第三章 第十八話『旅の轍と、繕われた絆』
双子都市ディルマを出発してから、数刻。
俺たちの馬車は、乾いた風が吹き抜ける草原をひた走っていた。
進むにつれ、窓の外の景色からは徐々に緑が減り、赤茶けた岩肌が目立つようになってきた。時折、風化した巨大な岩石が墓標のように立っているのが見える。
北の大陸中央部へ近づくにつれ、大地はその険しさを増しているようだ。
「……ん、しょっと」
さっきから、荷台の隅でポポロが落ち着きなく体勢を変えている。
座り直したり、足を伸ばしたり。そのたびに、着ている麻の服がわずかに悲鳴を上げているような気がした。
「どうした、ポポロ。ディルマで食った焼き菓子が腹の中で暴れてるのか?」
「違うよぉ……なんか、座り心地が悪いんだ」
ポポロは困ったような顔で、大きく背伸びをした。
その瞬間だ。
ピシッ、と布が張る音がして、彼のシャツの背中側がピンと突っ張り、ズボンの裾がずり上がって、くるぶしがニョキッと露出した。
普通にしていれば目立たないが、動くと明らかに「皮一枚」足りていない。
「……おい、ポポロ。ちょっと立て」
「え? うん」
言われてポポロが立ち上がると、やはりシャツのボタン周りが心なしか窮屈そうだ。腰回りもパツパツで、余裕がなくなっている。
「……成長期、か」
俺は小さくつぶやいた。
向かいに座るリンネアも、複雑な表情でポポロを見つめている。
つい十日前、リムガーレを出発したときは、少し大きめの服を着ていたはずだ。「すぐに大きくなるから」と、古着屋の店主が選んでくれたものだ。それが今では、窮屈な拘束具のようになっている。
獣人の成長速度。そして、ポポロの「先祖返り」としての寿命。
目の前でパツパツになった服が、残酷なまでの時間の流れを可視化していた。
「……次の街までもつか?」
「わかんない。深呼吸すると、背中の糸がプチって言いそう」
ポポロが冗談めかして笑うが、その目は少し不安そうだ。
「仕方ない。次の休憩でなんとかしよう」
「なんとかって、どうするの?」
「布を継ぎ足すか、縫い代を広げるかだ。……まあ、なんとかなるさ」
俺は努めて軽く言った。
そのとき。
御者台のガルムが、天井をドンと叩いた。
「おい、前から『鉄』が来るぞ」
俺は窓から顔を出した。
地平線の向こうから、土煙を上げて近づいてくる車列が見える。
黒塗りの重厚な装甲馬車。側面に描かれた『鉄と天秤』の紋章。
「……ヘイムダルのとこの商隊か?」
俺がつぶやくと、すれ違いざまに先頭の馬車が速度を緩めた。
御者台から身を乗り出したのは、顔に深い古傷のある、強面の男だった。
「おや? その黒馬……あんた、リムガーレの『弁護士』さんかい?」
隊長が声をかけてきた。俺たちは馬車を停め、街道の中央で短い言葉を交わした。
「ああ。よく分かったな」
「会長のヘイムダル様から聞いてるよ。『黒い名馬を引いた、悪党面だが腕利きの弁護士が北へ向かった。見かけたら便宜を図ってやれ』ってな」
俺は苦笑した。
ヘイムダルめ。定期便への同乗を断った俺たちのことを、まだ気にかけていたのか。あるいは、将来の『代弁人』への投資を諦めていないだけか。
「そいつはありがたい。……リムガーレへの帰りか?」
「ああ。北への配送を終えてな。……しかし、その馬車、ザガンの爺さんのとこだろ? よく手懐けたもんだ。会長の誘いを断ってまで自前の足を選んだだけはあるな」
隊長は感心したようにコクヨウを見やり、それから真剣な顔で忠告をくれた。
「だが、気をつけろよ。この先は『竜の喉』と呼ばれる難所だ。最近、街道沿いで『野盗』が増えてるらしい。北の図書館都市へ向かう旅人は金目のもんを持ってるからな。そいつらを狙ったゴロツキどもがうろついてるって話だ。気をつけろよ」
「野盗か……。情報感謝するよ」
「なに、会長からの言付けだ。『死なれたら投資が回収できねぇ』ってな。……そうだ、こいつも持っていけ」
隊長は荷台から、古びた羊皮紙の束を放り投げた。
「北の『最新の地図』だ。俺たち独自のルートが書き込んである。……正規の地図には載ってない水場も書いてあるから、役には立つはずだ」
「いいのか? 企業秘密じゃないのか?」
「弁護士さんなら、口が堅いと信じてるぜ。……達者でな!」
隊長は敬礼すると、再び馬車を出した。
重厚な車輪の音が遠ざかっていく。
俺は手の中の地図を見つめ、苦笑した。
「……義理堅い商会だ」
***
日が暮れ、俺たちは街道沿いの岩陰で野営を張った。
夕食を終えた後、焚き火のそばで「裁縫大会」が始まった。
「さて、と。……やるか」
俺はポポロの上着を手に取り、裏返した。
縫い代にはまだ余裕がある。これを一度ほどき、端ギリギリで縫い直せば、数センチはサイズアップできるはずだ。
「俺は不器用だからな。誰か頼めるか?」
