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第三章 第十七話『再生の法と、心の絆』

 温かいモーミルクと焼き菓子の香りが、執務室の空気を束の間だけ解きほぐした。

 だが、皿が空になると同時に、ロックスが机を叩いて立ち上がった。

「――美味かったが、話は別だ! いいかセシリア、この前の『東壁のひび割れ』だってそうだ! 魔獣が出る季節が近いってのに、『補修の見積もりを出せ』だの『景観条例に触れる』だの……! 書類仕事なんぞ待ってたら、住民が食われちまうだろうが!」

 セシリアも負けじと、鋭い視線を兄に返す。

「では、あなたのその無計画な『自由』はどうなのです? 勝手に自宅を増築して路地を塞いだり、身元の知れない移民を登録もなしに住まわせたり……! あなた方が『人助け』と呼ぶ無秩序の尻拭いを、誰がしていると思っているのですか!」

 二人の激しい口論が、俺たちの目の前で始まった。

 街を治める二人の区長ともあろう大人が、顔を真っ赤にして罵り合う様に、俺は一瞬だけ目を白黒させた。だが、すぐに思い直す。


 (……いや、違うな。これは『他人』への怒りじゃない。幼い頃から同じ屋根の下で育ち、遠慮なく感情をぶつけ合える『兄妹』だからこその激しさ、か)


 その根底にある信頼と甘えに、本人たちだけが気づいていない。

 だが、その不毛な応酬を、二つの冷徹な声が同時に断ち切った。

「いい加減にしねぇか、この馬鹿兄妹きょうだい!」

「……そこまでにしましょう、お二人とも」

 俺の怒鳴り声と、リンネアの冷ややかな声が完全に重なった。

「おい、ボス。まさか『ガキの喧嘩』を続けるために、俺を雇ったわけじゃないだろう?」

 翔一は依頼人であるロックスの前に、そしてリンネアは、頑なな心を閉ざすセシリアの前に、それぞれ立ち塞がった。

「あなたに……いえ、あえてこう呼びましょう、セシリア区長」

 リンネアが、凛とした表情で一歩踏み出す。

「あなたが守っているのは、西区の平穏ではありません。あなた自身の『正しさ』という幻想です」

「インフラの老朽化という現実から目を背け、書類と条例で街を取り繕っても、足元の綻びは消えません。あなたがなさっているのは統治ではありません。自分好みの『箱庭』遊びです」

 セシリアが息を呑む。

「箱庭……遊び……?」

「東を切り捨てれば清潔でいられると思いましたか? 東の清掃や下水処理なしに、あなたの街は三日で病に沈みます。あなたの正義は、あなたがさげすんだ東の人々の泥まみれの手の上にしか存在できないのですよ」

 一方、ロックスの前に立つ俺も、容赦なく言葉を浴びせた。

「おい、ボス。図星を突かれて黙ってんじゃねぇぞ」

「……翔一、てめぇ……」

「面倒な管理も、住民のいざこざの処理も、全てを妹に押し付け、自分たちは『自由』って旗のもとで好き勝手やる。それを世間じゃ『甘え』って言うんだよ。お前のその無責任さが、セシリアをあんな石頭にしちまった元凶なんだ」

 二人の『法律家プロ』からの容赦ない指摘。

 ロックスもセシリアも、反論の言葉を失い、その場に立ち尽くしていた。

 翔一が、懐から『ディルマ都市憲章』を取り出し、机に叩きつけた。

「いいか、親父さんは言っている。西の『秩序』がなければ、東はスラム化し野蛮に沈む。東の『活気』がなければ、西は静かに腐り、死に絶える。あんたたちは、お互いから逃げるために、街を――そして自分たちの絆を真っ二つにしたんだ」


 部屋を支配したのは、重苦しい、だが真実を孕んだ沈黙だった。

 二人のリーダーは、自分たちが掲げていた「理想」という名の面を取り払われ、そこにある未熟な素顔をさらされていた。

 二人の心が折れ、そして同時に「再生」へと向かおうとする、この一瞬。

 俺はこの機を逃さず、畳みかけるように言った。

「……反論がないなら、話を進めるぞ。これから作成する『共同管理契約案』だ。リンネア、内容は?」

「はい。第一条、公共設備――特に下水道と浄水路の全面刷新のための『再建委員会』を即時設立すること。費用は、東西の税収から共同出資とします」

 翔一が、言葉を継ぐ。

「第二条。これまでのような『許可制』ではなく、双方向の『監視と補完』の体制を構築すること。どちらかが倒れれば、街そのものが終わるという共依存を法的に定義する。……文句はないな?」

