第十話『悠久の旅人と、真昼の泉』
ククルカ村を出発してから、二日が過ぎた。
俺たちは順調に街道を進み、次の町まであと一日という距離にある『ドラゴ・ポスト』で、昼の休憩を取っていた。
巨大な竜の肋骨がアーチ状に連なる場所は、砂漠のオアシスのように涼しい風が吹き抜けている。骨の影には小さな泉が湧き出し、旅人の喉を潤していた。
頭上には雲一つない青空。容赦のない日差しが、乾いた大地を焼き焦がしている。だが、ここだけは別世界のように快適だった。
「きゃはは! 待てーっ!」
静寂を破る元気な声が響き渡る。
ポポロだ。こいつは靴を脱ぎ捨て、泉の浅瀬をバシャバシャと走り回っていた。その狙いは、水面を滑るように飛ぶ鮮やかな青色のトンボだ。
「……元気だなぁ、おい」
俺は竜骨の影に腰を下ろし、干し肉をかじりながら苦笑した。
「休憩中くらい、じっとしてればいいのに」
「ふふ。あれも『修行』の一環だそうですよ?」
隣でリンネアが、水筒の水をコップに注ぎながら微笑む。
「『二年で二十年分』……翔一がそう言ったんでしょう? あの子、あれで体能力の限界を試しているつもりなんですよ」
見れば、ポポロの動きはただの遊びではなかった。水しぶきを最小限に抑え、不安定な足場でバランスを取りながら、鋭角に方向転換を繰り返している。獣人特有の体能力に加え、先祖返りのスペックをフル活用しているようだ。
「……健気なこって」
俺は肩をすくめたが、悪い気はしなかった。生き急いでいるのではない。濃密に生きているのだ。
そのときだった。ガルムがふと、街道のほうへ視線を向けた。
「……来るぞ」
彼が低くつぶやくと同時に、蹄の音が聞こえてきた。規則正しい、落ち着いたリズム。
やがて、陽炎の向こうから一頭のガロンが現れた。馬に似ているが、蹄は二つに割れており、足首を白い鱗が覆っている。乗っているのは、深緑色のフードを目深に被った小柄な人物だ。
旅人は俺たちの存在に気づいているはずだが、視線すら向けようとしない。まるで、そこに石ころでも転がっているかのような無関心さだ。
彼は泉の端――俺たちから一番離れた場所――でガロンを止めると、流れるような動作で降りた。そして、手際よく革袋に水を汲み、ガロンにも水を飲ませ始める。
「……愛想のない奴だな」
俺は小声で軽口を叩いた。
だが、旅人は意に介する様子もなく、数分もしないうちに再びガロンにまたがろうとした。長居は無用とばかりに、手綱を引く。
そのときだ。ふわりと風が吹き抜け、旅人のフードがわずかにめくれた。
のぞいたのは、月光のような銀髪と――人間よりも遥かに長い、尖った耳。
「――っ」
リンネアが息を呑んだ。彼女は弾かれたように立ち上がり、声を張り上げた。
「……お待ちください! あなたは、エルフのほうですか?」
旅人の手が止まった。彼は背を向けたまま、しばし沈黙し――やがて、ゆっくりと振り返った。
フードを外す。現れたのは、整いすぎた美貌を持つ中性的な顔立ちだった。年齢不詳。若者のようにも、老人のようにも見える、不思議な雰囲気。
「……リンネアか。こんな騒がしい場所にいるとはな」
澄んだ、鈴を転がすような声。だが、その響きには何の感情も乗っていなかった。驚きも、喜びも、嫌悪さえもない。ただの事実確認。
「エルウィン……? なぜ、こんなところに」
「『魔の森』の結界を点検する、定期巡回の帰りだ。西の街道沿いで魔獣の変異が報告されてな。その調査に行っていた」
エルウィンと呼ばれたエルフは、淡々と答えた。彼は俺とガルムを一瞥し、そして水遊びを続けているポポロに視線を流すと、美しく整った眉をわずかにひそめた。
「相変わらずだな、お前は。……まだ、そんな『短命種』たちと遊んでいるのか」
