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第一話『文字の海と、読めない迷い子』

 その光景を前にして、俺が最初に抱いた感想は「圧倒」でも「感動」でもなかった。

 あえて言葉にするなら、「息苦しさ」だ。


「……すげえな。まるで石の森だ」


 業者用の通用門をくぐり抜けた俺たちを出迎えたのは、空を埋め尽くすほどの石造りの塔だった。

 直径二十メートルはあろうかという太い円筒形の塔が、密集して林立している。高さは五階建てのビルほどだろうか。それらが視界の限り続き、塔と塔の間には無数の石橋や渡り廊下が蜘蛛の巣のように張り巡らされていた。

 下から見上げると、まるで巨大な電子回路の中に迷い込んだような錯覚を覚える。


「ここが、大図書館都市レクサンドリア……」


 隣でリンネアがほう、と感嘆の息を漏らした。

 以前にも仕事で訪れたことがあると聞いていたが、それでもやはり、この威容には圧倒されるのだろう。

 街全体が、独特の匂いに包まれている。

 インクの刺激臭と、古びた紙の乾いた匂い。そして、どこか埃っぽいような、カビっぽいような、時間の澱みのような匂い。

 本好きなら天国かもしれないが、俺には少し空気が重く感じられた。


「きゅぅ……なんか、鼻がむずむずするの」


 ポポロが俺のジャケットの袖をきゅっと握りながら、小さな鼻をひくつかせた。

 この都市は、強力な魔導書や古代の遺物が大量に保管されているせいで、外部よりも魔素マナの濃度が少し高いらしい。

 ポポロのような獣人の先祖返りや、魔力に敏感な種族にとっては、あまり居心地の良い場所ではないのかもしれない。


「大丈夫か、ポポロ。具合が悪くなったらすぐ言うんだぞ」

「うん、へいき。ちょっとピリピリするだけ」


 ポポロは気丈に笑ってみせたが、俺は少し心配になった。

 とりあえず、まずは宿を探して荷物を置きたいところだが――。


「……で、どっちに行けばいいんだ?」


 俺は周囲を見回した。

 通りを行き交う人々は、みな一様に忙しそうだ。

 学者風のローブをまとった者、大量の書類を抱えた役人風の男、背中に本を山積みにした荷運び人。

 誰もがなにか(・・・)に追われるように早歩きで、俺たちのような旅行者に見向きもしない。

 そして何より困ったのが――。


「文字だらけだ……」


 街のいたるところに、看板や案内板、注意書きが掲示されている。

 建物の壁、柱、さらには石畳にまで、びっしりと文字が刻まれているのだ。

 だが、俺にはそれが読めない。

 この世界の共通語は話せるようになったが、文字の読み書きはさっぱりなのだ。

 これまでいた村や、旅の道中では、口頭でのやり取りが主だったから何とかなっていた。

 しかし、この都市は違う。

 ここでは「文字」こそがすべてであり、読めない者は存在しないも同然なのかもしれない。


「ふふ、翔一。顔色が優れませんよ?」


 リンネアが楽しそうに俺の顔をのぞき込んできた。


「うるせえ。……トイレに行きたいんだが、どっちがどっちだか分からなくて困ってるんだよ」


 俺は目の前にある公衆トイレらしき建物を指差した。

 入り口が二つあるのだが、それぞれのドアにはピクトグラム(絵記号)ではなく、達筆な文字だけで何かが書かれている。

 右か、左か。

 間違えて女子トイレに入ろうものなら、この街での第一歩が「変質者として連行」になってしまう。


「ああ、なるほど。これは深刻ですね」


 リンネアは大げさに頷くと、もったいぶるように人差し指を立てた。


「この都市では、知識こそが力です。文字が読めないというのは、ここでは赤ん坊と同じ。……どうします? 私にお願いするなら、特別に教えて差し上げても――」

「あ! ショーイチ、こっちだよ!」


 リンネアの恩着せがましい提案を遮るように、ポポロが元気よく声を上げた。

 ポポロは迷いなく右側のドアを指差している。


「え、ポポロ……分かるのか?」

「うん! こっちに『殿方』って書いてあるの。で、あっちが『ご婦人』!」

「まじか……」

「えっへん! 旅の間に、リンネアお姉ちゃんに習ったもん!」


 ポポロが得意げに胸を張る。

 そういえば、旅の空き時間や、ディルマの青空教室に入れたときに、ポポロは熱心に読み書きを勉強していた。

 俺が紙漉きの作業や商談で忙しくしている間に、ポポロは着実に賢くなっていたらしい。


「……翔一。まさか、ポポロちゃんに負けるとは思いませんでしたね」

「うっ……」

「教育パパ失格ですよ?」

「……面目ない」


 俺はがっくりと肩を落としつつ、ポポロに礼を言ってトイレに駆け込んだ。

 この都市での生活、前途多難かもしれない。


          ***


 気を取り直して、俺たちは本来の目的である「代弁士」についての調査を開始することにした。

 とはいえ、俺には看板すら読めない。頼みの綱はリンネアの知識と、この街のシステムだ。


「なあ。この都市には『魔法検索』みたいな便利なもんはねえのか?」

「ありませんね。ここは『知の迷宮』ですよ、翔一」


 リンネアはあきれたように首を振った。


「検索魔法なんて便利なもの、今の時代には残っていませんよ。大昔、竜人族によって魔法の多くが封印されてしまいましたから。それに、この都市で魔法が厳禁なのは、蔵書の『改竄』を防ぐためです。魔法で都合よく歴史を書き換えられたら、記録としての信用がなくなってしまいますからね」

「じゃあ、どうやって本を探すんだ?」

「足と、頭を使うのです」


 リンネアは持参したガイドブックを広げ、現在地を確認する。

 のぞき込むと図書館都市の詳細な地図が載っていたが、そこに記された地名はすべて、俺にとっては意味不明なミミズの這った跡だ。

 地形や建物の配置は辛うじて分かるものの、それが何の施設なのかはさっぱり分からない。


「まず、知りたい情報のジャンルを特定し、その分野を管轄する『学区』へ移動します。各学区には、その分野の全蔵書を管理する『目録塔トゥリス・インディシア』という巨大な塔があります」

