第七話『三百歳の少女』
ポポロとの契約を結んだ後、一行は森を抜けて麓へと向かった。
「私の事務所がある街に向かいましょう。あなたの問題を解決する手がかりが見つかるかもしれません」
リンネアの提案で、彼らが目指すのは彼女が弁護士として活動している辺境の交易都市『リムガーレ』。翔一の「文盲」という問題を、リンネアの事務所や人脈で解決できるかもしれない。
しかし、森を抜けて街道に出てからというもの、翔一は先ほどまでの傲慢な説教とは打って変わり、ほとんど口を利かなかった。
彼の頭の中は、森の中で突きつけられた、「文盲」という絶望的な事実で埋め尽くされていた。
(読めない。書けない。これでは、契約書一枚、作れない。訴状一つ、読めない。俺は、この世界で、弁護士として、完全に『死んだ』んだ)
――という、絶望に打ちひしがれていたのは、ほんの十分前のこと。
今や、彼の思考は完全に切り替わっていた。
(……いや、まだだ。まだ、終わっていない)
絶望の淵で、彼の悪党としての本能が、生存への渇望が、彼を無理やり再起動させたのだ。
(文字が読めない? 結構だ。ならば、『耳』で全てを記憶すればいい。俺の記憶力は並じゃない。そして、あのエルフの小娘。あいつは、使える。俺の『目』として)
そう思い至った瞬間、彼の心は急速にいつもの傲慢さを取り戻していた。
彼は腕を組み、したり顔で、隣を歩くリンネアに、再びありがたい説教を垂れ始めた。
「いいか、リンネア。今日の件でよく分かっただろう。お前のその青臭い理想論は、結局、何の役にも立たなかった。最後に勝敗を決したのは、俺の『交渉術』だ」
「違います!」
リンネアは、ぴしゃりと翔一の言葉を遮った。そのエメラルドの瞳には、一切の妥協を許さない、まっすぐな光が宿る。
「あれは、交渉術などではありません! 明白な『嘘』による、ただの恫喝です!」
「はっ。結果として、兵士は引き下がった。子供は救われた。何か問題でも?」
「問題だらけです! あなたは、存在しない法律を、さも実在するかのように語りました。もし、あの場に一人でも法律に詳しい者がいたら、どうなっていたと思っているのですか!?」
「お前のそのやり方で、本当に勝てると思っていたのか?」
翔一は、まるで子供を諭すように冷たく言い放った。「あれは、賭けですらなかった。必然だ」
「必然……ですって?」
「そうだ。あの杜撰な令状。規律のかけらもない態度。あれは、法が正しく機能している組織の人間の振る舞いじゃない」
彼は、リンネアの瞳を真っ直ぐに見つめた。
「ああいう連中ほど、自分の知らない『ルール』と、自分の知らない『権威』を突きつけられたときに、脆いものなんだ。俺は、そこに賭けた。……いや、計算したんだよ」
「……」
リンネアは言葉に詰まる。彼の言葉はあまりに冷たく、歪んでいる。しかし、そこには圧倒的な「経験」の重みがあった。
「第一、お前は感情的すぎる。交渉の場とは、冷徹な思考の戦場だ。涙や同情はただのノイズだ」
「だからといって! 相手の人格を踏みにじり、事実を捻じ曲げて勝利するなど、断じて許されません! それは、人の道に反します……!」
「やかましいな」
翔一は苛立たしげに遮った。
「結局、お前が言っていることは、青臭い理想論だ。
まあ、仕方ないか。経験が浅いんだ。結局、お前が言っていることは、どれもこれも『ガキ』の理屈なんだよ」
その、最後の一言が、引き金だった。
それまで、かろうじて理性の鎖で繋がれていたリンネアの何かが、ぷつりと、音を立てて切れた。
彼女は、ぴたりと足を止めた。
そして、それまでの怒りの表情がすっと消える。
代わりに浮かんだのは、まるで、これから詰ませる盤面を見つけた棋士のような、どこか楽しげで、および底意地の悪い笑みだった。
翔一は、その表情の変化に、本能的な悪寒を感じた。
「……いい加減に、しなさい」
その声は、静かだが、もはや絶対的な勝者の余裕に満ちていた。
「先ほどから、ガキ、ガキ、と、礼儀を知らないにもほどがありますよ、人間」
彼女は心の中で、目の前の男を冷静に分析していた。
(……人間の寿命は、せいぜい百年。その見た目からして、二十代後半といったところかしら。なるほど、彼らの物差しでは、私はたしかに『ガキ』に見えるのでしょうね)
ならば。
(その、ちっぽけな物差しを、今、ここで、へし折って差し上げます)
「……あ?」
翔一は、彼女の纏う尋常ならざる覇気にたじろいだ。
彼女は、まるで判決を言い渡す裁判官のように、厳かに、しかしその瞳の奥に悪戯っぽい光を宿らせて、告げた。
「私は、今年で、三百二十歳です!」
「…………は?」
翔一の思考が、完全に停止した。
三百……なんだって?
リンネアは、完全に主導権を握り返し、呆然とする翔一に、女王のように言い放った。
「エルフにとって、あなたのような、ほんの数十年しか生きていない者は、それこそ、生まれたばかりの赤子同然です。
分かりますか? 私から見れば、あなたこそが、右も左も分からぬ、ただの『ガキ』なのですよ」
彼女は、翔一の目の前に、すっと人差し指を突きつけた。
「ですから、これ以降、私に説教をするのは、あと五百年、人生経験を積んできてからになさい。……よろしいですね? 翔一『くん』」
返す言葉もなかった。
翔一のドヤ顔は、見るも無惨に固まり、やがて赤くなったり青くなったりを繰り返した。
その横を、リンネアはすっと澄ました顔で通り過ぎていく。
翔一は、まるで魂が抜けたように、ただふらふらと彼女の後に続いた。
彼の頭の中は、先ほどの数字が嵐のように渦巻いていた。
(さんびゃく……にじゅっさい……?)
ありえない。理解できない。
目の前を歩く、どう見ても二十歳そこそこにしか見えない小娘が? 俺の曾祖母よりも遥かに年上?
彼の視線が、おずおずと、自分のスーツの裾を掴んで隣を歩く、ポポロへと向けられた。
ポポロは生後数か月で子供の姿をしている。
リンネアは三百年生きてなお若者の姿をしている。
羞恥と、混乱と、および自分の「常識」という名の物差しが、この世界では何一つあてにならないのだという、絶対的な事実。
(……もう、何も、信じられない)
彼が一人、頭の中で壮大なパニックに陥っていた、そのときだった。
「――翔一くん!」
「うわっ!? 」
突然、すぐ耳元で名前を呼ばれ、翔一は心臓が飛び出るかと思うほど驚いた。
振り返ると、リンネアが悪戯っぽく笑いながら、前方を指さしている。いつの間にか、彼女の口調はいつもの丁寧語に戻っていた。
「……見えてきましたよ。あれが、リムガーレです」
リンネアが指さす先。
遥か彼方、広大な平原の向こうに、一つの街が見えた。
(第一章 第七話 完)




