第五話『異界の審判(後編)』
「……てめえ」
沈黙を破ったのは、鼻に傷のある隊長――兵士長だった。屈辱と怒りで、その顔は紫色に充血している。
「わけの分からねえことを、ごちゃごちゃと並べやがって……!」
――もう、理屈は通用しない。
翔一は、男の目に浮かんだ、理性を失った獣の光を見て、そう判断した。
兵士長が、ついに剣の柄を、ミシリと音を立てて握りしめた。
「法だか何だか知らねえがな! ここじゃあ、グレンジャー辺境伯様が法だ!
そして、その辺境伯様に仕える、俺たちの剣が法なんだよ!」
彼は、翔一とリンネアを、まとめて斬り捨てるつもりで、大きく一歩、前に踏み出した。
リンネアが、子供を庇うように、さっと身構える。
万事休すか。
だが、翔一は動じなかった。
彼は、足元の土を、つま先で探っていた。乾いた砂混じりの土。
(……十分だ)
「死ねぇっ! 」
兵士長が剣を抜き放ち、振りかぶった瞬間。
(あの雨の夜、俺は刺されるがままになった。……だが、ここは違う!)
翔一の脳裏に、路地裏での記憶がフラッシュバックする。
あのときは、どこかで罰を望んでいた。死を受け入れていた。
だが、今は違う。二度も、理不尽な暴力に屈して、負け犬のように死んでたまるか。
悪徳弁護士という職業柄、恨みを買うことは日常茶飯事だった。そのために習得していた護身術が、反射的に体を動かす。
バッ!
翔一が、足元の砂を思い切り蹴り上げた。
「ぐあっ!? 」
視界を奪われた兵士長が、剣を振り下ろす手が止まる。
その隙を見逃す翔一ではない。
彼は懐に飛び込み、兵士長の腕関節を極めると、その自重と勢いを利用して地面に叩きつけた。
ズドン!
重い鎧が地面にめり込む音が響く。
「がっ……!」
受け身も取れず、兵士長が空気を吐き出してうめく。
「おいおい、公務執行中に市民への暴行か? こいつは重罪だぞ」
翔一は、うめく兵士長の顔を冷ややかに見下ろした。
部下の兵士たちが、色めき立って武器を構える。
「き、貴様! 隊長を離せ!」
さすがに十人を相手にするのは分が悪い。翔一が次の一手を計算した、その瞬間だった。
「た、隊長! お待ちください!」
悲鳴のような声でそれを制したのは、一番若い兵士だった。彼は、青ざめた顔で、倒れた隊長の鎧の裾を必死に掴んでいた。
「あぁ!? なんだ、離せ!」
「ち、違います! あのエルフの女を……! 胸のあたりを、よく見てください……!」
隊長は、痛む体を起こしながら、訝しげにリンネアへと視線を送る。
彼女の胸元。そこには、彼女の質素な服装には不釣り合いな、銀細工の小さなブローチが留められている。
――だが、ただの徽章ではない。
その中央には、小さな星の刻印が、鈍く輝いていた。
「……まさか、『星付き』……?」
隊長の口から、絶望的な響きを持つ言葉が漏れた。さっきまでの殺意が、嘘のように霧散していく。
「『異種族間上級資格』……。大陸に数十人しかいない、盟約会議直属のエリートが、なんでこんな森に……?」
彼らは一瞬で状況を理解した(誤解した)。
目の前の男の、あの法を熟知した態度。そして、武装した兵士長を素手で制圧するほどの実力。
こいつは、この『星付き』弁護士が雇った、中央の護衛か何かに違いない、と。
そんな相手に手を出せば、ただでは済まない。
「……ちっ! 」
兵士長は、忌々しげに舌打ちすると、立ち上がりながら翔一に向かって捨て台詞を吐いた。
「今日のところは、退いてやる。だが、グレンジャー辺境伯様に逆らったことを、必ず後悔させてやるぞ! 行くぞ!」
捨て台詞を残し、兵士たちは、まるで何かに追われるように、慌ただしく森の奥へと去っていく。その背中は、もはや威圧感のかけらもなかった。
「ふん」
翔一は、ふっと鼻で笑った。
自らのハッタリと実力行使が、彼らを屈服させたと、完全に信じ込んでいた。
「どうだ、リンネア。見たか。あれが、プロの『交渉術』だ。お前の感情論だけでは、決してああはいかない」
得意げに語る翔一に、リンネアは、きょとんとした顔を向けた。
「え……? あ、はあ……。すごいのですね、あなたの『交渉術』とやらは……」
彼女は、兵士たちがなぜ急にあそこまで怯え、引き下がったのか、その理由が全く分かっていなかった。ただ、目の前の男が、自分の知らない、何か恐ろしい力を使ったことだけは、漠然と感じていた。
その原因が、自らの胸で鈍く輝く、小さな星の刻印にあることなど、知る由もない。
(第一章 第一話 完)




