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第八話『星付きの威光』

「……あれが、街……」

 翔一は、その光景をただ呆然と見つめていた。

 脳裏に浮かんだのは、高校の世界史の教科書で見た、古代の城壁都市の想像図だ。

 だが、目の前の現実は、教科書の挿絵よりも遥かに雑然としていて、生々しい。

 そこは、自分の知識も、常識も、価値観も、おそらくは命の保証さえも、一切通用しないであろう、完全な『未知』の領域。

 これから自分は、あの中へ入っていくのか。

 この、三百二十歳のエルフと、生後五か月の「少年」と、たった三人で。

 彼の背筋を、法廷で不利な証言を突きつけられたときとは比べ物にならないほど、冷たい汗がすっと流れ落ちた。


 「さあ、行きますよ」

 リンネアに促され、翔一は複雑な思いを胸に、街の正門へと続く列の最後尾に並んだ。

 太陽が高く昇り、順番待ちの列からは汗と埃の匂いが立ち上っている。

 門の前では、隊長らしき人間と、巨大な戦斧を背負ったドワーフの衛兵が、街へ入る人々の荷を厳しく検めていた。

 行商人の荷馬車、冒険者風の男たち、ボロをまとった農民。

 誰もが衛兵の前では卑屈な笑みを浮かべ、許可証のようなものを提示している。


「どうするつもりだ?」

 翔一が小声で問うと、リンネアは少しだけ顔を青くしながらも、毅然と答えた。

 「大丈夫です。……ポポロ、あなたはこちらへ」

 彼女は、ポポロの手をぐっと強く握り、フードを深く被らせた。

 「いいこと? これから何があっても、決して喋ってはいけません。あなたは、私の『弟』です。いいですね?」


 やがて、彼らの番が来た。

 戦斧を背負ったドワーフの衛兵が、その剛毛の眉をひそめ、翔一の奇妙なスーツ姿を、頭のてっぺんから爪先までじろじろと眺める。

「……あぁ? なんだその妙な服は。見ねえ顔だな」

 衛兵の視線は、明らかに「カモ」を見つけた捕食者のそれだった。身分証を持たない余所者など、小遣い稼ぎの格好の的だ。


 だが、隣にいる女性の顔を見た瞬間、衛兵の顔が引きつった。

「……げっ、リンネアの嬢ちゃんか。また、面倒ごとの匂いがプンプンするぜ」

 衛兵はあからさまに嫌な顔をしながらも、リンネアにだけは少し丁寧な口調になった。

「嬢ちゃん、そっちの男は誰だ? あんたの新しい依頼人かい?」


「彼は、私の連れです」

 リンネアが、一枚の金属製の札(市民証)を提示した。

「旅の途中で、はぐれゴブリンの群れに襲われていたところを、私が保護しました。荷物も身分証も、全て奪われたそうです。こちらの弟も、そのときに」

「……ゴブリンか。最近増えてるからな」

 衛兵は納得したように頷いたが、すぐに不審な目をポポロに向けた。

 リンネアが被せたフードの隙間から、栗色の尻尾がぴょこんと覗いている。

 「だが嬢ちゃん、そいつは、どう見ても……」


「私の『義理の』弟です」

 リンネアは、衛兵の言葉を食い気味に遮った。

「彼は、獣人族とのハーフですが、何か問題でも? 『古き盟約』は、種族による差別を固く禁じているはずですが?」

「ぐっ……!」

 衛兵は言葉に詰まる。だが、納得はしていない。その目は「ここで足止めして、たっぷり絞り取ってやる」という欲望に濁っている。


「それとも、あなたは」

 リンネアの声が、一段低くなった。

「『星付き』である私の家族構成にまで、疑義を唱えるおつもりですか?」

 彼女は、市民証に刻まれた星の徽章を、衛兵の鼻先にぐいと突きつけた。

 陽光を反射して、銀の星が鋭く輝く。