 セシリアが、震える手で書類を手に取った。

 そしてロックスも、初めて真剣な眼差しでその条文を追う。

「……ああ。……悪かったよ、セシリア。俺も、ちっと……いや、随分と自分勝手だった」

 セシリアの瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。

「……私こそ。……もう、独りで背負い込むのは、疲れました……」


 翌朝。

 ディルマの街を真っ二つに割っていた、橋の上の巨大なバリケードが、門兵たちの手によって撤去された。

 朝日が差し込む中、西と東の住人が混ざり合う。

 作業服を着た東の連中が西へ、整然とした装いの西の職員たちが東へ。

 それは、街が分断される前には当たり前だった、懐かしい『通勤』の風景そのものだった。

 その様子を庁舎のバルコニーから見つめる、二人のリーダーの姿があった。

 セシリアがロックスの乱れた襟を直し、ロックスが照れくさそうに頭をかく。

 

 一方、庁舎前の広場では、合流したガルムとポポロが、既に馬車の準備を整えていた。

「……おいおい、随分と荷物が増えてないか?」

 荷台に積まれた見慣れない酒樽や保存食の山を見て、俺は眉をひそめた。

 すると、岩のような筋肉を隆起させた巨漢――ガルムが、ニカッと白い歯を見せて笑った。

「おう、旦那! 『出稼ぎ』の成果は上々だぜ。東壁の補修工事を手伝って、その日当でこいつらを仕入れたのさ」

「おいおい。飯代は雇い主持ちだって契約だろ? どうしたんだ一体」

「ケッ。最初に仕入れた保存食は『機能』重視すぎて味気ねぇからな。あの『鉄麦』の黒パンと干し肉だけじゃ、いざってときに力が出ねぇだろ?」

 ガルムは悪びれもせず、荷台の酒樽をポンと叩いた。

「長旅にゃ、たまの『贅沢』って潤滑油も必要なのさ。……ま、俺が飲み食いしてぇだけだがな」

 ……なんて言っているが、どうせ俺たちの懐事情を気遣ってのことだろう。相変わらず豪快な男だ。

 ガルムが「東壁の補修工事を手伝っていた」と笑うのを聞いて、俺は腑に落ちた。

 そういえば、ここ数日。俺たちが宿で資料と格闘していると、夜遅くに砂埃まみれになって帰ってくることがあったな。何も言わずに裏庭の井戸でざっと水を浴びていたが……まさか、現場仕事で汗を流していたとは。

「……無駄のない野郎だ」

 俺たちが『言葉』で戦っている間、こいつらは『現実』を戦っていたわけだ。


「むぅ……翔一ー。やっぱり僕もついて行きたかったよぉ」

 一方のポポロは、少し不満げに頬を膨らませていた。

「言ったろ。交渉の場に子供は連れて行けないし、テロの危険もあった。……それに、お前には『現地の相場と商慣習を学ぶ』っていう大事な任務を与えたはずだぞ?」

 俺とリンネアは、交渉に集中するため、そしてポポロの身の安全のために、東区の知人に頼んで現地の青空教室に彼を預けていたのだ。

「で、どうだったんだ? 東区の学校は」

「……うん。先生に『計算が速い』って褒められちゃった。友達もできたし……ま、悪くなかったかな」

 ポポロは照れくさそうに尻尾を揺らした。

「そいつはいい。……どんな環境でも学べる奴が、最後に勝つんだ」

 俺はポポロの頭をクシャリと撫でた。


「さて……行くか」

 俺たちは馬車に乗り込んだ。

 ふと見上げると、庁舎のバルコニーでは、ロックスとセシリアが並んでこちらを見送っていた。

 朝日を浴びたその姿は、もう反目し合う敵同士ではなく、背中を預け合う「兄妹」に戻っているように見えた。

「あの二人、ようやく落ち着きましたね、翔一。……なんだか、前よりもずっと良い雰囲気です」

 リンネアが、どこか満足げに微笑む。

「ああ。感情より利害。利害より生存。……合理的に考えれば、ああなるのが一番自然な形だ。法律家の勝利だな」

 翔一は、二人の間に流れる「仲直り」以上の甘酸っぱい変化には一向に気づく様子もなく、ただ仕事が片付いた安堵感だけを顔に浮かべていた。

「……ふふ。本当に、法律そこだけしか見ていないのですね、あなたは」

 リンネアもまた、自分自身の翔一に対する心境の変化には気づかぬまま、クスクスと笑った。


 馬車が動き出す。

 背後には、再び一つの心として動き始めた、双子の街『ディルマ』の活気が遠ざかっていく。

 リムガーレを出てから、もう十日ほど。

 濃密すぎる時間を過ごしたが、地図の上では、俺たちが進んだ距離はようやく全行程の半分を越えたあたりだ。

 車輪が軋み、新たな草原へと踏み出す音が、乾いた風に乗って響いた。


(第三章 第十七話 完)

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