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第三章 第十六話『三時の甘味と、父の面影』

 西区『オルディス』の空気は、東区のそれとは根底から異なっていた。

 掃き清められた石畳。等間隔に並んだ街灯。そして、行き交う人々が纏う、どこか張り詰めた、それでいて平穏な空気。

 昼過ぎの陽光に照らされた街は、美しく、そしてひどく静かだった。

「……けっ。相変わらず、肩が凝る街だぜ」

 俺の隣を歩くロックスが、窮屈そうに襟首を緩めて吐き捨てる。

 バリケードが一時的に開放され、俺たちは西区の象徴である白亜の庁舎へと足を踏み入れていた。


 庁舎の最上階。磨き抜かれた重厚な扉の先に、西区長セシリア・シルヴェストルの執務室はあった。

 扉が開くと、そこには山のような書類を前に、一本の針のように背筋を伸ばして座る彼女の姿があった。

「……お入りなさい」

 セシリアが顔を上げることなく告げる。その声は澄んでいたが、隠しきれない疲労が、その瞳の隅に影を落としているのを俺は見逃さなかった。

 俺たちは勧められたソファーに腰を下ろした。ロックスは落ち着かない様子で膝を揺らし、リンネアは『星付き』の弁護士としての冷静な眼差しで、部屋の様子を観察している。


「さて。……約束どおり、協議の場を設けました。まずは、あなた方の『誠意』を見せていただきましょうか」

 セシリアがようやくペンを置き、真っすぐにこちらを見据えた。その視線は、俺ではなく、俺の隣に座る義兄――ロックスに向けられている。

 俺はロックスの脇腹を軽く肘で突いた。

「……分かってるよ」

 ロックスは苦虫を噛み潰したような顔で立ち上がると、セシリアに向かって不格好に頭を下げた。

「……悪かった。これまで、新しい路地を作るのに届け出を出さなかったり、夜中に広場で歌い明かしたり……街の『秩序ルール』ってのをちっとばかり……いや、随分と無視してきたことは、謝る」

 これは、ディルマが二つに分かれて以来、彼が「自由」の名の下に積み重ねてきた数々の規律違反に対する――彼なりの落とし前としての謝罪だった。


 セシリアの瞳が、驚きに大きく見開かれた。

「……ロックス。あなたが、自分から頭を下げるなんて」

「あー、もう! これ以上言わせんな! 翔一に『これが通らなきゃ交渉は決裂だ』って脅されたんだよ!」

 ロックスが顔を真っ赤にして座り直す。

 セシリアは「鼻で笑いたくなるような謝罪ですね」と冷たく応じたが、その声からは、先ほどまでの刺すような棘が消えていた。


 そこで、リンネアが静かに口を開いた。

「セシリア様。……あなたの机に積まれたその書類の山は、あなたがこの街を、そして西区の住民一人一人の生活を、どれほど深く守ろうとしているかの証左ですね」

「……『星付き』の弁護士様。お世辞なら不要です」

「お世辞ではありません。……あなたの瞳には、かつて私が、独りで全てを解決しようと足掻いていたころと同じ色が宿っています。法を重んじ、街の平穏を願うそのお心……痛いほどに理解できます」

 リンネアの寄り添うような言葉。だが、セシリアはそれを遮るように首を振った。

「……あなたに、何が分かるというのですか」

 その声には、拒絶ではなく、絞り出すような悲鳴が混じっていた。

「あなたは法廷で勝敗を決する、美しき正義のプロかもしれません。ですが……数万人の日々の食糧、下水、安全、街路の灯り、そして明日への不安。それらを二十四時間、一年三百六十五日、独りで背負い続けたことはあるのですか? 政治(統治)は、法廷のような美しいロジックだけでは回りません」


 統治者としての圧倒的な孤独。

 大陸に数十人と言われる『星付き』の弁護士であっても、この「街の重さ」だけは、肩代わりすることも、理論で解決することもできない。

 リンネアは唇を噛み、言葉を失った。

 部屋を支配したのは、重苦しい沈黙だった。

 交渉は一歩も進まず、ただお互いの断絶だけが浮き彫りになっていく。


 そのときだった。

 室内の時計が、低く三回鳴り響いた。

「……三時ですね。少々の休息を挟みましょう」

 セシリアが、どこか機械的に告げた。

 彼女がベルを鳴らすと、控えていた侍女がワゴンを押して入ってきた。

 運ばれてきたのは、温かい湯気を立てる獣乳モーミルク

 そして、素朴だが芳醇な甘い香りのする、特徴的な形の焼き菓子だった。

「……っ!? これは……」

 ロックスが、身を乗り出すようにしてその菓子を見つめた。

 その驚愕混じりの表情と、セシリアのどこかこわばった横顔。その間に漂う懐かしくも甘い香りに、俺はこの場に何らかの「思い出」が介在していることを察した。

「モーミルクをベースにした、父のレシピによる菓子です。……深い意味はありません。ただ、この時間にはこれが一番、脳の疲れに効きますから」

 セシリアは淡々と語るが、その白く細い指先が、カップを置く際にかすかに震えているのを俺は見逃さなかった。

 無意識か、それとも心の奥底で、彼女もまた『家族の時間』を求めているのかもしれない。


 ロックスは黙ってお菓子を一つつかみ、口に放り込んだ。

「……甘ぇな。相変わらず、虫歯になりそうなほど甘ぇ」

 そう文句を言いながらも、ロックスの表情は、西区に入ってから初めて、幼子のように緩んでいた。

 温かいミルクの香りと、懐かしい菓子の甘さ。

 それは、どんな法理ロジックよりも雄弁に、二人の間にある「共通の根っこ」を語り始めていた。


 俺は、お菓子の山が少し減るのを待ってから、静かに切り出した。

「さて、お腹も落ち着いたところで。……親父さんが遺した『ディルマ』をどう立て直すか。本題に入ろうか、区長さん」


(第三章 第十六話 完)

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