俺が視線を巡らせると、リンネアがスッと手を挙げた。
「私がやります」
「お? 意外だな。リンネア先生、裁縫なんてできるのか?」
「失礼ですね。これでも実家は農家でしたから、繕い物くらいは見てきました。……それに、服の構造は論理的です。頭の中で展開図は描けています」
リンネアは自信満々に言うと、裁縫道具(といっても、以前リムガーレの道具屋でガルムに言われて渋々買った携帯用の簡易セットだが)を取り出した。
「では、ポポロ。少し待っていてくださいね」
「うん! お願い、リンネア!」
ポポロが期待の眼差しを向ける。
リンネアは背筋を伸ばし、針と糸を手に取った。その所作は、まるで法廷で証拠品を扱うかのように優雅で、無駄がない。
……そう、針に糸を通すまでは。
「……」
五分経過。
リンネアは、まだ糸と格闘していた。
針の穴に糸先が近づくたび、なぜか糸が生き物のように逃げる。あるいは、手が微かに震えて穴を外す。
「……あの、先生? 目が悪いなら俺が……」
「静かに。集中しています」
リンネアの額に脂汗がにじむ。
ようやく「奇跡的に」糸が通ったのは、さらに三分後だった。
彼女は大きく息を吐き、勝利したかのような顔で布に向かった。
「では、縫います」
ブスッ。
「あっ」
第一投。針は布ではなく、彼女の親指を正確に貫いた。
「い、痛くありません。……この程度、想定内です」
赤い血がにじむ指を隠し、彼女は震える手で続行する。
だが、その後の惨状は目を覆うばかりだった。
縫い目は酔っ払ったミミズのように蛇行し、布は引きつり、なぜか袖口を閉じてしまいそうになる。
「あ、あれ? おかしいですね。計算上はここで辻褄が合うはずなのですが……」
リンネアの顔が蒼白になる。
頭脳明晰な彼女にとって、「分かっているのに手が動かない」という現象は、未知の恐怖に近いのかもしれない。
「……おい、リンネア。そのままだとポポロの服が雑巾になっちまうぞ」
「ま、待ってください! あと少しで修正できるはず……!」
そのとき、横から太い腕が伸びてきた。
ガルムだ。
彼は無言でリンネアの手から服と針をひったくった。
「貸せ」
「あ……」
ガルムは焚き火の明かりに布をかざし、一瞬で状況を把握すると、太い指で針を操り始めた。
その速さは異常だった。
迷いのない手つきで、針が布地を往復する。針先は正確に布を捉え、等間隔で美しい縫い目を刻んでいく。リンネアが十分かけて絡ませた糸を瞬時に解き、またたく間に袖のサイズを修正してしまった。
「……すげぇ」
俺とポポロは、口を開けて見入っていた。
無骨な傭兵と、繊細な針仕事。そのギャップが凄まじい。
「で、できた……」
数分後。そこには、見事にサイズアップされた上着があった。縫い目は元の製品よりも綺麗なくらいだ。
「ガルムおじちゃん、すごい! 魔法使いみたい!」
ポポロが歓声を上げて上着に袖を通す。今度はぴったりだ。苦しくない。
「……なぜです?」
リンネアが呆然とつぶやいた。
彼女のプライド(特に「手先の器用さ」に関する自己評価)は、粉々に砕け散っていた。
「ガルム、あなた、どこでそんな技術を……?」
「戦場だ」
ガルムは短く答えた。
彼は針をしまいながら、淡々と語る。
「傭兵ってのはな、自分の身は自分で守るもんだ。鎧の革紐が切れれば戦場で死ぬ。天幕が破れれば寒さで死ぬ。服が破れれば虫に食われて病気になる。……生き残りたけりゃ、剣と同じくらい針も使えなきゃならんのさ」
生活即生存。
その言葉には、俺たちの知らない過酷な現実がにじんでいた。
「……参りました」
リンネアは深々と頭を下げた。
彼女は自分の指先に速癒膏を塗りながら、自嘲気味に笑った。
「私は昔からこうなんです。頭では分かっているのに、体は言うことを聞かない。……村でもよく言われました。『リンネアは口だけは達者だが、麦の束ひとつ結べない』と」
「へぇ、エルフの里でも不器用認定だったのか」
「ええ。だからこそ、私は『体』を使わない『頭』だけの世界――法という武器が、性に合っていたのかもしれません」
少し寂しげな、しかしどこか吹っ切れたような横顔。
不器用さは欠点だが、それが彼女を今の場所へと導いたのだとすれば、それもまた運命なのだろう。
俺は焚き火に薪をくべながら、闇に沈む街道の先を見据えた。
この先には、地図に記された最大の難所――『竜の喉』と呼ばれる峡谷が待ち受けている。
そこを抜ければ、いよいよ大図書館都市だ。
「……明日が正念場だな」
俺がつぶやくと、全員が無言で頷いた。
ポポロの服は直った。地図も手に入れた。
準備は整った。
「さあ、寝るぞ。明日は忙しくなる」
俺は毛布を被り、硬い地面に身を横たえた。
風が運んでくる乾いた匂いに、微かな緊張が混じっているのを感じながら、俺は目を閉じた。
(第三章 第十八話 完)