「目録塔?」

「ええ。そこで目的の本が『どの塔の、どの棚にあるか』を調べ、住所を特定するのです。そして、循環馬車を乗り継いでその塔へ向かい、実物を探す……という手順ですね」

「……気が遠くなりそうだ」


 俺は天を仰いだ。

 まさに「物理探査」だ。

 ネット検索なら〇・一秒で終わる作業に、ここでは一日、いや数日かかるかもしれない。


「『代弁士』は、竜と契約し、法を操る職業……となれば、関係しそうなのは『魔法学区』か『歴史・神話学区』、あるいは『行政・法学区』ですね」

「手当たり次第に行くしかないか」


 俺たちはまず、循環馬車に乗って『魔法学区』へ向かうことにした。

 馬車は色によって路線が分かれているらしいが、これも俺には難解だった。ポポロがいなければ、反対方向の馬車に乗っていただろう。


          ***


『魔法学区』の目録塔に入った瞬間、俺は言葉を失った。

 そこは、塔というよりは巨大な筒だった。

 一階から最上階まで吹き抜けになっており、円筒形の内壁すべてに、無数の小さな引き出しがびっしりと並んでいるのだ。

 その数、数百万、いや数千万か。

 壁に張り付くように設置された螺旋階段と、移動式の梯子を使って、司書や利用者たちが目当ての引き出しを探している。


「……これ、全部本のリストか?」

「ええ。この学区だけでこれですから、都市全体では想像もつきませんね」


 リンネアは気合を入れるように腕まくり(といっても袖はないが)の仕草をすると、早速検索に取り掛かった。

 だが、俺には手伝うことすらできない。

 引き出しに書かれた見出しの文字が読めないからだ。

 俺ができることといえば、リンネアが梯子を登るさいに下からスカートの中が見えないよう、睨みをきかせることくらいだった。


「……ありました! 『契約魔法』の項目に、いくつか関連しそうな文献が!」


 一時間後、梯子の上からリンネアが声を上げた。

 俺たちは勇んでその引き出しを開け、中のカードを確認する。

 そこには書名と、所在を示す記号が書かれていた。


「『第八十四塔・三階・西ブロック』……だそうです」


 リンネアがカードの文字を目で追いながら読み上げる。


「よし、行くぞ!」


 だが、その威勢の良さはすぐにしぼむことになる。

 目録塔を出て地図を確認したリンネアが、困ったように眉を下げたからだ。


「……翔一。第八十四塔は、この学区の東の端、水路街の向こうです」

「ここからどれくらいかかる?」

「循環馬車を二回乗り継いで、そこから徒歩で……早くて一時間というところでしょうか」

「同じ学区内だよな!? なんでそんなに遠いんだよ!」


 文句を言っても距離は縮まらない。

 俺たちはガタガタと揺れる馬車に揺られ、石畳を歩き、ようやく目的の塔にたどり着いた。

 だが――。


「……違いますね」


 本棚から取り出した古びた魔導書をめくり、リンネアが首を振った。

 そこに書かれていたのは、家精ブラウニーとの労働契約に関する古い儀式の手順だけで、『代弁士』の記述はなかった。

 また別の塔へ移動し、別の本を探す。

