第六話『最初の依頼人』
脅威が去ったことで、ようやく安堵が訪れる。
リンネアは、足元にしがみついたまま震えている、小さな獣人の子供へと、その身を屈めた。
彼女は、その泥に汚れた小さな頭を、母のように優しく撫でた。
「もう大丈夫よ。怖かったでしょう。私たちは、あなたの敵ではありませんから」
「違う」
その、あまりに優しく、感傷的な空気を、翔一の氷のように冷たい声が、容赦なく断ち切った。
リンネアは、信じられないものを見るような目で翔一を睨んだ。
「まず確認すべきは、彼の法的立場と、容疑の認否だ」
「あなたは、怯えている子供に対してまで、尋問するのですか! 」
「当たり前だ」
翔一は、眉一つ動かさない。「俺たちの身の潔白を証明するためにも、彼が本当に罪を犯したのかどうかを、正確に把握する必要がある。
……おい、ガキ。お前、本当に『魔力式の罠』とやらを使ったのか? イエスか、ノーか」
その非情な問いに、子供の肩が、びくりと大きく跳ねた。
二人の口論と、翔一の冷たい視線に耐えきれなくなったのだろう。子供の大きな瞳から、ぽろぽろと涙がこぼれ落ち、やがて、しゃくりあげるような嗚咽に変わった。
「ち、違う……っ! ぼ、僕は、盗もうとなんて……!」
涙と鼻水でぐしゃぐしゃになりながら、子供は叫んだ。
「キツネさんが……罠にかかって、血を流して、苦しんでて……! だから、助けてあげたかったんだ……!
でも、僕が罠に触ったら、兵隊さんが来て……僕が、僕が、やったって……っ!」
その悲痛な告白。彼の行動に、食欲という利己的な動機は、ひとかけらもなかった。
この子供は、ただ同胞を助けようとしただけだったのだ。
「ごめんなさい、ごめんなさい……」
子供は、地面に蹲り、小さな体で嗚咽を漏らし続けた。
「お父さんとお母さんは、もうずっと前に、帰ってこなくて……。お家の食べ物も、全部なくなっちゃって……。だから、森に何か食べるものがないかなって……。でも、盗むつもりじゃ……うわあああん!」
――孤児。
そのあまりに過酷な現実が、彼の全ての行動の、悲しい理由を物語っていた。
リンネアは、もう何も言えなかった。ただ、その小さな体を、壊れ物を抱きしめるように、優しく、強く、抱きしめた。
「……そう。そうだったのね……。あなたは、優しい子なのね……。もう、一人で頑張らなくていいのよ……」
彼女は、涙を拭いながら、優しく問いかけた。
「……あなた、名前は?」
「……ポポロ」
子供は、しゃくりあげながら、小さな声で答えた。
リンネアは、その名前を噛みしめるように頷くと、固い決意を秘めた瞳で、翔一へと向き直る。
「この子を、私が麓の街まで連れて行きます。彼には、帰る家も、待つ家族もいないのですから。この子は何も悪くない。絶対に、私が守ります!」
彼女は、ごくりと喉を鳴らし、絶望的な声で続けた。
「……『魔力式』の罠は、領主法で最も重い罪の一つです。もし、この子が有罪になれば……」
「待て」
リンネアの言葉を、翔一が、冷静に遮った。
「その前に、一つ確認だ」
彼は、リンネアの腕の中にいる、獣人の子供……ポポロへと、視線を向けた。
その目は、もはや、ただの子供を見る目ではない。未知の生物の、年齢査定をするかのような、無機質な目だった。
「おい、ポポロ。お前、何歳だ?」
ポポロは、きょとんとした顔で、小首を傾げた。
「……まだ、『ねん』は、たってないよ」
「――は?」
ポポロは、指を折って数えながら答えた。
「うまれてから……ごかげつ、くらい?」
「…………」
今度こそ、翔一の思考が完全にフリーズした。
(……五か月? この、見た目七、八歳で、普通に会話しているガキが、実年齢、生後半年にも満たない、赤ん坊だと!? )
翔一は、信じられないものを見るような目で、リンネアを振り返った。
「おい、リンネア! こいつ、何を言ってるんだ!? まさか、頭でも打ってるのか!? 」
リンネアは、あきれたようにため息をついた。
「……あなた、本当に何も知らないのですね。獣人族の成長が早いことくらい、常識ですよ」
彼女は淡々と説明した。
「ポポロのような狐種は、特に成長が早いのです。犬や狼と同じように、生まれてから一年で、あなたたち人間で言うところの成人近くまで一気に成長します。
今の彼は、人間で言えば育ち盛りの子供と同じです」
その生物学的な常識を遥かに超えた事実に、翔一はめまいを覚えた。