「ひっ……! 『星付き』……!」

 その言葉と、徽章の輝きに、ドワーフの衛兵の脳裏で、忘れていた最悪の記憶が蘇った。

 そうだ。この嬢ちゃんは、ただの厄介な弁護士じゃなかった。大陸に数十人しかいない、あの『歩く外交問題』じゃねえか。

 下手に難癖をつけて、中央の『盟約会議』に通報でもされたら、自分の首が飛ぶどころの話ではない。

 衛兵の顔から、さっと血の気が引いた。

 げんなりとした顔が、恐怖に引きつった、完璧な営業スマイルに変わる。

「い、いえ、滅相もございません! 『星付き』様がそうおっしゃるのであれば、間違いございませんな! どうぞ、お通りください!」


「よろしい」

 リンネアは、ポーチから銀貨を数枚取り出すと、それを衛兵の手にぐいと握らせた。

「これは、ご迷惑をおかけしたお詫びです。それと、私たちは今日、ここを通っていない……いいですね?」

「は、ははぁーっ! もちろんでございますとも!」

 衛兵は現金なもので、銀貨を見た瞬間にさらに腰を低くした。


 翔一は、そのあまりに劇的な変化に、呆気に取られていた。

(……なるほどな。『星付き』ってのは、水戸黄門の印籠みたいなもんか)

 ただの身分証じゃない。それは、この無法地帯においても絶対的な効力を持つ、特権階級の証らしい。

(……一体、何者なんだ? 貴族か? それとも、お忍びの王族か何かか?)

 彼らは、衛兵に深く頭を下げられながら、何事もなく門を通過した。

 彼の知らないところで、また一つ、リンネアの「権威」が彼を救ったのだ。


 門をくぐった瞬間、世界の解像度が一段階上がった。

 鼻腔を突き抜ける、圧倒的な情報の洪水。

 焼きたてのパンの香ばしい匂い。露店の肉塊が焼ける脂の匂い。鉄と石炭の匂い。そして、翔一には嗅ぎ分けられない異国の香辛料と、行き交う獣人たちから発せられる微かな獣の匂い。

 視界を埋め尽くするは、多種多様な種族の坩堝るつぼだ。

 屋根の上では、熊のように大柄な獣人が、器用に瓦を修理している。その下を、郵便配達人のような服装で蛇のようにしなやかな鱗を持つ人(?)が、人混みを縫うように駆け抜けていく。

 ドワーフの店は、翔一が想像していたような鍛冶場だけではない。信じられないほど繊細な細工が施された宝石店や、怪しげな色の薬草を調合している薬局からも、彼らの怒鳴り声のような、しかしどこか楽しげな声が聞こえてくる。


 翔一の着古されたスーツ姿は、この極彩色の世界ではあまりに異質だった。

 すれ違う者たちの、あからさまな好奇と、および値踏みするような視線を一身に浴びる。

(……混沌カオスだ。だが、無法地帯じゃない)

 翔一は、その喧騒の中に、確かな「秩序ルール」の存在を感じ取っていた。

 そこには、俺のいた国のような洗練された法体系はない。だが、長い年月をかけて培われたであろう、生々しい「慣習法」の息遣いが、確かにあった。

 誰かが声を荒げれば、すぐに周りが仲裁に入る。商売の交渉には、独特の手打ちの作法がある。

 ここは、野蛮なだけの場所ではない。

 複雑怪奇なルールが絡み合う、巨大な社会だ。

 ならば――法律家プロである自分が、付け入る隙は必ずある。


 「ここです」

 大通りから、一本、細い路地に入る。

 喧噪が遠のき、湿った石畳の匂いが濃くなる。

 リンネアが足を止めたのは、古びたパン屋の横にある、木造の建物の前だった。

 ギィ、と軋む音を立ててドアを開ける。

 そこは、彼女の戦場であり、城だった。


(第一章 第八話 完)

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