第十九話『竜の喉と、風の迷宮』
翌朝。
荒野を数リーグ進み、俺たちは地図に記された最大の難所『竜の喉』へと差し掛かった。
そこは、まるで大地が巨大な鉈で叩き割られたかのような、深く狭い峡谷だった。
両側にそびえ立つのは、視界を塞ぐほどの断崖絶壁。空は細い一筋の青い線にしか見えない。
そして何より厄介なのは、峡谷を風の通り道にして常に吹き荒れる、轟音のような強風だった。
「ヒュオオオォォ……ッ!」
狭い谷間を風が通り抜けるさい、まるで竜が唸るような低い音が響く。それが岩壁に反響し、耳元で何重にも増幅される。
会話をするのも一苦労だ。
「おい! 大丈夫かポポロ! 飛ばされるなよ!」
「う、うん! 耳が痛いよぉ……!」
御者台で手綱を握るポポロは、自慢の狐耳をぺたりと後ろに寝かせて、風圧に耐えている。獣人の鋭敏な感覚にとって、この轟音はかなりのストレスになっているようだ。
一方、コクヨウは平然としたものだ。時折、不安げなポポロを励ますように首を巡らせてこちらを見たが、その瞳は半透明の『瞬膜』に覆われていた。砂混じりの強風の中でも、この天然のゴーグルがあれば視界は保たれるのだろう。さすがは荒野の名馬だ。
「……嫌な場所だ。視界は悪いし、音も聞こえねえ」
助手席のガルムが、険しい顔で谷の上を見上げた。
岩陰が多く、待ち伏せには絶好の地形だ。ヘイムダル商会の隊長が言っていた「野盗」の話が脳裏をよぎる。
そのときだった。
「――止まれ」
風の音に混じって、不意に声が聞こえた。
男の声だ。だが、どこから聞こえたのか分からない。
前方かと思えば背後から、右かと思えば左から。声は幾重にも反響し、俺たちの周囲をグルグルと回っているように聞こえる。
「……誰だ!」
俺が叫ぶと、再び声が響いた。
「通行料を置いていけ。さもなくば、岩の下敷きだ」
直後。
パラパラパラ……!
頭上から、小石の雨が降ってきた。
ポポロが悲鳴を上げて身を縮こまらせる。
「くっ、本当に狙ってやがる! 総員、防御態勢!」
ガルムが素早く荷台に飛び移り、リンネアをかばうように盾を掲げる。
だが、敵の姿が見えない。
峡谷の両側、切り立った岩壁のどこかにいるはずだが、視線が通らない。
「ヒャハハハ! どこを見ている! 俺たちは風だ! 姿など見えんぞ!」
あざわらうような声が、今度は真上から聞こえた。
続いて、風を切る音。
矢だ。
だが、風に煽られて軌道が読めない。
カカンッ!
ガルムが剣で矢を弾く。だが、防戦一方だ。
「……翔一! どうしますか!? このままでは!」
リンネアが叫ぶ。
俺は歯噛みした。
姿が見えない敵に、どう対処する? 魔法で反撃しようにも、標的が定まらなければ無意味だ。
奴らはこの「音の反響」と「風」を完全に味方につけている。どこから声がするのか分からない幻惑攻撃。
「……ちっ。音響効果を利用したトリックか。小賢しい真似を!」
俺は叫んだ。
だが、焦りはない。
なぜなら、俺たちには「音の専門家」がいるからだ。
「おい、ポポロ!」
俺は御者台で耳を塞いでいるポポロの肩をつかんだ。
「耳を澄ませろ! 風の音も、反響も全部無視だ!」
「む、無理だよぉ! うるさくて何も……!」
「できる! お前は『商品』の落ちる音を聞き分けた男だろ!? この程度のノイズ、商人の耳なら選別できるはずだ!」
俺は無茶苦茶な理屈で叱咤した。
だが、その言葉にポポロの瞳に光が戻る。
そうだ。僕は商人だ。一番価値のある「情報」を聞き分けるんだ。
ポポロはゆっくりと手を耳から離し、狐耳をピコピコと動かした。
ヒュオオオという風音。岩に跳ね返る残響。
それらのノイズの層を、一枚ずつ剥がしていく。
そして。
「……聞こえる」
ポポロが顔を上げた。
「あっち! 右の崖の上、突き出た岩の裏に二人! それと……左のくぼみに一人! 弦を引き絞る音がする!」
正確無比な座標特定。
俺はニヤリと笑い、後ろを振り返った。
「聞いたか、ガルム!」
「ああ。十分だ」
ガルムはすでに動き出していた。
重装備とは思えない軽快さで馬車を飛び出すと、垂直に近い岩壁に足をかけ、ヤモリのように駆け上がっていく。
「なっ……!? あいつ、登ってきやがるぞ!」
崖上の敵に狼狽の気配がある。
だが、もう遅い。
「リンネア! 牽制だ! 大声で何か叫んで注意を逸らせ!」
「わ、分かりました! ……ええと、『街道治安維持法第十三条、武装強盗罪! その刑罰は、問答無用の鉱山送り五十年に処されます! 直ちに武装解除しなさい!』」
その一瞬の隙に。
ガルムの影が、右の崖上に到達した。
「――詰み(おわり)だ」
ドスッ、という鈍い音と、短い悲鳴。
続いて、もう一人。
左のくぼみにいた敵も、状況を悟って逃げようとしたようだが、ガルムが投げた石礫を受けて転落した。
静寂が戻る。
風の音だけが、虚しく響いていた。
***
崖下には、気絶した野盗たちが転がっていた。
ボロボロのローブをまとった、魔術師崩れの男たちだ。
どうやら、音を増幅する魔導具を使って、声を反響させていたらしい。
「……ふん。口ほどのこともねえ」
ガルムが剣を納めながら戻ってきた。
俺たちは野盗を縄で縛り上げ、街道の目立つ場所に転がしておいた。後で来るであろう「鉄の隊商」か、騎士団が処理してくれるだろう。
「……ふぅ。怖かったぁ」
ポポロがへたり込む。
俺は彼の頭をぐしゃぐしゃと撫でた。
「よくやった。お前の耳がなけりゃ、今頃ハリネズミだったぞ」
「えへへ……。役に立った?」
「ああ。最高のレーダーだ」
俺たちが再出発すると、間もなく峡谷の出口が見えてきた。
狭かった視界が一気に開ける。
風が止み、明るい日差しが降り注いだ。
そして――目の前に広がった光景に、俺たちは息を呑んだ。
「……おお」
そこは、巨大なカルデラのような盆地だった。
その中央に、無数の建物がひしめき合う、巨大な都市群が広がっている。
製紙工場の煙突から上がる白い煙。
幾重にも重なる城壁と、それを囲む門前町。
そして、都市の彼方には、霞むほど巨大な――知識の中枢が鎮座している気配があった。
大図書館都市。
世界の知識が集まる場所。
「……ようやくお出ましか」
俺は御者台で腕を組み、ニヤリと笑った。
「待たせたな、知識の宝庫。……悪徳弁護士の到着だ」
馬車は坂道を下り、都市へと向かってスピードを上げた。
紙とインクの匂いが、風に乗って濃くなっていく。
(第三章 第十九話 完)