 その繰り返しだ。

 移動だけで時間が過ぎていく。日が傾くにつれ、俺たちの疲労は濃くなっていった。


 一方で、意外にも元気なのがポポロだった。

 ポポロは俺たちが本を探している間、子供向けの絵本や図鑑を見つけては、床に座り込んで読み耽っていた。


「ポポロ、退屈じゃないか?」

「ううん! 見てショーイチ、この図鑑、見たことない魔物が載ってるの! 文字もね、ちょっと難しいけど、絵があるから分かるよ!」


 目をキラキラさせてページをめくるポポロ。

 その姿に、俺は少し胸が熱くなった。

 文字が読めるポポロにとっては、ここは宝の山なのだ。文字の海に溺れかけている俺とは違う。

 ポポロの未来が、俺の知らない言葉の世界で広がっていくのを見るのは、悪くない気分だった。


「……そうか。しっかり勉強しとけよ」

「うん!」


 結局、その日は『魔法学区』の数か所を回っただけで終わってしまった。

 成果はゼロ。

 徒労感と共に宿へ戻る道すがら、リンネアがふと、思い出したように小さくつぶやいた。


「そういえば……妙なことがありました」

「ん? 何か見つけたのか?」

「はい。試しに私の知っている魔法……『真実のヴェリタス・オクルス』を検索してみたんです」


 リンネアの話によると、それはエルフに伝わる「嘘を見抜く」秘儀だという。

 有名な魔法で、古い文献なら確実に載っているはずだ。


「本はすぐに見つかりました。でも、記述が私の知っているものとまるで違っていたんです」

「違っていた?」

「はい。『対象に幻覚を見せ、疑心暗鬼にさせる精神魔法』……そんな風に書かれていました。真実を見抜くどころか、妄想を生む魔法だと」


 リンネアは不快そうに眉をひそめた。


「おかしいと思って近くの司書に尋ねたのですが、彼は冷淡にこう言いました。『当館の蔵書はすべて、厳格な事実確認ファクトチェックを経て配架されています。あなたの記憶にあるのは、科学的根拠のない民間伝承フォークロアでしょう』と」

「……民間伝承扱いかよ」

「エルフの間では常識なんですけど……。もしかしたら、長い年月の間に伝承が変化したのかもしれません。あるいは、私の故郷に伝わっていたものが亜流だったのか……」

「自信ないのか?」

「いえ。魔法というのは、伝わった土地や時代によって独自の変化を遂げるものですから。私の知る術式も、原典から派生した『地方版』なのかもしれません」

「だったら、なおさらここにあってもよさそうだが」

「ええ。ここはその『変化の歴史』もすべて保存している場所のはずです。それなのに、まるで最初から『一つの正解』しかなかったかのような書かれ方をしているのが……少し、気になりますね」


 リンネアの言葉に、俺は曖昧に頷いた。

 まあ、膨大な蔵書を管理するためには、俺たちには分からない画一的なルールや事情があるのかもしれない。

 とにかく、この巨大な石の迷宮での本探しは、思った以上に骨が折れそうだ。


(第四章 第一話 完)

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