悪意はなかった。ただ、理解できない生き物を憐れむような、冷ややかな視線。
「……言葉を慎みなさい、エルウィン。彼らは私の仲間です」
「仲間、か」
エルウィンは鼻を鳴らした。
「お前が森を出てから、もう五十年になるか? 我々からすれば、つい昨日のことだが……彼らにとっては一生に近い時間だろう」
五十年が、昨日。その言葉に、俺は背筋が寒くなるのを感じた。目の前の彼は、俺たちとは違う時間を生きている。
「人間の国は忙しない。たった数十年で王が変わり、国境線が書き換わる。……見ていて目が回るよ」
「それが、彼らの生き方です」
「理解できんな。変化のない平穏こそが、至高の幸福だろうに」
彼は心底不思議そうに首を傾げた。その横顔には、数百年の時を重ねた者特有の、圧倒的な『停滞』があった。
「……ねえ!」
突然、水しぶきと共に元気な声が割り込んだ。
ポポロだ。泥だらけの足で駆け寄ってくると、興味津々でエルウィンの顔をのぞき込んだ。
「エルフの人、耳長いね! 僕と一緒だ!」
ポポロが自分の狐耳をピコピコと動かす。エルウィンは、汚いものでも見るように一歩下がった。
「……近寄るな。泥がつく」
「へへっ、ごめんごめん! ねえ、エルフの人、何歳? 」
「……五百二十歳だ」
「ごひゃく……」
ポポロが目を丸くする。だが、次の瞬間、こいつはとんでもないことを言い放った。
「すごい! ねえねえ、五百年も生きてるなら、何でも知ってるの? 魔法も剣も、世界で一番強いの?」
ポポロは目を輝かせて問いかけた。だが、エルウィンの反応は鈍い。
「……何でも、だと? 」
「だって、僕なんか毎日やりたいことがいっぱいで、時間が全然足りないよ! 五百年もあったら、世界中の本を全部読んで、どこへだって行けるすごい賢者様になれるじゃない!」
ポポロは目を輝かせて、エルウィンに詰め寄った。その全身からは、太陽のような生命力が溢れ出している。
「……私は、森で静かに暮らすのが好きだ。本など、必要な知識があればいい」
「えー、もったいない! 僕なら、もっといろんなことするのに!」
もったいない。
寿命二十年の子供が、五百年生きるエルフに放った、強烈な一撃。
エルウィンの顔が、初めて困惑に歪んだ。彼は不快そうに眉を寄せ、しかし反論できなかった。圧倒的な『生』の質量の前に、彼の『永遠』が霞んで見えた。
「……話にならんな」
彼は吐き捨てるように言い、リンネアに向き直った。
「リンネア、そろそろ戻らないか? 長老もお前のことを案じていたぞ」
「いいえ」
リンネアの返答は即座だった。彼女は泥だらけのポポロを見つめ、誇らしげに微笑んだ。
「私は、この泥だらけの『一瞬の輝き』が好きなのです。変化のない永遠よりも、必死に足掻いて、法という武器で運命に抗う彼らを……見届けていたいのです」
その瞳には、真昼の太陽よりも強い、意志の光が宿っていた。
「……そうか」
エルウィンは短くつぶやき、フードを目深に被り直した。
「物好きだな、お前も」
それだけ言い残し、彼は白きガロンにまたがった。挨拶もなく、風のように街道の彼方へと消えていく。
後に残ったのは、変わらない日差しと、泉のせせらぎ。
「……行っちゃったね」
「ああ。……ま、俺たちには関係ないさ」
俺は立ち上がり、ポポロの頭をぐしゃぐしゃと撫でた。
「ほら、休憩終わりだ! さっさと行くぞ。時間は金より重いんだからな」
「はーい! 師匠、御者台まで競走ね!」
ポポロが弾かれたように馬車へ向かって駆け出す。俺は苦笑しながらその後を追った。
やがて、きしんだ音と共に車輪が回り始める。俺たちは再び、熱砂の舞う街道へと漕ぎ出した。
その背中を、真昼の太陽が強く、熱く照らし続けていた。
(第三章 第十話 完)




