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第三章 第十五話『秩序の聖女と、法の理(ことわり)』

 俺の言葉が、朝の冷たい空気に溶けるように響き渡った。

 返答はない。だが、現場の空気は確実に変わり始めていた。

 バリケードを挟んで対峙する衛兵たちの顔に、明らかな動揺が走っている。

 無理もない。彼らが普段相手にしているのは、酔っ払って暴れる荒くれ者や、感情のままに喚き散らすゴロツキだ。剣で威嚇すれば散るような、烏合の衆だったはずだ。

 だが、今の彼らは違う。

 俺の後ろに控える五十人の男たちは、誰一人として口を開かず、微動だにしない。ただ静かに、研ぎ澄まされた職人の道具を掲げ、冷ややかな視線で「理不尽」を射抜いている。

 この『沈黙の圧力』こそが、俺が彼らに課した最初の演出だった。


 (……いいぞ。暴力よりもよほど効いている)


 俺は内心でほくそ笑んだ。

 未知への恐怖。野蛮だと思っていた相手が見せる、高度な統率。それが衛兵たちの戦意を削いでいく。

 やがて、その沈黙を破るように――西側の塔の最上階から、一つの影が現れた。

「……騒々しいですね。『混沌』がとうとう知恵を持ったというのですか。タナカ・ショウイチ、と名乗りましたね」

 現れたのは、銀髪を後ろで一つにまとめ、深い紺色の汚れの目立たない服装を纏った女性だった。装飾を極限まで削ぎ落としたその姿は、華やかさよりも、行政官としての誠実さを物語っている。

 西区長、セシリア・シルヴェストル。

 彼女の姿を仰ぎ見て、リンネアはその背筋を正した。これから始まる「法」を巡る交渉を前に、大陸でも数少ない『星付き』の弁護士として、どこか通じ合うものを感じたかのように。

 セシリアが、遥か高所から俺を見下ろす。その瞳には、東区民への人間的な蔑みなどない。あるのは、ただ「不具合を排除する」という、機械的な冷たさだけだった。

「このような暴挙、到底看過できません。即刻立ち去りなさい」

「暴挙、か」

 俺は鼻で笑った。

「俺たちのどこが暴挙だ? 見てのとおり、武器など一つも持っていない。ただ『仕事に行きたい』と願う善良な市民たちだ」

「詭弁です」

 セシリアの声は冷たい。温度のない、氷のような声だ。

「貴方がたが何を掲げようと、ルールは絶対です。入街許可証のない者の通行は条例違反。それが現在の『法』であり、この街の秩序です。法を守れぬ者に、市民権などありません」

「秩序、か。なるほど、立派な心がけだ」

 俺は一度頷いてみせてから、口角を吊り上げた。

「だが、あんたの守ろうとしているその『法』は、本当に守るべきものなのか?」

「……どういう意味ですか」

「ほう、法ね……」

 俺は手に持った『ディルマ都市憲章』を高く掲げた。

「あんたの言う『法』とやらと、この街の創設者である先代町長の『憲章』。どちらが優先されるか、行政官のあんたなら分かるはずだ」

 俺は再び、リンネアに合図を送る。彼女はよく通る声で、憲章の第五条を読み上げた。

「『双スルトモニ栄エルヲ旨トス。両区民ハ、生業ノ為ニ相互ノ往来ヲ妨ゲラレナイ』」

「聞こえたか? これは『双子都市特則』。街を二分する際、先代が最も重要視した条文だ。あんたが作った条例なんかより、遥かに重い『遺言』だぞ?」

「なっ……! そんな、不敬な……!」

 ガリウスが叫ぼうとした、そのときだ。

 頭上から、冷ややかな声が降り注いだ。

「――下がりなさい、ガリウス」

 たった一言。だが、その声には絶対的な強制力が込められていた。ガリウスは弾かれたように口を閉ざし、直立不動になる。

 セシリアは表情一つ変えていなかった。父の遺した言葉であっても、今の彼女にとっては乗り越えるべき「過去」でしかないかのように。

「……それがどうしたというのです。法とは、民を守るためにあるもの。現在の危機(暴獣熱)を前にしては、過去の理想など無意味な紙切れです」

「無意味、ねぇ……」

 俺はニヤリと笑った。

「なら、その『現在の危機』とやらを解決すれば、文句はないんだな?」

「……何?」

「言ったはずだ。彼らは全員、予防接種済みだと」

 俺が指を鳴らす。

 それを合図に、最前列にいたベルク族の男たちが一歩前に出た。彼らは無言のまま、太い腕の袖をまくり上げる。そこに刻まれていたのは、規則正しく並んだ十個の小さな傷跡だった。まだ赤みの残る生々しい痕跡。

「ひっ……!」

 衛兵の一人が、引きつった声を上げた。

「な、なんだその傷は……! 呪いの儀式か何かか!?」

「気味が悪い……やはり野蛮な連中だ……!」

 西区の人間にとって、それは未開の部族が行う、おぞましい自傷行為に見えたのだろう。嫌悪と恐怖が伝播し、バリケードの向こう側がざわめき立つ。

 だが、俺はそれを鼻で笑い飛ばした。

「呪い? 無知とは恐ろしいな」

 俺は一歩踏み出し、わざとらしく嘆息してみせる。

「これは、獣人社会における最新の防疫技術――種痘ワクチンの証明だよ。微量の毒を入れ、体内に抗体を作る。高度な医療知識に基づいた『科学』の結晶だ。これ以上の安全保証があるか?」

 セシリアの眉が、わずかに動いた。

 彼女ほどの知性があれば、今の説明の意味が理解できたはずだ。野蛮だと思っていた相手が、自分たちも知らない高度な医療技術を実践しているという事実。

「……獣人の、独自の風習など……」

「風習じゃない。『事実』だ。現に、東区では暴獣熱の発症者は一人も出ていない。……違うか?」

 俺の言葉に、セシリアは沈黙した。

 行政官である彼女は、情報を持っているはずだ。東区の現状を把握していないわけがない。

「……認めましょう。その証明には、一定の効力があるかもしれないと」

 しばらくの沈黙の後、セシリアは静かに告げた。

「ですが、それだけでは足りません。……貴方を、正式な交渉相手として認めます。一時間後、中央広場の会議室に来なさい」

 そして、彼女は最後に付け加えた。

「その席には、必ずロックス自らが同席し、私に直接、これまでの数々の非礼を謝罪しなさい。……それができないなら、私は街諸共、自らの理想と心中する覚悟です」

 言い捨てると、セシリアは塔の奥へと姿を消した。

 残されたのは、あっけにとられた衛兵たちと、勝利の予感に沸く東区の住民たち。

「……へっ、やりやがったな先生!」

 後ろから、獣人の一人が俺の背中を叩いた。俺は肩をすくめ、塔を見上げた。

「勝負はこれからだ。……出番だぞ、ボス」

 俺は振り返り、集団の後ろでふてくされたように腕を組んでいる巨漢に声をかけた。


(第三章 第十五話 完)

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