だが同時に、弁護士として、最も重要な事実に思い至った。
「……そうか」
彼の口元に、確信に満ちた笑みが戻ってきた。
これは、使える。
「なら、絶対に有罪にはならない」
翔一は、きっぱりと断言した。
「俺のいた国の法律では、その月齢の子供は、そもそも罪には問われない。刑法第四十一条だ」
彼は、リンネアの瞳を見つめ返した。
「『十四歳に満たない者の行為は、罰しない』。
ましてや生後五か月だぞ? 生物学的には乳児だ。善悪の判断能力すら未熟とされる。
そもそも、『刑事責任能力』がないと見なされ、刑罰権そのものが及ばない、という絶対的な原則だ」
それは、彼が、自らの世界の常識を、自信満々に、この世界に叩きつけた瞬間だった。
しかし、その常識は、リンネアの次の言葉によって、容赦なく粉砕される。
「……何を、言っているのですか?」
リンネアは、心底不思議そうな顔で、彼を見つめた。
「法は、全ての民に等しく適用されます。たとえ、それが子供であっても、獣人族であっても、何の違いもありません。
それが、この大陸の法の『大原則』なのです。……もし有罪になれば、容赦はされません。良くて、一生を鉱山で過ごすことになるでしょう……」
翔一は、その言葉に、絶句した。
――法は、全ての民に等しく適用される。
その、一見すると、どこまでも公平で、美しい響きを持つ言葉が、この世界では、いかに野蛮で、残酷な結論を導き出すか。
彼は、静かに、しかし、心の底からの怒りと、および、侮蔑を込めて、言い放った。
「……なるほどな。それが、お前たちの言う『法の大原則』か。
……だとしたら、その原則そのものが、根本的に、間違っている」
なんという、硬直した、および、あまりに野蛮な法体系だ。
彼は、初めて、目の前の子供が置かれた「本当の危険」を、法的に理解した。
――――きゅるるるぅぅ……。
そのとき、静まり返った森に、あまりにも場違いで、および、あまりにも切実な音が、高らかに響き渡った。
ポポロの腹の虫だ。
リンネアは、慌てて腰のポーチから、布に包んだ木の実の焼き菓子を取り出すと、子供の手にそっと握らせた。
「さあ、お食べなさい。お腹が空いていたのね」
子供は、一瞬だけ躊躇したが、やがて、小さな獣のように、その焼き菓子に夢中でかぶりついた。
翔一は、その光景を、ただ無言で見つめていた。
そして、何も言わずに、再び背を向け、歩き出そうとする。
「じゃあな。そもそも、あの兵士たちが撤退したのは俺の手柄だ。それで、お前からの『治療費』はチャラにしてやる」
「待ちなさい!」
リンネアの、鋭い声が飛ぶ。「あなたも、もう関係なくはないでしょう! 兵士たちに顔を覚えられたのですよ!」
「……知ったことか。俺には関係ない」
翔一は、足を止めずに答えようとした。俺は、もう誰かのために自分を危険に晒すのはやめたんだ。金にならない正義など、クソ食らえだ。
その瞬間。
彼の着古されたスーツの裾を、小さな、毛むくじゃらの手が、きゅっと、弱々しく掴んだ。
振り返ると、ポポロが、何も言わずに、ただ、涙で濡れた大きな瞳で、彼をじっと見上げていた。
そこに宿っていたのは、リンネアに向けるような、純粋な信頼の光ではない。
もっと本能的な、得体の知れない、しかし、自分たちを救ってくれるかもしれない『力』に対する、藁にもすがるような、必死の懇願だった。
「…………っ」
翔一は、息を詰めた。
その手を、振り払うことができない。
裾を掴む、その指先の、必死な力。
布地越しに伝わってくる、か細い、しかし、決して離すまいとする、その震え。
その感触が、彼の心の、最も深く、最も凍てついた場所にある、決して開けてはならない、重い扉を、ほんの少しだけ、軋ませた。
ズキリと、忘れていたはずの傷が、熱を持ったように痛んだ。
なぜだ。
なぜ、今になって。
彼は、その理由を考えたくなかった。認めたくなかった。
やがて、彼は、天を仰いで、深く、および諦めに満ちた、長いため息をついた。
「……分かった。だが、勘違いするな」
彼は、リンネアと、および足元の子供に向かって、最後の抵抗のように、いつもの皮肉な仮面を貼り付けて、言い放った。
「これは慈善事業じゃない。お前が、俺を雇うんだ。俺知識と技術の対価は、高くつくぞ」
それは、最悪の相性の弁護士二人と、この世界で最も無力な依頼人との間に交わされた、最初の「契約」だった。
(第一章 第六話 完)




