。前後左右、何も見えない。

 呼びかけた声さえ、霧に吸われて消えていく気がした。


「……ガルム! ガルム!」

 リンネアの声も、すぐに湿った空気に溶けた。返事はない。

 (まずいな)

 俺がそう思ったとき、アリルがよろけた。

 転んだ先の地面に、手を伸ばした。

 そこに、倒れている人間がいた。正確に言うと、狼人族のガルムだった。

「ガルムさんっ!」

 アリルが叫んだ。

 横たわっていたのは、紛れもなくガルムだった。倒れているが、息はある。気絶しているだけのようだ。

 揺すると、ゆっくりと目が開いた。

「……う、ぐ……」

「大丈夫ですか? 何があったんですか?」

「……追ったが……二本足で、森に慣れた動きだった。速くて……音も消せる……」

 ガルムはゆっくりと身を起こしながら、かすれた声で続けた。

「突然、足元の植物が動いて足を絡め取られやがった。……その直後、霧が濃くなって意識が飛んだ。ただの睡眠薬じゃねえ、あれは……」

「……魔法、ですか?」

 リンネアが信じられないというようにつぶやく。


 (何者だ。この森のことを知り尽くした上で、アリルを狙い、おまけに魔法まで使う……)


「とにかく、まず出ないと話にならない。方角が分かるか、ガルム」

「……分からん。霧が魔素を乱してる。鼻も、耳も……役に立たねえ」

 俺はリンネアを見た。彼女は目を閉じ、かすかに眉根を寄せた。

「……私も、わずかに魔素を感じることはできますが……この霧に阻まれては、まるで役に立ちません」

 (手詰まりか)

 焦りが来る前に、俺は意図的に思考を整理した。

 パニックになって動いても、霧の中では確実に遭難する。

 しかし、ここにいても何も変わらない。


「……多分、こっち」

 静かな声がした。

 アリルだった。

 少年は霧の中を、どこか虚ろな目で、真っすぐに見つめていた。

「アリル?」

「……分かんないけど、こっち、な気がする。すごく懐かしい力が……呼んでる。ついてきて」

 そう言って、霧の中を歩き始めた。

 迷いのない足取りだった。先祖返りの魔力感知が、無意識にこの聖地の中心――あるいは『何か』に共鳴しているのだろう。

 俺とリンネアは顔を見合わせ、ガルムが立ち上がるのを確認してから、急いで後を追った。


          ***


 アリルは振り返らずに進んだ。

 俺には何も見えない。リンネアも、ガルムも、同じだろう。この先に何があるかも、まるで分からない。

 それでも、別に選択肢などなかった。

 ふと、最後尾を歩いていたガルムの足が止まった。

「……あっちだ」

 虚ろな声だった。

 ガルムの視線は、アリルとは正反対の方向を向いていた。

「呼んでる。……泣いてる。助けなきゃなんねえ」

「ガルム?」

 リンネアが鋭く言った。

 ガルムの瞳が、完全に焦点を失っていた。

 彼はフラフラと、苔むした小高い丘のような場所へ足を踏み入れた。

「おい待て! そっちは道がないぞ!」

「正気に戻ってください!」

 俺とリンネアは同時に体にすがりついた。しかし、ガルムの体はびくともしない。

 仕事で鍛えた弁護士の腕っぷしなど、この大男の怪力の前では紙きれも同然だ。ズルズルと引きずられた。

「うわっ、離せ! ……いや離すな!」

 その瞬間。

 ズルッ。

 地面だと思っていた苔の絨毯が、まるで濡れた紙のように音もなく裂けた。

「なっ……!?」

 支えようとしていた俺とリンネアもろとも、足場が消失する。

 そこは地面ではなかった。

 唐突に足元が崩れ、俺たちは闇の中へ真っ逆さまに落下した。

「うわあああっ!?」

「うわっ……!?」

「きゃああっ!」

 悲鳴を上げる間もなく、俺たちは暗闇へと飲み込まれた。

 固い地面に叩きつけられる衝撃を覚悟したが、落ちた先は妙に柔らかく、ぬるりとした感触があった。


          ***


 落下は一瞬だった。

 ぬちゃり、という感触と共に、俺は濡れた地面に叩きつけられた。

 (……生きてる)

 体の各部を確認する。骨は折れていない。リンネアがうめいている。ガルムも、とりあえず動いている。

 立ち上がって周囲を見た。

 暗い穴の底だ。

 直径は三歩ほど。壁面は植物のぬるぬるとした粘液で覆われており、わずかな光が上から差し込んでいる。

 そして、足元から、透明な液体がじわじわと染み出してきていた。

 甘ったるい、花のような、しかし奥に強烈な刺激臭がある。


 (消化液か)


 ここは巨大な生物の体内か? 壁はぬらぬらとした粘液で覆われ、苔と落ち葉の匂い、そして強烈な腐敗臭が充満している。


 (最悪だ)


 壁に手をかけた。滑る。指が立たない。粘液が層になっており、爪も食い込まない。

 登れない。


「ガルム、立てるか」

 ガルムはうずくまったままだった。

 目が合わない。虚ろな顔で、口をわずかに開いている。

「……すまねえ。助けられなくて……」

 くぐもった声でつぶやいた。

 まだ幻覚の中にいる。植物が放つフェロモンが、彼の中の後悔や「守護本能」を刺激して蝕んでいるのだろう。


 (時間がない。消化液の水位が上がる。ガルムを起こさないと詰む)


 俺は道具袋を探った。

 あった。旅の荷物に入れていた『火種棒イグニス・ロッド』だ。

 端を擦って火を点け、燃えた先端をガルムの鼻先に押しつけた。

「ガアッ!?」

 ガルムが跳ね起きた。

「……熱っ! 臭え! なんだここは!」

「起きたか、眠り姫」

「俺は……何を……」

「後で聞く。今は出ることだけ考えろ」

 俺はガルムの目を見た。焦点が戻っている。

「この壁、植物の組織の向こうに土の層がある。お前の力なら貫通できるはずだ。ピックを食い込ませて足場を作れ」

 俺は腰に携えていた『万能工兵斧』をガルムへ放り投げた。

 ガルムが受け取り、ほとんど躊躇いなく壁に叩きつけた。

 ぼすん、という鈍い音と共に、ピックが植物の肉を貫通した。

 もう一撃。ぞりぞりと、背後の土層に食い込んでいく。

「行けるな?」

「……ああ」

 ガルムが腕一本で体を引き上げた。天井近くまで登り、穴の縁に指をかけた。

「行くぞ。リンネア、先に」

「はい」

 ガルムがリンネアの手首をつかみ、引き上げた。驚くほどの力だ。


 俺は最後に残った。消化液が脛まで来ていた。ブーツの底がシュワシュワと音を立てている。

 その前に、やるべきことが一つある。

 俺は腰からもう一つの道具を取り出した。

 『封火罐ふうかかん』。着火の手間なく高熱を生み出す鉄の筒だ。

 ダイヤルを最大まで回し、赤熱したそれを消化液の中へ投げ込んだ。

「食後のデザートだ、食ってろ」

 数秒後、内部からの高熱に反応した植物が、苦悶するように身をよじらせ、消化液を中心へ引き寄せ始めた。

 その反動で、上の蓋が大きく隙間を開けた。

「今だ!」

 ガルムの手が降りてきた。俺はそれをつかみ、勢いよく地上へと引き上げられた。


第六章 第九話 完

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